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Kapitel 03
深紅の花六つ 02
しおりを挟むビシュラはカートを押してレジの列の最後尾に並んだ。一人前にはハンチング帽を被った老人が鉢植えを抱えて立っている。列は二、三人くらいだ。程なくして順番が回ってくるだろう。
ヴァルトラムはビシュラの背後からカートのなかを覗き込んだ。一つ一つは小さなものばかり。重量があるものは精々飲料や洗剤など液体くらい。
「いつでも買えるようなモンばっかりだな」
「だから日用品を買うだけと最初に申し上げました」
「基地のなかに購買があんだろ」
「基地はお菓子の種類が少ないです。わたしが好きなこのお菓子は売ってません。これを買いにここまでやってきたと言っても過言ではないのです」
ビシュラはカートからお菓子の箱を持ち上げ、自分の後ろにいるヴァルトラムのほうへ振り返った。そしてキラキラした目で箱を見せつけた。
ヴァルトラムにはビシュラにとってのそれの重要性などちっとも分からなかったが「そうか」と返した。自分は食糧は食えて栄養補給ができれば何でもよい。況してや菓子など自分で選んだこともない。
ビシュラは得意気に菓子の箱をカートに戻した。前に向き直ると、ふとレジでの会話が聞こえてきた。レジスターの店員と話しているのは、ビシュラの一人前に並んだハンチング帽を被ったおじいさんだ。
「これじゃ足りないわ、おじいさん。これ以上持ってきてないの? 電子マネーは?」
店員はレジスターの受け皿を指差して言った。レジスターの受け皿には皺くちゃの紙幣が置かれていた。おじいさんの所持金は鉢植えを購入するに不足していたのだろう。
いいや、とおじいさんは首を横に振った。「おかしいな、おかしいぞ」と言いながら何度もジャンパーやズボンのポケットに手を抜き差しした。慌てている風はなく、本当にいずれかのポケットに入れたのに見当たらないといった感じだ。
歩兵長、とビシュラは小声でヴァルトラムのほうを振り返った。
「現金をお持ちですか? いくらか貸していただけないでしょうか。わたし、今日は電子マネーしか手持ちがなくて。部屋に戻ったらすぐにお返しします」
イーダフェルト周辺の先進的な都市部では現金よりも電子マネーのほうが主流だ。ほとんどの店舗では現金も電子マネーも使えるが、電子マネーしか持ち歩かない者も少なくない。ビシュラも例に漏れない。
ヴァルトラムは何も言わずポケットを探った。いつ入れたかも覚えていない紙幣が出てきたから、そのままビシュラにスッと差し出した。予想外に高額紙幣が出てきて、ビシュラは「多いです」と突き返したが、ヴァルトラムは「それしかねェ」と引っ込めなかった。ビシュラは一瞬躊躇したが、仕方なさそうな表情でそれを受け取った。
ビシュラは後ろから手を伸ばしおじいさんにスッと紙幣を差し出した。
「落とされていましたよ」
ああ。そうだったか、そうだったか。とおじいさんはビシュラから紙幣を受け取った。帽子を少し浮かせて「ありがとう、お嬢さん」と礼を言った。
おじいさんは何も不思議に思わずレジスターのトレイの上に追加の紙幣を置いた。
店員は何か言い出しそうに口を開いたが、ビシュラはニコッと微笑みかけた。その表情を見て店員は察して口を閉ざした。
「オイ、何でオメエが他人の分まで払う」
他人の思考や感情など察しないのはがヴァルトラムだ。ビシュラは彼のほうを振り向き、唇の前に人差し指を立て「しー」と小声で言った。
店員はレジスターのトレイの上から代金を取り、お釣りを戻した。ヴァルトラムが高額紙幣しか所持してなかったおかげで少なくないお釣りになった。おじいさんはそれをジャンパーのポケットに無造作に突っ込んだ。レジカウンタの上に置いていた花の鉢植えを「よいしょ」と抱え上げ、スーパーマーケットの出入り口のほうへ歩いて行った。
ビシュラとヴァルトラムは恙無く会計を終えた。
ビシュラ一人では少々躊躇われるような重たいものを買い込んでしまったが、ヴァルトラムは涼しい顔をして片手で担ぎ上げていた。上官に荷物持ちをさせるなど気は引けるが正直助かる気持ちも大きい。緋が連れて行けと言い出したときは何故そのようなことを言って困らせるのだろうと思ったが、いてくれてよかったとさえ思い始めてきた。
