ベスティエンⅡ【改訂版】

花閂

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#06:少女孵化

The time tyrant obey orders. 01 ✤

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 渋撥シブハツレイをマンションまで送ってきた。
 禮はリビングの床に通学鞄を置き、ソファに深く沈み込んだ。渋撥も禮に続いてリビングに入ってきて「なあ」と声をかけた。

レイ、今日メシどうする。怪我してるさかい動かれへんやろ」

「別にこれくらいで動けへんことないけど。あとでコンビニに買いに行こかなーと思てるよ。新発売の抹茶モンブラン食べたいしー」

 禮はソファに寝そべり、渋撥のほうへ顔を向けた。

「俺が作ったろか」

「え、ほんまに? ええのー✨✨✨」

 禮は予想外の申し出にぱああと顔を明るくした。左右の足をパタパタさせて喜ぶ。渋撥も他人に自慢げに振る舞うほど料理上手ではない自己評価しているが、そこまで喜ぶならば作り甲斐があり気分も良くなる。
 渋撥はキッチンへ行き、小さい冷蔵庫の前に座り込んだ。一人暮らしの禮の冷蔵庫は小さく、長身の渋撥では座り込んだほうが見やすい。冷蔵庫のドアを開けて中身を見た途端、スンと真顔になった。

「冷蔵庫のなか何もあれへんやんけ。お前、ハナから作る気なかったな」

 いやはやお恥ずかしい。禮は渋撥の背中に向かって「えへへ」と笑って誤魔化す。
 バタン、と冷蔵庫のドアを閉めて渋撥は立ち上がった。

「材料買うてくる。近くにスーパーあったやろ」

「そこまでせんでええよ。コンビニでできたもん買お」

「お前、普段からコンビニ飯ばっか食うてるんとちゃうやろな」

「い、いつもちゃうもん。たまにだけー」

 決まりが悪い禮は両手で口許を隠した。
 渋撥はソファまでやってきて、禮の頭をぐりぐりと撫でた。手の平にすっぽり収まる小さな頭を無意識に擦り付けてくる仕草が猫みたいだと思った。

「何が食いたい。言うとくけど、ごちゃごちゃしたモンは作れへんで」

「何でもええよ」

レイは家で待っとけ。そのモンブランも買うてきたるから」

 渋撥は艶やかな黒い毛並みを思う存分撫で回したのち、禮の部屋から出て行った。


 渋撥はスーパーに着いてからも何が食べたいかとメッセージを送ってきたが、禮は変わらず何でもよいと答えた。禮の遠慮か、それとも何も考えていないだけか、大いに渋撥を悩ませたが、要望を言われてもどうせ大したものは作ることができないなという考えに落ち着いた。のほほんとした禮が深くものを考えているとは思えない。要望を言わないということは本当に何でもよいのだろう。

 小一時間ほどして、買い物袋を提げた渋撥が部屋に戻ってきた。それから学生服を脱いでリビングに置き、キッチンに立った。渋撥は禮に包丁やフライパンの位置を多少質問しただけで、慣れた雰囲気で作業に取りかかった。
 じゃーっ、じゃーっ、と小気味よい音を立て、香ばしいにおいをさせてキッチンでフライパンを振る渋撥の背中を、禮はリビングのソファから眺めていた。とても珍しいものを見ている気分だが、それ以上に胸がそわそわしてしまう。
 渋撥が買い物に出ている間に部屋着に着替えた禮は、ニヤけてしまいそうな自分の頬を手で押さえた。

(どうしよ。料理してるハッちゃんがカッコイイ……✨)

 広い背中も、逞しい僧帽筋も肩幅も、Tシャツの袖口から覗く上腕筋も筋張った腕も、すべてがいつもより一段格好よく見えた。試合中のほうが余程猛々しく雄々しかったはずだが、このようなことはちっとも思わなかったのに不思議だ。
 渋撥がクルリと振り返り、禮は驚いてビクンと体を跳ねさせた。いつの間にか料理がフライパンから皿へと移動していた。渋撥自身を観察することに夢中で料理の工程などまったく追っていなかった。
 コトン、と皿をテーブルの上に置かれ、禮はソファから下りてカーペットの上へと移動した。禮は自分の前に置かれた焼き飯に目を輝かせる。
 それほど大層なものを作ったつもりはない渋撥は、少々気恥ずかしかったがおくびにも出さず、禮の横に座った。ソファの縁に掛けておいた学生服に手を伸ばし、学生服のポケットから煙草の箱とライターを取り出した。

「ハッちゃん食べへんの? これ二人分ちゃうん」

 渋撥は「いいや」と答えて煙草を一本口に咥えた。
 禮は少し申し訳なさそうな顔をしてえへへと口を緩めた。

「ウチにはちょっと多いかなーて」

「ああ、ついクセでいつもの量で作ってしもた。食えるだけ食え。残りは俺が食うさかい」

(ハッちゃんこんなに食べるんやあ。やっぱ男の子は食べる量多いなあ)

 そのような至極当たり前のことに今更ながら得心が入って浮かれてしまう。
 禮は「いただきます」と言ってスプーンを手に取った。スプーンを山盛りの焼き飯に挿し、一口分を掬ってパクッと口の中に入れた。

