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Kapitel 08
平癒の遊行 03
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瑠璃瑛学園都市・ホテル。
ミズガルズにやって来た翌日。
コンコン。コンコン。
ビシュラはホテルの一室のドアをノックした。室内にはヴァルトラムがいるはずだ。彼等は、天尊の滞在先であるアキラの自宅からあまり遠くはないホテルに、二つ部屋を取った。
今日はアキラから街中を案内してもらう約束だ。ビシュラは早々に自身の支度を完璧に整え、待ち合わせの時間に間に合うように少し余裕を持ってヴァルトラムを迎えにやって来た。
ガチャリ、とドアノブのレバーが下がり、ドアが開いた。
白いシャツにスラックス姿のヴァルトラムが立っていた。ビシュラは「歩兵長、おはようございます」と挨拶をしたが、ヴァルトラムは何も言わず部屋の奥へ引き返していった。ビシュラもヴァルトラムのあとに続いた。
ビシュラは部屋の奥へ進み、明るさに一瞬目がしばしばした。
ヴァルトラムの部屋は高層階、ビシュラの部屋は低層階。高層階は窓外に遮るものがないから、カーテンが開け放たれた大窓からの日当たりが素晴らしい。
これが階級差ですね、エインヘリヤル世知辛い。
ヴァルトラムは部屋のほぼ中央の、一人がけのソファにどさっと腰を落とした。随分とゆったりとしているが、どう見ても外出の準備は完了していない。シャツのボタンは中途半端だし、ネクタイもしていない。
「まだ御支度の途中でしたか」
ヴァルトラムは見れば分かるだろうとでも言うように顎を左右に揺すった。
「朝食は摂られましたか、歩兵長」
「いいや」
「では明日からは朝食時にお声がけいたします。今からでも急げば軽食を摂る時間くらいはあるかと思います。召し上がりますか?」
「要らねェ」
「とはいえあまりゆっくりもできません。ティエンゾンさまとの約束のお時間に遅れてしまいます」
ビシュラは部屋に備え付けのクローゼットに近付いた。
そこにはヴァルトラムのバッグが放られていた。大雑把な歩兵長は、バッグの中身をクローゼットに移すタイプではないと思っていたがやはりだ。クローゼットは空っぽ。バッグのなかに荷物が乱雑に詰め込まれていた。
「タイの色はどれになさいますか」
「何でもいい」
ビシュラはヴァルトラムを振り返り、スラックスをジーッと観察した。その色味に合わせて自分なりにネクタイを選び出した。
ヴァルトラムの傍に近付き「失礼いたします」と断り、ネクタイを首の後ろに回して掛けた。中途半端に真ん中あたりまで閉じられたシャツのボタン、その残りを下から一つずつ閉じてゆく。
ヴァルトラムがチラリとネクタイを見た気がした。何も言わないということは文句はないのだろう。気に入らないと言われなくてよかった。
「何でアイツを名前で呼ぶ」
「ティエンゾンさまがそうするようにと。ティエンゾンさまはこちらではニーズヘクルメギルと名乗っておられないそうです。何故でしょう?」
何故でしょうと問い掛けてもヴァルトラムから返答はなかった。そのようなことに考えを巡らせたこともないのだろう。ビシュラにしても素朴な疑問だったから理由が判明しなくても特に不服はなかった。
「少し苦しいかも知れません。我慢なさってください」
ビシュラはシャツの一番上のボタンを閉じるところに至り、そう言った。筋肉が発達したヴァルトラムの首は太く、シャツの首回りが少々きつそうに見えた。一般的な寸法では届きもしないだろう。このシャツにしてもきっとオーダーメイドに違いない。
「俺も名前で呼べ」
一番上のボタンを閉じかけたビシュラの手がとまった。
「命令ですか」
「あー、そうだ」
ヴァルトラムは投げ遣りに言い放った。少し機嫌が悪そうだなと感じ取ったビシュラはすんなりと了承し、シャツのボタンを閉じた。乱暴者の歩兵長には、こちらでは輪をかけて温和しくしていただきたい。余計な刺激はしないに限る。
