ベスティエン ――強面巨漢×美少女の〝美女と野獣〟な青春恋愛物語

花閂

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#04: The flawless guy

Showdown 01✤

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 虎宗タケムネ渋撥シブハツの胸の上に手を置いた状態から、足首と腰の最小半径の回転と上半身の筋肉と瞬発力だけで掌打を打ち出した。ほぼ接着したゼロ距離から発せられる衝撃は、筋肉の壁を透過したその先、丁度肉体の真芯辺りで爆発する。
 如何に筋肉を鍛えて頑健な鎧を身に纏い、堅牢な城壁を構築しようとも中身はみな同じ人間であり、血と肉が詰まっているに過ぎない。内臓はどうしても鍛えようがなく、また本来衝撃を吸収するようにはできていない。従って内臓への衝撃による直接的負荷は、筋肉や骨を殴られるのとは及びも付かない甚大なダメージである。
 それは、古来の達人の域に達すれば心臓を破るという。まだ世が群雄割拠・弱肉強食の厳しい時代、武術が護身術ではなく殺人拳であった頃の名残であると同時に、奥の手であり禁じ手であり、無闇に人目に晒すことは疎か私闘で用いることは禁じられている秘技。

「トラちゃん‼」

 禮は思わず悲鳴のような声で名前を呼んでいた。
 振り返った虎宗の目はゾッとするほど冷たかった。彼処に立っているのは、本当に兄と慕う虎宗か。

「あ……な、何、してんの……? し、素人相手に、そんなっ……奥の手使っ……!」

 途惑いを隠しきれない禮は、上手く言葉を繋ぐこともできなかった。

「コイツは俺殺すのに自分の命懸ける言うた。俺にも殺す気で来い言うた。そこまで言うんやったら……俺も全身全霊で応えたっただけや」

 淡々と応える虎宗の声は抑揚が無く平坦だった。それが却って禮の心を細波立たせた。

「ハッちゃんを……殺す気?」

 声が震えた。指先が震える。心臓だって震えている。――――初めて虎宗を恐いと思った。
 大事な家族、最も信頼できる門弟、優しい兄だと信頼しきっていたが、渋撥の命を苅る覚悟をした虎宗に確かに恐怖を感じている。肩や膝や太腿に鳥肌が立ち、全身が総毛立つ。生物が外敵に対して持つ本能的な警戒心だ。

 ハッちゃんに駆け寄って無事を確かめたいのに、盾になって守りたいのに、トラちゃんが恐くて足が一歩も動けへん――――!


ハツゥーーーッ‼」

 鶴榮が大声で叫んで駆け出した。地面に突っ伏している渋撥に駆け寄る。禮はその声でハッと金縛りが解けた。

ハツ! オイハツッ!」

 鶴榮が後頭部に必死に呼びかけても渋撥から返事はなかった。取り乱した鶴榮が渋撥の背中に触れようとした瞬間、その肩がピクンッと撥ねた。
 鶴榮の手は宙でピタッと停止し、黙って渋撥の後頭部を凝視する。暫くして渋撥はダンッと地に両手を付いた。ふらつきながらゆっくりと上半身を引き起こす渋撥の様を見た鶴榮は、眉間に深い皺を刻んでギリッと奥歯を噛み締める。渋撥が天より高いプライドを持つ王様だと知っているから、鶴榮は手助けしようとは一切しなかった。

「どんだけ……気ィ失っとった」

 渋撥はよろりと立ち上がりながら鶴榮に尋ねた。

「多分、十秒かそこら……」

「クソッ、そんなにか。舐められたもんや」

 十秒あれば留めを刺すには充分。追撃するに余りあるその時間、虎宗は渋撥を見届けもせずに禮のほうを向いて悠長に会話をしていたのだ。それは渋撥にとっては我慢ならないほどの侮辱だ。

「殺す。……アイツだけは絶対に俺が殺す」

 渋撥の横顔からその眼光を見詰めると鶴榮の胸が俄にざわついた。内臓に蓄積されたダメージ、気持ちの悪い吐血、僅かな時間とは言え意識喪失、生命に危機が及ぶかも知れない最悪の想定もできる。それでも渋撥は己の命に執着がないことが伝わってくる。
 しかしながら、鶴榮はやはり渋撥に触れることはしなかった。助けることも抑止することもしない。最早、渋撥と虎宗、二匹の獣の間には何者も手出しは無用。どちらかが地に伏し頽れるまでとまることはない。

「…………。ああ、分かった。お前の気が済むようにやれ。ワシはとめへん」

 鶴榮は渋撥から数歩離れた。己に課していたこの王のブレーキ役を自ら放棄した。名残惜しくはなかった。最も長い時間を共有した一人として、渋撥の性質は熟知している。目の色が変わるほど憤慨しているのなら誰が立ち塞がっても停めることはできない。

