ゾルダーテン ――美女と野獣な上下関係ファンタジー物語

花閂

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Kapitel 06

03:規格外の男 03

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 性能テスト終了後。
 ヴァルトラムはシャワーを浴びに行った。フェイは仕事の話があるからと整備科員と別室へ行った。ビシュラはヴァルトラムと緋が戻ってくるのを整備科施設の一室で待機していた。
 室内にはビシュラだけではなくエムストもいた。エムストは期待に満ちた目でビシュラを見た。ヴァルトラムとビシュラとの遣り取りを見て、親しい仲であると確信を得てしまったのだ。
 エムストの前でヴァルトラムに近付いて堂々と諌言してしまったのは迂闊だった。顔と名前を覚えられているだけの一隊員ではなく、それが許される近しい間柄だと判断されて然りだ。

「本当は大尉と親しいんだろうビシュラ。どうして僕を紹介してくれないんだい?」

「親しくなんてありません。歩兵長に近付くなんてやめたほうがいいです。先程も危ない目に遭ったでしょう」

「危ない目なんてとんでもない。あれこそが大尉じゃないか」

 ぱしっ、とエムストはビシュラの手を掴んだ。

「規格外のトルク、想定を超える数値、奇跡みたいな現象。あんな未知数の塊みたいな人物に、近付きたくない研究者なんていない」

 これは好奇心だけでなく、憧憬――?
 圧倒的な存在感は人心を惹き付ける。魔物と畏怖しながら、危険と忌避しながら、目を離せない。エムストのように己の探究心や欲望に素直な男には、ヴァルトラムは一際魅力的な存在なのだ。
 シュン、と予期せず自動ドアが横に開いた。ヴァルトラムがシャワー室から戻ってきたのだ。上半身に何も纏っていなかった。シャワー室からずっと褐色の素肌を晒してきたに違いない。濡れ髪から雫を滴らせて室内へ入ってきた。
 ビシュラはエムストの手をパッと振り払い、ヴァルトラムから目を背けた。ヴァルトラムはビシュラの前を横切って奥へと進み、チェアにどさんっと腰を下ろした。
 ビシュラはヴァルトラムに乾いたタオルを差し出した。本音を言えばヴァルトラムから離れこの部屋から出て行きたかったが、そうもいかない。何故か嫌に緊張した。ヴァルトラムの翠玉スマラークトの視線がジロジロと自分に向いているのが分かる。何も疚しくはないのに観察されているか責められている気分だ。
 タオルを差し出しているビシュラに、ヴァルトラムは「オイ」と声をかけた。

「随分、親しそうじゃねェかビシュラ。ソイツはオメエの何だ?」

 ヴァルトラムはビシュラの顔を下から覗き込んで凝視した。ビシュラは意図的に目を合わせないようにした。ヴァルトラムは思考が読めない無表情なのに、距離が近付くと余計に追及されている気がした。

「……学院ギムナジウムからの先輩です」

「その頃のオトコか? それとも今でも惚れてるか?」

「先輩だと申し上げています」

「オイ、准尉。オメエはどうだ? ビシュラはただの後輩か?」

 ヴァルトラムはビシュラの表情に視線を固定させたままエムストに尋ねた。
 エムストは「ハッ!」と気をつけをして、ハキハキと答えた。

「ビシュラとは学院ギムナジウムの頃に交際していました。短い期間ですが。現在はよき友人です。誓って男女の特別な感情はありません」

 ヴァルトラムはほらなと言わんばかりに顎を軽く振った。ヴァルトラムに紹介されることが望みだったエムストは、最悪の形で認識されてしまったことに気付いていないだろう。
 ヴァルトラムは椅子から腰を持ち上げ、ゆっくりとエムストのほうへ近付いた。エムストの前で仁王立ちになり、若干首を斜めにして俯瞰気味に凝視した。
 エムストの額を汗が伝った。強い興味があるとは言ってもあくまで観察対象としてだ。怪物のような男と至近距離に対するのは緊張を禁じ得ない。

