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#19:Warrior
Red Hare 01✤
しおりを挟む闇に紛れて風を切る。群れを成して轟音を巻く。視界を赤い光源が飛び回る。何もかもを振り切って何処にでも行ける。スピードもスリルも気持ちいいばかりで恐いものなど何もない。群れの一部であり群れそのもの、万能感と一体感、いつまでも同じ時間を過ごせる。
……そのような夢を見た。夢のような、遠い過去の記憶のような。とにかくよい心地だった。
將が夢から覚めると頭部に痛みが走った。覚醒して目にした景色は満更知らないところでもなかった。会いたいと願った人物が視界の中にいた。
かつて、いつまでも尽くそうと誓った、何処までも共に駆けたいと願った――――赤菟馬の総長・大塔轍弥。將にとって、彼はかつて光だった。暗闇の中に在って、目標にすべき赤い光源だった。まるで高速で尾を引くテールランプのような。
將はズキズキと疼く痛みを堪え、地面に両手を突いて身体を引き摺るようにして起き上がった。
「大塔さんッ!」
大塔本人も、禮も杏もその場にいた全員が將を振り向いた。
ヨロヨロと自分の足で立ち上がった將を見て、杏は嬉々としてその名前を呼び、禮はホッと安堵した。
対照的に、副総長も大塔も將の安否について然して関心はなかった。安堵するなり焦燥するなり顔色一つ変えることもなかった。
「何や、目ぇ覚ましよったんか」
「なァオイ。何でアイツここまで引っ張って来た。俺は会わん言うたやろ」
「近江のオンナ捕まえようとして成り行きっちゅうか」
將は大塔と副総長の会話に今一度「大塔さん!」と割って入った。
大塔はようやく將のほうへ顔を向けた。
「そんな大声出さんでもちゃんと聞こえとるで」
「大塔さん、俺……」
將はグッと拳を握って一歩前に出た。
將自身は思い詰めたような面持ちで言葉を詰まらせたが、此処まで来て彼の言い出しそうなことくらい、此処にいる者なら誰にでも予測は付く。それでも言わないわけにはいかない。自分が始めたことに、自分で終止符を打つ為に。今までの自分と訣別して、新しい自分を始める為に。
「赤菟馬、抜けさしてもらいます――……! 今まで、ほんま世話になりました……ッ」
將は深々と頭を下げた。その両肩を怒らせ、両の拳を握り締め、全身が力んで緊張していた。
力一杯瞼を閉じた真っ暗の視界に、ついつい大好きな女の顔が浮かんできた。彼女はいつものように幸せそうに笑っていた。何度も言い合いをしたりケンカをしたりしたことがあるのに、ふと思い出す顔はいつも笑っている。笑顔が見たいと、笑ってほしいと、願っているからだろうか。
なァ、サチコ。
そろそろお前の腹も目立ってきたし、俺が帰ったらガキの名前決めなあかんな。
俺もお前も散々悩んで何回かケンカにもなったけど、親ともケンカしてお前わんわん泣いたけど、俺、もう決めたんや。「お前の好きな名前付けたらええよ」って、カッコつけて言うたるんや。
サチコ、お前は俺が絶対幸せにしたる。それは俺がやらなあかんことやから。俺以外じゃあかんことやから。
次に瞼を開いたとき、今まで行く先を閉ざしていた重々しい扉が開いたかのような、両肩にのし掛かっていた重圧から解放されたかのような、堅牢な鉄格子が外され手足の枷を外されたかのような、開放感混じりの達成感がじわじわと胸に満ちていくのを感じた。
「あっそう」
嗚呼、そんな呆気ない一言で、達成感も幸福そうな笑顔もガラガラと音を立てて崩れ去る。
顔を上げて大塔を見た將の表情は、何とも言えないものだった。裏切られたような、不意を突かれたような、ルールを覆されたような、何にせよ、大塔の目には滑稽に映った。姿勢だけ頭を下げて、口先だけの謝辞を述べて、それだけで思い描いたようになると本気で考えていたのだとしたら、愚かとしか言い様がない。
「何遍も伝えてきたつもりやったんやけどなァ。これっぽっちも伝わってへんか。直接言わな分かれへんか。……あー、めんどい」
大塔は腿の上に頬杖を突き、首をやや斜めで固定した。
大塔がその角度のままスーと息を深く吸い込み、將もほかの赤菟馬たちも反射的にビシッと体を硬直させた。気性の荒い総長の雰囲気の変化を敏感に察知した。
