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#01: Before dawn
Before dawn 02
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近江と禮のふたりは、美作と鶴榮とはブラジレイロで別れふたりきりで帰路に就いた。
もう四月、草木が芽吹き花が咲く時節だが、夜にもなればまだまだ外の空気は冷たい。引き際を知らない冬がまだ少し余韻を残しているよう。日が暮れて気温が低くなり肌寒く、禮は鶴榮からプレゼントされた花束を両手で大事そうに抱えた。
「四月て、暗くなるのこんな早かったっけ」
禮は夜空を見上げて言った。
息が白くならない程度の肌寒さ。禮と近江以外に周囲に人通りはなく、時折強い風が吹き抜けているから寒いのかな。
「もう七時やからな」
声は後ろから飛んできた。
先行する禮と追随する近江は、連れ立っているというには少々距離を空けて歩いていた。端から見れば知り合いなのか無関係なのか判断がつかない程度の距離。対人関係をグラフにするならば、おそらく今の禮と近江との距離が知人と他人とを分別するギリギリの境界線。
話しかければ聞き取れるし返事もするが、ブラジレイロを出てからずっとその距離が埋まることはない。どちらかが故意にその距離を測ったわけではなく、お互いにその距離を無理に縮めようとはせず一進一退の同じリズムで歩く。その距離の合間を風が吹き抜けるから寒いのかな。
ジリッジリッカチッ。――近江は煙草に火を点けてライターをポケットに仕舞った。
ブラジレイロを出てから何本目かの煙草。ブラジレイロから歩いて此処まで来る間、近江はほとんど煙草を吸いっぱなしだった。
肺の中いっぱいに吸い込んだ煙草の煙をゆっくりと吐き出し、日没後の真っ黒い景色に白い煙がゆっくりと溶け込んでいく様を目を細めて眺める。白い煙が視界を覆って一旦は禮の姿を隠し、徐々に晴れてまた禮の背中が見えてくる。
禮の背中が隠れているその間は、近江は何も考えずに済む。考え事は好きではない、慣れてもいない。不慣れなことや思い通りにならないもどかしさが自分を苛立たせることは知っているから、なるべく何も考えたくなかった。
いつもとは何かが違うことには勘づいている。普段なら目を瞑ってでもできるシャツのボタンを掛け違ってしまった感じ。しかし、どこで掛け違えたのかは分からない。
(クソッ。イライラする……)
苛立って物に当たり散らかすなんて無様な場面を禮には見せたくないから、必死に脳内を切り替えようとしているのにそれ自体が思い通りにならず、苛々する。何も考えないようにしようと自分の脳内の回路を止めようとするのに、張り巡らされた回線を切ろうとするのに、制御が儘にならなくてますます苛々する。
訳の分からない苛立ちを解消したい、近江の思考は曖昧な沈黙を守るよりもそのような単純な目的を優先することにした。
近江は火を点けたばかりの煙草を地に捨てた。そしてグリグリと靴の裏で踏みつけた。
「禮」
近江に呼び止められ、禮はピタッと足を止めた。
「俺に言いたいこと、何かあるんちゃうか」
近江が捻り出した最大級優しい言葉だった。何処でボタンを掛け違えたかなんて分からないし、禮に勘づかれないようにスマートに掛け直す手段も思いつかない。元々何でも繊細にこなすのは苦手だ。
「あれへんよ」
その簡潔な答が本心であるか否か、近江は禮の表情を伺おうとしたが、すでに日が暮れてしまっている上に禮が少し俯いている所為で表情がよく窺えない。
いろいろなことに苛々する。陽が暮れてしまったことにも、この道に街灯が少ないことにも、鶴榮が贈った花束が禮の顔を見るのを邪魔することにも、禮の心情を透視することのできない自分自身にも。今このとき、神様の気紛れかただの偶然か、さまざまなものが自分を苛立たせるように作用している気がした。
