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Kapitel 07

余焔 03

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 耳が擽ったい。くりくりと誰かに弄られている感触がする。誰かが「ビシュラ」と呼んでいる。まだ眠たいのに、まだこの温かいところにいたいのに。
 んうぅ~、とビシュラは唸り、固くて温かいものに未練がましく額を擦りつけた。

「ビシュラ、起きろ」

 耳元で低い声で囁かれ、ビシュラはハッとして瞼を開いた。目の前に褐色の壁が広がっていて一瞬ギョッとしたが、これが何であるかはすぐに分かった。寝惚けてヴァルトラムの胸板に顔を擦りつけていたのだ。
 ヴァルトラムは腕を折り曲げて枕にし、胸元で眠っているビシュラを覗き込んでいた。ビシュラの睡眠中も黒い毛並みの〝獣耳〟を指先で弄りながら。
 ビシュラは「失礼しました」とベッドに寝たまま反射的に上半身を仰け反らしてヴァルトラムから少し離れた。ずーんと腰に倦怠感のような鈍痛。
 ビシュラが「ううう……」と唸っていると、再びヴァルトラムが獣耳に触れた。

「オメエは寝てる間のほうが素直だな」

「わたし、寝惚けて何か失礼なことをしましたか」

「いいや、可愛いモンだったぜ」

 ヴァルトラムは真顔で言うから本気なのか冗談なのか分からない。そう思って次の間には、自分のなかに本気にしようとしている部分があるのかと気付いて恥ずかしくなった。
 ビシュラは窓側に背を向けて眠っていた。腰を中心に体中に纏わり付く鈍痛に耐え、シーツのなかで体の向きを反転させて窓を見た。予想外にも窓の外はすでに真っ暗だった。

「もう夜なのですね」

「メシ、食いに行くか持ってこさせるか。食いたいモンあるか、ビシュラ」

「わたしは結構です。お腹はあまり空いてなくて」

「…………。飲んで食え。どうせあっちでも碌なモン食ってねェだろ」

「いえ、本当にお腹は空いていません」

「俺が食えっつったら食え」

 ヴァルトラムはビシュラの獣耳を抓んで引っ張った。
 ビシュラはヴァルトラムのほうを振り返った。痛いほどではなかったが、何も抓まなくてもよいのに。ビシュラは意地悪だなあと思いつつ「はあ」と生返事をした。

「それともネェベルを喰ったほうがいいのか」

「エナジードレインとは違います。いくらヴァリイさまからいただいてもわたし自身の栄養にはなりません」

「そうか。じゃあ食うモン食ってから、もう一遍ヤルか」

「しませんッ」

 ビシュラは断固言い切った。ベッドの端に引っかかっているシャツ、ヴァルトラムからの借り物にシャツに手を伸ばした。素早く袖を通してボタンを閉じた。

「兵舎に戻ってから、し、してばっかりじゃないですか。ヴァリイさまがやめてくださらないから自分の部屋にも帰ってな――」

「何か悪ィか?」

 ヴァルトラムはビシュラの言葉を遮って放言した。心の底から悪びれない表情だった。寧ろ、ヴァルトラムのほうが何を言っているのか不思議だという顔をしていた。

「ヤッてばっかりだったら何か悪ィのか。気持ちよくなったら何かいけねェのかよ。死んだらできねェぞ。食ってヤッて寝て。生きてるからできるんだろうが」

 ヴァルトラムはベッドに寝そべったまま、ビシュラの腹部に指をトントンと置いた。

「生きてるのに腹が減らねェヤツはどっかおかしいか、その内おかしくなる。メシ食ってヤッて寝ろ」

「おかしくなるなんて――」

 反論する為に口を開いたビシュラだったが、突然眩暈を覚えた。

(あれ、なんだろう。頭がクラクラする……)

 しゃきっとしようと額を押さえたが瞼を開けていられない。ヴァルトラムから名前を呼ばれている気がするが音声が聞こえない。
 ビシュラは意識を失い、くたりと背中のほうへ倒れた。


   § § § § §


 イーダフェルトベース・医務室。
 ビシュラは意識のないまま、ベッドに寝かせられ、腕に点滴をつながれていた。
 ベッド脇の簡素な椅子に、白衣の男性が腰掛けてビシュラに目を落としていた。中年の後半に差し掛かった、禿頭で真っ白い髭を蓄え、丸眼鏡をかけた男性は、この基地の軍医の一人。負傷の多い隊員たちは皆一度は世話になったことがある古株だった。
 軍医の後ろにヴァルトラムとフェイが立っていた。ヴァルトラムは声をかけても揺すっても反応がないビシュラを医務室に運び込んだ。緋は丁度当直で隊舎に詰めていたところ、医務室から大隊の若い女性隊員が到着したと連絡を受けてやって来た。自分以外に該当するのはビシュラしかいない。

