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#04: The flawless guy
Across the other side. 02
しおりを挟む沈みかけの夕陽が河面に反射してキラキラと眩しい。鶴榮が通り抜けようとしたあの橋は、人も自動車も通らず静まり返っていた。時偶遠くから自動車の走る音は聞こえてくるが、この空間だけは外界から遮断されたかのように邪魔が入らなかった。
禮と大志朗は、橋のほぼ中央で、まるで合わせ鏡のようにピッタリと同じ構えで停止したままピクリともせず対峙していた。
一体どれほどの時間が経過しただろうか。目が合えば殴り合う短慮な彼等にとって、二人の睨み合いは少々長すぎるほどだ。しかしながら、誰も展開を急かすことも割って入ることもできず、固唾を呑んで見守っているしかなかった。
得も言われぬ緊張感。それは紛れもなく二人が縦横無尽に張り巡らせた警戒心の網羅であり、相手の一挙手一投足、呼吸のテンポまでも見逃さない為の武人のサガ。二人は戦いの舞台に上がった武人の領域にいて、其処に立ち入ることのできぬ彼等は観客になるしかない。
「シロちゃん、相変わらず隙あれへんね」
禮が独り言のように零すと、大志朗はフフッと笑った。
(俺は〝相変わらず〟か……。禮ちゃんは変わったな。隙の無さも眼光も気魄も、禮ちゃんは別人みたあに成長しとる。……そうや。やっぱりそうなんや。禮ちゃんやトラと違て、俺は少しも変われへん。俺だけが変われへん。もう限界の見えた武道家や)
隙を見付けられないのならばいつまで見詰め合っても同じこと。禮は、力強く地面を踏み込んだ。それは強ければ強いほど、爆発的な推進力となる。
その瞬間に禮から発せられる気魄が倍増して、大志朗はカッと目を見開いた。
ガギィンッ!
側頭部へと伸びる長く流麗な足。大志朗はそれをガードして踏み留まり、禮へと素早く手を伸ばす。捕まれば体格の差が如実となる。禮は大志朗の手をバシンッと弾き返して一歩離れた。片足を軸に回転し、対象に背を向ける。
ぱしぃんっ。
禮が繰り出した後ろ蹴りを、大志朗は白い足をしっかりと捕まえて受け止めた。ホッとした矢先、禮の体がフッと宙に浮いた。大志朗に捕まえられた状態で地面を蹴り、捕まえられて固定された足を軸にもう一歩の足を思いっ切り引き寄せる。
大志朗の側頭部に斜め上方から蹴り下ろされるように迫り来る脚。
ガギャァンッ!
「くっ……!」
大志朗は禮の脚を放して両手でガードを造ったが、急造である上に不意を突かれたので、蹴りの威力に突き破られた。禮の蹴りは大志朗の顎先を捉えていた。
「何ちゅう動きするんや……」
鶴榮は感心してポロッと零した。単純な体力や腕力なら自分が勝ることは明らかだ。しかしながら、禮の身の軽さだけは真似の仕様がなく、鍛錬された無駄のない動作には純粋に感服する。目の前で繰り広げられるのは、街中に有り触れた喧嘩などではなく正真正銘の武人同士のぶつかり合い。元より物見高い鶴榮は眼福ものだ。
背後から「オイ」と声をかけられたが、鶴榮は振り返らなかった。やや興奮すら覚える、眼福と称するに値する貴重な時間を邪魔されたくはない。
「余所見すんな、グラサン野郎」
「ちょお黙っとけ。折角のええシーン見逃したら勿体ないやろ」
「知るか。あのクソジャリ、大志朗さんの顔にキズ付けよって。代わりにオドレのツラもぐちゃぐちゃにしたるからな」
鶴榮は「はあー」と溜息を吐いて西ノ宮のほうへ振り返った。
「節操の無いメンクイやな。何でワシがこんなのの相手せなあかんねん、邪魔臭いのォ」