「嘘吐け」
「ついてへん」
「ほんまのこと言うてるヤツはそんなビクビクせえへん」
「ビクビクなんかしてへんよ」
「せやったら何で俺から離れよんねん。こっち来いや」
「ウチが離れたんちゃうよ。ハッちゃんが離れてるんやん」
「ほなそっから動くな」
ジャリッ、と近江の靴が地面を踏み締める音。近江も禮も意識的に距離を空けていたわけではない。それなのに、禮は理由もないのに逃げ出したい気分だった。
ザッザッザッザッ。
足音が聞こえる。風の音も聞こえる。自分の心臓の音も、やたら大きく聞こえる。近江が大きな歩幅で一歩一歩近づいてくる度に、鼓動が大きくなった。目の前で足を止めた瞬間、禮の頭のなかにドクンッという大きな音が響いた。
「ホレ見てみい、ビクついとるやんけ」
近江の声が傍近くで聞こえ、禮は花束をギュウッと強く握り締めた。
「ウチは嘘なんか吐いてへんしビクビクもしてへんもん」
「情けない声出しとる。顔見してみぃ」
「…………」
禮からの返事はなく、それどころか俯いてますます花束の陰に顔を隠してしまった。近江はこのような些細な抵抗にも苛立ちを隠しきれず、ハァアーッ、と大きな溜息を吐いた。
「言うこときけや。苛々させんな」
自分の感情すらも御しきれない。自分の欲のためにしか動けない。だから彼には、苛立ってささくれ立つ自分の心を制御することはできない。
ばさんっ、と近江は禮が抱える花束を躊躇なく鷲掴みにして乱暴に引き剥がした。先ほどの煙草と同様に道端に投げ捨てた。
それから、呆気に取られて声も出ない禮の顔を、悪びれる様子もなくジッと正視した。
「ブス」
驚愕している禮の頭上に、近江は強烈な一言を浴びせた。
「何ちゅうツラしとんねん。お前今ごっつブサイクなカオしてんで」
「ご、ごめッ……」
面と向かって罵倒されたというのに、禮には瞬間的に怒りや反感など湧かなかった。距離が近くなった所為で近江の苛立ちがヒシヒシと伝わってきて、とにかく彼の機嫌を治さなければという心配で頭がいっぱいになった。
「アホか、なに謝ってんねん」
近江は禮の頭の上に手の平を置いてポンポンとゆっくりと撫でた。
堅くて粗野な大きな手で、ガラス細工にでも触れるかのようにできるだけそっと、できるだけ優しく禮の頭を撫でる。そんなはずは無いのだが、力加減を間違えたら崩れ落ちてしまいそうで、近江は慎重に触れる。
「言いたいこと言わんさかいそんなブサイクなツラになんねん。嘘吐いてまで我慢すんな。言いたいことあんなら、俺には言うてええねん」
低く響く声。大きな手の温度。落ち着いて刻まれるリズム。強引で気が短くて言葉が強くて、たまに痛い。それでも、めいいっぱいの優しさを与えてくれることも知っている。
「ごめんなさい……ッ」
禮は全身にぎゅうぎゅうに力を入れて声を絞り出した。
「せやさかい何で謝んねん」
近江は溜息を吐こうとして出かかった息をハッと飲みこんだ。禮の瞳から大粒の涙が零れ落ちたからだ。
近江が、禮の波打つ黒い瞳に気を取られた刹那に、涙は頬の上を滑れ落ちた。近江が受け止める暇もなく、禮の顎先から離れて直線的に落下して地面にぶつかって弾け、染みこんで消えた。
「ハッちゃんと同じガッコにしてごめんッ……なさい。ハッちゃん嫌がってんの知ってたのに……無視してごめんなさッ……」
「禮……」
「ほんまごめんなさい……ッ」
禮は次々と雫になる涙を制服の袖で拭いながら、思い浮かぶ限りの謝罪の言葉を並べた。涙は感情のかたまりだから、胸の内の熱い想いの形だから、自分ではとめられない。ごめんなさい、ごめんなさい、なんて子どもの駄々のように同じ言葉を繰り返すしかできない。
「もうハッちゃんが嫌がることせえへんからッ……嫌いにならんといて……ッ」
