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Kapitel 07

余焔 04

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 ビシュラは普段より少々身綺麗に整え、小振りな花束を抱え、とある邸宅を訪れていた。大都市イーダフェルトの一角、富裕層が多く居住する豪邸が並ぶ地区、そのなかにあって大邸宅と言って相応な御屋敷。地図で場所を確認した際、かなりの敷地面積だったから或る程度の予想はしていたが、実際に建物を目にすると豪邸だと実感した。
 背丈よりも随分高い立派な門を潜り、品のよい使用人に迎えられた。手荷物や身につけているものなどのセキュリティチェックを受けたあと、しばらくして家主が現れた。
 ロマンスグレーのオールバックの紳士は、今日も初めて会ったときと同様に背広姿だった。彼は、ギュンター中将の一人息子だった。
 ご機嫌よう、とビシュラは彼に頭を下げた。

「今日はお仕事でいらっしゃいますか。お忙しいところお邪魔して申し訳ございません」

「いえ、午前に少し出ていただけです。邪魔だなんてとんでもない、ビシュラ准尉」

 ビシュラは不意に階級付きで名前を呼ばれ「あ……」と声を漏らした。彼はこのような豪邸に住むお金持ちだ。自分の父親を保護した人物について簡略に調べたのだろう。そして、此方は彼の父親の名前しか知らないことに、家を訪ねた今になって思い至った。此処まで来てお名前は何でしたっけと伺うのも大変失礼な話だ。
 ビシュラがやや困った表情をしていると、彼のほうから「ダンクラートです」と手を差し出してきてくれた。気分を害した素振りはなく友好的な雰囲気だった。
 ビシュラは内心ホッとして、ギュンター中将の一人息子・ダンクラートと握手を交わした。

「中将殿との面会のお許しをいただきありがとうございます。ヘル・ダンクラート」

「こちらこそわざわざありがとうございます。まさか会いに来ていただけるとは思っていませんでした。貴女に会えることを父は喜んでいます」

 よろしければこれを、とビシュラは持ってきた花束を笑顔でダンクラートに手渡した。
 ダンクラートは半ば反射的に花束を受け取りながら、花と共に微笑むビシュラをじっと見た。父親を保護してくれた親切な人物について問い合わせ、確かなツテから情報を得たし、自ら准尉と呼びもしたが、花を抱いてにっこりと微笑む可憐な娘がそうとは思えなかった。今日の彼女が娘らしいワンピースを着て花束を持ってきた所為もあるかもしれないが、軍装を纏って小銃を担いでいる姿などとても想像できない。
 ダンクラートは花束を使用人に渡し、花瓶に挿すように言い付けた。
 それから「あとから貴女が軍人だと知り驚きました」とビシュラに正直な胸の内を告げた。

「あのときは名乗りもせず失礼いたしました」

「それはお互い様ということで」

 あのときはお互いに余裕がなかったですから、とダンクラートははにかんだ。生来、生真面目そうな顔付きだと自覚があるのか、友好的に努め「どうぞこちらへ」と家主自らビシュラを邸宅の奥へと案内してくれた。

「これもあとから聞いたのですが、あのとき御一緒だった男性はエインヘリヤルでは大変有名な方だそうですね」

 はい、良い意味でも悪い意味でも。そう言おうとしてビシュラは思い留まり、ダンクラートから目線を逃がした。

「わたしの上官です」

「上官」

 ダンクラートから復唱されたのはビシュラにとって予想外だった。無難なキャッチボールをしたつもりだったのだけれど。ビシュラは「何か?」とダンクラートへ目線を向けた。

「いえ、その……貴女とは随分印象が異なる方だったので。上官というと直属のですか。エインヘリヤルのことはよく分かりませんが、あまりにも考え方や価値観が異なる上司だと大変ではないですか」

 ビシュラは口許に手を添えてフフッと笑った。ヴァルトラムは、一般人であるダンクラートの目にはさぞかし乱暴者に映ったことだろう。

「異なっているのはわたしのほうです。あの方が正しいのです」

 あの方は強いですから――、何処から如何見てもごく普通の可憐な娘にしか見えないビシュラがそのような武骨なことを言ったのが、ダンクラートには違和感だった。

(こんなに若い子でも軍人、ということなのだろうか。軍人というものはまったく……)


 ビシュラはダンクラートに導かれてギュンターの部屋に案内された。其処は邸宅の三階の一番突き当たりだった。
 扉の前に軍装の男が二人待機していた。彼等の人相にはビシュラも覚えがあった。ダンクラートと共にギュンターの迎えにやって来た二人だ。二人ともヴァルトラムに痛い目に遭わされたのはつい最近のこと。ビシュラは顔を合わせるのが気まずかった。
 しかしながら無視するわけにもいかない。ビシュラは「御機嫌よう」と頭を下げた。

