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#04: The flawless guy
Full of the foolish 01✤
しおりを挟む翌日、相模道場には二人の来客があった。来客者は随分と久し振りに顔を見せた虎宗と大志朗。
ズバァンッ!
ダァンッ、ズバァンッ!
ドォンッ、ズダァンッ!
虎宗がサンドバッグを撲つ音と踏み込みの音だけが道場に響き渡っていた。
禮の父であり二人の師である攘之内[ジョーノウチ]は、道場の一番上座に胡座を掻いて座していた。大志朗は攘之内の隣に緊張して立っていた。
「相変わらず拳も蹴りもキレがある。久々にサンドバッグ叩いとるとは思えへん」
逞しい虎宗の背中を品定めするように眺め、攘之内は満足げにニッと笑った。
「せやけどトラにしちゃあ随分荒れとるな。何かあったかァ、シロ」
「最近、上手くいけへんコトが重なってしもて……少しイライラしとるだけです」
大志朗は攘之内のほうを振り返らずに応えた。攘之内は「そうか」とだけ返し、再び虎宗の生み出す音に耳を澄ました。
叩き込むリズムも息継ぎをするテンポも無茶苦茶な、ただがむしゃらに打ち鳴らされる乾いた旋律。これがマトモな稽古中ならば注意の一つもしようが、今この時攘之内はただ虎宗の好きにさせた。
どうしようもなくムシャクシャして、処理が追い付かないほどムシャクシャして、それでも自分一人でどうにかしようと懸命になって至った行為なら、それも構わない。寸分の狂いなく打ち出される拳は美しいが、荒々しく猛々しく棍棒を振り回すような拳もまた悪くない。
憤怒であれ鬱積であれ執心であれ、感情が宿った拳には引き込まれる。まるで岩塊と化した拳が衝突し、宿ったものが発散される刹那に生じる乱雑な旋律。それが攘之内には何処か心地よかった。
「お前等が寮に入って二年か。盆暮れ正月もよう帰ってこおへんかったくせに、突然二人揃って帰ってきたのは何でや」
攘之内は視線を虎宗へと固定したままで大志朗に尋ねた。大志朗は内心ギクッとしたが、それを表情に出さないように努める。
「連絡もせんと急にすんまへん。あかんかったですか……」
「否、あかんコトはあれへん。せやけど帰ってくるなりサンドバッグ叩きたい言うてあの荒れ様や。何かあったか思て当然やろ」
大志朗は、攘之内が自分のほうを見ていないのをよいことにソロリとその横顔を覗き見た。攘之内は変わらず、厳格で強面だが優しい眼差しをしていた。父親と同じくらいに親愛の情が湧く師範の横顔は幼い頃から少しも変わらず、この道場と共に時を止めてしまったかのよう。
「あ、あの、師範……俺とトラは……」
大志朗は険しい表情をしてグッと拳を握り、意を決して口を開いた。
「俺とトラは、ケンカする為にこの街に帰ってきたんです」
大志朗は一世一代の告白のように打ち明けたのに、攘之内は眉一つ動かさなかった。いつ攘之内から叱咤が飛んでくるかと思って大志朗は表情を硬くする。
しかしながら、攘之内から何も言葉が返ってこず逆に焦慮に駆られて大志朗は慌てて口を開いた。
「せやけど師範、俺等は自分の為やのォて……」
「オウ、シロォ」
攘之内は大志朗の言葉を遮り、顔を向けた。大志朗は攘之内と目が合い、口を半開きにして言葉を呑み込んだ。
「お前、俺に泣き言聞いてほしいんか?」
攘之内から突き付けられたその一言で、自身と虎宗を擁護する為に用意した言葉の数々が、大志朗の中でガラガラと音を立てて崩れていった。攘之内は言い訳をさせてくれるほど甘い人物ではなかった。
また、大志朗は泣き言を言うのかと問われて是と答えられるほど厚顔ではなかった。小綺麗な顔の眉間に皺を刻んでキュッと口を噤んだ。
「何ちゅう未練がましいツラしとんねん。お前等にどんな事情があるんか知らんが、腹ァ決めとるんとちゃうんかい。18の男言うたらもうガキちゃう。自分のことは自分で考えて自分で決めて動いてええ歳や。その代わり自分のケツは自分で持つ。俺はお前等をそんなことも分からん男に育てた覚えはないで」
