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Kapitel 03

深紅の花六つ 04

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「父さん!」

 突然、ビシュラの泣き言を打ち消して男性の声が飛び込んできた。
 いつの間にか敷地のすぐ脇の通りに黒塗りの自動車が停まっており、そこから下車したのであろうスーツを着用した男性と軍服姿の男が二人、此方に駆け寄ってきた。
 何故に軍人が? 軍服を着用しているからそうであることは間違いないが、一般人と同時に平穏な住宅地に現れた理由は皆目見当が付かない。

「ジジイの迎えにしちゃあ大仰だな。オメエが呼んだのか、ビシュラ」

 男たちの登場により、ヴァルトラムの気がおじいさんから逸れたようだ。ビシュラは内心ホッとして「はい」と答えた。

「徘徊をしてしまうご年配の方にはご家族がオープン型の識別票をつける場合があるのです。先程読み取って通知しておきました」

 ああ、それでバス車内で手を握っていたのかと、ヴァルトラムは納得した。ビシュラがあと少しだけとこの場を離れなかったのもじきに迎えがやってくると知っていたからだ。

「ですが確かにご家族のお迎えにしては、やや逞しすぎるような?」

 ビシュラは首を傾げた。おじいさんの家族が迎えに現れるだろうと予想していたから、兵士が二人も現れた理由はビシュラにもとんと分からない。

「御無事ですかギュンター中将殿!」

 兵士の一人がそう言ったのを聞いたビシュラは飛び上がった。兵士とおじいさんの間で視線を行ったり来たりさせてあわあわと慌てふためいた。
 兵士たちは此方に駆け寄ってきながらヴァルトラムを睨み付けた。一見してヴァルトラムは彼等の目に悪漢として映った。即ち、制圧対象とみなされたことを意味する。

「貴様、どこの手の者だ! 中将殿から離れろッ」

「ああァ~?」

 兵士の一人はヴァルトラムの服を掴んで組み合った。ヴァルトラムは間の抜けた声を出しただけで、微動だにしなかった。兵士は、いくら体格差があるとはいえ全力で踏ん張っても褐色の大男がびくともしない事実に血相を変えた。

「キミもヤツの仲間かッ」

 もう一人の兵士がビシュラの腕を掴んだ。ビシュラは咄嗟に「きゃあ!」と声を上げた。締め上げられたわけではないが大の男に遠慮無く掴まれるだけでもビシュラにとっては痛かった。
 わたしたちは保護していただけです、とビシュラが弁明しようと思った矢先、ぬっと褐色の腕が伸びた。太い腕がビシュラを捕らえている男の頭を鷲掴みにし、ガーデンテーブルに叩き付けた。
 ガシャアンッ!

「テメエ、俺の女に何しやがる」

 ヴァルトラムは、相手が自分と同じ軍服を纏う者であることなどお構いなしだった。掌に収まる程度の頭蓋骨を硬いテーブルの表面にギチギチと押さえ付けた。
 自分に掴みかかっている兵士に至近距離で「やめろ!」と怒鳴られたのが耳障りだったから、残りの腕で軍服の後ろ襟刳りを掴んで力尽くで引き剥がした。ズガンッと鼻先に頭突きをお見舞いし、怯んだところで腹部を蹴り飛ばした。
 これ以上はいけないと、ビシュラはヴァルトラムの眼前に飛び込んだ。

「歩兵長! もうやめてくださいッ」

「先に手を出したのはコイツ等だろうが」

「歩兵長……ッ⁉」

 ヴァルトラムによってガーデンテーブルに頭部を固定されている男が声を絞り出した。
 蹴り飛ばされた男は、雑草から起き上がって片膝をついてヴァルトラムをまじまじと見た。頭の天辺から爪先まで目を何往復もさせて。

「黒い肌に朱い髪、それにその動き……! もしや三本爪飛竜リントヴルム騎兵大隊リッターのヴァルトラム大尉殿では⁉ しっ、失礼いたしました!」

 男は急いで立ち上がった。キックを喰らわされた腹部が痛むだろうにピシッと背筋を伸ばしてヴァルトラムに向かって敬礼した。

「小官等はギュンター中将殿の警護にあたっております。大尉殿を敵と誤認いたしました。大変申し訳ございません。その……彼を放していただけませんか」

 そう乞われてもヴァルトラムは頭を押さえ付ける力を緩めなかった。ビシュラがトントントンと頻りに腕を叩き、ようやく手を放して宙に浮かせた。
 ヴァルトラムの腕から解放された男は、二本の足で立ち、ガーデンテーブルに押し付けられていた頬を揉んだ。赤くなった頬にテーブル表面に施された蔓草の紋様の跡がくっきりと残っていた。
 ビシュラは大丈夫ですかと彼を気にかけたが、ヴァルトラムが気にする素振りは微塵も無かった。身に降りかかる火の粉を払っただけだ。何が悪いという態度だった。
 そもそも一見してヴァルトラムを悪漢と認識するのは致し方ないことだ。軍装でなく、人相も態度も悪く、異様に厳つく、スーパーマーケットでも出会した御婦人はギャングだと思ったに違いない。