ふとビシュラはバス停に目が留まった。来るときは徒歩で来たし基地まで大した距離ではないが、荷物が多くなったからバスで帰ろうかと思った。
バス停のベンチには、先程のハンチング帽のおじいさんが一人で座っていた。
ビシュラはヴァルトラムに「少々失礼します」と言い、バス停へと足を向けた。
「こんにちは」
ビシュラはハンチング帽のおじいさんの隣に腰掛け、そう言った。おじいさんはまた帽子を少々浮かせて「どうも」と返した。ビシュラが微笑むと、おじいさんも愛想の良い笑顔を返してくれた。
「失礼でなければ……どこへいらっしゃるのですか?」
「家に帰るところです」
「おうちは近いのですか?」
「ええ、バスで15分ほどです。歩いてもよいのですが、今日はコレがあるものですから」
おじいさんは自分の横に置いている鉢植えに目を落とした。咲きかけが2~3輪と、蕾がいくつか。
15分ですか、とビシュラは独り言のように零した。それからバスの進行方向であろう方角を見詰めて黙った。単純な往復だけなら30分。バッファを入れても一時間もあれば足りよう。今は日の高い時分だから、それだけの時間を費やしても休日はまだ残されている。問題はそれをヴァルトラムがどう考えるかだが。
ヴァルトラムはビシュラの後ろに立ち、ビシュラと老人の脳天を見下ろして会話を聞いていた。ビシュラが現在何かを思案しているだろうことは分かったが、何をしようとしているのかまったく分からなかった。何故初対面の老人の会計を肩代わりし、隣に座り込み、知人のように会話をしたのか、まったく見当も付かなかった。
ビシュラはおじいさんのほうへ視線を引き戻し、わたしも同じバスに乗りますと言い出した。ビシュラから「ご一緒してもいいですか?」と尋ねられ、おじいさんは少し驚いた表情をした。
「キミみたいな若い娘さんとこんなおじさんがご一緒してもいいんですか」
「ご迷惑でなければ」
「大歓迎ですよ」
オイ、とヴァルトラムの声が降ってきた。ビシュラはヴァルトラムの反応を予想していた。ベンチからサッと立ち上がり「少しよろしいですか」とヴァルトラムに言ってそそくさとおじいさんから数歩離れた。
「オメエ、ついていく気か。買い出しはどうする」
「買ったものはマーケットに預けられますから。勿論、歩兵長にお持ちいただいてる分も。非番の日にここまでお付き合いいただき誠にありがとうございました。慌ただしくなってしまい大変申し訳ないのですが、今日のところはここで失礼いたします」
コイツ、道の先を見詰めていたのはこの台詞を用意していたな、と考えるほどビシュラからスラスラと断りの言葉が出てきた。
「何であのジジイについていく」
「ジジイなんて失礼ですよ。少し気になることがあるだけです」
「…………」
ヴァルトラムは無言でビシュラにジーッと視線を送った。若い娘が見るからに老人に対して気になることがあるなど、彼には真意が測りかねた。
ビシュラから見てもヴァルトラムは言葉は発しないが明らかに何か言いたそうな表情をしている。強面の大男が黙り込むと緊張してしまうから此方を直視するのはやめてほしい。
「どうして歩兵長がそんな不機嫌そうな顔をなさるのですか💧」
「俺も行く」
いえ、とビシュラはフルフルと首を左右に振った。
「今日は買い出しというお約束でした。ここから先までお付き合いいただくわけには」
「行く」
ヴァルトラムはハッキリと断言した。強く言い切られて意志の強い三白眼に見据えられてしまえばビシュラが反論できようはずもない。ビシュラは苦笑して頬は痙攣させた。
ビシュラはおじいさんの横へ戻り、差し障りのない世間話をした。今日はいい気候ですねとか、マーケットにはよくいらっしゃるのですかとか。おじいさんは人当たりの良い人で、穏やかな口調と丁寧な言葉遣いだった。ヴァルトラムはといえば、ついていくと主張したくせに自分からは一言も話さなかった。バスが到着するまでにあとどのくらいの時間があるのか。煙草に火を付けるかやめておくか、そのようなことだけを考えていた。
バスは程なくしてやって来た。お喋りをしていたから待っている時間を短く感じたのかも知れない。
おじいさんがバスに乗り込み、ビシュラとヴァルトラムも続いた。まずはおじいさんが鉢植えを膝の上に乗せて窓際のシートに座り、ビシュラはおじいさんの隣に座った。ヴァルトラムは二人の後ろの座席に、大股を広げてドサッと座り込んだ。
バスが走り出し、ビシュラが再び口を開いた。