しゅるしゅる、とビシュラはヴァルトラムの首にネクタイを巻き付けていく。ネクタイを見栄えよく整えるのに集中し、肩からするりと髪が前方に落ちた。
ヴァルトラムはビシュラの髪を掬い上げた。ソファの肘置きに頬杖をし、手持ち無沙汰だったこともあり、艶やかな黒髪の感触を確かめるように指に絡めて弄んだ。こしのある髪質は指に絡めようとするとピンと撥ねた。
「何をなさっているのですか? ヴァリイさま」
ビシュラは目線はネクタイに固定したまま尋ねた。
「オメエ、俺が触ったらぶっ倒れるんだろ」
「触ったくらいでは大丈夫ですよ。今はネェベルがとても安定されていますし」
ピンピン、と髪を引っ張られたのでビシュラは目線を手許からヴァルトラムへと引き上げた。今はヴァルトラムがソファに腰掛けているから、翠玉の双眸がいつもより近くにあった。闇苅のなかでは獣みたいなのに、明るいところで見ると宝石みたい。
ビシュラが「何か?」と尋ね、ヴァルトラムは頬杖を突いたままビシュラに手を伸ばした。
ヴァルトラムの掌が頬に触れ、ビシュラは「あっ」と何かに気付いたように声を上げた。上半身を反らしてヴァルトラムから離れた。
「やっぱり触らないでください」
「俺に触るなだァ?」
ヴァルトラムの声音が急激に不機嫌になった。ビシュラはネクタイから両手を離して咄嗟に身構えた。
「今日はメイクしてるのでッ」
「……いつもとどう違う」
ヴァルトラムは一瞬黙り、それから眉を顰めた。正直そう尋ねなければ、歩兵長には女性のつぶさな差異など分からなかった。
「いつもはちょっとしかしていないのです。フェイさんもあまりされませんし、そういうものかと。ですが今日はちゃんとメイクしているのですよ。折角のミズガルズですし……ティエンゾンさまも非番と思っていいと仰有ったので」
「何の為にだ」
「え?」
「ミズガルズに行くから? ほかの男によく見せようってことか、あァ?」
「そういう意図ではありません」
いつもと異なる環境だから、非番のようなものだから、いつもより少しだけオシャレをして楽しみたいという乙女心を、歩兵長が正確に理解することは不可能だった。
ヴァルトラムは先ほどまで指で遊んでいたビシュラの髪をむんずと捕まえて乱暴に引っ張った。ビシュラは「あいたたたっ」と声を上げ、前のめりになった。体勢を崩し、ヴァルトラムの太腿の上に臀から落ちた。
「ヒドイです! 髪もキレイに整えたのにっ」
ビシュラはポニーテールの根元を押さえてヴァルトラムに苦情を言った。
ヴァルトラムはビシュラの顎を捕まえてビシュラの顔をじっと見詰めた。
「ならその可愛い顔を俺によく見せてみろ。ほかの男に見せる為じゃねェんだろ。オメエの顔は気に入っていると言っただろうが」
ビシュラは気恥ずかしいのと虚を突かれたのとで一瞬、反論の言葉が出てこなかった。ストレートに顔の造形を賞賛されるのはむず痒い。多分、嬉しいのだと思う。相手が歩兵長であれ。そもそもこのように素面で真顔でストレートに面と向かって言うのは歩兵長くらいか。
ヴァルトラムは、片方の手の平に収まりそうな磁器人形のように色が白く小さな顔を、遠慮もなく至近距離で観察した。鼻先を近付けてスンスンと嗅ぐと確かに化粧品のにおいがした。
(か、嗅がれている……ッ)
ビシュラは堪らず顔を背けた。顔から火を噴きそうだった。鼻先が触れそうなほど近くで自分の匂いを嗅がれるなど何の罰だ。
「ほかの男に色目使ってみろ。エンブラだろうが何だろうがブッ殺すぞ」
低い声が鼓膜に直に響きゾクリとした。
ガリッ、という音と鋭い痛み。耳介に犬歯を突き立てられた。ビシュラは、ヴァルトラムから顔を引き離して耳を押さえた。
「いッたぁ~……!」
ビシュラは恨めしそうに犯人を見た。
ヴァルトラムは長い黒髪から手を離して「さっさとタイをしろ」と言い放った。手をとめさせたのは自分のくせに実に不貞不貞しい。
(ヴァリイさまの機嫌がお悪い……)
撲たれるわけでも大声で罵倒されるわけでもない。しかしながら、機嫌が悪いことは充分に伝わってきた。
ビシュラはミズガルズに滞在中、不機嫌な歩兵長が本当に問題を起こさずに過ごせるのか、先が思い遣られた。只でさえ素行不良だというのに。
§ § § § §