「戦争のお話をなさっていたので退役されたのだろうとは思っていましたが、まさか中将殿だったなんて……。歩兵長は気付かれていましたか?」

「いいや。ありゃあ本人もそうだと思っちゃいねェだろ」

 ヴァルトラムは男たちに目線を向け、ハンッと鼻先で嘲弄した。

「ボケたジジイのお守りが仕事とは、つまんねェな」

「大尉殿! 中将殿に対してお言葉が過ぎますッ」

 兵士の一人はヴァルトラムに対してすぐさま猛烈に反論したが、もう一人は興奮した様子はなく「そうでもありません」と言った。さも、あなたがそう考えるのも仕方が無いという風に落ち着いた口調だった。彼はヴァルトラムの名前と同様に評判をよく知っており、ヴァルトラムのような男には老人の警護などという任務は退屈に映るだろうことは想像に易かった。

「小官等はギュンター中将殿に恩義があります。小官は父が、彼は祖父が、大戦で中将殿に命を救われたそうです。その子等はみな当然に中将殿には大恩があり、可能ならばそれを中将殿にお返しすべきだと子どもの頃からずっと聞かされて育ちました。それに、中将殿が戦場でも如何に素晴らしい人物であったかも」

「ギュンター中将殿をじかにお守りする任に就けたことは祖父に誇れますッ」

 ヴァルトラムは勝手にしろとでも言うようにフラッと小首を傾げた。
 彼等はヴァルトラムにピシッと敬礼したあと、おじいさんとスーツの男性に近付いた。おじいさんと何らか言葉を交わし怪我や気分を確認した。二人でおじいさんを支え、路上に乗り付けた自動車のほうへ丁重に歩を進めさせた。おじいさんを後部座席に乗せ、軍人二人も乗り込んだ。
 スーツの男性だけが急ぎ足でビシュラとヴァルトラムのほうへ戻ってきた。男性は眼鏡をかけており、おじいさんと同じ色のロマンスグレー混じりの頭髪をオールバックにしていた。シックなスーツにノリが利いた真っ白いシャツ、華美ではないネクタイ、きちんとした身形の品のある紳士。

「あなたが連絡をくれたお嬢さんですか」

「はい」

「連絡をいただいて助かりました。ありがとう」

「おじいさんはご気分などは大丈夫でしたか」

「いや、本人はいつもと何も変わりありません。御心配までおかけして本当に申し訳ない。父が何かご迷惑をおかけしませんでしたか」

「あのジジイ、俺の女を口説こうとしやがった」

 いいえ、と答えようとしたビシュラよりも逸早くヴァルトラムが放言した。
 紳士は少々面喰らった表情を見せた。すぐにバツが悪そうに額を押さえた。

「それは大変失礼を。父は時々夢と現の判断がつかなくなってしまうのです。御容赦いただけると……」

「失礼などではありません。お気になさらないでください」

 ビシュラはぶんぶんっと首を左右に振った。あれは口説いたなどという俗なものではなかった。真摯な愛の告白だ。純粋で生粋だ。驚いたし多少胸が苦しかったが、決して迷惑などではなかった。寧ろ自分が、彼が見ているその人ではないことが申し訳なかった。

「あの……お父様はああなられてしまうことが多いのですか」

「半々というところです。ハッキリしているときは本当にしっかりしていて細かなところまでよく気付くのですが、ふと突然夢のなかにいるようになってしまう。家の者には目を離さないように言っているのですが、老人の足でどうやってか、いつの間にか目を盗んで抜け出してしまうのです。昔取った杵柄かな。軍人というものは、いくつになっても身に付いた技術は抜けないものですか」