「おいしい」

 禮は満面の笑みを渋撥に向けた。

「ハッちゃんおおきに」

「ただの焼き飯やで。ほんまにこんなモンでよかったんか」

「作ってもろたもんは何でもおいしいよ。ていうかハッちゃんが作ったもんのほうがウチが作ったもんより絶対おいしい」

「そうか」

 渋撥は微かに得意気に口を歪めてフーッと煙を吐き出した。


 渋撥は期間限定スイーツ・濃厚宇治抹茶モンブランを約束通り買ってきてくれていた。焼き飯を二人で残さずたいらげたあと、それを禮に出してくれた。禮は夕飯のみならずデザートまで堪能できて御満悦。カーペットに座ってモンブランを掘り掘り。渋撥から見たら小鳥が啄んでいるのと大差ない。
 渋撥は幸せそうな顔をしている禮の隣にしゃがみ込んだ。

「風呂、入るの手伝ったろか」

 なんですと?
 唐突に渋撥がそのようなことを言ったから、禮は緑色のモンブランを掘る手をピタリと停めた。ギギギギと錆び付いた人形の如くぎこちない動作で渋撥のほうに顔を向け、若干険しいくらいの真面目な表情をしていた。

「本気で言うてる?」

「下心封印して言うてる」

「……できるもんなん、それ」

「多分」

 曖昧で何とも不安な回答だが、絶対と言い切らない点は誠実だとも言える。渋撥は口に出したからには実現するよう精一杯努めるだろう。王と崇め奉られ、一言命令すれば何でも儘にできる彼は、恐らく今までに欲望を自制したことがないに違いない。
 禮は、自分の為に懸命にそうしてくれようとしていることに嬉しくなった。それだけ渋撥から特別に想われているということだ。

「……ハッちゃんが過保護すぎて、なんか嬉しハズイ」

 禮は頬をやや紅潮させてはにかんだ。
 プラスチック製の小さなスプーンを噛んで羞じらっている顔が何とも愛らしかったから、渋撥の内で途端にメラッと欲望が首を擡げた。今まさに蓋をしようと決心したのに何たることだ。自分でも信用などしていないが自制心の薄弱を思い知る。
 渋撥はクッと零して眉間に皺を寄せて禮から顔を背けた。

レイ、俺を全力で殴れ」

「なんでっ⁉」

「お前が可愛いからや!」

「⁉」

 そうでもしないと停まれないではないか。渋撥の手は自然と禮へ伸びた。渋撥は床に手を突き、じりっと禮との距離を詰めた。
 禮は床の上を擦って後退しようと身動ぎをしたのだがピキーンと腹部に鋭い痛みが走り、一瞬顔を歪めた。痛覚や体勢に抵抗するのを諦め、ころんと背中からカーペットの上に転げた。自分の部屋なのだから気を張って無理をする必要は無い。

「痛むんか」

「ちょお響くだけ。大したケガちゃうしだいじょぶやよ」

 渋撥はぺたりと禮の腹部に手を置いた。自分が殴った箇所と正確に同じところを。

「~~~……っ」

 禮は顔をしかめて声を殺した。

「大丈夫ちゃうやんけ」

 渋撥は禮の部屋着である柔らかい生地のパーカーに手を掛け、断りもなく上方にはぐった。その白い柔肌には変わらず青味が拡がっていた。昼間よりも色が濃くなった気がするのは罪悪感の起こす錯覚か。自分の身が同じようになっていても耐えれば済む話だが、禮の華奢な肢体に染められた青がとても痛々しく見えた。この体で一体何処までなら耐えられるというのだ。

「ハッちゃんが気にすることなんて何もあれへんよ。ウチのお願いきいてくれただけやもん」

「もう二度と言うてくれんなよ。何て言われても、レイを殴るなんか二度とでけへん」

 禮が見上げる渋撥の顔には保健室で見たのと同じ憂虞と悔恨。悩みや迷いなどとは縁遠い彼がこのような表情を見せるのは珍しいことだ。
 たった一度きり、禮を殴った。最初に敵として対峙したときですら殴らなかったのに、禮に望まれて初めて禮を殴った。あの瞬間、微かに腕が震えた。禮が壊れてしまうことに恐怖して確かに腕が震えたのだ。
 もう二度と殴れないと思った。もう二度と突き放せないと思う。もう二度と味わいたくない恐怖。それは多分、死に際の絶望に近いもの。

「すまんかったな……」

「気にせんといてってば。うちが言い出したことやし」

「気にするわ。殴ったのは俺や」

 禮は、渋撥の指先が青痣の上に触れた瞬間、体をピクッと撥ねさせた。渋撥は努めて優しく触れたから痛くはなかった。
 渋撥は青痣の輪郭を指でなぞった。禮はピリピリするのとゾワゾワするのが同時にやって来る変な感覚に身を捩りそうになったが、痛覚に引き留められて「んっ」と体に力を入れて耐えた。これが渋撥なりの自身の罪悪感を再確認するための作業なのだとしたら、禮にとっては痛覚と羞恥を味わわせられるばかりで割りが悪い。
 禮は「そうだ」と口を開いた。

「そ、そんなに気にするなら、ウチの言うこと何でもきいてくれるいうのは?」

「ええで」

 渋撥からは即答。禮は目を大きくした。渋撥のプライドは高く、基より他人に従ったり尽くしたりするようにはできていない。だからもう少し躊躇すると思ったのに。

「ほんま? 何でもやよ? でける?」

 禮が念を押すように何度も確認するから、渋撥は少し笑いながら「できる、できる」と答えた。禮がカーペットに寝そべり自分が上にいる体勢であるのをいいことに、唇を近付けてきた。以降に続く展開を期待したのではなく、これはもうただ単に本能的な行動に過ぎない。
 禮は渋撥の額をぺちんっと叩いた。

「下心封印するて言うた!」

「チッ」

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