ベスティエン ――強面巨漢×美少女の〝美女と野獣〟な青春恋愛物語

花閂

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#04: The flawless guy

Unrequited love 01✤

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 麗らかな春の或る日。本日は新年度恒例の身体測定。新入生から最上級生まで全校生徒がジャージ姿で保健室、体育館、視聴覚室と、校舎内を闊歩する毎春の行事だ。

「身体測定なんてかったりぃよなァ?」

「そらまァ……普通は、なァ」

 脩一シューイチの意見に幸島コージマはすんなり同意した。
 ジャージを着用した二人は、保健室の正面の壁に寄り掛かって俯瞰気味にクラスメイトを眺めていた。
 普段の体育の授業ですら着替えるのが億劫でロクに出席もしないのに、一年B組の諸君は何故か一人の欠席者もなく保健室の前に集結。保健室で行われるのは内科検診。荒菱館コーリョーカン高校では圧倒的に女子生徒の数が少ないので先に女子生徒を検診し、次に男子生徒を検診するのが慣例だ。男子生徒である彼等が廊下で待機中ということは、中では女子生徒が検診中。つまり、レイが検診中なのである。

「コイツ等アホやな」

 大鰐は呆れ顔で言い放った。保健室のドアは鍵がかかっており、窓という窓にはカーテンで閉め切られている。それでもクラスメイトたちは人目も憚らずドアに張り付きわらわらと群がる。もしかしたらカーテンに僅かに隙間でも空いていて内部を覗き見できやしないかと期待してのことだろうか、そうまでするのは滑稽だ。

「お前は興味ねーの、大鰐オーワニ

 脩一に尋ねられた大鰐はハッと鼻で笑った。

「ダッサイ学ジャ姿のオンナ見て何が楽しいんや」

「知らねーの? 内科検診は女子はノーブラだぜ?」

「!」

「だから虎徹コテツ大樹タイジュも必死で扉に張り付いてんだよ」

 脩一は最前線で扉に張り付く二人を親指で指差した。
 大鰐は一瞬目をカッと見開いて明らかに耳はピクッと動いたが、暫くしてからフッと余裕を含んだ笑みを零した。

「別にそんなん見たいなんか……」

「ウソつけよ。今チラッと想像しただろ」

「してへん! あんな凶暴な女のノーブラなんかこれっぽっちも想像してへんッ」

(コイツ実は物凄く分かりやすいヤツなんじゃねーか?)

 脩一は大鰐からスッと顔を逸らし、自分の隣に立っている幸島のほうへ視線を移動した。

「お前は禮に興味ねーの?」

「興味あれへんわけちゃうで。せやけどなー……」

 幸島は眉間に皺を刻んで深い溜息を吐いた。脩一と大鰐は頭上に「?」を浮かべて不思議そうに幸島を見る。

「さっき職員室の前通ったとき身体測定の進行予定表見たんやけどな、俺等のクラスの次て三年B組やで」

「だから?」

「三年B組やったら何かマズイんか?」

 脩一と大鰐から聞き返され、幸島は廊下の先のほうへ視線を移した。脩一と大鰐も幸島の視線の先を辿り、そしてギクッとして肩を跳ね上げた。

「…………こりゃマズイわ💧」

 脩一の額から汗がタラリと流れ落ちた。


「いやぁ~、日頃からデカイデカイとは思てましたけど、まだ伸びてはるんですねぇ。何食べて生活してはるんですか」

 美作ミマサカ渋撥シブハツの記録カードを覗き込みながら並んで歩く。

「192なんかフツーの日本人がなかなかいくもんちゃいますもん。ガイジンの血ぃでも入ってはるんちゃいますか」

 渋撥は美作の質問など無視して無表情で廊下を突き進む。身体測定などという面倒臭い行事はサクサクと済ませてしまうに限ると考えているのだが、隣にいる金髪の男はよく喋る。
 美作は顔を上げて進行方向正面に目を向けて「あ」と声を漏らした。それにつられて渋撥もその方向を見ると、其処には保健室に群がる赤と黒のジャージの集団。