 紳士にそう尋ねられたヴァルトラムは「さァな」と簡潔に答えた。

「息子さんは軍人ではないのですね」

「私には向いていると思えなかったもので」

 紳士はフッと笑みを零して両手を開いて見せた。おじいさんは背は高くないががっしりした体付きをしていたが、彼はスラリと背が高く痩せ型だ。それに穏やかな顔立ちをしている。確かにあまり荒事は向いていなさそうだ。
 あの、これを、とビシュラはテーブルの上の鉢植えを掌で指した。紳士は「これは?」と尋ねた。
 おじいさんがスーパーマーケットで選び、大切そうに此処まで運んできた、赤い花をつけた鉢植え。先程の騒動で落下したり花が折れたりしなくてよかった。

「お父様がわたしにと。恐らくお母様と間違われて……。先程歩兵長がお父様がわたしを口説いたなどと失礼なことを仰有いましたが、お父様はわたしとお母様とを間違われただけなのです」

「ああ、そうでしたか。父が折角贈ったものだ。もらってやってください。迷惑でなければ」

「しかしお母様に贈られたものなのに」

「いいのです。母はもう他界しています」

 贈るべき相手のいない深紅の花が六輪――。
 ビシュラは先程の愛の告白もこの花も自分は相応しくないと思ったが、受け取るべき相手がもうこの世にいないのだと聞いては無理に突き返すこともできなかった。

「わたしはお母様に似ていますか?」

「いいえ、まったく」

 紳士はハハハと笑った。彼にとって母親は家庭的であり完璧に母性の人だった。記憶は無いが乳を与えて子守唄を歌ってくれていたに違いない。物心をついてからは温かい部屋と食事を用意してくれ、お伽話を語ってくれ、褒めて頭を撫でてくれた。
 ここにいるうら若い乙女のような娘時代があったなど上手く想像できない。

「もしかしたら、父はあなたに私の知らない母を見たのかも知れません。私が生まれる前、恋人時代の頃とかね」

 母は君に似た黒髪だったし、と紳士ははにかんだ。目を合わせず気恥ずかしそうにする仕草が、父親に少し似ているとビシュラは思った。

「私の子どもの頃の記憶では、父はあまり家にいる人ではありませんでした。家にいるときも寡黙な人で、父と母が仲睦まじくしているところなんて見たことがない。子どもの頃は……いや、大人になってからもか。この二人は本当に世の恋人同士のような恋愛をしたのだろうかと不思議でした。……いえ、恐らく、あの二人らしい恋愛をしたんでしょう。母は父への不満を漏らしたことは一度もなかった。不幸そうな顔など一度も見たことがない」

「素敵な恋人同士だったのだと思います。お父様はお母様に花を贈ることを嬉しそうにしてらっしゃいましたから」

 ビシュラはそっと紳士の手を取った。紳士は反射的にビシュラの顔を見た。ビシュラは彼と目を合わせてニッコリと微笑んだ。

「父は今、恋人同士だった頃の母との恋をもう一度しているのかも知れませんね。夢の中で」

 青年ギュンターは、自ら志して身を投じ、世界中方々を飛び回り、苛烈な場所へ降り立った。どのような土地にいても、どのような空の下でも、恋人との思い出が彼に生きる勇気を与えた。大切な仲間や身の一部、心の欠片、何かを失いつつも前進し撃破し踏破し、何に替えても恋人の許へと生きて戻ると誓いを立てた。
 豊かな黒髪を揺らして笑う君が、いつも笑顔で迎えてくれる穏やかな君が、死ぬほど愛しい。この世で最も愛しいのは君だと伝えるときは、花を抱いていこう。
 永遠の愛を請うのだと花屋に告げて作らせた花束には、深紅の花が六輪咲いていた。


   §§§§§


 ヴァルトラムはビシュラを宣言した通りのパスタレストランに連れて行ってくれた。評判通りの雰囲気と味であり、ついでにいえば価格も評判通りだったが、ビシュラは御満悦だった。
 ディナーを終えて兵舎に着いたときには陽が落ちていた。
 ビシュラは見知らぬ男性兵士に声を掛けられた。所属大隊ですら全員の顔と名前はまだ一致していないのだから、隊以外の者は知らなくて当然だった。それはヴァルトラムが買い物をした荷物を部屋に運ぶ為に少し目を離している間のことだった。
 男性のほうもビシュラを見掛けたのは初めてだ。興味本位で声をかけてみたら思ったよりも愛想の良い娘だったから話が弾んだというところだろう。