「加減しろと言っただろ、この性欲バカ」

 緋は瞼を閉ざしたビシュラを見ながら、隣に立っているヴァルトラムを非難した。このような事態になるなら荒っぽい歩兵長など信用するのではなかったと悔いた。
 軍医は椅子に座ったままヴァルトラムを見上げた。

「イイ歳してコントロールできんのか。こんな細っこい娘相手にお前さんが本気で腰振ったらぶっ倒れちまうに決まってんだろ」

「ウルセー、ハゲジジイ」

 バシィンッ、と緋がヴァルトラムの腕を思いっきり叩いた。並の男なら飛び上がっているところだが、ヴァルトラムは平然としていた。

「まあ、倒れたのはSEXの所為じゃねェがな」

 緋が「軍医ドクトル?」と声をかけ、軍医はやれやれとばかりに深い溜息を吐いた。

「ネェベル酔いだ」

 ネェベル酔い、と鸚鵡返しに繰り返し、緋は安堵した。それは特別珍しい現象ではなかったからだ。

「膨大な量のネェベルが一気に流れた影響で一時的に受容器官が狂っとるんじゃろう。こんな状態でお前さんが傍におるもんだからネェベルに当てられちまったんだよ。まずは受容器官の鎮静化、〝回路〟の回転数の調整、勁点と排出機構の検査、それとネェベル神経系の検査もせにゃならんな。……ああ、こりゃもう全身メンテナンスだ。しばらくは使い物にならんぞ、この嬢ちゃん」

 どのくらいだ、とヴァルトラムが尋ねた。軍医は首を傾げてまた溜息を吐いた。

「分からん。本人次第だ。見たとこお前さんとこの野郎共ほど頑丈じゃあなかろう。受容器官が正常に戻らんことにはプログラムを――」

「プログラムなんざどうでもいい。いつからヤレんのかって訊いてんだ」

 ドスゥッ、と緋の肘鉄がヴァルトラムの脇腹にめり込んだ。

「相手がお前さんじゃなきゃ明日からでもできらァ」

 軍医はヴァルトラムを横目に見て当て擦りのように言った。案の定、ヴァルトラムは聞き捨てならないとばかりに「あァ?」と悪態で返した。

「まァだ自覚がねェのか。お前さん、普段からバカみてぇなネェベル垂れ流しとるのに気にもしてねェだろ。特にSEX中は〝回路〟の回転数も上がる。満足に回転数の制御ができるようになってから言え、バカ者が。この嬢ちゃん、治るモンも治んねェぞ」

軍医ドクトル、つまりビシュラは歩兵長と距離を置いたほうが回復が早いということですか」

 緋から尋ねられ、軍医は顎を左右に揺すった。

「ひっつくな、離れてろ、とまでは言わんが回転数の制御は絶対だな。医者の話はちゃんと聞けよ、バケモノ歩兵長。本人がプログラムを実行するのもメンテナンスが済むまではやめといたほうがいい」

 できるのか歩兵長、と緋はヴァルトラムに尋ねた。歩兵長からは何も答えが返ってこなかった。御自分を分かっていらっしゃる。

「このポンコツ!」

 ズバァンッ、と緋は腹立ち紛れにまたヴァルトラムの腕を豪快に叩いた。


 軍医が病室から出て行ったあと、緋はヴァルトラムにしこたま文句を浴びせた。いくら口喧しくしたところで不貞不貞しい歩兵長には暖簾に腕押しだろうが、言わなければ気が済まなかった。真剣に聞いていないとしても、ヴァルトラムが反論もせずに黙っていたのは緋にとっては少々有り難かった。正直、これが八つ当たりではないとは言い切れなかったのだ。無事に帰ってきたのだからいいかと、ヴァルトラムがビシュラを囲っている事実を看過した自分にも責任の一端があると思ったからだ。
 程なくして、ビシュラがうっすらと目を開けた。すぐにこちらに気付いて「フェイさん」と声を発し、緋は内心ほっと胸を撫で下ろした。初期教育カリキュラムに行って以来、真面に顔を見たのはこのときが初めてだった。
 歩兵長、とビシュラが声を上げ、緋の視界にぬっと褐色の腕が割り入った。

「あ、コラ」

「触るくれぇなら大丈夫なんだろ」

 ヴァルトラムはビシュラの頬を撫でた。ヴァルトラムと緋との会話の意味が分からないビシュラは、キョトンとして大きな手に素直に撫でられていた。
 ヴァルトラムの手がビシュラの顔の輪郭を上になぞってゆき、獣耳の根元を擽った。ビシュラはハッとして自分の頭部に両手で触れた。