アキラと天尊は、ビシュラとヴァルトラムが宿泊しているホテル一階のロビーにいた。ビシュラとヴァルトラムには土地勘がないから場所を指定せず、アキラと天尊のほうが出向くことにしたのだ。
此処は海外からの観光客も多いホテルであり、ロビーにもレセプションにもこの国の民以外の人種がいる。一見して国民ではない外見をしているビシュラとヴァルトラムが少しでも目立たないようにという配慮だろうか。
天尊も、学生で溢れかえる校門前にいるよりも確実に馴染んでいた。長躯の白髪が人目を引くのは違いないが、立ち居振る舞いにそつが無く、この場にいること自体には何ら違和感が無かった。
アキラは、天尊と比較して自分は対照的に年齢的にも服装にしても場違いに感じた。今日はビシュラとの街遊びを想定して、パーカーにスキニーパンツという比較的軽装をチョイスしてしまった。煌びやかで格調高いホテルのロビーには似付かわしくない。
待ち合わせ時刻が近付き、アキラはそろそろかなとロビーを見回した。
丁度、ビシュラとヴァルトラムがエレベーターホールからロビーへと入ってきたところだった。
スカート部分がふんわりと広がったワンピースを着たポニーテールの娘と、スーツ姿の褐色の巨体。まるでお嬢様とボディガードみたい、とアキラは思った。実際の上下関係は逆なのだが、少し離れたところから二人を客観的に見るとそういうイメージのほうがしっくりきた。
ビシュラはロビーの端に立っていたアキラを見付け、小走りに寄ってきた。ヴァルトラムは変わらずのそのそと歩いてくる。
「申し訳ございません。お待たせしてしまいましたか」
ぜんぜん、とアキラは笑顔でビシュラを迎えた。
「俺としては寧ろ来なくてもよかったぞ。それならアキラとデートするつもりだった」
「は? しないよ。ビシュラさんがいないなら帰るよ」
アキラが天尊に放言した台詞には棘があった。ビシュラは目をぱちくりさせた。ビシュラが知る限り、アキラは理由も無くこのように冷たい言い方をする人物ではない。深い間柄だからこそ成立する高度なコミュニケーションという可能性もあるが、今のは明確な悪意が感じられた。
「アキラさん、本当はお忙しいのでは……。案内をお願いしたのはやはりご迷惑でしたでしょうか」
アキラは首を左右に振って「ビシュラさんは何も気にしないでください」と言った。
ビシュラはちらりと天尊のほうを見た。ビシュラさんは、ということは棘を発生させている原因は天尊なのだろう。
ビシュラと目が合うと、天尊はニッと笑った。
「少しやりすぎてな。ヘソを曲げられてしまった」
「やりすぎ?」
「キスだけにしようと思ったんだが、一度始めると途中でやめるのはなかなか難しい」
ビシュラは頬を染め、天尊から守るようにアキラに抱きついた。
「アキラさんはまだ成人前ですよ。な、何をなさったのですかっ」
「お前が想像していることの一歩手前あたりじゃないか」
「ティエン!」
バシンッ、とアキラは天尊の腕を思いっきり叩いた。アキラに叱られても天尊は上機嫌だった。
「何かしたいこととか行きたいところとかありますか。一応、昨夜友だちに聞いて最近人気があるお店とかは教えてもらったんですけど」
「ご尽力いただきありがとうございます」
では、とビシュラは口許に手を当てて遠慮がちに口を開いた。
「アキラさんのようなお洋服が欲しいです。どこへ行けば買えますか」
「わたしみたいな?」
「はい。とても可愛らしいです」
「そうかなー。どちらかと言えばビシュラさんの服のほうが可愛い系だと思いますけど」
「こちらに馴染む服装をしてみたいのです」
「そっか。そのほうが目立たないし、いいかも。あ、でも歩兵長さんのはちょっと難しい……」
アキラはヴァルトラムに目線を移した。
褐色の歩兵長はようやくビシュラに追い付き、憮然とした表情でビシュラの後ろに立っていた。異界でよく目にした軽装でもそうだったが、本日はスーツの所為で周囲への威圧的な雰囲気が弥増していた。その風貌はよくてボディガード、悪ければマフィア。
今まではなんとなく、スーツを着ていれば真面目・誠実そうな人というイメージを受けたが、着る人によっては逆に他を威圧する武器にもなるのだと、アキラは学習した。