「ビシュラは俺の女だ」

 エムストはポカンと口を半開きにして間抜けな表情をしてしまった。ビシュラとヴァルトラムの遣り取りから一隊員として以上には気に入られているのだろうとは思っていたが、そのような関係とまでは思い至らなかった。彼の知るビシュラとヴァルトラムの人物像とでは到底結び付かなかったのだ。

「ビシュラが、ですか……?」

「何か文句があるか、あァ?」

 エムストが上擦った声で「とんでもない!」と返した直後、ビシュラがヴァルトラムとエムストの間に割って入った。ヴァルトラムを見上げ、叱るような目を向けた。

「やめてください歩兵長。わたしは――」

 ベキャァアッ!
 ヴァルトラムの握り拳がエムストの鼻先を掠めて通過し、壁を割った。拳が衝突した地点から亀裂が走り、壁面の端まで達した。
 エムストは口をあんぐと開いて声を失した。気が付いたときには壁面が割れていた。彼にはそのようにしか知覚できなかった。ヴァルトラムの攻撃を回避することなど不可能だ。ヴァルトラムが狙いを外すはずがない。これは目で見て分かる強烈な牽制だ。

「歩兵長何をなさッ……ンー!」

 ビシュラは抗議しようとしたが、ヴァルトラムに手の平で口を覆われて阻まれた。強引に引き寄せられ、腰に腕を回して拘束されてしまった。身を捩って抵抗したが、太い腕はびくともしなかった。
 ヴァルトラムは勝ち誇ったような表情でエムストを見た。

「昔のことだ、コレで済ましといてやる。今のところはな。ビシュラに手ェ出したらこうなんのはテメエの頭蓋だ」

 エムストはただただ愕然として言葉が出てこなかった。野獣のようにギラギラした翠玉スマラークトの双眸に射竦められ、彼のほうから何かをすることなど不可能だった。俺のものだと主張された時点で、強烈な牽制などなくとも絶対的強者から奪おうなどという気骨は彼にはなかったのだ。

「分かったら行け」

 ヴァルトラムは顎でドアを指した。エムストは一言も発することなく足早に部屋から立ち去った。
 ヴァルトラムが腕のなかのビシュラに目を落とすと、批難がましい目で睨み上げてきた。兎や角言うのだろうと想像に難くなかったが口から手を退けてやった。

「エムストさんになんてこと仰有るんですか。あんな脅迫みたいなこと」

「オメエ、本当は莫迦なのか? 物覚えが悪ィのか? 言ったはずだ。俺のモンに手を出すヤツはブチ殺すってな」

 ビシュラはフイッとヴァルトラムから顔を逸らした。

「そのようなことを仰有るのはやめてください。わたしが過去にどんな方とお付き合いしていても、これからどんな方と親密になったとしても、歩兵長には関係のないことです。わたしは歩兵長の恋人ではないのですから」

 ヴァルトラムはガッとビシュラの顎を捕まえ、やや強引に自分のほうへ目線を引き戻した。首を伸ばして顔を近付け、間近で視線をかち合わせた。
 ビシュラは呼吸を呑んだ。唇を固く綴じ合わせ気合いを入れなくては、ヴァルトラムの眼力に平伏してしまいそうだった。

「ガタガタ言わずにさっさと俺の女だと認めろ。ほかの男に手ェ出されるような莫迦な真似はすんな」

「わたしも言ったはずです。歩兵長なんて大嫌いです!」

 両者はしばし黙って睨み合った。ヴァルトラムは無表情だがビシュラの表情は強張り、どちらが強者でどちらが弱者であるかは明白だった。
 ヴァルトラムはビシュラの腰に回していた腕を持ち上げ、白い首筋に指を這わせた。片手で握り潰せる木枝のように細い首。