「耳ッ……」

 帰還して覚醒したときからずっとヴァルトラムの部屋にいたから獣耳を収納することを完全に失念していた。というより、いつからこれに気を払っていなかったのか思い出すことができない。一体どれほどの人数にこの姿を晒してしまったのだろうと考えると血の気が引いた。

「亜人種だったんだな」

 緋からそう言われ、ビシュラはビクッと肩を撥ねさせた。すぐさま緋の顔を見ずに頭を下げた。

「黙っていて、申し訳ございません」

「別に謝ることはない。寧ろ、隠していたのに不本意に知ってしまってすまない。まあ、隠すようなことでもないが」

「《四ツ耳》ですよ……?」

 緋はヴァルトラムとは異なり、偏見を含め常識というものに人並みに通じている。ビシュラの言わんとすることにすぐにピンと来た。《四ツ耳》であるというだけで被る不利益や不遇を察した。学院や観測所、世間一般では肩身の狭い思いを強いられたのだろう。故に、何でもないことだよと微笑んだ。
 ヴァルトラムが言う通り、大隊では亜人種は珍しくはない。亜人種に対する偏見も少ない。大隊での価値判断基準は有能であるか否かだ。
 ビシュラが頭部から手をどけ、手で押さえられて寝かせられていた長い両耳がピンと立ち上がった。それから、ふにゃっと力の抜けた顔で嬉しそうに笑った。
 ところで、と緋が言い出し、ビシュラの獣耳がピクピクと動いた。

「いつから食べてない。最後に食べたのはいつか覚えているか」

「いつから……? あそこでのことは、記憶が少し自信がなくて」

 申し訳ございません、とビシュラは苦笑した。
 緋はヴァルトラムを横目でジロッと睨んだ。

「戻ってから食事もろくに摂らせてないのか。何やってるんだ歩兵長」

「いえ、歩兵長は食べろと仰有ったのですが、わたしが食欲がなくお断りしてしまったのです」

 ビシュラはぶんぶんっと首を左右に振った。
 ヴァルトラムはビシュラの頭の上に手を置いて獣耳を倒しながら撫でた。

「俺の言うこと聞いて、俺の言う通りにしときゃいいってこった。オメエは俺のモンなんだからよ」

Jaヤー

「オメエの敵は全部俺が蹴散らしてやる。だから、俺の為に歌え」

「仰せの儘に――……」

 ビシュラは瞼を閉じてやや頭を垂れた。ヴァルトラムの要求をビシュラは受け容れた。それはビシュラの望みと合致していた。

(歌……? そういえば歩兵長が妙なこと言ってたな)

 緋の目から見るとビシュラは随分と素直に了承したように見えた。ヴァルトラムの所有欲が強いのはいつものことだが、ビシュラは抵抗なく受け入れていただろうか。寧ろ、従順なこの娘が唯一拒否していたのがまさにそれではなかったか。
 緋は何かがあったのだろうなと推察した。冗談混じりにトラジロに言ったことが本当になったわけだ。この二人の間でしか知り得ない密約のような何か。戦場でか、二人きりの密室でか、ベッドの上でか。
 彼処――ビシュラが記憶さえも曖昧にした凄惨な現実――戦場では、誰しもが何かを守る為に戦うのに、帰りを待っている人がいるのに、傷付いて、斃れて、無惨に散ってゆく。殆どがそうだ。大勢がそうだ。それなのに、自分だけが守られて無傷でいる事実に引き裂かれそうだ。
 引き裂かれてしまえばよかった。燃えてしまえばよかった。跡形もなく爆ぜてしまえばよかった。どうせ守られる価値などない。どうせ生き残る価値などない。この身に、誰かの命と相応の価値などないのだから。
 無価値にただ生き延びるくらいなら、何の役にも立たずただ生き続けるくらいなら、誰かの為に使い潰されて費えたい。

 ヴァルトラムは病室から出て行った。
 緋はベッド脇の簡素な椅子に腰掛けた。ビシュラの顔をまじまじと見て「顔色がよくない」と言った。

「点滴でとりあえずの栄養補給はできているだろうが、明日はちゃんとしたものを食べろよ。戦場では食べることと寝ることは絶対にやめるな。そんなんじゃ、敵にやられなくても体が保たない」

「はい。以後気をつけます」

「睡眠だけは充分にとってるらしいな。気絶するのも眠るのも朝まで目を覚まさないなら似たようなものだ」

 緋から揶揄われ、ビシュラの頬がカッと赤くなった。

「なっ、なんのお話ですかっ」

「なにって、SEX。朝起きられないくらい付き合わせられてるんだろ?」

「歩兵長が仰有ったんですねッ💢」

 ビシュラは顔全体を真っ赤にして非難の声を上げた。

「今回は合意だって言い切ってたぞ」

「さ、最初は無理やりされたわけではないですが……歩兵長は、や、やめてくださらないので……」

 ビシュラは緋から目を背けてもにょもにょと口を動かした。いくら緋にはこの上なく心を許しているといっても、男女の情事について明け透けに話題にするのは羞恥の限界だった。

