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Kapitel 03

深紅の花六つ 03

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 バスは目的の停留所へ到着した。所要時間はおじいさんが言った通り15分程度。
 おじいさんがバスから降り、ビシュラとヴァルトラムも続いてバスから降り立った。ビシュラがおじいさんから聞き出した話によると家はバス停から徒歩で数分だという。此処まで来たらその程度の距離をついていくのに何も問題は無い。ビシュラは家の近くまでお送りしますと申し出た。おじいさんは、彼女がバスを一緒にすると言ったときと同じように穏やかに「構いませんよ」と了承した。
 ビシュラはおじいさんに鉢植えを持ちましょうかと言ったが、おじいさんはこれは妻への贈りものなので、と丁寧に断った。もしも偶然妻が門の先を覗いていたら、彼女への贈りものを女性に持ってもらっているなんて恰好がつきません、と冗談のように笑った。
 スーパーマーケットで出会ってからバスの車内にかけてそうであったように、家に近付くにつれ、おじいさんの口はどんどん軽快になっていった。まるで若返っていくかのように。それを見たビシュラは、奥方に贈りものをできることが、奥方の喜ぶ顔を見ることができるのが、心から嬉しいのだろうと思った。
 おじいさんは「ここです」と言って足を停めた。それは錆びた門扉の前だった。
 門扉の向こうに家屋が建っている。全体に蔦が巻き、カーテンは無く、窓は曇り、家のなかに灯りも見えない。門扉から玄関ドアまで小径が覆われそうなほど雑草が生い茂り、木々は枝が彼方此方へ伸び放題、御世辞にも管理に手が行き届いているとは言えなかった。そういったことに頓着無くズボラなのだと言ってしまえばそれまでだが、それにしても家屋はそれでは済まされない荒れ様だ。端的に言えば、人が住んでいるとは思えなかった。
 それではここまでありがとう、とおじいさんはハンチング帽を浮かせ、ビシュラにぺこりと頭を下げた。両開きの門扉の片側に手をかけて押すと、錆びた鉄がキイッギイッと鳴いて開いた。
 おじいさんは玄関には向かわなかった。勝手知ったる慣れた足取りで家屋を周り、敷地の奥へと姿を消した。きっと家屋の裏は庭になっているのだろう。
 ビシュラは錆びた門扉の前で半ば呆然と立ち尽くした。

「空き家のように見えるのですが……」

 ヴァルトラムからは「だろうな」と同意が返ってきて、ビシュラも家屋を見詰めたまま「ですよねぇ」と再確認した。

「帰るぞ」

 ヴァルトラムから信じられない言葉が飛んできて、ビシュラは「えっ!?」と驚いて彼の顔を見上げた。ヴァルトラムは何もおかしなことはない、さも当然という表情でビシュラを見た。

「ジジイを目的地まで送りたかったんだろうが」

「しかしここにお住まいとは思えないのですが」

「住んでるかどうかまで知るか。ジジイが目的地だと思ってンなら目的地だ」

「もう少しだけ……」

 ビシュラは苦笑しつつおじいさんが消えていった方向を指差した。
 ヴァルトラムはビシュラに体の正面を向けた。仁王立ちで腕組みをし、三白眼でジーッと視線を注ぐ。眼力に敵わないビシュラは目線を逸らした。

「メシ、オゴってやる。帰るぞ」

「わたしは食べ物につられたりなどしませんよ」

「〝ズィーベンウントトライスィヒ〟のパスタ」

 ビシュラは「うっ」と零して押し黙った。それは若い女性に大人気のやや高級でお洒落なパスタレストランの店名。例に漏れずビシュラも是非行ってみたいと日頃思っていた。
 流行に関心なさそうな歩兵長が何故その店名を口にしたかというと、フェイが折角の休日なのだから用事が済んだら食事にでも誘えと店名と共に入れ知恵したからだった。ビシュラは緋に何でも話すから、行きたい場所や食べたいものなど緋はすっかり把握している。もしも何もアドバイスをしなかったら、ヴァルトラムのことだから本当に買い出しの運搬だけで終了になりかねないことくらい緋の想像に難くなかった。
 ヴァルトラムが微動だにせずジーッと観察するなか、ビシュラは眉根を寄せて優に30秒は悩んでいた。その店に誘えばまず断らないだろうという緋の情報は確かだった。この善良な娘は日頃から余程裏表のない言動をしているらしい。
 ビシュラは実に残念そうな表情で「くうっ」と決意を固めた。

