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Kapitel 03
深紅の花六つ 01
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三本爪飛竜騎兵大隊隊舎・歩兵隊第一詰所前。
ビシュラ、緋、ズィルベルナーの三人は、入り口前の廊下で雑談をしていた。
特にズィルベルナーは御機嫌だった。大隊の女性隊員を独り占めしているのだから当然だ。緋は長身の迫力のある美女であり彼の嗜好では申し分ない。ビシュラは華奢で控え目で、緋とは趣が異なって愛らしい。街中にいて何ら違和感の無い、普通の可愛い女の子感は、彼にとっては貴重だった。
ズィルベルナーは顔を見る度「ビシュラちゃん、ビシュラちゃん」と纏わり付く。ビシュラを見つけると業務の手が止まり訓練もサボりがちになる。また、ビシュラの業務の妨げになる。トラジロは彼をビシュラに近付けたがらないくらいだ。
「へー。ビシュラちゃんは読書が趣味なの? あったまいいんだろうなー」
「お前が悪すぎるだけだ」
「言い方~~」
緋に一刀両断にされるのもいつものこと。ズィルベルナーは笑いながら背中を壁に付け、床にしゃがみ込んだ。
ビシュラは腰を折り、ズィルベルナーに視線を近付けた。
「ズィルベルナー二位官にお伺いしたいと思っていたことがあるのですが、よろしいですか?」
「いいよー、じゃんじゃん何でも聞いて♪」
ズィルベルナーは笑顔で返した。
ビシュラはやや頬を赤らめた。「では」と言ってコホンと小さく咳払いをした。
「先日、トレーニングルームでズィルベルナー二位官にお目にかかり……キ、キスされた……と思うのですが。あのときにわたしは気を失ってしまいまして……あれはどういう?」
ズィルベルナーの胸は、羞じらい顔のビシュラを見てキュゥウンと締め付けられた。このような初々しい反応を見たのは随分と久し振りだ。貴重なものを拝ませてもらい、何だか嬉しくなってしまう。
「キスって言うだけで赤くなっちゃうの? ヤダ、ピュアァ……✨」
「いいから答えてやれ」
緋から急かされ、ズィルベルナーは得意気に人差し指をピッと立てた。
「そんなの決まってんじゃん。俺がテクニシャンだから――」
パァンッ、と緋がズィルベルナーの後頭部を叩いた。この隊の連中は息をするようにセクシャルハラスメントをする。今更口で注意しても無駄だから、緋は直接的な手段に訴えた。
「エナジードレインだ」
緋の言葉を聞き、ビシュラは「あっ」と零した。そういうことならば合点がいく。何の機材も形式も要さず、他者のネェベルを強制的に抽出する能力を持つ者は確かに存在する。それは一見して判別できるような外見的特徴は無いから、ズィルベルナーがそうだとは思い至らなかった。
「訴えていいんだぞ、ビシュラ。合意のないエナジードレインは違法だ」
「えー、勘弁してよー。ちょっとした好奇心じゃん。歩兵長がわざわざ自分で引き抜いてきたとか言うからさー。味見程度にちょっとしか喰ってないよ。あの程度でぶっ倒れると思ってなかったんだよ、ゴメ~ン」
「好奇心でキスする時点で犯罪だろうが」
ガッ、と緋はズィルベルナーの顔上部に掌を被せた。両方の蟀谷に親指と小指を乗せてギリギリィッと思いっ切り締め上げた。
緋の遠慮の無いアイアンクロー。ズィルベルナーは即座に降参した。
「ゴメンナサイぃぃいいいっ!」
「遠慮せずに怒っていいんだぞ、ビシュラ」
緋はさらに握力を上げながら言った。ズィルベルナーは「ぎゃあああああっ」と悲鳴を上げるが、此奴のように頑丈な男がそう簡単に壊れるはずがない。寧ろ、瞬時に謝罪をするのは条件反射にすぎず反省などしていないのだ。