「……オメエ、やっぱり莫迦だな。また痛い目見ねェと分かんねェか」

 ヴァルトラムが大きく顎を開け、鋭く白い犬歯が見えた。
 噛まれる――! ビシュラはヴァルトラムの体を突き飛ばすようにして距離を取った。実際はヴァルトラムの身体は少しも動いてなかったけれど。
 ビシュラはヴァルトラムに向かって両手を突き出して《牆壁》を発動した。褐色の太い腕がビシュラを追いかけた。
 バチィンッ、と激しい音を立ててヴァルトラムの手は不可視の壁に弾かれた。次の瞬間にはヴァルトラムは拳を握っていた。邪魔な《牆壁》を物理的に破壊するつもりだ。
 突然、部屋のドアが開いた。室内の様子を見て、緋の足はビタッと停止した。
 緋は目だけを動かして情況をよくよく観察した。拳を振りかぶっているヴァルトラムと、両手を突き出しているビシュラ。まったく何がどうなればこうなるのか、只事ではないことは疑いようがなかった。

「何をしているのか、説明してもらってもいいか」

 ヴァルトラムはチッと舌打ちして拳を解いた。起こったことを一から十まで順序立てて説明するなど面倒臭い。今はとにかく苛立っていた。
 緋が室内に入ってくると、ヴァルトラムもドアに向かって動き出した。緋はヴァルトラムの真横を通過し、椅子の上に放置してあった上着を拾い上げた。

「隊舎じゃないんだ。半裸で動き回るな」

 緋はドアから廊下へ出ようとしていたヴァルトラムに向かって上着を放り投げた。
 ヴァルトラムはそれを無言で掴み取り、ガシャッガシャッと重々しい足音を立てながら歩いて行った。
 緋はヴァルトラムの気配が遠ざかっていくのを確認し、腰に手を当てて溜息を吐いた。片方の眉を引き上げて笑みを作り「何があった?」とビシュラに尋ねた。


 ヴァルトラムは何も言わず出て行ったが、緋がきっと整備科を後にしたに違いないと言うので、ビシュラと緋は隊舎へと戻ることにした。テストも調整も終えブーツの受け取りを完了したからには目的は達成した。ヴァルトラムが此処にいる理由は無かった。かといって別れ際のあの態度では真っ直ぐに隊舎に戻ったとも言い切れないが。
 道すがら、ビシュラは緋に事情を話した。コツコツコツ、と一定のリズムを保っていた靴音がピタリと停止した。緋が足を停め、ビシュラもすぐに足を停めた。
 緋は「それでか」と零した。ビシュラの輪郭のサイドに垂れる髪の毛を手で退かし、首筋がよく見えるように晒した。白い首筋に赤い斑点のようなものが残っていた。自分からは見えない為ビシュラ自身は気付いていなかったが、ヴァルトラムに掴まれた跡だ。

「まったく、お前は無茶をする。歩兵長に真っ向から反抗するなんて」

「上官に対し……申し訳ございません」

「そうじゃない。もし歩兵長が力加減を間違えたら大怪我するぞ。歩兵長もお前の扱いにはだいぶ気を付けているみたいだが、何の拍子に手元が狂うか分からない。そもそもが雑なんだからな」

 ビシュラは緋の発言が自分への心配に終始したことは意外だった。上官の命令は絶対遵守、従順服従は常。緋は兵士らしい兵士だから当然に注意されると思っていたのに。

「上官に反抗したこと自体は叱らないのですか」

「勿論許されないさ。ほかの上官へはやめておけよ。だが、お前と歩兵長はそういう杓子定規の仲でもないだろ」

「わたしと歩兵長は恋人同士ではありません」

「とはいえ元から至極当たり前の上官と部下というわけでもない。それはお前も解っているだろう。歩兵長に手加減をされていることも、特別に目をかけられていることも」

 ビシュラは強めに断言したが、緋は腹を立てなかった。フフフと笑ってビシュラの髪から手を離した。黒くて細い髪が指の上をスルスルと滑り抜けていった。
 ビシュラは緋からの指摘を否定しなかった。三本爪飛竜リントヴルム騎兵大隊リッターに入隊したことも、ヴァルトラムから特別扱いをされていることも、自ら望んだわけではない。そう放言してしまうのはあまりにも幼稚だとビシュラ自身も分かっていた。何一つ己で決めなかったから現状に至っている。だから現状の懊悩おうのうは何も決めてこなかった己の責任だ。
 生きるとは、己の決断決定を己で担保すること。何をすべきなのか己で考え、己の勇気でもって行動すること。あの人もそう言っていたのに、そう言って送り出されたのに、今だ以て実現できていない。