「へえ、最近入ったのか」

「はい。先日から兵舎に移りました」

「分からないことがあったら何でも聞いてくれ。慣れるまでは色々と大変だろう」

「ありがとうございます。助かります」

「よかったら今から軽く飲みに行かないか。まだ時間も早い」

「お誘いいただき嬉しいのですが、あまりお酒に強くないので」

「ハハッ。まだ学生みたいに初々しい。一体どこの隊に配属――」

「俺の隊だ」

 ヌッ、と突然ヴァルトラムがビシュラと男の真横に現れた。
 ビシュラは「あ、歩兵長」と平気な態度だったが、男はビクンッと身体を跳ねさせ「ヴァルトラム大尉殿⁉」と声を上げた。まさか名の知れた大尉が現れるとは思ってもみなかった。
 ヴァルトラムが三白眼の視線を巡らし、男はサッと顔を背けた。ヴァルトラムとしては視線に敵意を含んだつもりはなかったが、男にとっては耐えがたかった。この先長い兵士生活、兵士たちに魔物と呼ばれ畏れられる男に睨まれるのは御免被る。「失礼します」と言って足早に去って行った。

「フェイが言う通りオメエは脇が甘すぎるな」

 はあ……、とビシュラはよく分からず生返事をした。
 ヴァルトラムにもビシュラが理解していないのは伝わった。小さく首を傾げるように軽く頭を振った。

「ジジイにもオッサンにもベタベタ触る。コナかけられてボーッとしてやがる。そんなんじゃスグに手を出されるぞ」

「他意があって触れたわけではありません。今も世間話をしていただけで手を出されるとかでは……」

 ヴァルトラムの顔が急に目の前に現れ、ビシュラは押し黙った。ヴァルトラムの眼光は強く、視線だけで黙らされてしまう。
 ヴァルトラムは腰を折り、ビシュラの耳許に口を近付けた。

「覚えとけ。俺のモンに手を出す男は、ブチ殺す」

 低い声がいやにゆっくりと鼓膜に響いた。声は耳から入って体のなかを沈んでいき、丁度真ん中あたりの臓器が震えた。
 ビシュラはヴァルトラムの声に強い意志を感じ取ってしまった。この男は一度決断してしまったら、何も躊躇せず実現する行動力と実力を兼ね備えている。ビシュラのように穏やかな気質の人物にとっては、このように強すぎる意志は恐ろしいものだった。
 岩窟のような体躯、その影にすら押し潰されてしまいそう。

「それが嫌なら、オメエが気を付けろ。俺は何も構いやしねェ」

 ビシュラは震えを押し殺して口を開いた。すぐには声が出なかったが、息を吸って絞り出した。

「わたしは……歩兵長のものでは、ありません」

 ヴァルトラムは下方に目を落とした。ビシュラ自身が制御しようとしても肩は微かに震えており、この男はそれを見落とさないくらいには目が利く。
 反抗されて気分を害すどころか愉快だった。兎のように脆弱な者が、片手で握り潰せる細い首を震わせて反抗する様は滑稽だった。慈悲深さは持ち合わせていないが、気概があるのは彼の好むものだった。
 ヴァルトラムは片腕をビシュラの腰に回してヒョイと抱き上げた。

「見た目の割りには度胸がある。悪くねェ」

「離してくださいッ」

 ビシュラは足を宙でバタバタさせて身を捩ったが、ヴァルトラムは動じなかった。

「オメエの部屋、越して来たばっかりでもベッドくらいはあんだろ? ヤリたくなった」

「はああっ⁉」

「また気持ちよくしてやっから温和しくしろ」

「やめてください!」

 バチィンッ!
 ビシュラはヴァルトラムの頬に有りっ丈の力で平手打ちを喰らわした。外でその話を持ち出されるのは、従順な彼女に上官と部下という関係性を失念させるほど耐えがたかったのだ。
 ビシュラはヴァルトラムの腕から解放され、地面に降り立った。屈強な大男を見上げてキッと睨んだ。ヴァルトラムは、震えながら噛み付こうとする黒い瞳を見詰めて口の端を引き上げてニイッと笑った。

「歩兵長なんて大ッ嫌いです‼」

 ビシュラは両肩に力を入れて大声で罵った。それからヴァルトラムにクルッと背を向け、全速力で兵舎のなかに駆け込んだ。つまり、逃げた。
 非戦闘員であるビシュラは戦う術を持たないし、そうしたところで勝てる見込みは皆無だと目に見えている。ビシュラが死ぬ気で駆けたところで、ヴァルトラムが本気で追いかければ捕まえることは難くない。しかしながら、ヴァルトラムは敢えてそうしなかった。己は弱いと知りながらそれでも懸命に反抗する姿が、滑稽で愉快で、気に入ったから。兎が噛み付く様はいじらしく、愛らしい。だから今日のところは逃がしてやろうという気になったのだった。


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