何でもよいから少しでも同じものが欲しくて、同じであるというだけで繋がっている気がする。それが錯覚だとか思いこみだとか自分でも分かっていても〝同じ〟であるということに意味を感じずにはいられない。
しかし〝同じ〟が自分にとっては誇りであっても相手にとっては重荷なのかもしれない。〝同じ〟を求める自分は相手にとっては疎ましいのかもしれない。自分の求めるものが相手の重荷であったら哀しい。自分に必要不可欠なものが相手にとっては不要で邪魔なものだったら哀しい。
哀しくて不安で、涙は堰を切ったように溢れ出てくる。これが破裂してしまうってことなのかもしれない。心が破裂して、心は真っ赤な血を噴き出す代わりに熱い涙を流すのだ。
「――――泣くな」
近江は禮から顔を逸らして険しい表情をしていた。顔を逸らしても、かなりの身長差があるから禮の視点からは近江の表情が見えた。
「何で泣くねん。禮は何が気に入れへんねん。言いたいこと言えとは言うたけど泣けとは言うてへんやろが」
近江は心底不機嫌そうな、面倒臭そうな顔をしていた。
そんな顔をされるくらいなら何も言わないほうがよい。黙っていればそれで済む。そんな顔をされるだけで心はギシッギシッと軋む。軋んで歪んで罅割れて、弾けてバラバラ砕け散る。真っ赤な血の代わりに熱い液体を流して。
「なッ、泣いて……しもて、ごめんなさい……」
禮は俯いて必死に制服の袖で目を擦った。
これ以上近江の機嫌を損ねるのが恐くて、面倒臭いと思われて嫌われるのが何より恐くて。しかし、気が焦るばかりで涙は一向に止まる気配がなかった。禮の意思で泣いたわけではないから、禮の意思で止めることもできない。
「クソッ……」
近江は近江で、禮の涙をとめてやれる満足のいく手段を思いつかない自分自身が腹立たしかった。
「お前、今まで俺の何見てきたんや」
ガツッ、と突然近江に肩を掴まれ、禮は肩をビクッと跳ねさせた。
「俺が……禮を嫌いになるはずあれへんやろ」
水面のような黒い瞳は微動し、また一筋涙が流れ落ちた。
近江は両手で禮の頬を包みこんで顔を上げさせ、自分のほうを向かせた。
「俺ァどっからどう見ても禮に惚れとるやんけ。禮しか見てへんやんけ。禮を嫌いになるなんか有り得へん」
禮の目はポロポロポロと落涙した。近江は睨むような険しい表情をしてその涙を拭ってやった。
「禮はなんぼ言うたら泣き止むんや」
禮の涙が疎ましくて泣くなと言ったわけではない。禮の涙が見苦しくて泣き止めと言ったわけではない。恋のために流される涙は、目を背けたくなるほど痛々しくて儚くて脆弱で、哀しくなるほど美しい。美しいものにはただ、希い縋るのだ。
「頼むわ……もう泣かんといてくれ」
近江は、禮の唇の上に覆い被さるように自分の唇を重ねた。
呼吸を呑みこみ、ゆっくりと目を閉じる。重なった上下の睫毛に涙が振り落とされる。真っ暗な視界で頬の上を涙が走る感触を抱き、間近に自分以外の息遣いを感じる。
今この時はふたりの間に距離はなかった。引き離されたくない。一秒でも長くこのままでいて。手を伸ばして彼の服を掴み、震える指先で懸命に縋りつく。いつまでもずっと絶対的に唯一、わたしのことを好きでいてと強要なんかできないから、縋りついてでもこの時を引き延ばしたい。
無様だね。自分でも情けなくなるくらい全身全霊であなたが好き。
§§§§§
「好き……」
「ハッちゃん……好きぃ」
「好きやよ……っ」
何度口にしたか分からない。数え切れない。覚えていない。不安にならない為に何度も交わす約束の言葉。
「俺もや」
その返事だけで幸せ。その返事が欲しくて堪らない。その返事を聞けば呼吸が止まる。
真っ暗な部屋の中、横たえられたシーツが冷たくてゾクッとした。反射的にあなたに手を伸ばし、あなたはわたしの手を捕まえて、手の平にキスをしてくれた。それから、わたしの腕を柔らかく捕まえ、自分の首の後ろへと回させる。
あなたはわたしの首筋に口づけた。