「折角のお誘いですが今日は遠慮させていただきます」

「食いたくねェのか」

「パスタは、とても、食べたいのですが……ううう。やはりおじいさんが気にかかるのでちょっと様子を見てきます」

 ビシュラにとって高級人気店をご馳走になれるというのはかなり魅力的なお誘いだったが、断腸の思いで誘惑を振り切った。
 年寄りの何がそこまで気になるのか、ヴァルトラムにはサッパリ分からない。そもそも送り届けてやる義務も見届けてやる義理もないのに。しかしながらビシュラの意志が固いことだけは分かった。
 ガシャン、とヴァルトラムは門扉を押し開いた。

「食わせてやるからさっさと済ませろ」

 ホラ行くぞ、とヴァルトラムから急かされ、ビシュラは慌てて首をふるふると左右に振った。

「ここから先は不法侵入になるかもしれないのでわたしだけで行ってきます。歩兵長はここでお待ちになってください」

「何が不法侵入だ。ヨボヨボのジジイを目的地まで送り届けてやったのはこっちだぞ。ビクついてんじゃねェ」

 ヴァルトラムはビシュラの懸念など意に介さなかった。フイッと顔を前方に向け、敷地のなかに足を踏み入れた。その堂々としている様にビシュラは面喰らった。ヴァルトラムはぐんぐんと足を進め、彼女は置いて行かれていないように急いであとに続いた。

 家屋の裏に回り込むと、思った通り其処は庭だった。玄関周辺と同様に雑草が好き放題に伸びて荒れていた。テラスに白いガーデンテーブルと2脚のチェア。その一つにはおじいさんが腰掛け、対面のチェアは無人だった。テーブルの上におじいさんが持ち帰った赤い花の鉢植えがあった。
 おじいさんは荒れ果てた庭に一人きり、鉢植えを見詰めていた。語りかけるでも涙を流すでもなく、ただ沈黙して座していた。静かな庭を風が吹き抜け、草がさあさあと、木々の葉がざあざあと音を鳴らした。今日は太陽が出て晴れているが涼しい日だった。
 ビシュラは小走りにヴァルトラムを追い越し、おじいさんに近寄った。チェアの傍らに両膝を突き、おじいさんが太腿の上に置いていた手を両手で握った。手の甲や指先はバスの車内で触れたときよりも冷たかった。

「ここは風が吹きますから風邪を引いてしまいます。近くの、どこか温かい場所へ移動しませんか」

 おじいさんはビシュラを見てまたハンチング帽を少し浮かせて「お嬢さん」と言うのかと思ったら、じわりと目尻を綻ばせて微笑んだ。まるでとても親しい人にそうするかのように。

「やあ、イルゼ。今日も綺麗だね」

 イルゼ――それはビシュラもヴァルトラムも知らない、目の前にいる老人しか知らない女性の名前。
 彼は帽子を脱いでテーブルの上の鉢植えの隣に置いた。ロマンスグレーを片手で軽くさっさっと整えた。ビシュラのほうへ体の正面を向け、彼女の手に自分の手を乗せた。そしてギュッと握った。

「いや、ごめんごめん。君はいつ見ても綺麗だ。今日は機嫌が悪くないかい? 今日はプレゼントがあるんだよ。僕が勝手に選んだんだけど、赤い花は好きだったかな」

 イルゼという女性に話しかける彼は、スーパーマーケットで最初に見たときとは別人のように見えた。ビシュラとは直接目を合わせないようにし、まるで青年のように初々しくはにかんだ。言葉遣いにも青年らしさが滲み出ていた。
 ビシュラは彼の手を振り払ったりなどせず、黙って耳を澄ませた。