大志朗は禮に足蹴にされた顎を、学生服の袖からはみ出したセーターの袖で拭った。
「ハハッ……やっぱやりよんなァ禮ちゃん」
大志朗からの賞賛に禮は応じなかった。無言で構えたまま表情を一瞬たりとも変えない。
(チラッと掠ったくらいか……。あんな体勢からの蹴りがそんな効くとは思てへんケド)
大志朗は気合いを入れ直して、禮に殴りかかった。
彼等と自分は異なると頭では理解しても、現実を目で見て身を以て体感しても、一度身に付けたサガが容易に消失してしまうわけではなかった。体内に炎のようなものを感じるのだ。胸の奥のほうが熱を持っているのだ。ユラユラと、チラチラと、燻るように揺れる心の中の炎。自分にも一握りでも武人のサガがあるのなら、一気に天まで燃え上がれ。燃え上がって燃え尽きてしまえ。
自分は、禮のように虎宗のようにどこまでも純粋に武人として生き抜くことなどできない。ならば貫き通せぬプライドなどいっそのこと今この場で燃え尽きて果ててしまえばよい。目の前にいる少女の形をした武人は、そうなるに相応な相手。全身全霊で戦うに見合う相手。
バシンッ! バシンッ! パァンッ!
禮は大志朗の拳を寸分見切っては回避し、回避しては間合を縮め、懐に飛び込む機会を窺う。流石に禮と同等の鍛練を積んだ大志朗には隙が無く、間隙を突こうにも攻撃の手が早くて潜り込む間がない。
(早く――……)
大志朗は禮とて油断の許されない相手。何よりも目の前の攻撃に集中しなくてはならないときに、ずっと渋撥の顔がちらついている。余裕がないのは大志朗ではなくて禮のほうだ。焦っているのは自分でも分かる。落ち着け、集中しろ、と己を諫めても逸る気持ちを抑えられない。
ガシィッ、と大志朗にセーラーの襟を掴まれ、禮はハッとした。焦りは判断を鈍らせる。パンチを回避したはよいが間合を見誤った。大志朗は瞬時に拳を開いて逆手に返して禮を捕まえた。
大志朗はセーラーの襟を下方に引っ張った。華奢でも男の力、グインッと禮の体勢は前のめりに崩れた。
「……っ!」
禮は咄嗟に両足を地面から浮かせた。
ドスンッ! と大志朗の肘が禮の背中を打ったが、足が宙に浮いていた御陰で布を打つように威力は半減した。
禮は両手を突いて地面に突っ伏した瞬間に下半身を引きつけて大志朗の膝裏をズバァンッと蹴り飛ばした。今度は大志朗が体勢を崩し、その隙に禮は素早く起き上がりながら掌打を突き上げた。
カパァンッ!
「かっは……っ!」
禮の掌打は真面に大志朗の顎を捉えた。大志朗は空を仰ぎ、その視界から禮の姿はフレームアウト。攻撃するには絶好の好機。禮の攻撃が来ると直感した大志朗は、両腕を十字に交差して取り敢えずのガードを造った。
禮は好機を見逃さなかった。冷静に突くべき最良のポイントを見出した。
ドッボォオッ!
ノーガードの大志朗の脇腹に禮の蹴りがめり込んだ。先程の不安定な体勢からの一撃など比較にならない。メリメリッと骨と内臓が悲鳴を上げる。込み上げてくる吐き気を押し戻し、大志朗は禮のほうへ顔を引き戻した。
「ぐあぁっ……!」
禮の背中が見えていてマズイと思った。ガードを造るのは最早条件反射。しかしながら、大志朗は敢えて拳で対抗することを選択した。今から放たれる一撃は不完全なガードなどで凌げる代物ではない。
禮の肩が僅かに浮いた瞬間、肩から先が一瞬消える。大志朗は禮に向かって拳を突き出した。チュンッと風を切る音がするほど高速の大志朗の拳が顔面の直ぐ横を通過し、禮の裏拳は大志朗の頬骨を捉えた。禮は渾身の力で腕を振り抜いた。
バキャンッ!