「っ……」
声は出さなかったけれど、シーツの感触なんかよりもっとずっとゾクゾクする。ヴァンパイアが牙を立てて生き血を啜るように、首筋に長くゆるく吸いつかれる。
愛しくて愛しくて、眼下に横たわるひとりの少女が愛しくて、唇でも指先でも視線でも何でもいいから触れていたい。
引き離されたくない。ずっと一緒にいたい。繋がっていたい。ひとりでそのようなことを考えているのか不安になるのだ。本当はふたりとも同じことを考えているのに。
肉体が欲しいのか真心が欲しいのかと天秤にかけたら、前者を否定はしない。欲しくて堪らない。多分両方欲しい。すべてが欲しい。
――貪欲なのだ。お前のためにいくらでも欲張りになる。俺のすべてをくれてやるから、お前のすべてを俺にくれ。
今夜はやたら静かだ。窓外から自動車や通行人の騒音が聞こえてくることもなく、静謐が部屋を満たす。
そのような暗闇のなかで、ふたりを照らすのは心許ない豆電球がたったひとつ。薄明かりに晒され、暗闇に浮かび上がる白い躰。膝を割って組み敷いて、白い柔肌に爪を立てて逃がさぬように捕まえて、震える瞳を我が物顔で俯瞰する。
ギシッ。
スプリングの軋みは恐怖が忍び寄る音だ。寒気がする。
大きな身体に隠されて微かな光も当たらなくなり、ふっと視界が暗くなったと思ったら、不意に腰元に手が触れてギクッとした。経験など無いくせに本能的に予感がして勝手に身体がきゅっと縮まり、瞬く間に熱が引いてゆく。
「い、痛い……?」
「多分な」
心細げな問いかけはフッと微笑で返された。
あなたの手が胸に触れ、首筋に触れ、頬に触れ、滑るように撫でられると少し不安が和らいだ。ずっと触れていてって、もっとくっついていてって、わたしをひとりにしないでって、心のなかでひたすらに願う。
指を絡めて口づけをする。あなたの唇は温かく、額や胸には汗が浮く。あなたはまたわたしの腕を自分の肩に回し、身体をもっとくっつけてくれる。隙間を潰して密着する肌と肌。今、この薄暗がりのなかでシーツよりも酸素よりも何よりも、あなたが一番近くにいる。
「ッあ……!」
息を殺して愛に耐える。あなたが貫く痛みすら愛しいよ。
ガリッ。
生まれて初めての激痛に、あなたの肌に爪を立てた。
猛烈な圧迫感と異物感と引き裂かれる痛覚と脳が上げる悲鳴と、熱い体温と途切れ途切れの吐息と滑る躰と、狂おしい愛おしさ。吐き出したくなるような悲鳴も押し退けて、ただただ愛おしいってことの本当の意味を噛み殺す。
こんなにも狭い空間で、ふたりだけしかいない空間で、いろいろなものが渦巻いている。
「やっぱ……痛いか」
声を出せないから、瞳に涙を溜めて必死に何度もコクコクと頷いた。
「……悪いなァ。もうちょお我慢せえよ」
あなたはわたしの額を撫で、ベッドに肘をついてゆっくりとわたしに覆い被さった。
あなたが微かに動く度、わたしはあなたに刺し殺されてしまいそうだけれど、必死に声を殺す。あなたが好きだから、どうしようもなく好きだから、声を殺す。泣きながら、声を殺す。
鼓動が伝わってきて吐息が吹きかかる距離にいる。付かず離れず何かの拍子で唇が掠める度、死にそうになりながらも、あなたが近くにいるのだと安堵する。
しがみついていていいですか。もっと強く、もっと強く。わたしにはそんなことしかできない。
あなたに振り落とされないように、あなたに置いていかれないように、あなたとつながっていられるように、あなたにしがみついていたい。
もう四月、草木が芽吹き花が咲く時節だが、夜にもなればまだまだ外の空気は冷たい。引き際を知らない冬がまだ少し余韻を残しているよう。日が暮れて気温が低くなり肌寒く、禮は鶴榮からプレゼントされた花束を両手で大事そうに抱えた。
「四月て、暗くなるのこんな早かったっけ」
禮は夜空を見上げて言った。
