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Kapitel 07

奇跡の発現 02

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 天尊ティエンゾンとトラジロが隊舎に戻ってくると、隊員の一人が駆け寄ってきた。天尊がどうしたと尋ねるより先に開口一番「大変です!」と、汗の浮いた強張った険しい顔。一分一秒を争う焦燥が見て取れた。

「ヴァクセン戦線にシュヴューリンゲンでカリキュラムを終えたばかりの新兵が緊急動員されました。ビシュラは今、前線にいます」

 ビシュラが前線にいます――、それを聞いた瞬間、トラジロは背筋が冷えた。

「なんですって……⁉」

 天尊は報せを持ってきた隊員へ目線をやった。

「突然戦線が動いた理由は何だ。あそこは長らく膠着状態が続いて、むしろ戦況は安定していた。実質の停戦状態だったはずだ」

「敵戦線が新兵器を投入、前線を突破されました。急速に前線が押し上げられています」

「たかだか初期教育カリキュラムを修了しただけの新兵を前線に投入するなんて馬鹿げている。大した戦力になどなりはしないッ」

 トラジロの声は無自覚に大きくなった。予想外の現実を否定したい気持ちが強く出たのだろう。
 池魚の殃、そもそも己の意志に関係なく命令一つでどうなってしまうか分からない身分となったのだ。手元に置いて目を光らせていない限りは、心構えを怠ってはならなかったのだと今更悔いた。

「シュヴューリンゲン演習場はヴァクセンに近い。逸早く戦線に部隊を投下するにはうってつけだ。主戦力部隊が現地に到着するまで、新兵を使い潰しての遅滞防御だろう。敵戦線に投入された新兵器についての情報は」

 天尊はトラジロほど正直に顔色を変えなかった。
 天尊から尋ねられた隊員は「こちらにはまだ」と答えた。
 天尊がチラリとトラジロに目を遣ると、険しい表情をしていた。

「……未確認の新兵器が投入された戦場で、無事でいられると思いますか」

「まず初めて戦場を踏んだ新兵は生き残れば上出来だ」

 天尊はお前も分かっているだろうとばかりに淡々と答えた。トラジロと比較して薄情なのではない。冷静かつ明晰なのだ。遠く離れた此処から希望的観測だけを述べてどうなる。手を拱いて神に願うのと何ら変わらない。何もしなければ情況が変わることなどないのだ。

「戦場に出すつもりなどなかったのに!」

 トラジロは足許に向かって過去の己を叱責した。
 ギャア、ギャアッ、と飛竜の啼き声が聞こえてきた。天尊と隊員は隊舎廊下の大窓から外を見た。二人とも視線は飛竜用の厩舎の方角を向いていた。

「トラジロ、乱れるな。お前が乱れると飛竜が騒ぐ」

 天尊が窓の外を眺めていると、ガッチャガッチャと喧しい音が近付いてきた。
 朱髪の巨躯が軍靴を鳴らし、隆々たる肉体を揺らし、視界すべてを睥睨し、鬼気迫る気魄を垂れ流しながら近付いてきた。危険を察知する真面な感性をもっていれば無視することはできまい。禍々しいまでの存在感だった。
 ヴァルトラムは天尊の真ん前で足を停めた。

「俺を送り込め」

 天尊はニヤリと笑った。最早、何処へとも何の為にとも、問う必要は無かった。そう来るのは分かっていた。寧ろ、今か今かと待っていた。悪魔がそう言い出すのを。
 人の身に顕現した悪魔――――《魔物》が自らを縛る〝金の輪っか〟を取り戻しに危難へ飛び込む、実に面白いではないか。爆煙と光線が飛び交う戦地へ、肉片と泥濘が交じり合う戦地へ、蟻のように夥しい人々が犇めき合う戦地へ。
 そうだ、戦地へ赴くのだ。恋しい恋しい地獄へ舞い戻る。今次だけは生きて帰る為に往く。

