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#12:Bill to pay for the laziness
Tell a lie. 03 ✤
しおりを挟む昼休み終了のチャイムが鳴り、禮と杏は最上級生たちを残して教室に向かった。
エントランスホールから大階段へ移動し、階段を二人並んで上る。
杏はチラッと渋撥たちを振り返り、彼等の意識が此方にないこと、すでに充分に距離があることを確認した。これだけ離れていれば小声の話は聞き取れまい。
「なあ、あれでええんか禮。なんかうやむやになってしもたっちゅうか……」
禮は階段を上る足を停めないまま「浮気の話?」と尋ねた。杏は他にないだろうと言いたかったがひとまず堪えた。
「ハッちゃんしてへん言うてた」
「信じるん? ガッコ来てへん理由も分からへんのに。純さんにも禮にも黙ってはるんやで。絶対おかしいやん」
「んー……せやけどしてへん言うなら信じるしかあれへんし」
その発想は杏にはなかった。言われたことを有りの侭にすんなり受け容れるほど、異性を、人間を、盲目的に信じたことなどない。
杏は禮の顔を見たまま口を半開きにして言葉を失した。盲信している者にどうやって疑心を芽生えさせればよいのかなど考えたことがない。人間は誰しも当然に疑心を抱いているものだと思っていたから。
階段の踊り場に差しかかった禮が「あ、ハルちゃん」と零した。彼女たちと同じく教室へと向かっていた最中の幸島が、足を停めて振り返った。
既に踊り場から数段上っていた幸島は、斜め上から禮をじっと見下ろす。禮はやや俯き加減であり、彼の目にはいつもとは少々異なって見えた。
「ん? どうした。なんか元気あれへんな。具合でも悪いんか?」
「イヤ、なんともないよ。だいじょぶ」
禮は急いで顔を上げてニコッと笑った。それから軽やかな小走りで幸島の隣を擦り抜け、階段を駆け上っていった。
幸島は禮の後ろ姿から杏へと視線を引き戻し「何やあれ」と声をかけた。禮は普段実に自然に笑うから、作り笑いをするなど珍しい。杏のほうも珍しくシリアスな表情をしていた。
「近江さん浮気説、ガチっぽい」
「はあっ? そういえば昨日、教室でそんな話してたな」
幸島はその話題には積極的に加わらなかったものの、席が近いから声は聞こえていた。
彼が輪に加わらなかった理由、それは大鰐や虎徹と異なり、渋撥が浮気心を起こしているなど思わなかったからだ。まだ禮と渋撥のことをよく知らない彼も、渋撥の禮に対する執着心と独占欲はかなり強いことだけは疑いようがなかった。渋撥が禮以外の女に同じように、もしくはそれ以上に執着するなど想像できない。
「近江さんが浮気なァ……。ほんまなんかソレ」
「なに、アンタしてへんと思うの」
杏は腕組みをして幸島の顔を見上げ、彼の目を真っ直ぐに見た。否定的な言い草以上に、表情に苛立ちがありありと滲み出ていた。
「《荒菱館の近江》のオンナになりたいヤツなんかゴロゴロしてるわ。荒菱館の上の人はオンナ取っ替え引っ替えっちゅうウワサやんか」
「まー、俺もその手のウワサは聞いたトキあるけどな」
「せやけど禮といてるときの近江さん見てたら、ウワサのほうが間違いやったんかもて思た。禮のことほんまに大事にしてはるみたいで、フツーのカレカノみたいで……」
「ほな浮気してへんのやろ。俺も近江さんは禮を大事にしてはる思うで。そもそも浮気してる証拠なんか――」
「浮気してんねん!💢」
杏は幸島の話を最後まで聞かず噛み付くような勢いで断言した。