「お疲れ様です」

 渋撥と美作が保健室に近付くと、美作が声をかける前に殊勝にも彼等のほうから頭を垂れた。この学校でのヒエラルヒーをよく理解しているようだ。

「お前の後輩か、美作」

 渋撥に尋ねられ、美作は笑いながら手をパタパタと左右に振った。

「この子等ァ、禮ちゃんのクラスのコ等でっせ」

 渋撥は、何故恋人の自分すら把握していないことを既に把握しているのだ、と美作に対して疑問を抱きつつひとまず此処では追及しないことにした。幸島、脩一、大鰐の顔を順に見たが、一度はその手で殴り飛ばした大鰐の人相にさえピンと来ず微かに首を傾げただけ。悪意や嫌味でそうしたのではなく、彼は人相と名前を覚えるのが絶望的に不得手なのだ。

「近江さん、美作さん。俺は幸島言います。よろしくお願いします」

遠別エンベツ脩一シューイチでーす。ヨロシクお願いしゃーす」

「……大鰐オーワニタイラ……デス」

 折角自己紹介をしてくれたというのに、渋撥は「ああそう」の一言も無しに保健室のドアのほうへ目を移した。彼が他人への関心が稀薄なの事実だが、今は奇妙な光景の原因のほうが気になってしまうのは仕方があるまい。

「何の騒ぎなんコレ」

 美作は保健室を指差して幸島たちに尋ねた。
 幸島は気まずそうに渋撥から目を逸らした。渋撥と禮が徒ならぬ仲であることを既に推知している彼にとっては渋撥の前で口にしたくないことであるが、先輩からの質問を無視するわけにもゆかない。

「中に禮がいてます」

「禮ちゃん?」

 保健室で内科検診が行われるのは毎年のことだしそれがどういうものであるか熟知しているし、美作は直ぐにピンと来て「あぁ~」と複雑な声を漏らした。
 ピンと来なかった渋撥は何も言わないで保健室に群がる男子生徒の背中を眺めていたのに、大鰐が口を開いた。

「内科検診の時はノーブラやから、アホ共が盛り付いてあの様ですわ」

 美作が内心わざわざ言わなくてもいいのにと思い苦笑していると、渋撥がスッと動き出した。そのままズンズンと保健室のドアほうへ足を進め、何をする気かと美作が問い質す間もなく拳を振りかぶっていた。
 ガキィンッ!

「痛ェッ!」

「えっ? 何だ⁉」

 バキッ! ボドォッ!

「なっ……近江さん⁉」

「うぎゃーッ‼」

 ドアに群がっていた一年生は、最後尾から順に渋撥の鉄槌を喰らわされ、蜘蛛の子を散らすように慌てて逃げ惑う。その様は阿鼻叫喚。大勢いるから食らわされる拳骨は一発ずつでも、渋撥の拳はその一発が重たくて痛いのだ。そう、大の男でも逃げ出すほどに。

「あ~あ……」

 美作は何てことはないようにそう零しただけ。渋撥を止めようともしない。たかだか新入生の為などに巻き込まれるのは御免だ。

「ちょっ……御免なさいぃっ!」

 ついに最前線の虎徹と由仁も渋撥に掴まり、蒼い顔で謝ったが時既に遅し。
 バキャッドゴッ!
 彼等二人も渋撥に等しく一発ずつ拳を喰らわされ、泣く泣く脩一と幸島のほうへ逃げてきた。

「お前たちバッカじゃねーの。あははははっ」

 虎徹と由仁は、面白可笑しそうにしている脩一に詰め寄って胸倉を掴んだ。彼にとっては他人事ですから。

「オドレは! 気付いとんなら何で教えへんねん~っ!」

「それでも友だちかっ! 薄情者!」

 ガラッ。
 突然保健室のドアが開いた。
 ドアを開いた張本人、レイは驚いて目をパチクリさせる。保健室の扉を開けた途端、眼前には入室する時にはありもしなかった壁が聳え立っていたからだ。
 禮はすーっと視線を上方へ移動させた。知っている顔に行き着き「あ、ハッちゃん」と零した。

「ウチのクラスの次、ハッちゃんのクラスなん?」

 禮はやや首を傾げて渋撥に尋ねた。渋撥はそれに応えずジーッと禮を凝視する。この三白眼には禮がどのような恰好をしていても愛らしく映るのだが、本日は指が出るか出ないかという大きめのジャージがより一層愛らしさを際立たせている。

