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Kapitel 06

09:四本爪 02

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 ヴァルトラムは「あァ~?」と悪態を吐くように聞き返した。

つのの子よ、何故その男を連れてきた」

 角の子――それがオタカルを指していることは明らかだった。この場で額に角を持っているのはドラゴン以外にはオタカルだけだ。

「その男は罪を犯した。その男によってこの地は穢れてしまう」

「四本爪! 貴方なら御存知のはずです。歩兵長は決して一方的に飛竜を虐殺したわけではない。あれは事故です。歩兵長の行動は他の者の命を救う為にやむを得なかったのです」

「そうではない」

 四本爪ドラゴンの声は洞穴内に厳かに響いた。オタカルは口を閉ざして耳を澄ませた。聡明なドラゴンの次なる言葉を待ち、空間がシンと静まり返った。

「ドラゴンを殺めた、この地で。ドラゴンが平穏に暮らすドラゴンの為の大地を、ドラゴンの血で塗らした」

 オタカルとビシュラに衝撃が走った。ビシュラは声を失し、オタカルの肩は小刻みに震えた。ヴァルトラムを振り返ったオタカルの顔は蒼白だった。彼のように有能で経験豊富な兵士さえも冷静さを保てない。事態は深刻だった。
 ヴァルトラムだけが相も変わらず恬然としていた。己のしたことを覚えていないはずがないのに。しっかと覚えていて一切心を動かさないのだ。朱髪の魔物にとっては、譬え最古の生物ドラゴンであれ、手にかけることは必然性があればさして気に留めるようなことではなかった。この地で最も高位な四本爪ドラゴンに対しても躊躇無く引鉄を引いたのだから。

「歩兵長。貴方は、何を……⁉」

「ドラゴンが襲ってきた。だから殺した」

 オタカルの声は若干震えていた。質問に簡潔に答えたヴァルトラムのほうが数倍冷静に見えた。
 ビシュラは昼間ヴァルトラムの手が汚れていたことを思い出した。小川に流れ出した泥のような汚れ、あれはドラゴンの血だったのか。

「どうして……?」

「自分よりデケェ生きモンが牙剥いて襲ってきやがったら殺すだろ」

 ビシュラはほぼ無意識に問いかけていた。それに対してヴァルトラムは当然という口振りで答えた。

「それがその男がドラゴンを殺めた理由。自身に危険が及べば攻撃するのは至極当然のこと。どれほど小さく弱い生き物でもそうする。そして、ドラゴンにもその男を殺める当然の理由がある。そしてまた、理由がやって来る」

 グゴァァアアアアーーッ‼
 突如として野太い咆哮が轟いた。
 ドラゴンの話に聞き入っていたビシュラはビクゥッと全身を撥ねさせた。
 一頭のドラゴンが力強く四肢を突っ張り、オタカルが入ってきた横穴を塞いでいた。オタカルと同じようなルートを辿って外からこの空間へ辿り着いたのだろう。ドラゴンは額に生えた太い一本角を左右に振り、両翼を大きく広げ、眼は血走り、非常に激昂しているように見えた。
 ヴァルトラムはドラゴンの方角へ爪先を向けビシュラよりも一歩前に出た。銃を肩の上に平行に置いて両腕をぶら下げた。ヴァルトラムはここに至っても悠然としていたが、ビシュラの表情は引き攣っていた。憤怒のドラゴンを見たのは初めてのことだった。

「オメエはアレ見て平気だってか?」

「こ、恐いですが、殺したくはないです……っ」

「弱っちいクセに言うことァ立派だ」

 カカカ、とヴァルトラムはジョークのように笑った。ビシュラならそう答えるだろうと予想は付いていた。

「そのドラゴンは、お前がここに来て殺めたドラゴンの同胞。お前を襲ったドラゴンは、かつてお前が殺めたドラゴンの同胞。ドラゴンはヒトとは違う。生来、恨みや妬みはない。だが、お前がこの地にやって来たことによりドラゴンの心に憎しみを、復讐を学ばせてしまった。そのせいに約束された平穏や平和を破壊した。お前から始まった血と憎しみの穢れはきっと長い時この地に残るだろう。それがお前の罪だ、朱毛の罪人よ」

 ヴァルトラムは「だから?」とでも言うように小首を傾げた。
 オタカルが四本爪ドラゴンのほうへ進み出た。その顔色はまだよくなかった。

「どうかお許しください、四本爪! この地でドラゴンを殺めてしまったことは深く陳謝します。しかし、自分の身を守る為にやむを得ないことではありませんかッ」

「角の子よ、お前は知っているはずだ。ドラゴンにはヒトのような法理はない。私はほかのドラゴンたちを支配しているのではない。その男を許すのは私ではない。その男はその男を恨むものに許されねばならない」