脳を撃ち抜かれるような衝撃が駆け抜けた。視界いっぱいに真白い火花が弾け、頭がぐらあっと揺れた。ダメだ、天地が分からなくなる。立っていられなくなる。大志朗は地面を踏み締めて意識を繋ぎとめた。
ズサッスシャアッ。
倒れかけた大志朗は二、三歩後退した。顔を引き上げると、禮は既に構えを整えて此方を見据えていた。それはまさしく、敵を打倒する為に一切の慈悲なく研ぎ澄まされた存在。
大志朗は禮の有り様に、連綿と受け継がれる武人の血脈と崇高な精神を見た。愛らしい顔をしていても少女の形をしていても、武人は武人。何かを得る為には拳を握り、敵を討ち滅ぼすしか道はない。
「はあっ……はあっ……」
大志朗は荒く呼吸をしながら禮と同じように構えた。
(最大出力、耐久性、持続時間……物事には何でもリミットがある。大抵のリミットは禮ちゃんより俺のほうが上や。禮ちゃんのリミットまで引き延ばせば、俺に負けはない)
禮も肩を上下させて息をし、体力を消耗していることは明らかだった。如何にキレは良くてもか細い少女の身に詰まったエネルギーなど、蓄えているスタミナなど、たかが知れている。それらのプールを全てペイし終わった時、それが禮のタイムリミット。
禮には天より授けられた武人の遺伝子があるというのなら、大志朗には努力によって体得した技や経験により培った情況判断能力がある。勝利を妄信する天才のようには振る舞えずとも、情況を鑑みて冷静に勝機を見出すのだ。
「がっ! ……カハッ。クソ……ッ」
西ノ宮は四つん這いの体勢で地面を睨んでいた。口を押さえる指の隙間から真っ赤な液体が漏れ出てきて地面に落ちた。
それは刹那の出来事だった。殴りかかったのは自分のほう、一歩先に踏み込んだのも自分のほうだったはずだ。
にも拘わらず、気付いたときには顔面を撃ち抜かれていた。鶴榮が何か少し動作したと思った次の瞬間、鉄球がぶち当たったかのような強烈な衝撃、そして地面に這い蹲っていた。このような無様な恰好からは早く復帰したいが、脳が急激に揺さぶられた所為か足に上手く力が入らない。
「バケモン、が……!」
西ノ宮は顔を上げて鶴榮を睨んだが、彼は既に此方を向いてすらいなかった。腕組みをして禮と大志朗のぶつかり合いを鑑賞している。お前などに眼中にないと態度で物語っている。
「西ノ宮、大丈夫か?」
頭上から声が降ってきて、西ノ宮はハッと顔を上げた。煙草を咥えた虎宗が自分を見下ろしていた。
「能登、さ……ゲホッ」
虎宗は西ノ宮の腕を掴んで軽々と引き上げた。西ノ宮はふらつきながらも立ち上がり、口腔内に溜まった血液をベッと地面に吐き出した。
鶴榮もいつの間にか現れた坊主頭の男の存在に気付き、禮たちから男へと視線を移した。
(何やコイツ。ほかのヤツらとはちょお雰囲気がちゃうな)
虎宗のほうはというと、仲間であるはずの西ノ宮をこのような状態にした犯人には興味が無いようで、鶴榮のほうには見向きもしなかった。西ノ宮から手を離し、大志朗のほうへと顔を向けた。
「大志朗の相手、女やろ。随分ええ動きして――」
「ハイ。なんや大志朗さんの知り合いみたいです。さっきまで訳アリ風に話してはりましたケド」
大志朗の相手の正体を確かめた瞬間、虎宗の体はピクンッと跳ねた。そののち石像のように硬直した。目を見開いて一点のみを凝視する。西ノ宮が「能登さん」と何度か呼びかけても反応は無かった。石像と化した彼の耳にはもう何も届かないのかもしれない。