「俺が特攻隊長や言うたら誰が何と言おうとオドレは特攻隊長や! ガタガタぬかさんと死ぬまで先頭走れやこのボケェッ‼」
咆哮のような大塔の喝が伽藍の倉庫内に響き渡った。
この男に何年も従属した経験が、將の肉体を緊張させて呼吸を止めさせた。
「オドレかて今まで赤菟馬の特攻隊長として散々好きなよにしてきたやろが、ダボがッ。今更一言辞める言うただけで全部帳消しになるわけあれへんやろ。なにムシのええこと言うてんねん。オンナでけて頭ン中お花畑かァ?」
「制裁でも何でも受けます! せやさかい抜けさせてください! 俺、アイツの為にッ……」
「なに大塔さんに逆らっとんねん!」
「裏切り者の分際で調子こくなやコラァッ!」
將は大塔に近付いて縋ろうとしたが、赤菟馬の男たちにより遮られた。
將の前に立ち塞がった男たちに、大塔が「オイ」と声をかけた。將の必死で真剣な眼差しとかち合い、口の端を吊り上げてニヤリと笑った。
「お前等、そんな乱暴な口の利き方したらあかんがな。將は赤菟馬の――――大事な大事な特攻隊長殿やで」
將は、大塔の笑みを見て確信した。この男は永遠の従属を望んでいる。この男は自分を此処に繋ぎ止める鎖そのもの。何処に行く自由も与えず、将又、血の涙と汗が滲むまで死ぬまで走らせ続けるつもりなのだと。
「大塔さんッ‼」
將は渾身の声を張った。大塔の思惑は理解したが、その通りに従属するわけにはいかなかった。ほんの少し前の自分は、俺に従えと望まれたならば、俺の前を走れと命じられたならば、喜んで従った。この男に従属することに慣れてしまった心を奮い立たせた。
「何で……何で俺なんや。俺は特別なヤツちゅう……。俺程度のヤツなんか、俺の代わりなんか、なんぼでもいてるのに何で俺にこだわりはるんスか」
大塔は何も答えなかった。沈黙して將を見詰めた。
將は、自分に向けられる視線から最早何も読み取ることはできなかった。自分とこの男の絆は完全に断たれてしまったのだと思った。
大塔の代わりに副総長が口を開いた。
「そんなことも解れへんのか。ほんまモンのアホやのォ。お前は大塔さんが総長にならはる前からの――」
大塔が「將」と少し大きめの音量で放った。それには恐らく、副総長の言葉を遮る意味があった。
大塔は副総長に向かって目線を送った。副総長は何かしら意図を読み取ってスッと顔を背けた。
「実際オドレがどんだけしょーもないヤツでもな、一遍赤菟馬の特攻隊長の看板背負ったからにはオドレは〝赤菟馬の將〟や。お前一人が辞めたい言うたからて簡単に放れるほど軽いモンとちゃうねん。……まあ言うたら、全体の士気を下げへん為の、高度な政治的判断っちゅうヤツや」
副総長は將の前に立ち塞がっている男たちに顎でクイッと合図を送った。
「もちっと素直に大塔さんの言うこときくように、ちょお痛い目に遭わしたれや」
ガッ、と男たちは將の両腕を捕まえた。二人がかりで押さえ込まれた將は、細身の肉体では振り払うことは叶わなかった。
「將!」
杏が悲鳴のような叫びを上げた瞬間、禮は衝動的に足を地面から浮かせた。
禮の膝が高く上がる前に、大塔はベッドから立ち上がってその腕をガシッと掴んだ。大塔は禮の行動を完全に予測していた。義に突き動かされて行動する高潔さを知っていた。彼は禮をしっかりと視界の中央に据え、冷ややかな目線を注いだ。
「油断も隙もないのォ。ちゃんと捕まえとけ言うたやろ」
大塔は仲間の男に投げ付けるようにして禮の腕から手を放した。
「何で辞めたい言うてんのに辞めさせたげへんの。仲間なんちゃうの。友だちちゃうの。何で邪魔するんよ」
「お前はほんま予想を裏切れへん育ちのええオナゴやな」
大塔は、禮からの非難をハンッと鼻先で笑い飛ばした。口許には笑みを浮かべていたが、禮を見下ろす視線には嫌悪があった。禮は大塔の予想を裏切らない、考え得る限りの正しさで、最上級の清廉で行動する。それが何ともまあ忌々しかった。
「胸糞悪い」
大塔がそう吐き捨てるとほぼ同時に、男たちが將に殴りかかった。
二人がかりで押さえ込まれその場に縫い付けられている將には抵抗の術が無かった。禮も男の馬力で腕をしっかりと捕まえられ身動きが取れず、飛んでいって窮地を救うことは叶わなかった。
「やめぇっ! やめぇてっ!」
杏の悲痛な叫びが谺して、禮の胸を締め付けた。
ドッボォッ! ゴスッガスッ!