息が白くならない程度の肌寒さ。禮と近江以外に周囲に人通りはなく、時折強い風が吹き抜けているから寒いのかな。
「もう七時やからな」
声は後ろから飛んできた。
先行する禮と追随する近江は、連れ立っているというには少々距離を空けて歩いていた。端から見れば知り合いなのか無関係なのか判断がつかない程度の距離。対人関係をグラフにするならば、おそらく今の禮と近江との距離が知人と他人とを分別するギリギリの境界線。
話しかければ聞き取れるし返事もするが、ブラジレイロを出てからずっとその距離が埋まることはない。どちらかが故意にその距離を測ったわけではなく、お互いにその距離を無理に縮めようとはせず一進一退の同じリズムで歩く。その距離の合間を風が吹き抜けるから寒いのかな。
ジリッジリッカチッ。――近江は煙草に火を点けてライターをポケットに仕舞った。
ブラジレイロを出てから何本目かの煙草。ブラジレイロから歩いて此処まで来る間、近江はほとんど煙草を吸いっぱなしだった。
肺の中いっぱいに吸い込んだ煙草の煙をゆっくりと吐き出し、日没後の真っ黒い景色に白い煙がゆっくりと溶け込んでいく様を目を細めて眺める。白い煙が視界を覆って一旦は禮の姿を隠し、徐々に晴れてまた禮の背中が見えてくる。
禮の背中が隠れているその間は、近江は何も考えずに済む。考え事は好きではない、慣れてもいない。不慣れなことや思い通りにならないもどかしさが自分を苛立たせることは知っているから、なるべく何も考えたくなかった。
いつもとは何かが違うことには勘づいている。普段なら目を瞑ってでもできるシャツのボタンを掛け違ってしまった感じ。しかし、どこで掛け違えたのかは分からない。
(クソッ。イライラする……)
苛立って物に当たり散らかすなんて無様な場面を禮には見せたくないから、必死に脳内を切り替えようとしているのにそれ自体が思い通りにならず、苛々する。何も考えないようにしようと自分の脳内の回路を止めようとするのに、張り巡らされた回線を切ろうとするのに、制御が儘にならなくてますます苛々する。
訳の分からない苛立ちを解消したい、近江の思考は曖昧な沈黙を守るよりもそのような単純な目的を優先することにした。
近江は火を点けたばかりの煙草を地に捨てた。そしてグリグリと靴の裏で踏みつけた。
「禮」
近江に呼び止められ、禮はピタッと足を止めた。
「俺に言いたいこと、何かあるんちゃうか」
近江が捻り出した最大級優しい言葉だった。何処でボタンを掛け違えたかなんて分からないし、禮に勘づかれないようにスマートに掛け直す手段も思いつかない。元々何でも繊細にこなすのは苦手だ。
「あれへんよ」
その簡潔な答が本心であるか否か、近江は禮の表情を伺おうとしたが、すでに日が暮れてしまっている上に禮が少し俯いている所為で表情がよく窺えない。
いろいろなことに苛々する。陽が暮れてしまったことにも、この道に街灯が少ないことにも、鶴榮が贈った花束が禮の顔を見るのを邪魔することにも、禮の心情を透視することのできない自分自身にも。今このとき、神様の気紛れかただの偶然か、さまざまなものが自分を苛立たせるように作用している気がした。
「嘘吐け」
「ついてへん」
「ほんまのこと言うてるヤツはそんなビクビクせえへん」
「ビクビクなんかしてへんよ」
「せやったら何で俺から離れよんねん。こっち来いや」
「ウチが離れたんちゃうよ。ハッちゃんが離れてるんやん」
「ほなそっから動くな」
ジャリッ、と近江の靴が地面を踏み締める音。近江も禮も意識的に距離を空けていたわけではない。それなのに、禮は理由もないのに逃げ出したい気分だった。
ザッザッザッザッ。
足音が聞こえる。風の音も聞こえる。自分の心臓の音も、やたら大きく聞こえる。近江が大きな歩幅で一歩一歩近づいてくる度に、鼓動が大きくなった。目の前で足を止めた瞬間、禮の頭のなかにドクンッという大きな音が響いた。