 オタカルはグリッと拳を握り込んだ。オタカルの焦慮とは対照的に、四本爪ドラゴンは非常に落ち着いていた。この事態は四本爪ドラゴンが仕組んだわけでも嗾けたわけでも、命じたわけでもない。聡明なドラゴンはただドラゴンとヒトとの成り行きの行く末を見守るだけ。ヒトの価値観に当てはめて薄情だと評するのは無意味だ。ドラゴンとヒトは異なる生き物なのだから。

「角の子よ、お前たちは私と約束をしたね。この地から飛竜を連れていきたければ私と会い、話をし、許しを得れば飛竜と交渉をしてもよい、決して無理矢理連れて行きはしない、そういう約束を交わした。約束を守り続けてくれてありがとう。お前たちと私との約束は破られていない」

 四本爪ドラゴンは黒い爪でヴァルトラムを指した。

「だが、同胞を殺されたドラゴンの恨みは、この男との約束事だ。ドラゴンは約束を守る、必ず」

 四本爪ドラゴンの助力は得られない。ドラゴンの憤怒が和らぎそうな気配は微塵も無い。一本角のドラゴンは頻りにひづめで地面を引っ掻き、今にも襲いかかってきそうだ。現状をどう打開すべきか、判断には一刻の猶予も無かった。
 オタカルはヴァルトラムへ振り返った。

「ドラゴンはヒトより長寿で記憶力がいい。恨みを忘れて許すなんてことは考えられません。私が退路を確保します。早急にここから離脱しましょう。大隊は〝竜の壁〟と長らく友好関係にありましたが、もう放棄するしかッ……」

「それはそれであとが面倒だな。チビがヒスを出すに決まってやがる」

「そんなことを言っている場合ではありません。一刻も早く離脱しないと歩兵長が危険です!」

 ヴァルトラムは四本爪ドラゴンを振り仰いだ。そして、同胞を殺されたドラゴン以外のドラゴンはどうするのかと尋ねた。
 オタカルは何を暢気な問答をしているのかと思ったが、それはドラゴンの本質を突いた質問だった。ドラゴンとヒトとは異なる、生物としても価値観も倫理も道徳も。

「ドラゴンはヒトとは異なる。集団で生活することはあっても、ヒトのように訳の分からない愛着はない」

 四本爪ドラゴンから回答を得て、ヴァルトラムは「ああ、そうか」と実に納得した様子だった。

「なら、そう難しい話でもねェ。俺に攻撃してくるドラゴンが全部いなくなりゃあいいだけの話だ。それで全部元通りだ」

 オタカルは胸にザワッと不穏な気色を覚えた。ヴァルトラムがあまりにも思い切りがよく断言したからだ。何を以てそう難しくはないと判断したのか、想像してゾッとした。

「歩兵長、貴方っ……ここで何頭のドラゴンを殺めましたか」

 ヴァルトラムはニヤリと口角を引き上げた。その眼光は剣呑にギラついていた。

「襲ってくるのは全部」


 ――「歩兵長を恐ろしいと感じることは無いのですか」


 オタカルの脳内をビシュラの言葉が巡った。純粋故に真理を突いていた。
 恐ろしいに決まっている。ヒトとドラゴンを異なる生き物だというのなら、争闘と危険に取り憑かれ、如何なる地獄でも嗤っている朱髪の男もまた、真面なヒトとはまったく異質――――《魔物ウンゲテューム》なのだから。

(恐ろしい人だなど分かっている。お嬢さん、貴方よりも何倍も身に染みている。それでも……それでもこの人は、希望なのだ)

 ダダァン! ダンッダンッ!
 一本角のドラゴンが地団駄のように太い足で大地を踏み締めた。見開かれた眼は真っ赤に充血し、激昂は最高潮に達していた。
 ある瞬間、ドラゴンは弾かれたように地を蹴り身を躍らせ突進してきた。ヴァルトラムがドラゴンに銃口を向け、ビシュラが「ダメです!」と叫んだ。叫ぶと同時に《牆壁》を発動した。
 ドラゴンは不可視の壁に激突した。しかしながらその程度で怒りを鎮めることなどなかった。何度も何度も突撃を繰り返した。ドォンッ、ドォンッ、と衝撃音が空洞内に響いた。
 ビシュラは自身の防御壁がいくらも保たないことを分かっていた。