(俺の禮はジャージ姿でもカワエエ。セーラーのときと1ミリたりとも劣らずカワエエ。不動の可愛さ! 流石や、完璧や、何着てもいつ見ても可愛さしかあれへんやんけ。イヤ、今はそんなことやのォて)

 渋撥は頭の中の煩悩を振り払い、禮に向ける視線に少々力を入れた。端から見れば睨んでいるようにしか見えないが、禮はケロリとしていた。
 渋撥が「禮、お前な」と口を開くと、禮は大きな黒い目を向けて「なぁに?」と応えた。

「今ノーブラてほんまか」

 ピキンッ。
 禮の顔面が瞬時に凍り付いた。渋撥は変わらず無表情だが、美作は「やれやれ」という表情で額を押さえた。

「近江さん、そゆコトはこんなトコで訊かんほうが……」

 ドッボォッ!
 美作の制止も一刻遅く、渋撥の腹部に禮の拳がめり込んだ。

「ハッちゃんのアホ!」

 真っ赤な顔でそう言い残し、禮はその場から脱兎の如く駆け出した。
 あっという間に小さくなった背中を見ながら美作は「あ~あ」と零した。普段はおっとりしている禮がそのような突飛な行動をするくらいには相当に恥ずかしかったのだろうなと考えると、殴られた渋撥よりも禮のほうに同情してしまう。

「近江さんハラ大丈夫でっか。さっきのは近江さんのほうが悪いでっせ~。女のコに人前でノーブラか、はマズイでっしゃろ」

 鈍痛を堪えている渋撥は今は諌言など聞きたくもない。ブスッとして腹部をさする。

「ミゾオチ入った」

「お大事に💧」



   §§§§§


 身体測定は金曜日に行われたので二日後は日曜日。
 禮は高校進学に合わせ、この春から通学に便の良いマンションで一人暮らしを始めた。休日ということで、渋撥は禮のマンションを訪れていた。寧ろ可愛い彼女が一人暮らしをしている部屋を積極的に訪れない理由が無い。
 リビング中央には円形のカーペット、その上に一人用のテーブル、ソファを置き、そしてソファの正面にテレビを配置。ソファからテレビを鑑賞することを想定した完璧な配置だ。
 禮はリビングのソファの上にちょこんと座り、渋撥はソファを背凭れ代わりにしてカーペットの上に片膝を立てて座っていた。

「ハッちゃんが悪い」

 こう罵られるのはもう何度目だろうか。可愛い彼女はむくれながら同じ言葉を繰り返す。
 渋撥は黙ってテーブルの上のグラスに手を伸ばす。グラスを傾けてアイスコーヒーを口に含んだ。

「絶対絶対ハッちゃんが悪いもん」

 禮はソファの上から渋撥の後頭部に向かって言い聞かせるように言う。

「あんなみんないてるトコであんなこと訊くなんて、絶対ハッちゃんが悪い」

 渋撥は空になったグラスをテーブルの上に置き、首を回して禮のほうを振り返った。可愛い恋人から糾弾されるのはもう食傷気味だ。

「もう分かったて。ンな何遍も同じコト言うな」

 禮は口を尖らせて渋撥の顔をじぃっと見る。

「ほんまに反省してる?」

「しとるしとる」

 渋撥に軽くあしらわれ、禮は渋撥の頭にクッションを投げ付けた。ボスッと、クッションは渋撥の頭で一跳ねして床に落ちた。

「もう一回あんなことしたらウチほんまに怒るよ」

「禮もう怒っとるやんけ」

 渋撥はそう言うと億劫そうに立ち上がった。ソファの上、禮の隣にドサッと腰かけ、横目で禮を見た。

「ほんま反省したさかい機嫌治せ」

「う、うん……」

「で、何センチやった。少しはでこぅなってたか?」

「去年より1センチくらい伸びてた」

 急に禮の顔がぱああと明るくなった。これが意図的なら渋撥は顔に似合わずなかなかの策士だが、彼はそういった類の人間ではない。

「身長の話ちゃう」

「?」

「胸」

 今度は禮の顔がボッと真っ赤になった。

「な、なな、何で胸の話⁉」

「身体の、測定、したんやろ」

 渋撥は真顔を上半身ごと禮のほうに向けた。確かに身体測定はしたが何故そのようなことを改まって問い質すのか、禮の脳内は「?」でいっぱいだ。

「そやけど……え? 何で胸?」

「身体測定っちゅうたら胸も測るやろ」

「え? 今まではなかったけど、女子校以外ではそうなん?」

「ほかのガッコのことは知らん。せやけど荒菱館ではそうや」

「そうなん? 測らへんかったけど……? 保健室のセンセもそんなん言わはらへんかったし」

 チッ、と渋撥からは盛大な舌打ち。
 そのようなリアクションを取られても自分の所為ではないと思うのだが、と禮が釈然としない表情をしていると、突然ガッと両手首を掴まえられた。