「もう人前で唇をくっつけるなんてなさらないでくださいね。約束ですよ」
ビシュラはズィルベルナーの顔の前で人差し指を立てて「めっ」と叱った。まるっきり子どもの叱り付け方だ。
緋は「ふう」と諦念の息を吐いた。ビシュラはヴァルトラムのような人でなしも最終的には許してしまう寛容の持ち主だから、誰かに本気で怒りをぶつけるなど慣れていないのだろう。
拍子抜けしたズィルベルナーは目をパチクリさせた。しばらくビシュラと真っ直ぐ向き合ったのち、顔の筋肉を緩めてヘヘッと笑った。
「それで許しちゃうんだ。やっさしーなービシュラちゃん」
優しいですか、とビシュラが小首を傾げ、緋が「ああ」と頷いた。
「アタシならタマ蹴り上げて土下座させる」
廊下にしゃがみ込んでいたズィルベルナーは「ヒエッ」と声を上げて立ち上がった。それから名案を思い付いた顔で「あ、そうだ」とビシュラに目を向けた。
「お詫びに引っ越し手伝うよ。ビシュラちゃんも兵舎に移ってくんだろ。女の子に力仕事大変じゃん」
「いえ、わたしのことなどはお気になさらず。もう荷物の移動は済みました。あとは、足りないものの買い出しに行くくらいで引っ越しは完了なのですよ」
「じゃあ買い出し手伝う。一緒に買い物行こ。買ったもの部屋まで運んだげるよ」
「いえ、そんな。お気遣いは嬉しいですが、二位官にそのようなことをしていただくわけには」
ビシュラは両掌をブンブンと振って断った。
緋はズィルベルナーのヘラヘラした表情をジーッと観察した。此奴の考えそうなことなど容易に想像できた。
「下心が透けてるぞズィルビー。女の部屋に上がり込みたいだけだろ」
まっさかー、とズィルベルナーは緋から目を背けた。
「じゃあウソを吐いてないか試してみよう」
緋は歩兵隊第一詰所のほうへクルリと振り返り、室内を覗き込んだ。
応接間では、一人の男がソファに深く沈み込んでいた。テーブルの上に両足を乗せて踏ん反り返り、行儀もルールも気に留めず刃物の手入れをしている。テーブルの上には数本のナイフが並んでいる。ナイフを一本手に取ってスチールの棒に擦って気が済むまで研ぎ、テーブルの上に戻し、また別のナイフを手に取って研ぐ。
その態度は到底褒められたものではないが、いつものことなので取り敢えず今は目を瞑った。
「オーイ、歩兵長。ズィルビーがビシュラの部屋に行くそうだぞ。買い物を手伝うんだとー」
緋がそう言った次の瞬間には、ヴァルトラムがズィルベルナーの傍に立っていた。
ビシュラは吃驚して目を丸くした。いつの間にここまで移動したのだろう。ヴァルトラムが腰を持ち上げるところすら目で追うことができなかった。
ヴァルトラムは有無を言わさずズィルベルナーの襟刳りをむんずと掴んだ。長身のズィルベルナーを軽々と持ち上げ、廊下の端まで放り上げた。
ズダァンッ、とズィルベルナーは壁に叩き付けられた。彼も三本爪飛竜騎兵大隊の端くれである。復活の早さは然るもので、すぐさまガバッと顔を上げた。
「何で歩兵長に言うんだよッ!」
「男同士のほうが下心を見抜けるだろ?」
緋はそう言ってハッハッハッと笑い飛ばした。
ヴァルトラムはビシュラに目を落とした。ビシュラはヴァルトラムとはたと目が合い、プイッとそっぽを向いた。
「何であのガキがオメエの家に行く話になってやがる」
「歩兵長には関係ありません」
それを見た緋はヴァルトラムに「何をしたんだ」と尋ねた。愛想の良いビシュラが上官にツンとするなど何か理由があるに決まっている。そして、きっと無神経な上官に原因があるに違いない。
「この前俺の部屋で――」