(バケモン言われるお前をここまで追い込むんや、アイツも充分バケモンや。バケモン同士、形振り構わず潰し合うならそれもええやろ)


 虎宗は立ち上がった渋撥を見て忌々しそうな表情を見せた。渋撥とは対照的に此方には憤怒であるとか興奮であるとかは見て取れなかった。視線から兎角目障りだという強い情意は感じられる。

「まだ立つんか」

「当たり前やろ。オドレは俺が殺すて……何遍も言うてるやろが」

 渋撥は自分の二本の足でしっかりと地面を踏み締め、背筋を伸ばして手の甲で口の端から垂れる血を拭った。

「往生際悪いんも大概にせえよ」

 虎宗は唾棄するように言った。やはり目障りだ。不快でしょうがない。渋撥は忌々しくも性懲りもなく真っ直ぐに此方を見てくる。その眼光には濁りも迷いもなかった。一瞬確かに生死の境を垣間見たくせに、いまだ以て境界を踏破することに躊躇がない。
 渋撥は虎宗を睨みつけ、ギリッと音が鳴るほど拳を握り締めた。

(……一発や。俺はまだアイツに一発もキレエに入れてへん。一発決まれば、必ず地ベタ這い蹲らせたる)

 渋撥には確信めいた自信があった。彼は神よりも何よりも己の拳を信じている。己自身、己の持つ力だけは何があっても裏切らない。力以上に確かなものなどないと、そういう世界に造り賜うたのが神なのだ。
 心臓は立ち上がった今でも騒々しく胸骨の中を跳ね回っているし、肩を上下させないことには真面に息を吐くこともできないし、視界が霞んで虎宗の細かな動作など見えない。つまり、自分の考えていること以外は何も解らない。
 渋撥は自分の体を引き摺るようにして、虎宗に向かって押し出すようにして、ジリッジリッと間を詰めていく。退く気はないのだから、前に進むしかない。後ろを振り返るほどの体力を浪費するならば、眼前の敵を睨みながら死んだほうがマシだ。
 ザザッ。
 渋撥がジワジワと縮めていた距離を、虎宗は容易に踏み破った。圧倒的優位の虎宗が渋撥を怖れる理由など、必要以上に警戒する理由など何処にもない。渋撥は気力で立っているの過ぎないと虎宗は悟っていた。心臓に直接衝撃を叩き込まれているのだから、攻撃に必要な呼吸を溜めることすら満足にはできないはずだ。
 ホラ、虎宗が拳を振りかぶっても渋撥は睨み続けるだけで身構えることもできない。虎宗は渋撥の顔面目がけてパンチを突き出した。
 ゴガァアンッ!
 急激に視界が上下に揺さぶられ、一瞬何が起こったのか理解できなかった。足が地面から浮き、振り仰いで見上げた夜空にはチカチカと星が光っていた。そして、無重力を味わう間もないまま背中に固い感触がぶち当たった。

「ぐぁは……ッ⁉」

 渋撥に殴り飛ばされ地面に転がっているのだと気付くのに、それから優に2秒はかかった。

「ゴホッ、ゴフッ……!」

 渾身の一撃を繰り出した渋撥は、激しく咳き込んで血を吐きながら両膝を付いた。掌に拡がる浅黒い色をした血液はヌルヌルして気持ちが悪い。それを地面に擦り付け、また立ち上がろうと両足に力を入れた。膝がなかなか言うことを聞かず、力を入れようとすると心臓が跳ね回って激痛が走る。心臓はドクッドクッと聞いたこともない変な拍動をし、全身の血管が乱痴気騒ぎしているかのようだ。
 渋撥が顔を引き上げると、虎宗が自分の膝に手を置いて支えにして蹌踉めきながら立ち上がる姿が見えた。

(ハゲがっ……まだ立つんか!)

 一撃が決まれば終わると思っていた。一撃が決まれば形勢逆転できると思っていた。渋撥の全力の一撃は大局に於いてそれほどの意味を持っている。ところがどうだ。奴は辛くも立ち上がり、自分はこうして地面に重力に縫い付けられている。
 虎宗が自分の顎に触れると、ヌルッとした生温かい感触がまとわりついた。

(顎が切れとる……っ! 何ちゅう強烈なパンチや!)