「退避しましょう歩兵長!」

「逃げたら面倒なことになるっつってんだろ」

「これ以上ドラゴンを殺すなんてやめてください」

「ドラゴンは特別か。大した〝善良〟だ。こっちを殺そうと襲ってくるんだ、ドラゴンもあの黒い獣も一緒だろうが」

「そ、それは……」

 虚を突かれたビシュラはヴァルトラムに釘付けになった。憤怒により忘我の境にあるドラゴンと本能の儘にヒトを屠る黒い獣、その両者の相違点、そのようなことは考えたこともなかった。これがまったく異なる世界を歩いてきたということ。異なる視点を持ち、異なる決断を下す。ヴァルトラムが《魔物》と称される異質だからというのみではない、ビシュラとは比較にならないほど多くのものを見てきたからだ。

「〝壁〟に集中しなさいお嬢さん!」

 ビシュラがハッとしてドラゴンへ目線を引き戻した瞬間、〝壁〟が砕け散った。
 プログラムの正常な起動、円滑な動作、特に維持には集中力を要する。ビシュラの気がヴァルトラムに逸れプログラムへの注力を怠ったことにより、一本角の突進が〝壁〟の強度を上回った。
 一本角は真っ直ぐにヴァルトラムに向かった。
 最早ビシュラの《牆壁》の再発動は間に合わないタイミングだ。ヴァルトラムはビシュラの服をむんずと掴み、自身の背中に押し込んだ。
 ヴァルトラムの視界のど真ん中にオタカルが躍り出た。
 ズドォンッ!
 一本角がオタカルの腹部を貫いた。根元は丸太のように太いが先端は鋭利な角、軍服とともに肉を抉って引き裂いた。一本角が頭部を激しく振り回し、血飛沫が舞った。
 年若い娘の絹を裂いたような悲鳴が空洞内に谺した。
 地面を蹴ったヴァルトラムは、オタカルの背中を片手で捕まえた。自分の後方、ビシュラのほうへ放り投げた。もう一方の手の指はすでに引鉄にかかっていた。
 ヴァルトラムは一本角の側頭部を蹴り飛ばし、一本角はドドォンッと重量のある音を立てて地面に倒れ込んだ。角をブーツ裏で踏み付け、側頭部に銃口を押し当てた。
 ダァンッ!
 銃声は一発で収まらなかった。ヴァルトラムは同じ箇所に続け様に複数回撃ち込んだ。その度に「ゲアッ! ゴアッ!」とドラゴンの啼き声が上がった。

「チッ。やっぱ出力が抑えてあんな。マックスのヤツ」

 ヴァルトラムは愚痴を吐露した。シンプルな武器の手入れは自分で行うが、銃火器の調整はマクシミリアンに一任している。そして、彼は過ぎた火力を好まない。今回は行き先からして派手な戦闘行為はないと踏んで銃の出力を抑えたのであろう。
 ヴァルトラムはいまだ息のある一本角から足を退け、腰元からマチェットを抜いた。一本角ドラゴンの前肢の脇辺りからマチェットを突き刺した。深く深く押し込み、マチェットの根元まで肉に埋めた。
 一本角ドラゴンは身動きをしなくなり、沈黙した。

 地面に仰向けに横たわったオタカルの傍にビシュラが座り込んでいた。プログラムによる止血を試みていたが、大きく裂けた腹部からまだ血液が流れ出していた。
 ヴァルトラムがオタカルの顔を覗き込んだ。彼は眼球だけを動かし、自分が負傷しても顔色一つ変えない褐色の歩兵長を見上げた。それで彼は満足だった。歩兵長を傷一つなく守れたのならば彼の本望だった。

「歩兵長、御無事ですか……」

「オウ。盾役、御苦労」

 オタカルは脂汗の噴き出した顔でフフッと笑みを零した。
 治せ、とヴァルトラムはビシュラに命令した。オタカルの患部に手を掲げているビシュラは、震えるか細い声で「できません」と返した。仰向けに横たわったオタカルから流れ出る真っ赤な血溜まりの上に座っている彼女の顔面は悲愴に青ざめていた。

「治せねェのか」

「わたしには高度な治療は無理です。回復プログラムによる応急措置程度しか……」

「やれることがあんならやれ。できるヤツはオメエしかいねェ」

「な、治せないんです! わたしの力ではッ……」

「じゃあソイツは死ぬ」

 それは何よりも絶対的な絶望の言葉。ビシュラは喉元に刃物を突き付けられたような気がした。考えないようにしていた。逃れようとしていた。他人事にしていたかった。三本爪飛竜騎兵大隊の誰もが、いつ誰が死んでもおかしくないと覚悟を決めているというのに。自分だけはいつまでも安穏な彼岸にいれるとでも思っていたのか。
 ビシュラは呼吸すらも忘れていた。理由も分からず込み上げてくる涙を堪えるのと同時に、深く息を吸って「っはー」と吐き出した。

(できないじゃない。やるしかないのです。誰にも死んでほしくないなら願ってるだけじゃダメ。誰も死なせないように、自分が必死にならなきゃ……!)