「あー! あー! あーッ!」
ビシュラは突然奇声を上げ、ヴァルトラムの言葉を遮った。大男である彼の前で大きく両手を振ったりぴょんぴょん飛び跳ねたりして必死だ。
「それ以上仰有ったら怒ります! 本気ですッ」
ビシュラは頬を赤らめてヴァルトラムをキッと睨んだ。先程ズィルベルナーには「めっ」と叱るくらいで許したのと比較すると今回は真剣だ。
ヴァルトラムはフイッとビシュラから目を逸らして緋を見下ろした。
「買い物っつうのは何の話だ」
「ビシュラが兵舎に移ってきただろう。必要なものを買い出しに行くのをズィルビーが手伝ってやると言い出した。ビシュラの部屋に上がり込みたいだけに決まってるけどな」
「上がり込むだなんてそんな。ズィルベルナー二位官は御厚意から仰有っているだけで」
「甘い」
緋は大きめの声でハッキリと言った。それでもビシュラはズィルベルナーを擁護しようと「そんな……」と小声で反論しようとしたが、ヴァルトラムにもコイツ莫迦かという視線をジーッと向けられてしまった。
やめてください、その目。三白眼の眼力は強烈です。
「これから男だらけの兵舎に住むっていうのに本人がこれじゃ先が思い遣られるな」
緋は頭を軽く左右に振りながら溜息を吐いた。
ああ、そうだ、と緋が零してヴァルトラムを見上げた。
「歩兵長を連れて行け」
ヴァルトラムは無反応だったが、ビシュラは「えっ」と声を漏らした。
緋がヴァルトラムに対して耳を貸せと人差し指でクイクイッと合図し、大男は顔を下げて耳を近付けた。
「兵舎は一応男女が分かれているが、行こうと思えばいつでも行ける。男共がビシュラにツバをつける機会なんかいくらでもある。ビシュラが他の男に手を付けられたら事だ。アンタは人でなしだが、自分の女を守ってやる甲斐性くらいはあるだろ。ビシュラを自分の女だと言うならメンツにかけて他の男を近付けさせるな。自分のモンだとアピールして虫除けしてこい」
流石緋はこういうことには気が回る。ヴァルトラムは小さくコクッと頷いた。
「俺が行く」
「えーっ!」
ビシュラは明らかに嫌そうな声を上げた。
ビシュラはズィルベルナーが手伝うと言い出したときよりも必死に断ろうとした。しかしながらヴァルトラムは頑として発言を撤回せず、全幅の信頼を寄せている緋から滔々と説得された。
ついには、押しに弱い彼女は申し出を了承させられてしまった。
§ § § § §
イーダフェルト・商業地帯。
今日は天気が良く、街路はたくさんの人出で賑わっていた。歩道は見渡すことができるすっと先まで人が尽きないし、車道は車が埋め尽くしている。右を見ても左を見ても高層のビルディングが建ち並んでいる。ショップは流行の最先端を押さえているか、アスガルド全土から集まってきた珍品を揃えたマニア向け。ビシュラが目的としている日用品の買い出しには向かない。
ビシュラは街の中心から少し離れたスーパーマーケットを目指していた。勿論、イーダフェルトでは手に入らないものはないくらいだから街のど真ん中でも日用品を扱う店舗も皆無ではないが、何でも高価だ。彼女は日用品にまで上質を求めるほど高級志向ではない。何よりも現実的な話、収入がそれを許容しない。彼女は身の丈に合うことを信条としていた。
ヴァルトラムは目的地を知らない。ただビシュラの隣を歩いてついてくる。それについて不満はなかったが、二人の間に会話が一切ないのは気にかかった。ビシュラは目的地に向かって足をせかせかと動かすばかりで、ヴァルトラムに愛想笑いもしなかった。ズィルベルナーなどとは柔やかに接するくせに。
「何で機嫌が悪ィ?」
「機嫌が悪いのではありません。怒っているのです」