「ホレ見てみい、ビクついとるやんけ」
近江の声が傍近くで聞こえ、禮は花束をギュウッと強く握り締めた。
「ウチは嘘なんか吐いてへんしビクビクもしてへんもん」
「情けない声出しとる。顔見してみぃ」
「…………」
禮からの返事はなく、それどころか俯いてますます花束の陰に顔を隠してしまった。近江はこのような些細な抵抗にも苛立ちを隠しきれず、ハァアーッ、と大きな溜息を吐いた。
「言うこときけや。苛々させんな」
自分の感情すらも御しきれない。自分の欲のためにしか動けない。だから彼には、苛立ってささくれ立つ自分の心を制御することはできない。
ばさんっ、と近江は禮が抱える花束を躊躇なく鷲掴みにして乱暴に引き剥がした。先ほどの煙草と同様に道端に投げ捨てた。
それから、呆気に取られて声も出ない禮の顔を、悪びれる様子もなくジッと正視した。
「ブス」
驚愕している禮の頭上に、近江は強烈な一言を浴びせた。
「何ちゅうツラしとんねん。お前今ごっつブサイクなカオしてんで」
「ご、ごめッ……」
面と向かって罵倒されたというのに、禮には瞬間的に怒りや反感など湧かなかった。距離が近くなった所為で近江の苛立ちがヒシヒシと伝わってきて、とにかく彼の機嫌を治さなければという心配で頭がいっぱいになった。
「アホか、なに謝ってんねん」
近江は禮の頭の上に手の平を置いてポンポンとゆっくりと撫でた。
堅くて粗野な大きな手で、ガラス細工にでも触れるかのようにできるだけそっと、できるだけ優しく禮の頭を撫でる。そんなはずは無いのだが、力加減を間違えたら崩れ落ちてしまいそうで、近江は慎重に触れる。
「言いたいこと言わんさかいそんなブサイクなツラになんねん。嘘吐いてまで我慢すんな。言いたいことあんなら、俺には言うてええねん」
低く響く声。大きな手の温度。落ち着いて刻まれるリズム。強引で気が短くて言葉が強くて、たまに痛い。それでも、めいいっぱいの優しさを与えてくれることも知っている。
「ごめんなさい……ッ」
禮は全身にぎゅうぎゅうに力を入れて声を絞り出した。
「せやさかい何で謝んねん」
近江は溜息を吐こうとして出かかった息をハッと飲みこんだ。禮の瞳から大粒の涙が零れ落ちたからだ。
近江が、禮の波打つ黒い瞳に気を取られた刹那に、涙は頬の上を滑れ落ちた。近江が受け止める暇もなく、禮の顎先から離れて直線的に落下して地面にぶつかって弾け、染みこんで消えた。
「ハッちゃんと同じガッコにしてごめんッ……なさい。ハッちゃん嫌がってんの知ってたのに……無視してごめんなさッ……」
「禮……」
「ほんまごめんなさい……ッ」
禮は次々と雫になる涙を制服の袖で拭いながら、思い浮かぶ限りの謝罪の言葉を並べた。涙は感情のかたまりだから、胸の内の熱い想いの形だから、自分ではとめられない。ごめんなさい、ごめんなさい、なんて子どもの駄々のように同じ言葉を繰り返すしかできない。
「もうハッちゃんが嫌がることせえへんからッ……嫌いにならんといて……ッ」
何でもよいから少しでも同じものが欲しくて、同じであるというだけで繋がっている気がする。それが錯覚だとか思いこみだとか自分でも分かっていても〝同じ〟であるということに意味を感じずにはいられない。
しかし〝同じ〟が自分にとっては誇りであっても相手にとっては重荷なのかもしれない。〝同じ〟を求める自分は相手にとっては疎ましいのかもしれない。自分の求めるものが相手の重荷であったら哀しい。自分に必要不可欠なものが相手にとっては不要で邪魔なものだったら哀しい。
哀しくて不安で、涙は堰を切ったように溢れ出てくる。これが破裂してしまうってことなのかもしれない。心が破裂して、心は真っ赤な血を噴き出す代わりに熱い涙を流すのだ。
「――――泣くな」
近江は禮から顔を逸らして険しい表情をしていた。顔を逸らしても、かなりの身長差があるから禮の視点からは近江の表情が見えた。
