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#04: The flawless guy
喧嘩屋と武術家 02
しおりを挟むザシャァアアッ。
美作に殴られ吹っ飛んだ大志朗の体は地面をゴロゴロと転がってゆき、俯せの体勢で停止した。
「ぶはぁっ!」
大志朗にはどうにか意識があった。しかしながら、脳がぐわんぐわんと揺れて視界が歪む。指を動かして懸命に拳を握ろうとするが、指先にまで力が伝わらない。
視界の外から「っはぁー、っはぁー、っはー」と美作の荒い吐息が聞こえてくる。あ。視界の端に美作の靴が見えた。立ち上がらなくてはと、戦わなくてはと、懸命に命令するがやはり足腰どころか指の一本さえも満足に言うことを聞いてくれない。
「クソ……」
大志朗の傍まで近寄ってきた美作は、思いっ切り肩で息をしながら大志朗を見下ろした。手がピクッピクッと痙攣しているが立ち上がる気配はない。
「まだやるか?」
美作の声が降ってきた。
戦いたい。負けたくない。コイツに勝ちたい。そのような単純な感情ばかりが次から次へと湧いてくる。単純で強烈な感情が心臓を拍動させ、胸が叩かれるように痛む。
やっと気付いた。
俺は、限界の見えた武術家なんかちゃう。自分で諦めた振りしとっただけや。いつもトラの背中を見とるから、トラを追い越すことはでけへんて自分で決め付けとった。頑張るよりも諦めるほうがなんぼも楽やから、自分で限界決めてゴマカしとった。
やっと気付いた。
ほんまは俺もトラみたいになりたい。ほんまはトラを越えてみたいんや――――。
大志朗は地面に手をついてヨロヨロと上半身を起こし、俯せの体勢からゴロンと仰向けになった。
「そうしたいトコやけどな……体、動けへんねん」
美作は「フゥーン」と鼻先で返事し、大志朗の傍にしゃがみ込んだ。しゃがんだ膝の上に頬杖を突いて大志朗の顔を覗き込み、得意満面でニッと笑った。
「お前に勝てるとか俺もなかなかやん♪」
厭味ったらしい台詞の割には悪びれない笑顔だと思った。敗北は悔しいはずなのに不思議と憎くはなかった。
「……勝ったら気分ええんやろな」
「なに当たり前のこと言うてんねん。お前もそこそこ強いし、その辺のヤンキーなんかチョロイもんやろ。ケンカに勝つことなんかよくあるちゃうん」
大志朗は美作から目を逸らし、その向こう側に拡がる空を眺めた。夜空には大小様々な星がチカチカと輝いている。この程度のことで感傷に浸ったりなどしないけれど今夜は随分と高く遠く感じた。
「勝っても負けてもこんなスッキリした気分なんは……えらい久し振りや」
勝っても負けても、寝ても覚めても、どうしようもなく気分が晴れなかったのは、腹を決めきれなかった、諦めた振りをして諦めきれなかった、曖昧で未熟な自分への罰だったのだろう。あのような最悪の気分を味わう羽目になるから、攘之内は腹を決めてしまえと忠言をくれたのかもしれない。
「……お前、名前は」
「美作ジュ……」
大志朗の顔を見る為に頭を下げて覗き込んでいた美作は、急にクラッと眩暈のような感覚に襲われた。「あれ?」と零してバランスを崩して尻餅をついた。クラクラする頭蓋を手で支えても視界の揺れが一向に収まらず、背中から仰向けに倒れ込んだ。
「がーっ……グラグラするゥ」
夜空を仰ぐ美作の視界を、鶴榮の顔が遮った。
「《不死身の美作》にここまで喰らわすとは、やっぱあの兄ちゃんやるのォ」
美作は腫れ上がった顔を歪めて笑みを造り、得意気ではなく控え目にフッと笑みを零した。それに応えるように鶴榮もニィッと笑って見せた。
「こりゃあ明日もっと腫れんでー?」
「もうズッキズキですもん」
「カッコ付けやなお前も。ケンカの最中にわざわざ相手に殴らせたるか? お前も撥や曜至に似てきたんちゃうか」
「いやー……俺なんかがまだまだ畏れ多い」
§§§§§
バキンッ!