「それじゃ、買い物に行きましょうか」
ミズガルズにやって来た翌日。
コンコン。コンコン。
ビシュラはホテルの一室のドアをノックした。室内にはヴァルトラムがいるはずだ。彼等は、天尊の滞在先であるアキラの自宅からあまり遠くはないホテルに、二つ部屋を取った。
今日はアキラから街中を案内してもらう約束だ。ビシュラは早々に自身の支度を完璧に整え、待ち合わせの時間に間に合うように少し余裕を持ってヴァルトラムを迎えにやって来た。
ガチャリ、とドアノブのレバーが下がり、ドアが開いた。
白いシャツにスラックス姿のヴァルトラムが立っていた。ビシュラは「歩兵長、おはようございます」と挨拶をしたが、ヴァルトラムは何も言わず部屋の奥へ引き返していった。ビシュラもヴァルトラムのあとに続いた。
ビシュラは部屋の奥へ進み、明るさに一瞬目がしばしばした。
ヴァルトラムの部屋は高層階、ビシュラの部屋は低層階。高層階は窓外に遮るものがないから、カーテンが開け放たれた大窓からの日当たりが素晴らしい。
これが階級差ですね、エインヘリヤル世知辛い。
ヴァルトラムは部屋のほぼ中央の、一人がけのソファにどさっと腰を落とした。随分とゆったりとしているが、どう見ても外出の準備は完了していない。シャツのボタンは中途半端だし、ネクタイもしていない。
「まだ御支度の途中でしたか」
ヴァルトラムは見れば分かるだろうとでも言うように顎を左右に揺すった。
「朝食は摂られましたか、歩兵長」
「いいや」
「では明日からは朝食時にお声がけいたします。今からでも急げば軽食を摂る時間くらいはあるかと思います。召し上がりますか?」
「要らねェ」
「とはいえあまりゆっくりもできません。ティエンゾンさまとの約束のお時間に遅れてしまいます」
ビシュラは部屋に備え付けのクローゼットに近付いた。
そこにはヴァルトラムのバッグが放られていた。大雑把な歩兵長は、バッグの中身をクローゼットに移すタイプではないと思っていたがやはりだ。クローゼットは空っぽ。バッグのなかに荷物が乱雑に詰め込まれていた。
「タイの色はどれになさいますか」
「何でもいい」
ビシュラはヴァルトラムを振り返り、スラックスをジーッと観察した。その色味に合わせて自分なりにネクタイを選び出した。
ヴァルトラムの傍に近付き「失礼いたします」と断り、ネクタイを首の後ろに回して掛けた。中途半端に真ん中あたりまで閉じられたシャツのボタン、その残りを下から一つずつ閉じてゆく。
ヴァルトラムがチラリとネクタイを見た気がした。何も言わないということは文句はないのだろう。気に入らないと言われなくてよかった。
「何でアイツを名前で呼ぶ」
「ティエンゾンさまがそうするようにと。ティエンゾンさまはこちらではニーズヘクルメギルと名乗っておられないそうです。何故でしょう?」
何故でしょうと問い掛けてもヴァルトラムから返答はなかった。そのようなことに考えを巡らせたこともないのだろう。ビシュラにしても素朴な疑問だったから理由が判明しなくても特に不服はなかった。
「少し苦しいかも知れません。我慢なさってください」
ビシュラはシャツの一番上のボタンを閉じるところに至り、そう言った。筋肉が発達したヴァルトラムの首は太く、シャツの首回りが少々きつそうに見えた。一般的な寸法では届きもしないだろう。このシャツにしてもきっとオーダーメイドに違いない。
「俺も名前で呼べ」
一番上のボタンを閉じかけたビシュラの手がとまった。
「命令ですか」
「あー、そうだ」
ヴァルトラムは投げ遣りに言い放った。少し機嫌が悪そうだなと感じ取ったビシュラはすんなりと了承し、シャツのボタンを閉じた。乱暴者の歩兵長には、こちらでは輪をかけて温和しくしていただきたい。余計な刺激はしないに限る。
しゅるしゅる、とビシュラはヴァルトラムの首にネクタイを巻き付けていく。ネクタイを見栄えよく整えるのに集中し、肩からするりと髪が前方に落ちた。