バキィッ!
將は瞼を固く閉じ、歯を食い縛り、ひたすらに拳骨に耐えた。覚悟を決めたつもりでもまったく恐怖が無かったといえば嘘になるし、今も一刻も早く苦役から解放されることを願っている。堪え忍ぶことしか、冀うことしか、できることがない。痛みはこの身が無力であることを、如何ともしがたい現実を、厭が応にも突きつける。幸せになれると、幸せにしてやると、思い描いた幻想よりも現実を思い知らせる。
ドスゥッ、とパンチが腹部に深くめり込み、苦くて酸っぱいものが喉を突いて駆け上ってきた。
「ゲアァッゲホッ! ガッ……カハ!」
ガッキィン!
気を緩めた瞬間、一際強烈な一撃が蟀谷に真横から直撃した。
ぐにゃりと視界が歪み、天地が分からなくなった。意識が飛んだ將の全身から力が抜けた。男たちが手を離し、將はその場に倒れ込んだ。地面の感触や音声、物音、気配が遠退いていく。薄れゆく意識のなかで、遠くから聞き慣れた声が聞こえた。
――「ねえ、將。何で暴走族なんて入ったん? バイク好きなんは知ってるけど、ほんまはケンカもあんま強ないんやろ。速いとか強いとかどうでもええ。將は、優しいだけでええんよ」
「スジ通すとか義理とか気にせんと逃げよ。將は優しいんやから、無理せんといて」
「アンタさあ、逃げればええやん」――
(ああ、ほんま……逃げてもよかったかもなあ。このままもう二度とお前に会われへんくなるよな気がするわ……。せやけどもう……逃げる力も――)
ドッボォッ、と腹部を蹴り飛ばされて將は意識を取り戻した。腹部を押さえて背を屈めて激しく咳き込んだ。込み上げてくる酸味と苦味の鉄の味を噛み殺し、拳を握り締めた。埃でも空気でもいい、何かを掴むのは条件反射だ。
「も……やめてや……。あのお兄ちゃん死んでしまうよ……」
禮は將を見詰めてか細い声を絞り出した。一方的に何度も何度も殴られて耐えられるほど、將が頑丈には見えなかった。
大塔はハッと鼻先で嘲弄した。
「お前、アイツの何やねん。付き合い長い友だちか。ちゃうやろ。お前みたいな育ちのええ嬢ちゃんが俺等みたいなんと知り合いなワケない」
「何の話――」
「誰が何でフクロにされてんのかよう知らんけどカワイソーで見てられへんてか。《荒菱館の近江》のオンナがお優しいことや」
大塔は禮の二の腕を乱暴に引っ張り、自分のほうへ目線を向けさせた。
「俺等のことなんかこれっぽっちも解れへんクセに綺麗事ばっかりのたまいくさって。けったくそ悪い。アイツの女になった時点でお前はもうこっちの世界に片足突っ込んどんねん。いつまで何も知らんええ子ちゃんのカオしてんねん。アイツも俺等と何も変わらん。一遍敵に回ったら、自分に逆らったら、気に入らんかったら徹底的にぶちのめす。俺もアイツも同じや、同じ穴のムジナや」
禮は二つの大きな瞳で大塔を真正面から睨んだ。その瞳から折につけてキラキラと零れ落ちる正義の純良、それこそが彼が嫌悪するものだった。
「アンタはムジナでも、ハッちゃんはハッちゃんやよ」
「ああッ⁉」
「ハッちゃんをアンタみたあなのと一緒にせんといて。ハッちゃんは大勢で一人を囲んだりせえへん。そんなカッコ悪いこと絶対せえへん。惨めな真似するくらいやったら死ねんの、アンタと違って」
それは大塔の逆鱗に触れる言葉だった。彼は禮のようなものが存在すること自体に嫌悪し、《荒菱館の近江》を別格扱いする点については憎悪と化していた。
あの男が最上級ならば、それ以外の存在は、この俺は何だ。あの男の下に位置する人間か。そのようなことは認めない。そのようなことがあってたまるか。全力で否定するに値する。
「ええ子ちゃんがいつまでめでたい夢見とんねん!」
大塔が声を荒げ、將を取り囲む男たちもピタッと停止した。
大塔と禮とが睨みあって沈黙し、倉庫内が一時シンと静まり返った。二人は互いに相容れない性質であることを再確認した。冷静を演じるなど無駄だ。平静を取り繕うなど無意味だ。否定し合うしかないのだ、徹底的に。
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