「お前がアキラと共に攫われたとき――」

 緋がそのようなことを言い出し、ビシュラの小さくピクンッと撥ねた。それまで凡庸な文官として観測所に勤め、大都市イーダフェルトから出たことも数えるほどしかない彼女にとって、あれは当然に忘れがたい体験だ。

「フローズヴィトニルソンの王城へ救出に行ったのは、歩兵長の意思だ」

 ビシュラは緋を見詰め、瞳が大きく開いた。
 緋の顔は端正で平静だった。切れ長の目を伏し目がちにビシュラを見詰めた。彼女にとっては分かり切ったことを説明するだけだから、取り立てて昂揚することなどなかった。

「アレは、大隊長の命令では……?」

「大隊長はアキラ以外のことは眼中になかった。あのときは命令も作戦もあったモンじゃなかった。まあ、アキラを取り戻せばお前もついでに救出してくれただろうけどな。そもそも一国の王城に二人だけで乗り込むなんてことは許容されることじゃない。アタシやトラジロは止めたが、歩兵長も大隊長も聞かなかった。アタシたちだってお前とアキラを必ず救出すると決めていたが、行動するには作戦や準備が必要だ。グローセノルデン大公とフローズヴィトニルソンの外交的問題もあるし、アタシたちは兵士だ。即断即決していい情況じゃなかった。だが――歩兵長はお前を助けに行った。お前を助ける為に、ろくな作戦もなく、装備も不充分なまま、敵の真っ只中に突っ込んでいった。兵士だからじゃない。兵士ならそんなことはしない。歩兵長はお前だから助けに行ったんだ」

 緋はビシュラの顎を人差し指の上に乗せ、クイッと持ち上げた。ビシュラの黒い瞳には色濃い途惑いがあった。それも無理はない。この娘は、己にそれほどの価値を見出していないのだから。何故、この娘はこれほど自己肯定が低いのだろうと緋は思うが今はそれを聞き出す場面ではなかった。

「歩兵長は人でなしの戦闘狂だから、純粋にフローズヴィトニルソンと戦いたかったという理由もゼロではないだろう。あんな男が敵の中に飛び込んだからって愛の証明になんかなりはしない。それでも歩兵長がお前をり返しに行き、り返してきたというのは事実だ」

 ビシュラは思い詰めたような表情になった。否、正確にはどう思えばよいのか決めかねていた。ヴァルトラムが危険を顧みず行動した事実、命を救われた事実、自分もあの男に助けてくれと願った事実、すべて嘘偽りない。しかしながら、ビシュラの良識良心に照らし合わせてヴァルトラムはあまりにも――――規格外だ。
 まだ長くはないビシュラの人生に、あのような男は一人としていなかった。ビシュラの世界に存在しなかった。ビシュラの小さく安寧の世界を破壊したのは、あの男だ。

「泣いて感謝しろと言っているわけじゃない。……まあ、帰ってきて歩兵長に優しく抱き締められたというわけでもなさそうだし」

 緋はフッと微笑み、ビシュラの顎をピッと指先で弾いた。ビシュラもヴァルトラムもフローズヴィトニルソンからの帰還の道程、二人きりの空間で何があったかなどわざわざ説明はしなかったが、緋には大凡のことは想像できていた。

「これをどう捉えるかはお前次第だ。事実は知っておいて損はない」

 感謝にしろ嫌うにしろ、お前が自由に決めていいんだからな――、緋はビシュラにそう言い聞かせた。
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