「ブーツのメンテナンスは?」

「とっくに終わってる」

「緊急の出撃だ。クスリは?」

「じきに抜ける」

「何人必要だ?」

「俺だけで充分だ」

 天尊は御機嫌だった。すべて相分かったとパチンッと指を鳴らした。

「いいだろう。俺の隊の可愛い新人を連れ帰ってこい。タグだけや死体でじゃないぞ。ちゃんと愛らしいカオそのままでな」

「当たり前ェだろうが」

 準備しろ、と天尊は顎でクイッと指示した。
 ヴァルトラムはクルリと踵を返し、またブーツの踵を鳴らして歩いて行った。

「喜べ、騎兵長。窮地の新人を歩兵長が自ら迎えに行くそうだ。新人が生還する可能性は跳ね上がったぞ」

 ですが大隊長、とトラジロは機嫌な天尊に水を差した。

「前線は恐らく砲撃戦の真っ最中です。ヴァルトラムを飛竜で輸送するのは得策とは言えません」

「輸送機はマコックに出させる。貸しを返す機会を与えてやる」



   § § § § §


 ヴァクセン戦線――――。

「走れ走れ走れーーッ!」

 訳も分からないまま走り回らせられたかと思うと、停まれ、構え、射てと命じられる。次の瞬間には怒号を上げていた上官が吹き飛び、姿形が無くなった。ついさっき勇ましく塹壕から飛び出した兵士が、上半身だけになって這いずり回っている。ついさっきまですぐ傍で震えていた兵士が、狂ったように敵を撃ち殺して嗤っている。
 次に誰に銃弾が当たるか、どこに砲弾が降ってくるか、いつ何時頭上を飛ぶ飛行兵の目に留まるか、階級も善悪も信仰も関係なく、運だけが支配する。嗚呼、運否天賦、地獄は運だけが物を言う。
 爆裂の光、硝煙の香、目も鼻も莫迦になり、血肉も泥土も区別がつかない。道徳や理非さえも見失ってしまった。教えられたことはすべてが吹き飛んだ。何も知らない無学になった気分だ。ただ生き存えたい原始人になった気分だ。生まれたばかりの赤子になった気分だ。
 戦場を想像した? 想像したものよりも? 想像とは何だったのか。想像に追い抜かれるとはこういうことか。まさに想像を絶する現実。実を知らない想像などには何の意味も無い。あのような無意味なことに時間を浪費するくらいなら塹壕を1センチでも高くしたほうが万倍よかった。
 これが、戦場。これが、現実。
 こんな、この世のすべての悪夢を詰め込んだようなものが――‼


「うっきゃあああーーっ!」

 ビシュラは泣きながら悲鳴を上げて塹壕内に蹲った。ガタガタと震える肩を、ロスワルトが握り締めた。

「准尉、落ち着きなさい! 防護殻を点検し、装備したでしょうッ」

 ズドォンッ、ズドォンッ、とそこら中で砲撃の弾着音が轟然と響いている。
 ロスワルトはヘルメット同士がぶつかるほどビシュラの耳に口を近付けて声を張った。

「大抵の弾丸は防護殻で防げます。エンプティにだけは気を付けてください。准尉は《牆壁》の発動も可能です。大丈夫、あなたに弾が当たることはありません。大丈夫、あなたは生き残ります」

Jaヤー……」

 さあ立ち上がって構え、とロスワルトに発破をかけられ、ビシュラは塹壕から顔の上半分を出して小銃を構えた。訓練による条件反射だった。
 ダダダダッ、ダダダダッ、ロスワルトは一定間隔で引鉄を引いた。ビシュラはいまだに引鉄を引く度にいちいち躊躇しているというのに、曹長は顔色一つ変えず慣れたものだった。これが曹長の職務、生きる糧なのだから。

「そんなに震えてちゃあどうせ狙っても当たりません。前を向いて撃つだけでいい。撃つだけで牽制になる。それだけで敵はあなたに寄ってきません。あなたはネェベル操作に慣れていてチャンバーへの充填が新兵の誰よりも上手い。ネェベルが乗った銃弾は火力が大きい。敵はあなたに近付きたがらない」

 小銃を構え、チャンバーにネェベルを充填し、引鉄を引く。ネェベルが切れる前に再充填、引鉄を引く。
 ビシュラはロスワルトの指示に従った。涙を拭うよりも引鉄を引いた。指示が無ければ行動できない。密林に放り出された赤子のようなものだ。泣いて喚くばかりで何も考えられない。恐い。暑い。熱い。臭い。生臭い。焦げ臭い。苦しい。息苦しい。恐い。恐い。恐い。