面前の大志朗も八つ当たりのように拳を振り回している虎宗も、随分と追い詰められたような気迫を放つようになったと、攘之内は思った。いつの間にかこんなにも大人に近い表情をするようになった。恐らく、攘之内に言い聞かせられなくても本当は気付いている。いつまでも純真無垢な少年ではいられないことを。もう、何かを負うべき広い背中になったことを。
「俺やお前等がやっとることはな……武術や護身術や言うても結局は人殴る〝力〟や」
やや俯いていた大志朗が攘之内の表情を窺い見ると、少し微笑んでいた。
「その〝力〟をお前等に与えたんは俺や。俺はお前等を信頼して〝力〟を与えた。俺がお前等を信頼でける男に育てたんや。俺がやったそれを、お前等がどう使おうがお前等の自由や。お前等は間違った使い方をせえへんと、俺は信頼しとるさかいな」
大志朗にとって攘之内は武術を覚え始めた幼い頃から、体が大きくなった今でも、絶対的な師だ。この人に褒められたいと、期待されたいと、期待してくれたなら裏切りたくないと、尊敬を注いだ。そんな人に信頼されたなら誠心誠意応えたい。
「ハイ、師範……勿論です」
大志朗は目を瞑って攘之内に頭を下げた。
「それとな、シロ」
攘之内に呼ばれ、大志朗は頭を上げた。
「お前等まだ、何か信念みたあなモン持ってれば世の中キレエに割り切れると思うてるか知らんけどな、そうでもあれへんで。男には人生に一度や二度、納得いけへん理由で拳握らなあかんコトもある。それでも、〝力〟使うなら腹くくれ。何がどうなってもお前等の責任や」
一瞬、この人は何もかもを見通しているのではないかと、大志朗は真剣に千里眼を疑った。
「師範っ……」
大志朗が何かを言いかけた瞬間に、攘之内がスッと立ち上がった。
「オーイ、トラァ」
攘之内が声をかけると虎宗の動きがピタッと停止した。軽く肩を上下させながらゆっくりと振り返った。
「何やムシャクシャしとるみたいやな。折角帰ってきたんや、久々に俺と一本やろか」
「押忍、胸ぇお借りします」
§§§§§
虎宗と大志朗が道場を訪ねた同日。
禮は渋撥に連れられて初めてブラジレイロを訪れていた。
自分と友人たちだけでは決して足を踏み入れないようなレトロな喫茶店。それだけでも充分に非日常的な空間だったが、そこへ渋撥が連れてきてくれたということがまたさらに特別だった。渋撥が教えてくれること、連れて行ってくれるところ、見せてくれるもの、すべてが嬉しかった。少しずつ少しずつ重なり合う部分を増やしていきたくて。
禮がテーブルの上にファッション誌を広げて眺めていると、突然鶴榮がとあるページを指差した。
「禮ちゃんはこーゆーカッコせえへんの」
鶴榮が指し示しているのはミニスカートの女の子。禮は少々恥ずかしそうにはにかんだ。
「えー、だってウチ似合わへんし」
「そんなことあれへん。絶対似合うで。ワシ買うたるさかい着てくれへん?」
鶴榮がそう言った途端、バァンッと渋撥がテーブルを叩いた。
「何で鶴が禮の服買うねん」
「撥が買うたれへんからやろ。ワシは禮ちゃんにカワエエ服似合うと思うし着てほしい。撥はそーゆーこと思わへんのやろ、想像力ピューピューやから。カノジョのこと見たれへんカレシて嫌やなー、禮ちゃん?」
「お前なァ💢💢」
渋撥の眉間はピクッピクッと痙攣し、今にも噴火寸前。鶴榮は渋撥の反応など無視してまた雑誌に目を落とした。
「あ、コレもええやん。コレも着てくれへん? 今度ワシと一緒買いに行こ、撥抜きで」
「お前わざと言うてるやろ💢」
「鶴ちゃんミニスカ好きなん?」
「ミニスカ嫌いな男なんかいてへんで。生足サイコーや✨」
「なにシレッと人のオンナの生足拝もうとしてんねん💢 絶対コイツと一緒に行くなよ禮💢💢」
「イヤイヤイヤ、ワシが禮ちゃんに対してスケベ心なんか出すかいな。ワシのことスケベやと思うか? ワシのこと嫌いか? 禮ちゃん」