渋撥の側頭部を虎宗の蹴りが捉えた。
「くぁあ……っ!」
渋撥の視界には火花が散ったが踏み留まった。
虎宗は足を引き戻し、また構えながら渋撥を真っ直ぐに見た。渋撥の気魄は凄まじいが無論圧されはしなかった。その辺の三下とは段違いであり、只の破落戸には剰る気魄。しかしながら、決して武人というわけではない。寧ろ、尋常な人間ですらない。
近江渋撥という男は野獣。獣たちの頂点に超然と君臨する百獣の王。そして、自分がそうであることを本能的に知っている根っからの獣の性。
「……確かに、大きな口叩くだけあるわ」
渋撥は「あァ?」と悪態を吐き、虎宗に蹴られた蟀谷辺りをグイッと手の甲で拭った。その拍子に触れた太い血管が薄気味悪いくらいにドクンッドクンッと脈打った。
「この前のダメージ残っとるやろにまだ倒れへん。ほんま化け物並の頑丈さや」
「ケンカの最中に相手の心配かァ、ボケが。お行儀ええ振りなんかキッショイ」
…………コクンッ。
渋撥は先程から何度も何度も生唾を嚥下している。何度押し戻しても押し戻しても少し酸の味のする唾液が臓腑から込み上げてきては喉を突く。酸味と苦みを併せ持った、体温と同じ温度の生温かい液体が喉に絡み付くのは不快で仕方がない。
「こっちはワレェぶっ殺すのに命懸けてんねん。オドレも殺す気で来いや」
渋撥の挑発など、虎宗はハッと鼻で笑い飛ばした。
「俺なんかの為に命張ってくれんのか。そりゃ大したモンや。……禮ちゃんの願いも聞いてやれんくせに」
「あァッ⁉」
「オドレは、禮ちゃんより自分のクソみたあなプライドとる最低のドサンピンや」
――――そうや。
俺は自分の女より、自分のプライドをとる男や。ほな俺からプライド取ったら何が残んねん。プライド以外に何持ってんねん。力尽く以外に何がでけんねん。
何も残れへん、何も持ってへん、何もでけへん、何も思わへん、何も感じへん。それこそクソみたいな俺に、禮が惚れてくれんのか。
ンなワケあれへんやろ、ボケが。
虎宗の言葉に反感を覚えなかったのは自分でも意外だった。思ったよりも冷静に指摘を受け止めていた。虎宗の言を何の根拠もない挑発だと思わなかったのは、自覚があるから。
禮が「やめてくれ」と涙で乞うても振り切った。掴まれた袖を無下に振り払った。呼び止める悲鳴に背中を向けた。すべての所業は、何よりも自分のプライドを優先させたからだ。
禮をどうしようもなく好きだとも思う。心底惚れていると気付いている。自分から少しでも離れているのが許せないくらい独占したいとも思う。けれども野獣の本能は、王様のプライドは、この男をそのままにすることを許しはしない。
本能が頭の中で叫ぶ。本能が胸の上を叩く。本能が背中を押す。殴れ、壊せ、ぶっ殺せと。この男だけは決して許してはならないと。
「ワレェ、ほんまは悔しいんやろ」
渋撥の一言に、虎宗の眉尻がピクッと撥ねた。
「チンピラみたあな男に禮とられて、悔しくてしゃあないんやろ」
「…………」
「何年も前から知っとったクセに今頃んなってノコノコ出てきよって。何が兄貴同然じゃ、アホちゃうか。俺に横からかっ攫われるまで今まで何しとったんじゃ、この愚図が」
渋撥はフンッと嘲笑した。虎宗の表情は変わらなくても背負うオーラがピリリッと緊張したのが分かる。腹が立つのは図星だからだろう。
「オウ、オドレみたいなヘタレに禮が惚れるワケあれへんわ」
ザンッ、と虎宗が一歩足を前方に出した。
渋撥はまたコクンと喉越しの悪い物を飲み込み、虎宗の爪先が地面から離れるところを見た。其処までは目視することができた。だが次の瞬間、虎宗の足がフッと掻き消えた。
ガガァンッ!
虎宗の上段蹴りを、渋撥は咄嗟に受け止めていた。
「!」
完全に決まると思ったスピードに乗り切った一撃であったから、虎宗は驚愕して目を見開いた。
鍛錬を重ねている虎宗の攻撃に、武道に関しては全く無知の渋撥がついてくるという事実。渋撥の反応速度は尋常ではなく、反射神経も身体能力もずば抜け、素質だけならば虎宗に引けを取らないという証だ。
渋撥は虎宗の足をグイッと片手で押し返し、拳を握った。
「ウラァ!」
虎宗は上半身を仰け反り、ブンッと渋撥のパンチは大きく宙を切った。
虎宗が拳を振りかぶるのが見え、渋撥は舌打ちして身構えた。しかしながら、次なる虎宗の動作は渋撥の意表を突いた。
ストン。
渋撥の固い胸の上に、虎宗の掌が触れた。
「?」
否、正確には掌の腹。到底攻撃とは思えない感触で静かに置かれた手。渋撥が一瞬呆気に取られていると、虎宗は肺を最大限膨張させるように大きく深く息を吸い込んだ。
「はぁあッ‼」
虎宗が全開の肺活量と共に渾身の気合いを放った瞬間、真綿のような気魄の壁が押し寄せ、駆け抜けた。
ズドォンッ!
体の真ん中を何かが貫通した。分厚い筋肉を通過して体の奥が爆発した。心臓を打ち貫き、肉体の芯を打ち貫き、背中から衝撃が発散していくのが分かる。
「がっ……ぐぁはッ⁉」
ズドン、と渋撥は地面に両膝を付いた。必死に呼吸しようとするが儘にならず胸を掻き毟るように握り締める。
心臓が――――潰れた。
「かはッ! ガッ……!」
ベチャベチャッビチャッ!
渋撥は唾液と共に大量の血を吐き出した。やや浅黒い液体が玉となって飛び散り、地面にぶつかってシャボンが割れるように破裂した。
渋撥は巨体ごとズシャアッと地面に倒れ込んだ。心臓が跳ねまくって弾みまくって胸骨の中を暴れ回っている。胸を突き破って外に飛び出しそうな心臓の躍動を抑え込むように、渋撥は胸の上を握り締めた。
不規則で無尽蔵な鼓動が体中に響き渡り、さらには鼓膜を反響し、虎宗の声が随分遠くからやって来る。
「黒い、血……」
虎宗は渋撥が造った血溜まりを見下ろしてボソッと呟いた。そして、ビクンッビクンッと大きく痙攣する渋撥の背中を見て目を細める。
「ホレ見てみぃ、言わんこっちゃない。……もう少しで内臓破れんで」
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