「以前少し話したけれど、僕はいろんなところへ行くだろう。船にも飛行機にも乗ってね。大抵は遠いところで……そんなにいいところでもない。旅行に行くなら、きっとぜんぜん違うところを選ぶよ。君に話したくもないような酷いところへも行くんだ。話したらきっと君は嫌な気分になってしまうよ。それでね、恥ずかしながら……ハハ、毎日君を思い出すんだ。どんな土地にいてもどんな空の下でも、思い出そうとしなくてもね、自然と君の笑顔が浮かんでくるんだよ。眠るときに綺麗な君の笑顔を思い出すと、明日もまた一日生き抜こうと決意する。どんなことをしても君のところへ帰ろうと力をもらえるんだ。だから僕は今日も君に会いに来たわけだ」

 そこまでとても流暢に話していたのに、彼は「ふう」と息を吐いて黙り込んだ。ビシュラは先を急かさず待った。
 暫くして、彼が手を握る力がきゅうっとやや強くなった。

「さて、僕は何処へ行っても帰ってきたら一番に君のところへ顔を出すから、君はもうずっと前から待っていてくれていたのかも知れないけれど……。子どもの頃から一緒にいたのに……今頃になってしまってすまない」

 彼は最後に息を吐き、顔を上げた。眼前の女性を真摯に見詰める瞳は、ガラス玉のように澄んでいた。老いさらばえた肉体とは裏腹に、生き生きした青年のように爛々としていた。

「イルゼ、愛している。僕と一緒になってくれ」

 彼が紡ぎ出した言葉は、きっとこの世で一番純粋で美しい。彼はその言葉を言う為に、一日一日生き延びて帰ってきた。現実のこの上ない凄惨さの真っ只中にいながら、彼は綺麗なものを見続けた。何かを喪失したと自覚しつつ、それでも彼の瞳がくすんでしまわなかったのは、心に愛があったから。老いさらばえ、然れど忘れ得ぬ愛。

(イルゼ――……やはりそれが奥様のお名前なのですね)

 ビシュラは眉を八の字にして、微笑んだ。少し胸が痛んだ。
 頷くことはできない。わたしはあなたのイルゼではないから。愛の告白の身代わり。あなたの幻影を宿すもの。

「ジ・ジ・イ」

 ヴァルトラムの低い声が頭上から降ってきて、ビシュラはハッとして顔を上げた。
 ヴァルトラムは腕組みをして仁王立ちになり、おじいさんを眼下に見据えていた。頗る機嫌の悪い表情をして三白眼でおじいさんをギロッと睨み付けた。

「俺の目の前で俺の女を口説くたァ、ナメた真似しやがる」

「ほ、歩兵長、落ち着いてください……? 相手は御高齢の方ですよ」

「棺桶に片足突っ込んでるボケジジイだ。ベッドで死んでも今ここで死んでも大した違いはねェ」

「何てことを仰有るんですかッ」

 ヴァルトラムは本当に歯に衣着せない。本人の耳に入るか、目の前にいるかなど気にかけない。しかしながら現状最も問題なのはヴァルトラムの配慮の無さなどではない。配慮が無いのを通り越して老人に掴みかかりでもしたら事件だ。屈強なヴァルトラムが軽く体を動かした程度でも大怪我をさせかねない。
 ビシュラは咄嗟に立ち上がり、ヴァルトラムの体に両腕を突っ張って制止しようとした。ヴァルトラムがその気になれば自分では何の障害にもならないことは分かっているから、もう泣きたい気持ちだった。今日は非番であり、ここは隊舎ではなく、助け船を出してくれる緋はいないのだ。

「とにかく落ち着いてくださいってば~!」
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