「何で泣くねん。禮は何が気に入れへんねん。言いたいこと言えとは言うたけど泣けとは言うてへんやろが」
近江は心底不機嫌そうな、面倒臭そうな顔をしていた。
そんな顔をされるくらいなら何も言わないほうがよい。黙っていればそれで済む。そんな顔をされるだけで心はギシッギシッと軋む。軋んで歪んで罅割れて、弾けてバラバラ砕け散る。真っ赤な血の代わりに熱い液体を流して。
「なッ、泣いて……しもて、ごめんなさい……」
禮は俯いて必死に制服の袖で目を擦った。
これ以上近江の機嫌を損ねるのが恐くて、面倒臭いと思われて嫌われるのが何より恐くて。しかし、気が焦るばかりで涙は一向に止まる気配がなかった。禮の意思で泣いたわけではないから、禮の意思で止めることもできない。
「クソッ……」
近江は近江で、禮の涙をとめてやれる満足のいく手段を思いつかない自分自身が腹立たしかった。
「お前、今まで俺の何見てきたんや」
ガツッ、と突然近江に肩を掴まれ、禮は肩をビクッと跳ねさせた。
「俺が……禮を嫌いになるはずあれへんやろ」
水面のような黒い瞳は微動し、また一筋涙が流れ落ちた。
近江は両手で禮の頬を包みこんで顔を上げさせ、自分のほうを向かせた。
「俺ァどっからどう見ても禮に惚れとるやんけ。禮しか見てへんやんけ。禮を嫌いになるなんか有り得へん」
禮の目はポロポロポロと落涙した。近江は睨むような険しい表情をしてその涙を拭ってやった。
「禮はなんぼ言うたら泣き止むんや」
禮の涙が疎ましくて泣くなと言ったわけではない。禮の涙が見苦しくて泣き止めと言ったわけではない。恋のために流される涙は、目を背けたくなるほど痛々しくて儚くて脆弱で、哀しくなるほど美しい。美しいものにはただ、希い縋るのだ。
「頼むわ……もう泣かんといてくれ」
近江は、禮の唇の上に覆い被さるように自分の唇を重ねた。
呼吸を呑みこみ、ゆっくりと目を閉じる。重なった上下の睫毛に涙が振り落とされる。真っ暗な視界で頬の上を涙が走る感触を抱き、間近に自分以外の息遣いを感じる。
今この時はふたりの間に距離はなかった。引き離されたくない。一秒でも長くこのままでいて。手を伸ばして彼の服を掴み、震える指先で懸命に縋りつく。いつまでもずっと絶対的に唯一、わたしのことを好きでいてと強要なんかできないから、縋りついてでもこの時を引き延ばしたい。
無様だね。自分でも情けなくなるくらい全身全霊であなたが好き。
§§§§§
「好き……」
「ハッちゃん……好きぃ」
「好きやよ……っ」
何度口にしたか分からない。数え切れない。覚えていない。不安にならない為に何度も交わす約束の言葉。
「俺もや」
その返事だけで幸せ。その返事が欲しくて堪らない。その返事を聞けば呼吸が止まる。
真っ暗な部屋の中、横たえられたシーツが冷たくてゾクッとした。反射的にあなたに手を伸ばし、あなたはわたしの手を捕まえて、手の平にキスをしてくれた。それから、わたしの腕を柔らかく捕まえ、自分の首の後ろへと回させる。
あなたはわたしの首筋に口づけた。
「っ……」
声は出さなかったけれど、シーツの感触なんかよりもっとずっとゾクゾクする。ヴァンパイアが牙を立てて生き血を啜るように、首筋に長くゆるく吸いつかれる。
愛しくて愛しくて、眼下に横たわるひとりの少女が愛しくて、唇でも指先でも視線でも何でもいいから触れていたい。
引き離されたくない。ずっと一緒にいたい。繋がっていたい。ひとりでそのようなことを考えているのか不安になるのだ。本当はふたりとも同じことを考えているのに。
肉体が欲しいのか真心が欲しいのかと天秤にかけたら、前者を否定はしない。欲しくて堪らない。多分両方欲しい。すべてが欲しい。
――貪欲なのだ。お前のためにいくらでも欲張りになる。俺のすべてをくれてやるから、お前のすべてを俺にくれ。