ヴァルトラムはビシュラの髪を掬い上げた。ソファの肘置きに頬杖をし、手持ち無沙汰だったこともあり、艶やかな黒髪の感触を確かめるように指に絡めて弄んだ。こしのある髪質は指に絡めようとするとピンと撥ねた。
「何をなさっているのですか? ヴァリイさま」
ビシュラは目線はネクタイに固定したまま尋ねた。
「オメエ、俺が触ったらぶっ倒れるんだろ」
「触ったくらいでは大丈夫ですよ。今はネェベルがとても安定されていますし」
ピンピン、と髪を引っ張られたのでビシュラは目線を手許からヴァルトラムへと引き上げた。今はヴァルトラムがソファに腰掛けているから、翠玉の双眸がいつもより近くにあった。闇苅のなかでは獣みたいなのに、明るいところで見ると宝石みたい。
ビシュラが「何か?」と尋ね、ヴァルトラムは頬杖を突いたままビシュラに手を伸ばした。
ヴァルトラムの掌が頬に触れ、ビシュラは「あっ」と何かに気付いたように声を上げた。上半身を反らしてヴァルトラムから離れた。
「やっぱり触らないでください」
「俺に触るなだァ?」
ヴァルトラムの声音が急激に不機嫌になった。ビシュラはネクタイから両手を離して咄嗟に身構えた。
「今日はメイクしてるのでッ」
「……いつもとどう違う」
ヴァルトラムは一瞬黙り、それから眉を顰めた。正直そう尋ねなければ、歩兵長には女性のつぶさな差異など分からなかった。
「いつもはちょっとしかしていないのです。フェイさんもあまりされませんし、そういうものかと。ですが今日はちゃんとメイクしているのですよ。折角のミズガルズですし……ティエンゾンさまも非番と思っていいと仰有ったので」
「何の為にだ」
「え?」
「ミズガルズに行くから? ほかの男によく見せようってことか、あァ?」
「そういう意図ではありません」
いつもと異なる環境だから、非番のようなものだから、いつもより少しだけオシャレをして楽しみたいという乙女心を、歩兵長が正確に理解することは不可能だった。
ヴァルトラムは先ほどまで指で遊んでいたビシュラの髪をむんずと捕まえて乱暴に引っ張った。ビシュラは「あいたたたっ」と声を上げ、前のめりになった。体勢を崩し、ヴァルトラムの太腿の上に臀から落ちた。
「ヒドイです! 髪もキレイに整えたのにっ」
ビシュラはポニーテールの根元を押さえてヴァルトラムに苦情を言った。
ヴァルトラムはビシュラの顎を捕まえてビシュラの顔をじっと見詰めた。
「ならその可愛い顔を俺によく見せてみろ。ほかの男に見せる為じゃねェんだろ。オメエの顔は気に入っていると言っただろうが」
ビシュラは気恥ずかしいのと虚を突かれたのとで一瞬、反論の言葉が出てこなかった。ストレートに顔の造形を賞賛されるのはむず痒い。多分、嬉しいのだと思う。相手が歩兵長であれ。そもそもこのように素面で真顔でストレートに面と向かって言うのは歩兵長くらいか。
ヴァルトラムは、片方の手の平に収まりそうな磁器人形のように色が白く小さな顔を、遠慮もなく至近距離で観察した。鼻先を近付けてスンスンと嗅ぐと確かに化粧品のにおいがした。
(か、嗅がれている……ッ)
ビシュラは堪らず顔を背けた。顔から火を噴きそうだった。鼻先が触れそうなほど近くで自分の匂いを嗅がれるなど何の罰だ。
「ほかの男に色目使ってみろ。エンブラだろうが何だろうがブッ殺すぞ」
低い声が鼓膜に直に響きゾクリとした。
ガリッ、という音と鋭い痛み。耳介に犬歯を突き立てられた。ビシュラは、ヴァルトラムから顔を引き離して耳を押さえた。
「いッたぁ~……!」
ビシュラは恨めしそうに犯人を見た。
ヴァルトラムは長い黒髪から手を離して「さっさとタイをしろ」と言い放った。手をとめさせたのは自分のくせに実に不貞不貞しい。
(ヴァリイさまの機嫌がお悪い……)
撲たれるわけでも大声で罵倒されるわけでもない。しかしながら、機嫌が悪いことは充分に伝わってきた。
ビシュラはミズガルズに滞在中、不機嫌な歩兵長が本当に問題を起こさずに過ごせるのか、先が思い遣られた。只でさえ素行不良だというのに。
§ § § § §
アキラと天尊は、ビシュラとヴァルトラムが宿泊しているホテル一階のロビーにいた。ビシュラとヴァルトラムには土地勘がないから場所を指定せず、アキラと天尊のほうが出向くことにしたのだ。