「があああああーーッ!」

 獣のような声を上げて敵兵が突進してきた。
 ロスワルトはビシュラの前に躍り出た。ガツンッと敵の小銃の銃口がロスワルトの防護殻にぶち当たった。敵兵はそのまま雄叫びを上げて射撃した。防護殻には何本もの亀裂が走ったがどうにか持ち堪えた。
 ロスワルトから「准尉!」と飛んできてビシュラはハッとした。ビシュラの銃口は敵兵の土手っ腹を狙える位置にあった。撃てという意味で呼ばれたことは分かる。敵兵が至近距離に迫っているということは逆も然りだ。これだけ近ければ震えていようと下手くそだろうと当たる。
 ビシュラは引鉄を引くことができなかった。
 敵の銃口がビシュラへ向いた。
 ズダダダダダッ!
 敵兵が引鉄を引くよりも先にロスワルトの銃口が火を噴いた。敵兵は空を振り仰いで後方に倒れながら最後の力を振り絞った。運悪く銃口の先にいたのはロスワルトだ。先程の射撃の衝撃で耐久に限界を来していた防護殻は無残に砕け散った。
 撃たれる! ロスワルトが被弾を覚悟した瞬間、銃弾のほうが避けて通った。否、違う。ビシュラが発動した《牆壁》が銃弾を弾いたのだ。
 ロスワルトから薄笑いが漏れた。この瞬間、彼の目にはビシュラが救いの女神に見えたに違いない。

「こりゃあ心強い……。防護殻なんて要らないな」

 ズターンッ。
 一発の銃弾が、ロスワルトの体の真ん中を貫通した。
 死を垣間見て思いがけず生き延びることもあれば、助かったと思った次の瞬間に呆気なく命を落としたりもする。次に誰に銃弾が当たるか分からないと言ったはずだ。地獄は階級も善人も極悪人も分け隔てなく真の平等。運否天賦、運だけが物を言う。

「あああああーーっ!」

 敵兵は獣のような唸りを上げて突撃してくるが、ビシュラも断末魔のような叫びを上げた。視界でロスワルトがゆっくりと頽れていく。ただ叫ぶしかできなかった。
 ロスワルトは血を吐きながら小銃を引き上げた。塹壕を乗り越えんとする敵兵に向かって射撃した。ロスワルトと敵兵は互いに銃弾を撃ち込み、後方に吹き飛ぶように倒れた。
 ビシュラはロスワルトに飛び付いた。

「曹長! ロスワルト曹長!」

 ロスワルトは痙攣しながら血液を吐き出した。生温かい血液がビシュラの顔にビチャッと跳ねた。
 ビシュラは顔を拭うことも忘れてロスワルトにしがみついた。ヘルメットを脱ぎ捨て、ロスワルトの体を隅々まで見渡した。絶望が増しただけだった。

「す、すぐに回復させないとっ……。損傷箇所が多っ……筋肉も臓器もめちゃくちゃ……! ダメ……ダメだ、できない……何もできない……っ。わたしだけじゃ何もできない。わたし一人じゃ――……」


 ――わたしは無力だ。

 ビシュラはロスワルトの戦闘服を握り締めた。なまじ優秀な頭脳が、ロスワルトの負傷の程度を解析して最早打つ手無しと告げていた。
 できることが何も無いと分かるだけの脳なんて要らない。銃を構えても引鉄を引くことができない指なんて要らない。どうしてわたしは此処にいるのだろう。わたしを守ってくれた人を助けることもできない。命を奪われて、命を奪う勇気も無い。臆病で凡愚で愚図で無力で、あなたにかける言葉すらも見つけられない。末期の兵士に何と言えば報いることができるのだろう。
 わたしはあなたに何もしてあげられないのに。

「ユリカ」

 確かにロスワルトの声が耳に届き、ビシュラは目を見開いた。
 ロスワルトは何も無い宙を見ていた。ビシュラは「教官! 教官!」と彼の視界の真ん中で何度も呼びかけた。
 震えるロスワルトの手が何度か宙を掻き、ビシュラの頬に触れた。

「ユリカ……どうして……? こんなところにいたら、危ないよ……」

 いいえ、わたしはあなたの妹ではありません――。そのようなことは言えるはずがなかった。髪や瞳の色も顔立ちもまったく似ていないなんてことはどうでもよい。あなたが最も会いたいと願う人の面影を見出したなら、このような地獄にいながら愛する人に会えたなら、もうそれでよい。
 ビシュラにはロスワルトが微笑もうとしているように見えた。蒸し暑い戦場に降り立ってから見たなかで、最も安らかな表情だった。
 そうか、あなたは最後に残された力を振り絞って、微笑む人だったのだ。

「ユリカ……。どうか……幸せに……。この世で一番……幸せに、なれるよ……ユリカ……」

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