「しゃーない。俺が確かめたる」

「はッ⁉」

 驚いている内にソファに押し倒され、手首を押さえ付けられ跨がられてしまった。

「えっちょまっ⁉ ナイナイナイ! そんなん無理! ヤッ、ほんまに触ってるやんっ! イヤ! ハッちゃんセクハラー!」

 禮はこの体勢からどうにか逃れられないかとバタバタと身動ぎする。しかしながら如何せん、上から抑え込む渋撥の力は体格に見合って強い。必死に抵抗している間に、禮はとあることに気付いてしまった。

「‼ ……ハッちゃん当たってる」

 何が、とは言わないがいつの間にやら下腹部辺りに硬い物が密着している。布越しでも分かる、自分の体温よりも少々熱を持ったそれの正体はいくら禮でも知っている。

「まー、嫌がられると余計にな」

 渋撥は平然と放言したが、禮にとっては恥ずかしくて顔を覆ってしまいたいくらいだ。しかしながら、両手首を抑え込まれているのでそれも叶わない。

「禮がカワイ過ぎるのがあかんねん。俺の我慢も限界や、思春期やねんから」

「この情況でカワイイとか言うてもダメ!」

 大きな体が覆い被さってくるから、窓から部屋に入ってくる陽光も照明も遮ってあれよあれよという間に視界が翳る。そうだ、急にぬっと暗くなるから今が昼時分だということを思い出させるのだ。

「今お昼やよっ。まだ外明るいやんっ」

「そんなモン関係ない」

「ヤダヤダヤダっ! ほんま嫌なんやって~!💦」

「そんなハッキリ嫌言うなや。傷付くやんけ」

「き、傷付いてる顔してへん!」

 渋撥は禮に指摘されて気付いたが、どうやら自分はいま頗る機嫌がよろしいらしい。自覚するとさらにクッと笑みが零れた。

「俺も大概正直者やな」

 ゾゾゾッ、と禮の背筋には悪寒のようなものが走った。渋撥の上機嫌に引き上がった口角を見て本能的に何かを察知したのかもしれない。

「あかん! 今日は絶対あかん!」

「何でや。あの日か?」

「ほんま怒るよ!💢」

「あぁ、スマンスマン。もう言わんさかい怒るな」

 渋撥は禮の抵抗を無視して首筋に顔を近付ける。首筋に渋撥の吐息を感じ、禮は全身をビクッと撥ねさせた。逃れられない危機感を察知すると生物が示す本能的な反射の一つだ。指先から爪先まで力を入れ、キュッと瞼を閉じた。

「今日〝トラちゃん〟来るさかいあかんの!」

 その名前を聞いた瞬間、渋撥の動きがピタッと停止した。

「…………何でや」

「お、お父はんのお遣い。家からお米持ってきてくれるん。昼過ぎには着く言うてたからもうすぐやよ……」

 渋撥の声のトーンだけで不快さが伝わってくるから、禮は焦って言い訳がましくなってしまった。
 フゥン、と渋撥は独り言のように零したかと思うと、禮の首筋に唇を押し付けた。肌に吸い付かれ、禮はつい「ヒッ」と上擦った声を漏らした。

「ハッちゃん、ヤメっ……!」

「嫌な名前出すさかい、余計やめられへんよになってしもたやんけ」

「ぇえっ⁉」

(米なんかでコロッとゴマカされよって、このお嬢育ちが💢 あのクサレメガネは口実作って禮の部屋に上がり込みたいだけに決もとるやろが)

 脳裏に近眼の坊主頭がちらつくだけで不愉快だが、禮の肌に触れていると思えばそれでも不快感は消え失せる。禮は何の障害にもならない抵抗を止めようとはしないけれど、渋撥はお構いなしに禮の首筋や鎖骨に口付けを何度も繰り返した。