此処は海外からの観光客も多いホテルであり、ロビーにもレセプションにもこの国の民以外の人種がいる。一見して国民ではない外見をしているビシュラとヴァルトラムが少しでも目立たないようにという配慮だろうか。
天尊も、学生で溢れかえる校門前にいるよりも確実に馴染んでいた。長躯の白髪が人目を引くのは違いないが、立ち居振る舞いにそつが無く、この場にいること自体には何ら違和感が無かった。
アキラは、天尊と比較して自分は対照的に年齢的にも服装にしても場違いに感じた。今日はビシュラとの街遊びを想定して、パーカーにスキニーパンツという比較的軽装をチョイスしてしまった。煌びやかで格調高いホテルのロビーには似付かわしくない。
待ち合わせ時刻が近付き、アキラはそろそろかなとロビーを見回した。
丁度、ビシュラとヴァルトラムがエレベーターホールからロビーへと入ってきたところだった。
スカート部分がふんわりと広がったワンピースを着たポニーテールの娘と、スーツ姿の褐色の巨体。まるでお嬢様とボディガードみたい、とアキラは思った。実際の上下関係は逆なのだが、少し離れたところから二人を客観的に見るとそういうイメージのほうがしっくりきた。
ビシュラはロビーの端に立っていたアキラを見付け、小走りに寄ってきた。ヴァルトラムは変わらずのそのそと歩いてくる。
「申し訳ございません。お待たせしてしまいましたか」
ぜんぜん、とアキラは笑顔でビシュラを迎えた。
「俺としては寧ろ来なくてもよかったぞ。それならアキラとデートするつもりだった」
「は? しないよ。ビシュラさんがいないなら帰るよ」
アキラが天尊に放言した台詞には棘があった。ビシュラは目をぱちくりさせた。ビシュラが知る限り、アキラは理由も無くこのように冷たい言い方をする人物ではない。深い間柄だからこそ成立する高度なコミュニケーションという可能性もあるが、今のは明確な悪意が感じられた。
「アキラさん、本当はお忙しいのでは……。案内をお願いしたのはやはりご迷惑でしたでしょうか」
アキラは首を左右に振って「ビシュラさんは何も気にしないでください」と言った。
ビシュラはちらりと天尊のほうを見た。ビシュラさんは、ということは棘を発生させている原因は天尊なのだろう。
ビシュラと目が合うと、天尊はニッと笑った。
「少しやりすぎてな。ヘソを曲げられてしまった」
「やりすぎ?」
「キスだけにしようと思ったんだが、一度始めると途中でやめるのはなかなか難しい」
ビシュラは頬を染め、天尊から守るようにアキラに抱きついた。
「アキラさんはまだ成人前ですよ。な、何をなさったのですかっ」
「お前が想像していることの一歩手前あたりじゃないか」
「ティエン!」
バシンッ、とアキラは天尊の腕を思いっきり叩いた。アキラに叱られても天尊は上機嫌だった。
「何かしたいこととか行きたいところとかありますか。一応、昨夜友だちに聞いて最近人気があるお店とかは教えてもらったんですけど」
「ご尽力いただきありがとうございます」
では、とビシュラは口許に手を当てて遠慮がちに口を開いた。
「アキラさんのようなお洋服が欲しいです。どこへ行けば買えますか」
「わたしみたいな?」
「はい。とても可愛らしいです」
「そうかなー。どちらかと言えばビシュラさんの服のほうが可愛い系だと思いますけど」
「こちらに馴染む服装をしてみたいのです」
「そっか。そのほうが目立たないし、いいかも。あ、でも歩兵長さんのはちょっと難しい……」
アキラはヴァルトラムに目線を移した。
褐色の歩兵長はようやくビシュラに追い付き、憮然とした表情でビシュラの後ろに立っていた。異界でよく目にした軽装でもそうだったが、本日はスーツの所為で周囲への威圧的な雰囲気が弥増していた。その風貌はよくてボディガード、悪ければマフィア。
今まではなんとなく、スーツを着ていれば真面目・誠実そうな人というイメージを受けたが、着る人によっては逆に他を威圧する武器にもなるのだと、アキラは学習した。
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