かと思ったら、虎宗は突然足を前に出して歩き出した。西ノ宮がさらに何度か声をかけても立ち止まることなく、大志朗に向かって一直線にズンズンと進んでゆく。
「大志朗」
背後から声をかけられ、大志朗が振り返る前に肩を掴まれた。半ば強引に振り返らせられると、信じられないという表情をしている虎宗と目が合った。
「お前、何でや……? 何してんねん大志朗」
「しゃあないねん、トラ」
大志朗は禮のほうへ顔を戻そうとしたが、虎宗が肩から手を放さなかった。
「しゃあないて何やねん。何で禮ちゃんとお前がやり合うて……」
「禮ちゃんは俺等の敵に回った」
「は?」
虎宗は即座に聞き返した。いつも冷静な彼にしては片方の眉を引き上げて随分と間抜けだった。
たった今登場したばかりの虎宗が情況を把握できないのも理解できないのも仕方がない。察しが悪いと責める気は毛頭無いが、自分でも納得できないでいるから、大志朗は確かに苛立った。
「禮ちゃん、この前お前に付き合うてるヤツいてるて言うたんやろ。それが《荒菱館の近江》や。禮ちゃんは《荒菱館の近江》のオンナや!」
大志朗は苛立ちに任せて怒鳴るように言った。それを聞いた時の虎宗の顔など、少し考えれば直ぐに思い付くのに。
大志朗がおそるおそる虎宗の顔を見ると、虎宗は目を見開き黒眼を微動させていた。ポーカーフェイスの虎宗が動揺を隠しもしない、大志朗は直視できなくなってパッと顔を逸らした。
虎宗はハハッと乾いた笑みを漏らした。それも虎宗らしくはなかった。
「何の冗談や……。有り得へんやろ。禮ちゃんとあの男が……? アホ言え、その冗談は笑えへんで」
「せやったら何で禮ちゃんがここにいてんねん。何で俺とやり合うてんねん。俺等の敵やからやろ!」
「禮ちゃんが《荒菱館の近江》の女なんか有り得へんやろ! お前の勘違い――」
大志朗はドンッと虎宗の肩を叩き飛ばした。
「現実見ろや! 今ここにいてんのが禮ちゃんやなかったらアレは誰や⁉」
剣幕で言い合う大志朗と虎宗を見ていられなくなった西ノ宮が、二人の間に慌てて割って入った。
「何してはるんスか二人とも! モメてる場合ちゃうでしょ! 今やり合うてる最中でっせ!」
虎宗と大志朗は口を閉ざして睨むような眼光で見詰め合い、どちらかが折れてくれるのを待っているようだった。両者共にいま目の前にある現実を夢か冗談だと否定してほしかったのだ。禮が笑いながら「嘘やよ」とでも言ってくれれば何はなくとも受け入れるのに。
「トラちゃん」
その声で一言「嘘やよ」と言ってくれればよいのに――――。
虎宗はその恋しい声に引かれるように禮のほうへ体を向けた。眉間には深い皺が刻まれていた。
「トラちゃん。ハッちゃんとまだ会うて……」
「ほんまに……禮ちゃんが言うてたカレシて《荒菱館の近江》のことなんか?」
禮はやや目を大きくした。自分の言葉を遮ってまでされた虎宗の質問が意外だったから。
「うん」
恋しくて堪らない鈴を転がすような可憐な声が、この時ばかりは静かに冴えて脳幹に染み込んでいった。
虎宗は無意識に拳を握っていた。ギリギリと震えるほど握り締め、禮の返事を噛み締めた。
禮自身から恋人がいると聞かされたときよりも、その恋人があの男だと知らされた今のほうが冷静でいられないことが自分でも分かった。何故よりにもよってあの男なのだ。あの男はもう虎宗が敵と認定してしまった。倒すべき男だと決定てしまった。敵がどれほど強くても構わなかった、それこそ世界最強の男が敵でも構わなかったのに、何故によりにもよって禮と同じ側にいる男なのだ。あの男との敵対は、即ち禮との敵対。禮と敵対することは、虎宗にとって冷静さを喪失するに充分すぎる理由だった。