 虎宗はグイッと血を拭って膝に手を置きながら立ち上がった。

「はっ、はっ、はっ……」

 拭っても拭っても、顎の傷口から呼吸のリズムに合わせてドッドッドッと真っ赤な血液が止め処なく溢れ出て、喉を伝って白いシャツを真っ赤に染め上げていく。拭っても無駄だと諦めた虎宗は、渋撥の利き腕の拳に目を落とした。その拳からポタリと赤い雫が落ちた。

「拳、今のでイカれてもーたんちゃうか」

「オドレの血じゃボケ。俺の拳はそんなヤワちゃうねんタコ」

「そりゃ残念や」

 コクン。
 渋撥は喉から上ってくる生臭いものを嚥下し、蹌踉めきながらも立ち上がった。

「オドレも大概しぶといな、ハゲ」

「ハゲちゃう。坊主や」

「一発で終われへんならしゃあない……とことんまでやったらァ」

 くらり、と虎宗は一瞬眩暈のような感覚に襲われた。渋撥が向かってくることを察知して身構えた途端のことだった。

(――――ヤバイ。ヤツの顔がよう見えん。眼鏡かけてんのに。何でや。膝が重たい。息が苦しい。たった一発のパンチがそんな効いとるっちゅうんか!)

「オラァッ‼」

 渋撥が突き出したパンチを、虎宗は辛うじて回避した。普段なら難なく躱すことができるはずなのに、膝が素直に言うことを聞かず足を引き摺るようにしてやや無様な回避だった。

「くっ……!」

 動作の拍子に顎に鋭い痛みが走り、虎宗は顔を顰めた。そして賢明な彼は同時に悟った。これは早く勝敗を喫しなければならないと。それを正確に言葉にすることはできないが、確かにそう直感した。一刻も早くこの獣を狩らねば自分が獣に追われる側になると気付いてしまった。自分のリミットが近いことを悟ったのだ。
 トン。
 虎宗の掌が胸の上に置かれ、渋撥はマズイと思った。心臓に刃物を押し込まれる予感と大差ない。もう一度あの攻撃を喰らえば心臓が耐えられないであろうことを本能で察知していた。
 この瞬間、虎宗には明確な殺意があった。心臓に刃物を突き立てるのだ、生半可な覚悟ではない。この男を殺してしまっても仕方がないと、腹に決めたのだ。

「ハッちゃんがんばってーっ‼」

 先刻まで、血腥い臭いが辺りに立ち籠めていた。獣と獣が絡み合い、爪を立て合い食らい付き合い、血も汗も舞って戦場は死神が見下ろす盤上だった。
 けれど、一陣の風が吹き抜けた。嗚呼、血の臭いが掻き消され、死神の影すらも薄まり遠退いていく。

「ハッちゃん、負けんといて……」

 直ぐ近くにいる虎宗の声ですら薄ぼんやりとしか聞こえないのに、何故離れている禮の声が鼓膜に届いたのか、渋撥にも分からない。しかしながら、確かに聞き間違えようもなくハッキリと、禮の声は渋撥に届いた。
 その声に背中を押された。渋撥は虎宗に胸を押さえられた状態から、さらに一歩深く踏み込んだ。
 ズドォンッ!
 虎宗の放った衝撃は渋撥の背中で爆発した。虎宗は瞬時に当てが外れたことを察知した。

(コイツ、自分から間合い詰めて無理矢理〝芯〟を外しよった!)

 ダメージが皆無というわけではなかった。渋撥は口から溢れた血液を気にも留めず、拳を握った。奥歯をギリギリと噛み締め、もう一歩深く虎宗の領域に踏み入った。
 渋撥の眼光とかち合い、虎宗はハッとして咄嗟にガードを造ったが、時既に遅し。

「おおおおおッ‼」

 渋撥が狂乱して上げる怒号は、野獣が牙を剥いて獲物に食らい付く様に似ていた。生々しい熱と血の臭いを巻き上げ、同時に四散させる猛々しくも禍々しい獣の咆哮。
 ドッゴォオンッ!
 渋撥のパンチは虎宗のガードを弾き飛ばして撃破し、完全に顔面を捉えた。
 虎宗の両足がぶわっと地面から浮く。大柄な虎宗の体が宙を舞う様は、誰の目にも驚愕で、時が止まったようにすら見えた。渋撥の勝利を信じようと固く心に誓って声を張り上げた禮ですら我が目を疑った。
 ズドンッ、ズシャァアッ。

「ぶはぁっ!」

 虎宗は地面に叩き付けられ、口一杯の血を吐き出した。
 虎宗の闘志は直ぐさま折れはしなかった。何度か体を起こそうと身悶えたが、その度に意識が遠のいた。脳味噌が揺さぶられ天地の方向が分からない。手足への命令伝達が上手くゆかない。地面に仰向けに倒れた体勢でピクリとも身動きしなくなった。
 それきり、遂に能登ノト虎宗タケムネは沈黙した。
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