「お疲れ様です、准尉」

 思いがけず屈託のないハキハキした声だった。
 ビシュラがそろりと顔を上げ、それと同時に軍装の若い男が眼前に迫った。

「先日は大変失礼いたしました。お怪我はありませんでしたか。咄嗟のことで加減せず掴んでしまったので」

 ビシュラは、鼻先数センチに顔が迫り、驚いてパチパチと瞬きをした。
 彼の屈託のない表情を見るに、この距離感に悪気はないのだろう。ビシュラは黙って半歩後退った。それから一呼吸置いて、落ち着いて口を開いた。

「お気遣いいただきありがとうございます。わたしは怪我はありませんでした。お二方こそお体は大丈夫ですか? 歩兵長は少々荒っぽいところがございまして……」

 ビシュラが申し訳なさそうに言い、若い彼は「鍛えておりますので」と溌剌と応えた。
 もう一人の軍装、若い彼よりも体格がよく、幾分年上に見える男性も小さく頷いた。

「ヴァルトラム大尉殿を悪漢と誤認したのはこちらの非だ。怪我があったとしても准尉が気にすることではない」

「准尉は大尉殿とお付き合いされてるんですか?」

 突然若い軍装にそのようなことを問われたビシュラは、咄嗟に「えっ⁉」と大仰に聞き返してしまった。脈絡のなさに面喰らった。

「私服でお二人御一緒でしたのでデートかと。休日にマーケットに買い物に行かれるなんて仲睦まじくて羨ましい限りです」

「リアン~~!」

「女性にいきなりそんなことを訊くのは失礼ですよッ」

 年上の軍装とダンクラートは、頬を赤くして黙り込んだビシュラを見てまずいと察した。彼等は年を重ねている分、女性に気配りができる程度には男性としての経験値があったのだが、青年リアンは二人に注意されても「そうですか?」とケロッとしていた。

「大尉殿とお付き合いされて長いのですか?」

「ち、違います! わたしと歩兵長はお付き合いしてませんッ」

 頬を染めて必死に否定するビシュラを見て、ダンクラートは苦笑した。兵士のような一面もあるというだけで、やはり中身は見掛け通り年相応のお嬢さんフロイラインだと思った。

「直属の上司と部下だそうですよ」

 ダンクラートからそう聞いた途端、リアンは「わあ~~」と明るい声を上げた。

「あのヴァルトラム大尉殿の直属なんて憧れます!」

「歩兵長のことを嫌っていらっしゃるわけでは……?」

 憧れと聞いてビシュラは少々首を傾げた。顔面を力尽くで押さえ付けられて当然に反感を抱くと思ったのに。
 リアンは「まさか!」と首を左右に振った。

「中将殿への侮辱は聞き捨てなりませんが、大尉殿を尊敬こそすれ嫌うなんてとんでもありません。ネームドは優秀な戦士として、戦士が戦士を認めた証。ネームドに憧れない者などいませんよ!」

 ビシュラはリアンを、恐らくは同年代だが軍人としての経歴は彼のほうが長いだろうから口には出さなかったが、子犬のような人柄だと感じた。
 裏表がなく晴朗な青年。彼はただただ正直なだけだから、ビシュラは彼を疎ましくは思わなかった。リアンのように口に出さないだけで、彼に注意した紳士二人もきっと自分と上官との関係を恋人同士だと思ったのだろう。
 そろそろ中へどうぞ、とダンクラートは部屋のドアを開いた。ビシュラは手を体の前で組み、静かに部屋のなかへ進んだ。
 部屋は思ったよりも広さがなかった。大きな窓に備えられたカーテンはすべて開かれ、射し込む陽光によって室内は明るかった。突き当たりの壁にドアがあり、その奥はきっと寝室に繋がっているのだろう。この部屋が小振りであることも納得だ。ビシュラは、自分が非常にプライベートな空間への立ち入りを許されたことを悟った。
 部屋の中央に丸テーブルがあり、テーブルを挟んで向き合わせたチェアが二つ。その一つにはギュンターが座っていた。
 ギュンターが腰を持ち上げようとし、ビシュラは急いで「どうかそのままで」と言った。
 ダンクラートはビシュラを丸テーブルまで誘導し、チェアにかけるよう促した。