「無駄やで禮。流石にお前の力じゃ192は返されへんやろ」

「は? 192って何?」

「何でもあれへん」

 禮は何の意味もないのに抵抗をやめようとはしない。渋撥にとってはその仕草が子どもの駄々のようで少し可笑しくなり、フッと笑みが零れた。
 ピンポーン。
 不意にチャイムが鳴り、禮の体がビクッと撥ねた。

「トラちゃん、かな……」

 禮の口からその名が出るだけでも不愉快。だから聞かないことにした。渋撥は禮の服のボタンを片手で器用に外していく。禮が「ダメダメ」と繰り返してもその手を停めなかった。

「ハッちゃんほんまどいて。トラちゃんかもしれへんから早よ出たげなっ……」

「外で待たしとけ」

「なに言うてんの! そんなんでけるわけないやんっ」

 渋撥は、何度も玄関でチャイムが鳴り響くのを頑なに無視し、禮の服のボタンを外し終わり、ついにレースの下着に守られた双丘に辿り着いた。下着の意匠を吟味する寸暇も惜しみ、色白の双丘に顔を埋めた。少しひんやりしたそれは、渋撥が期待した通りの形容しがたい柔らかさ。内部からトクトクトクと早鐘が聞こえてくるのがまた愛らしい。

「やめっ……! ハッちゃんほんまやめてぇて! ウチが出えへんでもトラちゃんはっ……」

 ぬっ。
 またもや不意に視界が翳り、禮は天井のほうへ目を向けた。その瞬間、顔からサーと血の気が引いた。
 ドゴォンッ!
 渋撥の後頭部に固くて重たい鉛玉のような衝撃が走った。
 渋撥に鉄鎚を喰らわせた男は、額に青筋をクッキリと浮かべ、顔の筋肉をヒクッヒクッと痙攣させ、その様はまるで米袋を肩に担いだ仁王。
 数秒後、渋撥は禮の胸から顔を上げてその男を睨み上げた。

「ジャリトラァッ💢 どうやって部屋の中に入っ――」

 ガッチャンッ!
 男は渋撥が言い終わるのを待たずに顔面に硬い物を投げ付けた。
 それから渋撥の問いかけは無視して禮のほうへ視線を移した。半ば呆気にとられていた禮と目が合うと、自分の鎖骨辺りをトントンと指で叩いて見せた。禮はその仕草でハッとして、渋撥に引き剥がされた服を慌てて引き上げた。

「禮ちゃん、米。どこ置く?」

 男の声は何事もなかったかのように、何も見なかったかのように、ひたすらに平静だった。
 禮は咄嗟には言葉が出てこず無言でキッチンのほうを指差した。
 物言う仁王像が米を抱えてキッチンのほうへ歩いていったあとで、渋撥は自分の投げ付けられた硬い物を拾い上げた。その正体を知り、ブスッとして禮に突き付けた。

「何でアイツが禮の部屋の合鍵持ってんねん」

「ウチがもし部屋いてへんかったらあかんから、今日トラちゃんに鍵持たしとくてお父はん言うてたもん。せやさかいあかん言うたのに、ハッちゃんのアホ」

 禮は渋撥の側頭部をぺしんっと叩いた。


 禮が親しみを持って「トラちゃん」と呼び、渋撥が忌々しげに「ジャリトラ」と呼ぶその男は、禮の父から託された米を届けるという目的を完遂してもいまだ渋撥の視界に居座り続けた。

 能登 虎宗[ノト タケムネ]――――
 渋撥に及ばないまでもがっちりとした体格の長身の男で、よく鍛え上げられた腕が半袖の下から覗いている。サッパリとした坊主頭で眼鏡をかけており、一見して真面目そうだが目付きが凛として鋭く、温和な人柄という印象は受けない。
 元々禮とは親類関係にあり、子どもの頃に両親を亡くして相模家に引き取られた。禮の父からの信頼は厚く、禮自身も幼い頃から寝食を共にしてきた彼を実の兄のように慕っている。

 禮は虎宗と渋撥に同じようにアイスコーヒーをグラスに注いで差し出したのだが、二人はそれには手を付けず、小さなテーブルを挟んで睨み合ったまま動かない。
 禮は居心地悪そうにソファの上で膝を抱えてグラスを口に運ぶ。