「ううん。鶴ちゃん好き」
渋撥はブンッと煙草の箱を投げ付けたが、鶴榮はヒョイと躱してカカカカと高笑い。
「あれー、禮ちゃんやん」
不意に名前を呼ばれ、禮は店の出入り口のほうを振り向いた。
「あ。勇ちゃん」
「……と、あれぇ? 荒菱館の近江サンと羽後サン~?」
備前は禮に親しげに手を振りながらも目線は完全に渋撥と鶴榮に固定されていた。逆に二人も備前をジッと見る。
「深淵の備前と禮ちゃんが知り合いぃ? お前知っとったんか」
「いや……」
狭い世界ではお互い名前が知れた者同士、渋撥・鶴榮と備前は顔見知り程度の既知ではある。しかしながら、年齢も学校も異なる禮と備前が親しげである理由は皆目見当がつかない。
備前は何を考えているのか笑顔を湛えたまま禮たちが座している一番奥のテーブルに近付いてきた。テーブルの前で足を止めると、渋撥と鶴榮の顔を交互に見る。
「禮ちゃん、何でこんな人相悪い兄ちゃん等ァと一緒におるん?」
禮が御嬢様学校・石楠女学院に通学しているというのは備前も知っている。それは攘之内の自慢の一つであり、何度も聞かされた覚えがあるからだ。そのような禮と悪名高き荒菱館高校の生徒である彼等の接点が見当たらないのは彼も同じだ。
「あー……それはえーと……」
禮が若干頬を赤らめて口籠もっていると、渋撥にガツッと肩を掴まれた。
「禮は俺のオンナや」
「ぶっ!」
備前は渋撥から顔を逸らして噴き出した。
「何がおもろいねん。舐めとんかコラ」
渋撥にギロッと睨まれ、備前は「すんまへん」と返したが顔は笑っている。
鶴榮はテーブルに頬杖を突き、煙草の煙をぷかーっと吐き出した。
「備前、お前一人で何してんねん。いっつも一緒の奴等はどうした?」
「俺かて一人でコーヒー飲みに来るときくらいあるんですわー」
渋撥に面白くなく思われていることに勘付かない備前ではない。渋撥に一睨みされたら常人ならばそそくさと目を逸らすところ、涼しい顔をしているのは流石だ。
「ハッちゃんと鶴ちゃんも勇ちゃんの友だち?」
禮に尋ねられたが渋撥は何も応えなかった。鶴榮も肩を竦めるだけで判然としない。禮は備前のほうへ顔を引き戻した。
「勇ちゃんもココ座る?」
「俺は向こうで」
そう言って備前は禮にだけヒラッと手を振り、カウンターのほうへ方向転換した。禮はスッとテーブルから離れ備前の後を追う。
「え~、せやかて折角なのに別々でええの?」
「えーの、えーの。一応デート中なんやろ。割り込んだら禮ちゃんのカレシが恐いよって」
鶴榮は頬杖をして禮と備前の遣り取りを観察中。二人揃って端整な顔立ちで似合いのカップルと言えなくもない。少なくとも強面仏頂面の大男である渋撥よりは数段似合っている。誰が見ても同様の評価であろう。
渋撥はテーブルの下で軽くコンと臑を蹴り飛ばされ、目だけを動かして鶴榮を見た。
「勇ちゃんやと。呼び方にしろ距離感にしろ随分親しげや。どんな知り合いか気になってしゃあないやろ、撥」
鶴榮は渋撥にしか届かない程度の声量で言った。それに対して渋撥は何も言わなかったが、ニヤリと笑ってさらに続けた。
「禮ちゃんみたいなカワエエ子、今までにカレシの一人や二人おっておかしないもんな。元カレやのォても禮ちゃん狙っとるヤツは常におるやろ。お前ガッコちゃうさかい周りにカレシ認定されてへんやろし、もしかして敵多いんちゃうか?」
「…………」
バキバキッ、と渋撥が無言で景気よく指の骨を鳴らし、鶴榮は「うん」と頷いた。
「うん、分かった。ワシが悪かったわ。何でも腕力で解決するのはやめよか」
結局備前は禮からの誘いを断り、同じテーブルを囲むことはなかった。テーブルに戻ってきた禮は、また鶴榮とファッション誌を眺めながら和気藹々楽しそう。その隙に渋撥は一人テーブルを離れ、カウンターへと移動した。
備前は自分以外には誰も客がいないカウンター席に腰かけて紫煙を燻らせていた。
ゴンッ。