ビシュラはヴァルトラムを見もせずツンと言い放った。
怒るねえ……、とヴァルトラムが零した独り言が耳に入り、ビシュラは少々不安になった。この男は本当に自分が怒っている理由に見当が付いていないのではなかろうか。
「あのようなことを人前で話そうとするなんてどうかしてます」
「どのことだ」
「歩兵長が部屋でわたしになさったことについてですッ」
ビシュラは思わず声がやや大きくなった。ヴァルトラムは変わらぬ調子で「ああ」と零した。
「オメエが指だけでイキまくって――」
「あーーーッ‼」
ビシュラはビタッと足を停めてビシュラの顔を見上げた。
「だから! 人前でそういうことを仰有らないでください! フェイさんにも、フェイさんでなくても、絶対に誰にも仰有らないでくださいッッ」
ビシュラは顔を真っ赤にして必死だった。
ん、ああ、とヴァルトラムは聞いているのかいないのか分からない曖昧な返事をした。ビシュラがあまりにも必死だから、それに免じて頷いてやったのかもしれない。情事の内容を明け透けにするなどビシュラの羞恥心では耐えがたいが、この男にとっては些細なことだ。
ビシュラは怒らせていた肩を落として「ふう」と息を吐いた。
「あの、買い出しと行ってもほとんど日用品ですし、本当に歩兵長についてきていただかなくても、いいですよ……?」
「行く」
ビシュラは目的地であるスーパーマーケットに辿り着いた。
店内には軽やかなメロディラインのBGMが流れていた。客は一般人ばかり。ビシュラは当然に溶け込んだが、ヴァルトラムは浮いていた。大柄で屈強そうで目付きが悪く、一見して一般人ではないと分かる。店の出入り口でヴァルトラムと偶然出会した御婦人はビックリして目を丸くしていた。ビシュラが思うに、ギャングとでも勘違いされたのではないだろうか。
これ以上一般人を驚かせては悪い。ビシュラはササッとカートに向かい、やや急ぎ足で商品陳列棚の間へ押していった。等間隔で並ぶ商品陳列棚の間に入ればヴァルトラムを人目から極力隠すことができる。それでもヴァルトラムの頭部は商品陳列棚の高さから飛び出してしまうのだけれど。
ビシュラは慣れた様子で商品をカートのなかへと入れていった。
商品陳列棚の一番上の商品はそうはいかない。ビシュラの身長では背伸びをしてどうにか届くかというところだ。いつも買うお気に入りの菓子に限ってそのようなところに配置される。人気がないのだろうか。
ヴァルトラムの視界でビシュラの指がわきわきと動いていた。その菓子の箱を手に取り、スッとビシュラの前に差し出した。
「今までは何処に住んでた」
「観測所の所員寮です。学院を卒業して一人暮らしもしてみたかったのですが、職場に近いところとなると、どうしてもイーダフェルトは家賃が高いですから」
「ああ、新米だから給金が安いのか」
「そんなにハッキリ仰有らないでください」
ありがとうございます、とビシュラはヴァルトラムから菓子の箱を受け取った。
ヴァルトラムは次から次へと何個もカートのなかに放り込んだ。ビシュラは慌てて「もういいです」と制止した。ビシュラの消費量からして1~2箱買えれば充分なのに。買わない分は棚に戻さなければ。
ビシュラはカートから菓子の箱をヴァルトラムに一つずつ手渡し、ヴァルトラムは文句も言わずにそれを元の場所に戻した。恐らく何も考えずにカートのなかに放り込んだし、今も何も考えずに動作している。
「大隊は兵舎にお住まいの方が多いのですか?」
「さあ。そうなんじゃねェか。あー……フェイは違う。基地外に住んでる」
「二位官ともなるとイーダフェルトにお部屋を借りられるのですね。ではズィルベルナー二位官も?」