「トラちゃん。ハッちゃんと会うた……?」
禮からの問いかけに虎宗は素直にコクッと頷いた。
「ねえ、トラちゃんがここにいてるいうことは……ハッちゃんは? ハッちゃんはどうしたん……?」
禮へ想いを告げ損ねた日から、虎宗の胸にはナイフが刺さっている。禮が不安げな声を絞り出す度に、胸に突き刺さったナイフが心の臓を貫かんと奥へ奥へと押し込まれる。その痛みもまた虎宗から冷静さを失わせていく。
「…………。死んでへんとは思うで、多分」
あの場で殺してしまえばよかった。
そう本音をぶちまけたら、キミは俺を憎むだろうか。
「あ……」
禮の口から、か細い声が零れた。
渋撥が斃されてしまったなんて信じたくない。否定したい。嘘吐きと糾弾したい。それなのに、言葉が出てこない。何かを紡ぎかけた唇が震え、今にも泣き出しそうな顔で、悪魔を見るような目で、虎宗を見詰めるしかできなかった。
それこそ悪魔的なほどの虎宗の強さを、禮は充分すぎるほど知ってしまっている。幼い頃から兄のように共に育った人だから。
「オイ。そこのハゲ」
禮の隣までやって来た鶴榮が、虎宗に乱暴に投げかけた。
「撥がどうなったて? 近江渋撥がどうなったっちゅうたワレェ。《荒菱館の近江》はなァそう簡単にヤられるほどヤワちゃうぞ」
虎宗は大志朗に視線を送って「これは?」と尋ねた。先程の言い合いの所為で不機嫌な大志朗から「荒菱館の№2」とだけ返ってきた。虎宗は「フゥン」と零して鶴榮に視線を戻した。
「コレはシロの役目やけど、《荒菱館の近江》は逃してしもたし俺がやったるわ」
虎宗の爪先が鶴榮のほうを向き、禮はザワッと異変を感じた。虎宗の両肩から立ち上る敵意によって何をしようとしているのかピンと来た。
「トラちゃんやめて」
禮にキッと睨み付けられ、虎宗の眉尻がピクッと撥ねた。
「禮ちゃん退いてくれ。俺の前に立つんなら……俺と敵同士になるっちゅうことやで」
それは虎宗としても一縷の望みだった。この期に及んで往生際が悪いことだけれど。
これでキミが引いてくれれば、何もかもを笑って許すことができる。すべてが笑って元通りになる。何も案ずることもなくキミを想っている、あの日々に立ち戻ることができる。
「もう……敵やんか」
けれども禮の答は、虎宗の期待を裏切り、同時に予想通りでもあった。
「トラちゃんがハッちゃんの敵になるなら、もうウチも敵やよ……」
禮は眉に細かな皺を刻んで泣き出しそうになりながら、それでもやはり強い意志でもって虎宗を見返してくる。一歩も退かぬ眼差し、それをこんなにも痛く感じたのは初めてだ。
互いに道は別たれたのだと知る――――。
ゴウッ、と突風が吹くような気配を感じて禮はハッとした。
「鶴ちゃん!」
禮は叫んで鶴榮の前に飛び出した。鶴榮が「は?」と驚いている視界の外で、ヒュッと風を切る音がした。
ガギィンッ!
「う……くっ!」
鶴榮の前に飛び出した禮は、腕を十字に組んで虎宗の蹴りを止めていた。しかしながら、その威力を受け止めきれず地面から両足が離れた。
「禮ちゃん!」
ぶわあっ、と禮の体が宙に浮かされ、鶴榮は咄嗟に禮へ腕を伸ばした。禮の制服を掴んで体を引き寄せ、ズシャアアッと数歩後退りながらも抱き留めて踏み留まった。
「大丈夫か禮ちゃん!」
「う……っ、つぅ」
刹那であったとはいえ、禮は完璧に虎宗の蹴りをガードした。ガードに抜かりはなかったが、到底虎宗のパワーには太刀打ちできない。
(手が……痺れる!)