 何に替えても彼を救ってみせると腹を括ると急に肝が冷えた。それができる者は自分しかいない。誰も助けてくれない。誰にも甘えられない。正真正銘、彼の命綱を握っているのは自分なのだ。同時に頭も冷静になってきた。今この場でやらなければいけないこと、自分にできること、できないこと、それらを整理して最良の策を導き出す為に思考をフル回転させた。自分の行動が真実、悪手か妙手か熟考することはこの場では叶わない。自分にできる最大限はこれだと信じて行動するしかない。

「高度な治療が不可能であることは事実です。わたしにできることは可能な限り迅速に肉体の損傷を回復すること。損傷が酷く、生命維持をしながらの回復には、わたしのネェベルだけでは足りません。歩兵長のネェベルをいただいてもよろしいですか」

 ビシュラは何かが宿ったように強い眼でヴァルトラムを見た。その表情は強張っていたが、悪くない緊張感だとヴァルトラムは思った。

「オメエ、エナジードレインできんのか」

「いえ、それとはまた違うのですが……っと、ここで詳しくご説明差し上げている時間がなく大変申し訳ございません。本来ならちゃんとご理解いただいてから同意をいただくべきですが、今は一刻を争います。誓って、必要以上にネェベルを消費することはしません。なので――」

「好きにしろ」

 ヴァルトラムはビシュラの言葉を遮って承諾した。ビシュラはその躊躇の無さに面喰らった。
 ネェベルは血流のようなものだ。大気や体内を絶えず循環して要所を繋ぎ、健全を保っている。逆に言えば、停滞したり断絶したりすれば生命活動が危ぶまれる。いくらヴァルトラムが危険に盲目なほど勇猛であると雖も、それを分け与えろと乞われて二つ返事が返ってくるとは思っていなかった。正直、拒否された場合に説得する材料は持っていなかった。
 褐色の歩兵長の表情は泰然としていた。怖れ知らず云々ではなく、そのような危険性を熟考した回答とも思えなかった。

「ネェベルの供給は危険、なのですよ? ネェベルを供給しすぎたら命の危険もあるのにそんな簡単にっ……」

「オメエがそうしてぇんだろ。そうしろ」

「ではわたしにネェベル供給用の専用ポートを開いてください」

「知らん」

「フルアクセス権限を付与なさるのですか。それをなさると本当にネェベルを際限なく供給できてしまいます。そんな簡単に、わたしを信用なさるのですか」

「だから、オメエの好きにしろっつってんだろ」

 ヴァルトラムは左右に軽く顎を揺すった。
 ビシュラは、ヴァルトラムに信頼されていると感じた。己の命の一部を預けてもよいと思われるくらいに信頼されていると。これが勘違いであってもよい。勘違いが、臆病な自分を勇気づけてくれる。背中を後押ししてくれる。
 いま一時だけは、目の前の命を繋ぐ今だけは、勇敢でいたかった。
 オタカルさん、とビシュラはなるべく落ち着いた声で話しかけた。オタカルの意識はまだあり、うっすらと瞼を持ち上げた。出血が酷く、痛みは凄まじいだろうに、意識を失うまいとする兵士のプライドに感服する。

「《装甲パンツェルンク》を解除してください。わたしのプログラムと干渉します。組織の再構築と同時に知覚を麻痺させます。意識が混濁するかと思いますが安心してください。必ず助けます」


 ――――解析開始、完了
 ――――対象への接続開始…………成功
 ――――知覚部分遮断
 ――――〝回路〟急速回転
 ――――法紋ツァイヒヌング展開
 ――――再構築開始…………

 ビシュラの脳天から発するような声が、岩肌に囲まれた静謐な空間に朗々と広がっていった。
 ヴァルトラムはプログラムを解さない。故に、それを意味不明な言語の羅列、もしくは音声としか認識していない。若い娘の清澄な声音が高くもなり低くもなり一定のリズムで響くのは、聞いているだけで気分が良くなると感じた。

(まるで歌だな――……)

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