その地位が実際に如何程の給金をいただけるのか予想も付かないが観測所でも新米、三本爪飛竜騎兵大隊でも新人のビシュラの給金よりは随分多いに決まっている。
「いや、アイツは確か兵舎にいる」
「ズィルベルナー二位官は大勢といらっしゃるほうが楽しそうですもんね」
「ガキだからな」
ふふ、とビシュラは笑った。ズィルベルナーには失礼だが胸中ではヴァルトラムに同意してしまった。彼は自分よりいくらか年上のはずだが、日々の言動は年下のようだ。屈強で厳めしい男だらけの大隊では、それに和まされている部分もある。
ビシュラを緊張や警戒をさせている代表格は、ヴァルトラムなのだけれど。
ビシュラ、緋、ズィルベルナーの三人は、入り口前の廊下で雑談をしていた。
特にズィルベルナーは御機嫌だった。大隊の女性隊員を独り占めしているのだから当然だ。緋は長身の迫力のある美女であり彼の嗜好では申し分ない。ビシュラは華奢で控え目で、緋とは趣が異なって愛らしい。街中にいて何ら違和感の無い、普通の可愛い女の子感は、彼にとっては貴重だった。
ズィルベルナーは顔を見る度「ビシュラちゃん、ビシュラちゃん」と纏わり付く。ビシュラを見つけると業務の手が止まり訓練もサボりがちになる。また、ビシュラの業務の妨げになる。トラジロは彼をビシュラに近付けたがらないくらいだ。
「へー。ビシュラちゃんは読書が趣味なの? あったまいいんだろうなー」
「お前が悪すぎるだけだ」
「言い方~~」
緋に一刀両断にされるのもいつものこと。ズィルベルナーは笑いながら背中を壁に付け、床にしゃがみ込んだ。
ビシュラは腰を折り、ズィルベルナーに視線を近付けた。
「ズィルベルナー二位官にお伺いしたいと思っていたことがあるのですが、よろしいですか?」
「いいよー、じゃんじゃん何でも聞いて♪」
ズィルベルナーは笑顔で返した。
ビシュラはやや頬を赤らめた。「では」と言ってコホンと小さく咳払いをした。
「先日、トレーニングルームでズィルベルナー二位官にお目にかかり……キ、キスされた……と思うのですが。あのときにわたしは気を失ってしまいまして……あれはどういう?」
ズィルベルナーの胸は、羞じらい顔のビシュラを見てキュゥウンと締め付けられた。このような初々しい反応を見たのは随分と久し振りだ。貴重なものを拝ませてもらい、何だか嬉しくなってしまう。
「キスって言うだけで赤くなっちゃうの? ヤダ、ピュアァ……✨」
「いいから答えてやれ」
緋から急かされ、ズィルベルナーは得意気に人差し指をピッと立てた。
「そんなの決まってんじゃん。俺がテクニシャンだから――」
パァンッ、と緋がズィルベルナーの後頭部を叩いた。この隊の連中は息をするようにセクシャルハラスメントをする。今更口で注意しても無駄だから、緋は直接的な手段に訴えた。
「エナジードレインだ」
緋の言葉を聞き、ビシュラは「あっ」と零した。そういうことならば合点がいく。何の機材も形式も要さず、他者のネェベルを強制的に抽出する能力を持つ者は確かに存在する。それは一見して判別できるような外見的特徴は無いから、ズィルベルナーがそうだとは思い至らなかった。
「訴えていいんだぞ、ビシュラ。合意のないエナジードレインは違法だ」
「えー、勘弁してよー。ちょっとした好奇心じゃん。歩兵長がわざわざ自分で引き抜いてきたとか言うからさー。味見程度にちょっとしか喰ってないよ。あの程度でぶっ倒れると思ってなかったんだよ、ゴメ~ン」
「好奇心でキスする時点で犯罪だろうが」
ガッ、と緋はズィルベルナーの顔上部に掌を被せた。両方の蟀谷に親指と小指を乗せてギリギリィッと思いっ切り締め上げた。