幸島は「ふう」と溜息を吐いた。
「お前の話ちゃうのに何をムキになってんねん」
「自分の話ならこんなに腹立つか。禮のことやから腹立つねんッ」
杏の剣幕と発言に、幸島は少々面喰らった。
「禮の何が不満やねん。禮みたあな女、他にいてへんのに。禮を泣かしたら近江さんかて許さへん!」
杏は、禮が絶対的に幸福でなければ嫌なのだ。禮は既に杏の理想、目指すもの。いつでも笑って幸福でいてほしいのだ。身勝手で独り善がりな言い分だとは分かっているけれども。
「杏、お前……そんなに禮のこと好きやったんか」
「なっ⁉ スキとか真顔で言うなッ」
杏は予想外の言葉が飛んできて吃驚した。
幸島は、真っ赤な顔をした杏に睨まれ、プッと吹き出した。「掴み合いのケンカまでしたクセに」とクックッと肩を揺すって笑った。キンキラキンの長髪を靡かせ、短い眉を吊り上げ、強い口調で言葉を吐く、そのような外見とは対照的に桜時杏という少女はとても素直な性格をしていると思った。
「なに笑てんねんッ!」
杏は幸島の体をドンッと突き飛ばした。全力で両手を突きだしたが、幸島は「おっと」と少々蹌踉めきかけただけ。フンッと鼻で息をして幸島に背を向け、やや早足で階段を上っていった。
ガラッ、と勢いよく一年B組教室後方のドアが開いた。
禮が其方を見ると、ドアを開け放った当人であろう杏が仁王立ちになっていた。
「禮、カラオケや!」
杏は大きな声を張り上げた。名指しされた禮はキョトンとし、他の者たちは「いきなり何事だ」という顔で杏に視線を集めた。教師も教卓でポカンとしていた。
「学校終わってから?」
「終わってから! アンタ、ガッコサボらへんやん」
「……ええけど、もう授業始まるよアンちゃん。ちゅうか何でカラオケ?」
「むしゃくしゃしとるときはパーッと騒いだほうがええねん」
「別にウチむしゃくしゃしてへんけど」
「ほなウチが歌いたい! 禮もついてきてや! 付いてきて禮も歌うんやッ」
「えー」
杏と禮の温度差は大きかった。杏は熱意たっぷりだが、禮はまあそこまで言うなら付き合おうかなという程度で。
杏の頬はやや紅潮していた。誰かに純粋な善意をぶつけるのは記憶する限り初めての体験であり、禮を元気付けたいという魂胆が見え透いているのがこっ恥ずかしかった。
「……プッ」
杏は頭の上から笑い声が聞こえてハッとした。振り返るとやはり其処には幸島が立っており、口を押さえて笑いを噛み殺しているではないか。
「アンタなァ~~っ!」
「イヤァ、すまんすまん」
紅潮した杏の頬がさらにかあーっと赤く染まった。鈍い禮は杏の胸中にピンと来ていないが、幸島は察しているの違いない。
「その話、俺も乗るわ。俺等とカラオケ行くか、禮」
禮は小首を傾げた。何故、杏も幸島も自分をカラオケに誘うのだろう。そもそもこの二人はそこまで仲がよかっただろうか。
杏は幸島を見上げて明らかにムッとした表情をした。
「俺等て何やねん。ウチとアンタが初めから行く約束しとったみたいやんか」
「まー、そんなんはどーでもええやんか。要は禮とカラオケでパーッとでけたらええんやろ。俺が言うたらアイツらのほうが乗ってくるで」
杏が「はぁー?」と聞き返し、幸島は禮のほうへ指差した。杏が其方に視線を移すと、虎徹が満面の笑みで挙手していた。
「俺も禮ちゃんとカラオケ行きたーい♪ 俺けっこー歌上手いねんで」
「バッカ、虎徹。ラップは絶対ェ俺のがウメー。それにお前、最近の歌知らねーだろ」
「新しい歌なら何でもええんかい。推しのアーティストくらいいてへんのか。自分持ってへんヤツー」