「わたしを覚えておいでですか? ギュンター中将殿」

「そんなに畏まらないでください、お嬢さん」

 ギュンターはビシュラに向かって柔和に笑いかけた。
 コホン、とリアンの先輩軍人が咳払いをした。

「中将殿。そちらは准尉です」

「どうかお気になさらず。顔見知りのおじいさんに会ったとでも思って、ヘル・ギュンターとでも」

「はい。ヘル・ギュンター」

「准尉、いくら中将殿がお許しになったとはいえ――」

「いいんだ。私にも軍人でない時間があってもいいじゃないか」

 ギュンターに溜息混じりに咎められ、彼は口を噤んだ。
 ビシュラから見るに、本日のギュンターはとても明瞭で闊達に見えた。初めて会ったときも受け答え自体はスムーズだったが、今日は〝ギュンター中将〟という己をしっかりと持っているように感じた。あの日の彼は、在りし日のギュンター青年とギュンター老将とを、思い出と現実との間を、無意識に行ったり来たりしていたのだ。

「お体のお加減はいかがですか、ヘル・ギュンター」

「幸い生まれつき丈夫なようで、病気はしていないのですよ。年をとってあちこちガタはきていますが」

 程なくして使用人が紅茶を運んできた。ギュンターの私室は、そもそも客人を招く用の部屋ではなく丸テーブルはこぢんまりしたものであり、三人分のティーカップとお茶菓子でもういっぱいになってしまった。
 ビシュラは使用人の婦人にありがとうございますと一言告げ、カップの取っ手に指を通した。

「父も私も普段から紅茶を飲みつけていないもので。お口に合うとよいのですが」

 ダンクラートは気恥ずかしそうに言った。このような立派な邸宅に居住しているのに、彼には尊大な素振りが一切なかった。父親と同様に人の好い人柄が滲み出ている。
 ビシュラはとんでもございませんとカップに口をつけた。紅茶に詳しかったり煩かったりするほうではないが、この紅茶は普段の生活で味わうものよりも余程香り高く美味だった。立派な邸宅に従事する使用人が選んだ茶葉が高級でないはずがなかった。

「今日は恋人は一緒ではないのですか」

 突然ギュンターがそのようなことを言い出し、隣に座っているダンクラートは「父さんッ」と顔色を変えた。
 ドアの向こうでの遣り取りを知らないギュンターは何がどうしたという表情。ダンクラートは、自分が主人である家のなかでビシュラに対して何度も同じような失礼をはたらいてしまい、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
 ビシュラは、リアンもギュンターも悪気はないのだから怒るつもりなど毛頭なかった。

「恋人ではありません。あの方は上官です」

「そうですか。上官以上恋人未満ということですかな」

「違います。本当に歩兵長とわたしは恋人同士ではありません」

「ああ、ほかに素敵な恋人がいらっしゃるのかな」

「いません」

 ビシュラはふるふると首を左右に振った。

「こんなに可愛らしいお嬢さんなのに何故だろう。なあ、ダンクラート」

 話を振られたダンクラートは言葉もなく額を押さえた。年頃の娘に何故恋人がいないのかなど、面と向かって不躾にもほどがある。若くして入隊して男ばかりの環境に長年いた所為か、初恋を実らせてしまい女性と言えば妻しか知らない所為か、父には配慮が足りない。
 コンコン、というノック音でこの話題が中断された。ダンクラートは内心ホッとした。
 旦那様、と使用人の婦人はダンクラートに抱えた花瓶を見せた。それから壁際のサイドボードに静かに花瓶を置いた。その花瓶にはビシュラが持ってきた花束が挿されていた。

「花をいただいたんですよ、父さん」

「キレイに咲いている花だ」

「先日鉢植えをいただきましたので。ご迷惑でなければ嬉しいです」

 ギュンターは微笑んでいるビシュラを、目を細めてじっと見詰めた。これまで数え切れない兵士を、幾人もの軍人を見てきた老将の目に映るビシュラは、一般人であるダンクラートの目のそれとは少々異なっていた。姿通りの可憐な娘には見えなかった。微笑みの合間に、そこはかとなく物悲しさが垣間見えた。

「迷惑なことなどありませんよ。ええ、一切。貴女からいただくものも、貴女自身も」

 ダンクラートにはギュンターが発した言葉の意味が分からなかった。また何を言い出したのだろうかと、隣に座っている父親の横顔に目線を移した。

「何か大変なことでもありましたか。少し思い詰めているように見えたものだから」

 ギュンターから問いかけられたビシュラは、虚を突かれたように一瞬目を大きく開いた。
 顔には出さないように努めているつもりだった。できる限り柔やかな表情を心がけた。ギュンターの加減を確認して満足する予定だった。最初から、何かを打ち明けようと目論んでやって来たわけではなかった。
 しかしながら、促されると胸の内を吐露してしまいたい欲求をすぐに抑えきれなくなった。やはり誰かに聞いてほしかったのだ。三本爪飛竜騎兵大隊やヴァルトラムに利害関係がなく、それでいて事情が通じる人物に。自分と同じ体験をしたであろう人物に。