「米」

 渋撥のほうから口を開き、禮は目だけ動かして渋撥を見た。

「……届けたんなら早よ帰れや」

「折角禮ちゃんに飲み物出してもろたさかいな。飲まな帰られへん」

「せやったら早よ飲んで帰れ!」

 渋撥に咆えられ、虎宗はハッと鼻で笑った。

「さっさと俺追い返して続きやるつもりか。腕力に物言わして女ァ押し倒して恥ずかしくないんか、腐れ外道が」

「俺が、俺の女と、いつ、どこで、何発ヤろうが、オドレには関係ないやろが!💢 最中に出会したんなら気ぃ利かして回れ右せえや、瓶底メガネ」

「ハッちゃんっ」

 禮は頬を赤らめて非難の声を上げるが、渋撥は無視して虎宗と対峙し続ける。

「オドレのツラ見たらヤル気失せる。これ以上しょーもない説教なんか聞きたないんじゃ。とっとと帰れ、クッソ石頭」

「へぇ、もう治まったんかいな。年中発情期の節操なしかと思てたわ。動物よりは少しはマシみたいやな」

 ガシィッ!
 二人はほぼ同時に胸倉を掴み合い、拳を握って仇敵のように睨み合う。

「ダメっ!」

 禮の一喝で、二人の動きはピタッと停止した。

「ケンカするなら二人とも外に出て。部屋のなかで暴れるんやったらウチ怒るよっ」

 禮がソファの上から前のめりに声を張り上げると、二人はまだ睨み合いながらもお互いの胸倉から手を放し、元いた位置まで引き下がって大人しく胡座を掻いて座った。お互いに二人きりにしたら何をしでかすか分からないという疑心があるから、いま部屋から出ていくわけにはいかない。
 禮はひとまずホッと息を吐き、虎宗のほうへ顔を向けた。

「あ、あんね……トラちゃん」

 虎宗は視線を渋撥に固定したままで「何や、禮ちゃん」と返した。

「このこと……お父はんには、黙っといて……くれる?」

「…………。……うん」

 渋撥は盛大に「チィッ!」と舌打ちした。
 うん? うんだと? 大の男が可愛らしくもない。自分には何が何でも刃向かってくるくせに禮にだけは従順なところも心底忌々しい。
 虎宗は一度した約束は絶対に破らないし、自分の言葉を曲げない頑固者だから、禮は安心しきってほーっと胸を撫で下ろした。それから、肩の力も抜いて渋撥と虎宗の間に視線を行き来させる。

 ハッちゃんとトラちゃん、取り返しつかんくらい仲悪くなってしもたなぁ。
 性格とか価値観とか色々なものが究極的に噛み合わんのやろけど、この二人がこんなに仲悪なったのにはそれなりに事情があるからな~。
 出会い頭に決定的にねじれてしもたもんやから、いっちもさっちもいかんよになって今更どうにもでけへんのやけど…………。

 禮があまり深刻さもなくこれはどうしたものかと、否どうなるものでもないかと、半ば諦めて視線を宙に漂わせていると、虎宗から「禮ちゃん」と声をかけられた。

「禮ちゃん優しいさかい躊躇しとるんか知らんけど、こんなヤツ、手加減せんで本気で倒してええんやで」

 虎宗は渋撥をジリジリと睨みながらそう言った。禮は彼の言を直ぐさま「あはは」と笑い飛ばした。

「ん~~、無理やよ。ハッちゃん、ウチより全然強いし」

 虎宗は禮のほうへ目を移し、少々驚いたような顔をしていた。

「どうしたん?」

「イヤ、禮ちゃんがそんなこと言うようになるとはな」

 彼は冗談を言わないたちだから極めて本気で言ったのだ、禮に渋撥を斃せと。
 禮は渋撥よりも一回りも二回りも小さな躯をした、紛れもなく少女だ。しかしながら、自分よりも一回りも二回りも大柄な屈強な男を屈服させる可能性を秘めた少女なのだ。
 禮の父は武術道場を構えている。その父も、その前の父も、数世代前から続く武人の家系だ。禮も物心ついた頃より父から武術を教わり、ほかの門弟同様に自己の研鑽に励んだ。今では並大抵の男には引けを取らないまでの実力となった。否、一対一ならばその実力は道場筆頭に数えられるほどだ。
 そのような禮だからもう理解してしまっているのだ、自分では渋撥には敵わないと。
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