突然椅子に衝撃を感じて振り返ると、無言で見下ろしてくる眉無しの三白眼とかち合った。渋撥の足は備前が座っているカウンターチェアの足置きにかかっている。成る程、先程の衝撃はこの足に蹴り飛ばされたのか。
「お前、禮と何の知り合いや」
備前は渋撥の三白眼を数秒間見詰め、そのあとクスッと笑みを漏らした。
「少なくとも近江サンよりは長い付き合いやと思いまっせ」
「あ?」
渋撥の眉間の皺が途端に深くなり、備前は笑顔のまま両手をスッと挙げた。
「まあまあ。そんなコワイ顔しはらへんと一服どうです?」
ギイッ、と渋撥は備前との間に一つ空席を挟み、カウンターチェアに座った。促された通りにするのは癪だが得たい答はまだ得られていないから已むなしだ。チェアに腰かけるなりポケットから煙草の箱とライターをカウンターの上に放り投げた。慣れた手付きで煙草を一本取り出し口に咥えて火を付けた。
渋撥は敢えて一席空けたのに、備前はカウンターに突っ伏すように前のめりになり渋撥のほうへ首を伸ばしてきた。
「いやー、あの近江サンと禮ちゃんが付き合うとるなんて驚きですわー。禮ちゃんて有名な御嬢様ガッコに通ってますやん? 俺等みたいなんがどうやってあんッな御嬢様ガッコと知り合うんでっか。とーくーに、《荒菱館の近江》サンみたあな人が」
「何か文句あるんか。さっさと訊かれたことに答えろや」
「俺と禮ちゃんの関係、でしたっけ。……何やと思います? まあまあ長い付き合いになるもんで一言では説明しにくいんですけど」
敵対勢力同士とはいえ備前はこの場で渋撥たちと争う気はない。故にニコニコと友好的なムードを演出しているのに、渋撥はそのようなことはお構いなしだ。敵意を隠すつもりもなくジロリと睨まれてしまった。
「はあ~、も~、おもんな。近江サンは羽後サンと違て冗談通じへん人でしたね」
備前は深い溜息を吐いてカウンターに頬杖を突いた。
「禮ちゃんの家が道場てことは知ってはりますよね、カレシなら」
引っ掛かる言い方だ。軽く挑発された気がするが渋撥はスルーすることにした。備前が底意地の悪い人間だとは分かっている。一々反応していては話が一向に進まない。
「実は俺の家も道場で、禮ちゃんちとは同門なんですわ」
備前は唇の煙草を指で挟んで灰皿の上に持って行き、親指で弾いて灰を落とした。
「親同士も顔見知りでお互い道場主のガキ同士、年も近いし話しやすいおトモダチ……幼馴染みってヤツですやろな。俺と禮ちゃんの関係はただそれだけ。近江サンに睨まれるよなことは何もありまへんがな」
(ンなモン分かるか。禮はほぼ天使やぞ。いつクラッときてもおかしないやろ)
渋撥が備前の発言程度で気を緩めるはずがなかった。作り笑いが得意で本音を見せない綺麗な顔をした男が、禮の傍にいるだけで甘受しがたい苛立ちが湧いてくる。
「せやけどあの相模師範がよう許しはりましたねぇ」
「相模師範?」
「禮ちゃんのパパでっせ」
備前はクックッと肩を揺らしながら二本の指に挟んでホールドしていた煙草を口に持って行く。
「相模師範は一人娘の禮ちゃんをそりゃあもう溺愛してはるっちゅうのは同門の間じゃあ有名な話ですねん。まあ、近江サンに限った話やのォて誰をカレシに連れてきてもあの師範ならそうそう許しはらへんと思いますケド」
「お前に関係あれへん」
渋撥に無碍に言い放たれても備前は煙草を唇に挟んで笑った。
「アッハハ。せやけど相模師範以外にも問題はあるか。ごっつ強力なライバルがいてますさかいな」
渋撥は目だけを動かして備前を見た。備前も渋撥を観察しながら細い顎をやや仰角にして煙を深く吸い込んだ。何も言わずとも「ライバル」と称された男に渋撥が興味を持ったことは目を見れば分かる。
「近江サン、虎宗クンって知ってはります?」
「タケムネクン?」
備前は灰皿の横に置いてある渋撥の煙草の箱を拾い上げ、くるっくるっと様々な角度から眺める。吸っている銘柄が違うとはいえ煙草の箱など見飽きるほどに見慣れている。これはただ勿体ぶる為の手遊びだ。