「この顔見知りの年寄りに話して少しでも胸が軽くなるのでしたら、どうぞ聞かせてください」

「思い詰めているというか……何でしょう……。ヘル・ギュンターのお体が気になっていたのも事実です。ですが、ヘル・ギュンターなら話を聞いてくださるような気がして……勝手にこのようなこと、申し訳ございません」

 ビシュラの顔から笑みが消え失せ、ダンクラートは彼女が何かを打ち明けようとしている雰囲気を感じ取った。

「わたし……戦場に立ったのですよ」

 ダンクラートはハッと息を呑んだが、ギュンターは顔色を変えなかった。チェアの両脇の縁に肘を置き、じっくりと食い入るようにビシュラを見詰めていた。ビシュラが生まれる前から戦場を踏んでいるかつての歴戦の猛将、ギュンターにそのような程度でと一笑に付されるかと思ったが、その目は至って真剣だった。

「初めて小銃を握って兵士として実戦に……。ヘル・ギュンター…………。あそこは本当に……本当に……」

 ビシュラは両肩に力を入れ、太腿の上でギュウッと拳を握り締めた。
 彼処での記憶は曖昧。それなのに、凄惨なシーンばかり瞼の裏に鮮明に映し出される。血肉と泥濘の色とか、湿っぽく生温い空気感とか、生臭いえた臭いとか、血みどろのロスワルト、魔物のようなヴァルトラム、もう二度と朝が来ないかのような絶望――――。

「あそこは地獄です」

 ビシュラの胸の内をギュンターが代弁した。

「たくさんの命を擂り潰してやっと消したと思っても、何度も何度も現れる」

「何度も……?」

 ビシュラは正直心が折れそうだった。あのような想いを何度も繰り返さなければならないというのか。やっと生きて帰ったと思っても終わりではない。たった一度死線を潜り抜けただけ。たった一度地獄の片鱗を垣間見ただけ。
 幾度も戦線を踏破した歴戦の老将・ギュンターが言うからには、これは紛れもない真実。屍に屍を積み上げ続ける地獄が、地上から完全に消失することは未来永劫有り得ない。
 ビシュラが抱いた絶望は、無論ギュンターにも覚えがあった。
 生まれたての兵士はまだ知るまい。絶望しても絶望しても、泣き喚いても喘ぎ苦しんでも、傷付き傷付けられ殺し殺されても、やることは同じだ。求める道はたった一つだけなのだ。争闘に勝利し、生還すること。自分を含め、一人でも多くの仲間を生かすこと。生きて生きて、自分以外の誰かを生かすこと。絶望を拭うにはそうするしかないのだ。
 だからこそ、ギュンターは戦場に立ったというビシュラが無傷で此処にいることが喜ばしかった。

「優しい君が生きて帰って来れてよかった」

「わたしが生き残る為に……守ってくれた人が死にました。それでもよかったと言えるのでしょうか。その人を犠牲にしてまで、わたしなんかが生き残ってよかったのでしょうか」

 ビシュラは顔を引き上げてギュンターの目を見た。その黒い瞳の水面は揺れていた。

「君はまだ若いから気付いていないかも知れないが、兵士であろうとなかろうと、自分で生き死にを選べることは稀です。少なくともその人物は死に方を選べた。あそこでは、幸せなほうですよ」

「わたしもそのようになれますか。ロスワルト教官のように、仲間を守ることができる軍人になれるでしょうか。わたしのような者でも軍人らしく――……」

 ビシュラは何かに追い立てられるように口早にギュンターに問い掛けた。
 実際、ギュンターにはビシュラが使命感に追い立てられているように見えた。
 ビシュラの望みは、救われた命を、別の命を救う為に消費すること。それが人の役に立つということ。それ故に、ヴァルトラムを守る盾にも、ヴァルトラムが戦う剣にも、成り果てて使い潰されるのが己の使命。

「いいえ、君はぜんぜん軍人らしくない」

 ギュンターは断言した。ビシュラはぴくんっと肩を撥ねさせた。

「それでいい。それでいてください。軍人らしくなることなんてないのですよ。あそこは人を簡単に変えてしまう。人でないものに変えてしまう。だから、軍人らしくなど考えず、いつまでも君らしくいてください」

 ダメです、ダメです、とビシュラはふるふると首を左右に振った。その拍子に光る雫がポタポタと零落した。

「それでは仲間を守れませんっ」

「守れます」

「守れません。わたしは弱いんです。わたしが戦えないから教官はっ……」

「大丈夫です、君は仲間を想って泣くことができる。そんな優しい人物が守れないわけがない」

 ギュンターは腰を持ち上げてビシュラへと手を伸ばした。ビシュラの頭をよしよしと撫でた。
 君の周りにはそういう人物がいないのかも知れませんが、とギュンターは目尻を下げた。

「優しい軍人がいたっていいのですよ。軍人でも泣いたっていいんですよ。強い者こそ優しく在らねばならないのです」
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