虎徹、脩一、大鰐はすでに参加するつもりで好き勝手に談義に花を咲かせ、由仁もベランダ側の自分の席から「俺も俺も」と手をピーンッと伸ばしている。
幸島は杏に向かって「な?」と同意を求めた。
「むちゃむちゃ単純なヤツらやなー」
放課後、禮たちはみんなで電車に乗って繁華街へ向かった。知る限り最も安価なカラオケ店に入店した。
カラオケボックスにいる間中、誰かが歌って誰かが笑っていた。誰が何を歌ったか覚えていないし、歌詞の意味も心に残ってはいないし、リズムもテンポも兎に角陽気だったことしか印象にない。虎徹はかつて流行したオールドソングばかり選曲し、脩一は確かに流暢な滑舌で、由仁は何処かで聞いた覚えのある耳障りのよい歌を好んだ。
女子校育ちの禮には、男の子の跳ね回るような歌い声はとても新鮮に感じた。知らない流行歌の大音響と笑い声の中にいるのは心地良かった。杏と一緒になって歌ったポップな曲調のアイドルソングも楽しかった。
カラオケ店に到着した頃はまだ外は明るかったが、一通り気が済むまで歌って外に出た時分にはすでに日は沈んでいた。
禮が頭上を見上げると、空はすでに夜と言ってよい色だった。このように暗くなるまで友人と遊ぶなら実家にいた頃であれば連絡をするのが家人との約束だったが、一人暮らしの今となっては気儘なものだ。
「あー、喉痛い」
禮が大鰐の声で視線をいつもの高さに引き戻すと、彼は舌を出して自分の喉を摩っていた。
「へーちゃん叫ぶ歌ばっかり入れるから」
「カラオケで声出さなどこで出すねん」
「へーは教室で毎日がなってるやん」
「お前らの所為やんけッ」
大鰐は杏に憎まれ口を叩かれ、また怒鳴り声を上げた。
禮と杏は笑いながら軽やかな足取りで、カラオケ店が面している歩道の真ん中まで飛び出した。
繁華街のネオンが煌々と灯り、夜でもまるで昼間のように歩道が照らされていた。歩行者は明るい時間帯と変わらず多かった。そのなかに、よく見知った後ろ姿を見つけた。行き交う歩行者のなかから頭一つ分は飛び出した後ろ姿。
禮はハッとして咄嗟に杏の手を握った。禮から一瞬遅れて、杏も同様にそれを見つけて声を失した。二人して立ち尽くした。
「禮ちゃんアンちゃん、メシこのままどっかで食べて帰ろかァ」
カラオケ店から出てきた虎徹は、禮と杏にそう提案したが返答は無かった。二人が立ち止まって同じ方向に顔を向けているのを不思議そうに見て、自分も二人の視線を辿ってみてハッとした。
禮が見詰めるその先、其処には疑惑の渦中の王様。その隣には、疑惑を決定付ける証拠付き。見知らぬ女と並んで歩く渋撥の後ろ姿。
「ジーザス……」
虎徹が額を押さえて零したのとほぼ同時に、由仁と大鰐も虎徹と同じものを見た。由仁は「ゲッ‼」と声を漏らした。大鰐はそう意外でもなかった様子で「完全アウトー」と言い放った。
参ったな、と幸島が大鰐の隣で独り言を零した。彼は渋撥が浮気しているなど毛頭思ってはいなかった。皆が実しやかに噂しても杏が断言しても証拠が無かった。しかしながら、自分の目でしかと見たならば信じるしかない。
「タイミング悪い人やなー。こりゃ言い逃れでけへんで」
確か、誰かがそう言った。誰が言ったのかは定かではない。誰の発言かなど大した問題ではない。きっとそれは、あの場にいた者たちの総意だろう。
言い逃れできないとは、渋撥の浮気が真実だという意味だ。では、恋人の浮気を知ってしまったとき、どうするのが正しいのだろう。
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