「禮ちゃんの兄貴」
「禮は一人っ子や。本人が言うとった」
「戸籍上は一人っ子でっせ。虎宗クンはガキの頃、相模師範に引き取られて禮ちゃんとは兄妹同然に育ったんですわ。相模師範の大のお気に入りで、禮ちゃんもよう懐いて、俺が見る限りいっつも禮ちゃんと一緒におって…………これは俺の勘やけど虎宗クン、多分禮ちゃんに惚れてまっせ」
備前はカウンターの上に頬杖を突いた体勢で、渋撥の煙草の箱を眺めていた。しかしながら、備前が真実見据えていたのは青い弓矢のイラストではなく、数年前に見たきりの虎宗の顔。昔からいつ見ても鉄面皮で、冗談の一つも言えないで、面白いことがあったとしてもクスリともしないくせに、禮にだけは妙に表情を緩める。
あれほど分かりやすいのに自覚していなかっただなんて稚拙すぎる。それを揶揄うほどにも助言するほどにも距離は近くはなかった。備前にとって虎宗は友だちでも幼馴染みでもない、ただただ自尊心を刺激する相手に過ぎなかった。
「相模師範が虎宗クンに道場継がせはるつもりやろうっちゅうのは道場連中の中では有名な話です。ちゅうコトは師範の中では、虎宗クンを禮ちゃんと結婚さして跡取りにするっちゅうコトで」
備前は横目で渋撥の顔色を確かめてみた。渋撥は意外にもまだ無表情で、驚愕した様子も落胆した様子も見せてくれない。
「近江サンの恋のライバルっちゅうヤツでんなー♪」
備前はあからさまに渋撥を焚き付ける。思い通りになるのは癪だが、渋撥は流石に不機嫌そうに煙草を灰皿に押し付けた。
「そんなモン禮がその気にならんかったら意味ないやろが。親にせえ言われて大人しく結婚するタマちゃうで、禮は」
渋撥はそう断言して備前の顔を見た。備前は渋撥から言い返されても余裕の表情でニッコリと微笑んだ。
「虎宗クンと昨日会うたんですって、禮ちゃん」
「あァ?」
「虎宗クンは高校から寮に入ったさかい禮ちゃんとは長いこと会うてへんかったみたいなんですわ。ちょっと見ん間に禮ちゃんどんどん可愛くなってるしー、久々に会うて勢い付いて告白くらいしたかも知れまへんなー?」
備前はまるで見てきたように話す。本当にすべて憶測の域なのか、察しがよいで済むレベルなのか、実はその目で見てきたのではないか、そのようなことを疑わせるくらいに饒舌に。
「禮ちゃんが虎宗クンに何て答えるか知りまへんケド……昨日から禮ちゃんにどっかおかしいトコとかありまへん?」
ばんっ。
渋撥は叩き潰すようにして煙草の箱をカウンターテーブルの上から取った。潰れかけた箱をシャツの胸ポケットに押し込んで椅子から立ち上がった。
「ヒマ潰しに人んトコ引っ掻き回そうとすな、ラクダマツゲ」
渋撥に威圧的に言われても備前は意に介さずクスッと笑った。その余裕綽々という表情が忌々しい。渋撥はチッと舌打ちし、禮と鶴榮がいるテーブルに足を向けた。
テーブル席に就いた渋撥の後頭部を見詰め、備前は悪巧みをしている悪女のような顔でクスリと笑みを零した。
(まさか禮ちゃんが《荒菱館の近江》と付き合うとるとはな。まったく想定してへんかったが、俺の予想通り虎宗くんが《キラー》なんやとしたらええ燃料になりそうや)
不意にカウンターの中から「備前君」と声をかけられた。声の主はこの店のマスターだ。常に寡黙なマスターから話しかけるとは珍しい。
備前はクルッと椅子を回転させてマスターのほうへ体を向けた。
「何や? マスター」
「今、何か意地悪なことを考えていたでしょう」
マスターは皿を拭きながら無表情でそう言った。
備前は「あははっ」と声を上げて笑ってしまった。考えていることが顔に出るほど夢中になっていたとは自分で思っている以上に現況や今後の展開を楽しんでいるらしい。
「あんまり意地が悪いと、友だちをなくしますよ」
「それは困ったもんや」
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