「戦場にまで助けに来られて、ついに歩兵長に惚れたか?」

 ビシュラがそろりと表情を窺うと、緋は仕方のなさそうに微笑んでいた。やめておけ、ほかに男は大勢いる、といつもヴァルトラムではない異性を勧めるが、あのような場所に命懸けで迎えに来られたら恋に落ちるのも成る程仕方がないということだろうか。
 かつて緋は事実は知っておいて損はないと言った。一時の瞬発力で恋に落ちるより、いくつのも事実と為人を知って、本当に好きなのか決断しろという意味だ。後悔のない決断をしろという人生の先輩からの思い遣りだ。
 だから、そのような緋に惚れたかと問われれば、ビシュラは「否」と答えるしかなかった。このような想いが恋であるはずがないから。

「恋愛感情とはまた違う気がします。……歩兵長は守るべき人だと思いました」

 緋もオタカルもヴァルトラムを是とした。強さは正義だと標榜した。兵士の多くが、《魔物》と畏怖しながらも何故あのような狂人に心酔するのか今なら理解できる。

「わたしは無力です。わたしは戦えません。わたしは誰も助けられない。わたしを庇ってくれた人も目の前で死なせてしまっ――……。助けたいと思っても、誰も助けることができないのです、わたし一人の力では……」

 ビシュラはシーツをぎゅっと握り締め、込み上げてきた熱を噛み殺した。

「でも歩兵長は大勢の仲間を助けることができます。歩兵長ならどんなときも仲間を生還に導くことができます。わたしにできることは、歩兵長のお役に立つことだけです。歩兵長の盾になります。傷付けば治します。絶対に死なせません」

 地獄の端で絶望感と無力感に喘いだ末路が、自分の身を使い潰してしまいたいほどの決意が、このような重たくて苦しい使命感が、恋であるはずがない――――。

 緋は、ビシュラの拳の上に手の平を置き、ぽんぽんと撫でた。シーツを握り込んだ小さな拳は震えていた。本当は戦いたくない。二度とあのようなところに戻りたくはない。しかしながら、己の決意を貫くならそうするしかない。戦わずして真に獲得できるものなどないのだから。

「お前は戦っているよ。お前は戦って、帰ってきた。お前は自分で戦い方を選んだのさ」



   § § § § §


 三本爪飛竜騎兵大隊隊舎・大隊長執務室。
 天尊ティエンゾンは自室のソファで寛ぎながらトラジロからの報告に耳を傾けていた。
 トラジロは直立して腰の後ろに握り拳を置き、ビシュラが動員された前線の戦況報告を滔々と読み上げた。その表情は硬かった。

「ヴァクセン戦線にて高出力のネェベル反応が観測されました。現地での目撃報告と併せて《徹砲ゲシュツ》の発動とみられます。当時の前線に単身で《徹砲ゲシュツ》の発動が可能なプログラム熟練者が動員された記録はありません。恐らくは、いえ、ほぼ間違いなく、ヴァルトラムのネェベルを使用したビシュラでしょう」

「《徹砲ゲシュツ》の発動も可能とはな。目の前で見せられてはもうヴァルトラムのほうがビシュラを手放さんだろう」

 天尊はトラジロとは対照的に機嫌が良さそうだった。先程隊員が持ってきた、雑な味しかしないインスタントコーヒーを飲んで嫌な顔一つしなかった。
 敬愛する大隊長が上機嫌であることはよいことであるはずなのに、トラジロは胸騒ぎがしていた。

「ビシュラはヴァルトラムの部下ではありません」

「そうだな」

「私の部下です。騎兵隊の隊員です」

「そうだ」

「ビシュラは私の指揮系統下で運用します。私に御一任ください」

「そんなに焦るな、トラジロ。何も今すぐどうこうしようというわけじゃない」

 天尊はトラジロと目を合わせてニイッと笑った。
 嗚呼、なんて不穏な笑顔。嫌な予感しかしない。今すぐどうこうするつもりはなくとも、いずれはどうなるというのだ。善良なあの娘がどうなってしまうというのだ。
 トラジロはそれ以上何も言わなかった。自分の立場から天尊には何を言っても無駄だと分かり切っていた。

(大隊長は〝金の輪っか〟としてビシュラの配属を許したと思っていたが……。〝金の輪っか〟どころか、あの戦闘狂にとんでもない盾と剣を与えてしまったのではないか)
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