今夜はやたら静かだ。窓外から自動車や通行人の騒音が聞こえてくることもなく、静謐が部屋を満たす。
そのような暗闇のなかで、ふたりを照らすのは心許ない豆電球がたったひとつ。薄明かりに晒され、暗闇に浮かび上がる白い躰。膝を割って組み敷いて、白い柔肌に爪を立てて逃がさぬように捕まえて、震える瞳を我が物顔で俯瞰する。
ギシッ。
スプリングの軋みは恐怖が忍び寄る音だ。寒気がする。
大きな身体に隠されて微かな光も当たらなくなり、ふっと視界が暗くなったと思ったら、不意に腰元に手が触れてギクッとした。経験など無いくせに本能的に予感がして勝手に身体がきゅっと縮まり、瞬く間に熱が引いてゆく。
「い、痛い……?」
「多分な」
心細げな問いかけはフッと微笑で返された。
あなたの手が胸に触れ、首筋に触れ、頬に触れ、滑るように撫でられると少し不安が和らいだ。ずっと触れていてって、もっとくっついていてって、わたしをひとりにしないでって、心のなかでひたすらに願う。
指を絡めて口づけをする。あなたの唇は温かく、額や胸には汗が浮く。あなたはまたわたしの腕を自分の肩に回し、身体をもっとくっつけてくれる。隙間を潰して密着する肌と肌。今、この薄暗がりのなかでシーツよりも酸素よりも何よりも、あなたが一番近くにいる。
「ッあ……!」
息を殺して愛に耐える。あなたが貫く痛みすら愛しいよ。
ガリッ。
生まれて初めての激痛に、あなたの肌に爪を立てた。
猛烈な圧迫感と異物感と引き裂かれる痛覚と脳が上げる悲鳴と、熱い体温と途切れ途切れの吐息と滑る躰と、狂おしい愛おしさ。吐き出したくなるような悲鳴も押し退けて、ただただ愛おしいってことの本当の意味を噛み殺す。
こんなにも狭い空間で、ふたりだけしかいない空間で、いろいろなものが渦巻いている。
「やっぱ……痛いか」
声を出せないから、瞳に涙を溜めて必死に何度もコクコクと頷いた。
「……悪いなァ。もうちょお我慢せえよ」
あなたはわたしの額を撫で、ベッドに肘をついてゆっくりとわたしに覆い被さった。
あなたが微かに動く度、わたしはあなたに刺し殺されてしまいそうだけれど、必死に声を殺す。あなたが好きだから、どうしようもなく好きだから、声を殺す。泣きながら、声を殺す。
鼓動が伝わってきて吐息が吹きかかる距離にいる。付かず離れず何かの拍子で唇が掠める度、死にそうになりながらも、あなたが近くにいるのだと安堵する。
しがみついていていいですか。もっと強く、もっと強く。わたしにはそんなことしかできない。
あなたに振り落とされないように、あなたに置いていかれないように、あなたとつながっていられるように、あなたにしがみついていたい。
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鐵のような両腕を持ち、鋼のような無慈悲さで、鬼と怖れられ獣と罵られ、己のサガを自覚しながらも
恋して焦がれて、愛さずにはいられない。
後悔と快感の中で
なつき
エッセイ・ノンフィクション
後悔してる私
快感に溺れてしまってる私
なつきの体験談かも知れないです
もしもあの人達がこれを読んだらどうしよう
もっと後悔して
もっと溺れてしまうかも
※感想を聞かせてもらえたらうれしいです
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ベスティエンⅡ【改訂版】
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人間の女に恋をしたモンスターのお話が
ハッピーエンドだったことはない。
鐵のような両腕を持ち
鋼のような無慈悲さで
鬼と怖れられ
獣と罵られ
己の性を自覚しながらも
恋して焦がれて
愛さずにはいられない。
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