「お花がお好きなのですか。それとも誰かに贈られるのですか」
「恥ずかしながら妻に」
おじいさんは少々照れ臭そうにはにかみ、ハンチング帽の鍔を掴んで目深に被り直した。
「家で僕の帰りを待っているんです」
あれ、この人……、とビシュラは少々引っ掛かったが敢えて言葉にせず、おじいさんの話に耳を傾けた。
おじいさんは言葉通り妻の話題をするのが気恥ずかしいのか、ビシュラのほうへ顔を向けなかった。そうしたのは不快になったからではない。ハンチング帽の下から覗く口許は綻んでいた。鉢植えをぽんぽんぽんと優しく撫でながら話した。
「僕は仕事柄しょっちゅう家を空けて、いつもいつも待たせてばかりなものですから、家に帰るときは何かしら手土産がないと恰好がつかなくてね。今回は花にしましたが……ハハ、あまり家を空けすぎて妻の好きな花もよく分かりませんでした。嫌いな花じゃないといいですが」
ビシュラは鉢植えを撫でていたおじいさんの手の甲に、そっと手を添えた。しわしわの乾燥した皮膚の感触は、少しヒンヤリしていた。ビシュラの周りには御年配の方がいないから、初めて触れる感触だった。
「キレイに咲いているお花です。きっと喜ばれますよ、奥様」
ビシュラがそう言って微笑み、おじいさんもニイッと目尻を引き下げた。
「そうですね。妻は今まで何を贈っても喜んでくれました」
「素敵な奥様ですね」
ええ、とおじいさんは頷いた。
「僕は若い頃から戦争に行ってばかりで、妻といる時間よりも訓練や武器の手入れをしている時間のほうが長いくらいです。流行なんかはよく分かりません。自分でもセンスがいいほうではないと思います。女性が喜びそうなものを考えるのも苦手です。それでも、こんな僕が選んだものでも、妻は毎回嬉しそうにしてくれるのです」
戦争と聞いて、ビシュラは「ああ」と納得した。平穏に見えるこの街は、政治・行政的要所や基地を擁しており、貴族も要人も兵士も、元そうであった者も多い。この穏やかそうな老人までそうとは思わなかったけれど。
「戦争ですか……。それは……大変でしたね」
ビシュラは言ったあとで、自分でも空々しい台詞だなと思った。
ビシュラは戦争を記録データや教科書でしか知らないが、おじいさんの年齢ならば当然に戦時というものを経験している。それも兵士として実際に戦場に立って。きっとヴァルトラムも。ならばこのおじいさんに近しいのは自分よりもヴァルトラムのほうなのだろうか。
なんとなく後ろの座席を振り向き、肩越しにヴァルトラムの様子を窺ってみた。褐色の大男は大股開きで長い足を通路にまで放り出して腕組みをして瞼を閉じていた。聞こえているのかいないのか、眠ってしまったのか。居眠りをしているのならそれで有り難い。ヴァルトラムが聞いていたら、またお前は何も分かっていないのに、と鼻で笑われそうだから。
大変……、とおじいさんが独り言のように零した。ビシュラは隣に座っているおじいさんのほうへ顔を引き戻した。
「そうですね。あの頃は、毎日が大変でした。大変なことがゴロゴロしていました。訓練についていくのも大変で、上官の無理難題に耐えるのも大変で、一日一日生きるのが大変で……青春やら娯楽やら人らしさやら、色んなものを失ったという者もおりました。勿論、実際に腕や足をなくした者も大勢です。僕も何かをなくしてきたのだと思います。だけどね、妻と息子は守れました。あの悲惨な光景を見るのは僕だけで済みました。家族を守れたのですから、こんなに誇らしいことはありません」
ビシュラは唇を薄く開き、目を落として停止していた。なんと返事をしたらよいか分からなかった。何か慰めや励ましになる言葉を、と思ったがこのように分厚い実体験を伴う人に、何を言えば足るのだろう。自分は頭でっかちだ。世間知らずだ。未熟な若輩者だ。何を言っても軽薄だ。
今度はおじいさんのほうがビシュラの手に手を乗せてポンポンと撫でた。先程手の甲に触れたとき冷えていると感じたのに、掌は温かかった。
「それにね、僕はこれでもお嬢さんのような若い方々も守ったと思っているのですよ。だから、幸せそうにしてくださいお嬢さん」
ビシュラが申し訳なさそうに微笑み、おじいさんは片目を閉じてウィンクして見せた。
「恋人とデートの途中なのでしょう。笑顔でいなくては」
「ちっ、違います!」
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