禮を見下ろす虎宗は眉根を寄せ、つらそうな申し訳なさそうな、何とも言えない表情をしていた。素直にゴメンと言ってしまえる立場なら彼はすぐさまそれを口にしただろう。
「禮ちゃんに何してくれてんねんハゲコラァッ!」
鶴榮は禮の体から手を離し、虎宗の胸倉を掴んだ。肩を引いて拳を振りかぶった。
「オラァッ!」
バチィインッ!
虎宗は鶴榮が繰り出した拳を掌で捕まえた。
「!」
鶴榮のパンチは虎宗の想定を超えていた。掌ですべての衝撃を吸収して受け止めることができず、肩ごとグインッと圧倒される。パンチの威力に押し切られ、パァンッと掌を弾かれた。
虎宗は掌にジンジンと留まる熱を感じながら、眼鏡の分厚いレンズ越しに鶴榮をジッと見る。
「№2言うだけあってパンチだけは半端ないな。想像以上や」
「ナメんのも大概にせえよクソ坊主」
鶴榮は虎宗の顔をギロッと睨みつけた。サングラスと分厚いメガネを超えて目と目がかち合った瞬間――――ゾクッと鶴榮の背筋を何かが駆け抜けた。
本能が、直感が、野生の勘が、脳内でけたたましく警鐘を鳴らして一瞬思考が急停止。思考とは真逆に肉体の反射は過敏に反応し、全身の皮膚が総毛立った。
ガキィインッ!
衝撃音が鼓膜を揺らし、鶴榮はハッとした。視界の真ん中にセーラーの襟がパサッとはためく。
鶴榮が思考停止している間に、虎宗は容赦なく拳を放っていた。禮は素早く鶴榮と虎宗の隙間に滑り込み、虎宗の拳を受け止めていた。今度は押し負けてしまわぬようにしっかりと足腰に力を入れて。
「!」
一度ならず二度までも立ちはだかる禮に、虎宗が動揺しないはずはなかった。実力の差が分からない禮ではないからだ。
そして、禮はその動揺を見逃さなかった。虎宗が隙を見せてくれることなどそうはない。虎宗の学生服の胸倉を捕まえ、素早い体捌きで左半回転しながら懐に潜り込んだ。虎宗の軸足を払い、全力で踏ん張って引き付けると、巻き取られるように虎宗の足が浮く。虎宗自身が気付いたときには既に踏み留まれないほど背負われていた。
「ちょっ……!」
ズドオンッ!
虎宗は背中からアスファルトに叩き付けられた。
「がっは!」
仰ぎ見た禮の顔は、笑ってはいなかった。一本を取った時はいつも眩しいくらい溌溂と笑うのに、今は笑顔を見せてはくれなかった。泣き出しそうな、悔しそうな、哀しい表情。そんな顔を見たかったわけではないのに。
虎宗が「禮ちゃん」と呼びかける前に、禮はフイッと顔を背けた。後ろ髪引かれることなく離れていった。
腕を伸ばして掴めば良かったのかも知れない。投げられたとはいえ五体満足だし意識もハッキリしていたし、何より禮と敵になることを回避したかったのだから、離れていくその細腕を掴んで力尽くで引き留めて、素直に「行くな」と言えばよかったのだ。
行くな、行くな、行くな! 何で俺の敵になるんや! 何であの男なんや! 何で俺ちゃうんや!
頭の中では叫べるのに、声にはできない。想いだけで胸は張り裂けそうなのに、喉が蓋をする。
「鶴ちゃん、行こ」
視界の外で禮の声が聞こえた。離れていってしまう。虎宗の手の届かない彼岸へと。いずれ相見える対岸へと。
腹の底から声を出して「行くな」と言って、捕まえて縋り付いて「行くな」と言って、果たしてキミはその足を止めただろうか。その結果を知るのが恐いから、言葉にすることができなかった。
キミの為に俺は、こんなにも臆病に成り下がる。
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