緋の遠慮の無いアイアンクロー。ズィルベルナーは即座に降参した。
「ゴメンナサイぃぃいいいっ!」
「遠慮せずに怒っていいんだぞ、ビシュラ」
緋はさらに握力を上げながら言った。ズィルベルナーは「ぎゃあああああっ」と悲鳴を上げるが、此奴のように頑丈な男がそう簡単に壊れるはずがない。寧ろ、瞬時に謝罪をするのは条件反射にすぎず反省などしていないのだ。
「もう人前で唇をくっつけるなんてなさらないでくださいね。約束ですよ」
ビシュラはズィルベルナーの顔の前で人差し指を立てて「めっ」と叱った。まるっきり子どもの叱り付け方だ。
緋は「ふう」と諦念の息を吐いた。ビシュラはヴァルトラムのような人でなしも最終的には許してしまう寛容の持ち主だから、誰かに本気で怒りをぶつけるなど慣れていないのだろう。
拍子抜けしたズィルベルナーは目をパチクリさせた。しばらくビシュラと真っ直ぐ向き合ったのち、顔の筋肉を緩めてヘヘッと笑った。
「それで許しちゃうんだ。やっさしーなービシュラちゃん」
優しいですか、とビシュラが小首を傾げ、緋が「ああ」と頷いた。
「アタシならタマ蹴り上げて土下座させる」
廊下にしゃがみ込んでいたズィルベルナーは「ヒエッ」と声を上げて立ち上がった。それから名案を思い付いた顔で「あ、そうだ」とビシュラに目を向けた。
「お詫びに引っ越し手伝うよ。ビシュラちゃんも兵舎に移ってくんだろ。女の子に力仕事大変じゃん」
「いえ、わたしのことなどはお気になさらず。もう荷物の移動は済みました。あとは、足りないものの買い出しに行くくらいで引っ越しは完了なのですよ」
「じゃあ買い出し手伝う。一緒に買い物行こ。買ったもの部屋まで運んだげるよ」
「いえ、そんな。お気遣いは嬉しいですが、二位官にそのようなことをしていただくわけには」
ビシュラは両掌をブンブンと振って断った。
緋はズィルベルナーのヘラヘラした表情をジーッと観察した。此奴の考えそうなことなど容易に想像できた。
「下心が透けてるぞズィルビー。女の部屋に上がり込みたいだけだろ」
まっさかー、とズィルベルナーは緋から目を背けた。
「じゃあウソを吐いてないか試してみよう」
緋は歩兵隊第一詰所のほうへクルリと振り返り、室内を覗き込んだ。
応接間では、一人の男がソファに深く沈み込んでいた。テーブルの上に両足を乗せて踏ん反り返り、行儀もルールも気に留めず刃物の手入れをしている。テーブルの上には数本のナイフが並んでいる。ナイフを一本手に取ってスチールの棒に擦って気が済むまで研ぎ、テーブルの上に戻し、また別のナイフを手に取って研ぐ。
その態度は到底褒められたものではないが、いつものことなので取り敢えず今は目を瞑った。
「オーイ、歩兵長。ズィルビーがビシュラの部屋に行くそうだぞ。買い物を手伝うんだとー」
緋がそう言った次の瞬間には、ヴァルトラムがズィルベルナーの傍に立っていた。
ビシュラは吃驚して目を丸くした。いつの間にここまで移動したのだろう。ヴァルトラムが腰を持ち上げるところすら目で追うことができなかった。
ヴァルトラムは有無を言わさずズィルベルナーの襟刳りをむんずと掴んだ。長身のズィルベルナーを軽々と持ち上げ、廊下の端まで放り上げた。
ズダァンッ、とズィルベルナーは壁に叩き付けられた。彼も三本爪飛竜騎兵大隊の端くれである。復活の早さは然るもので、すぐさまガバッと顔を上げた。
「何で歩兵長に言うんだよッ!」
「男同士のほうが下心を見抜けるだろ?」
緋はそう言ってハッハッハッと笑い飛ばした。
ヴァルトラムはビシュラに目を落とした。ビシュラはヴァルトラムとはたと目が合い、プイッとそっぽを向いた。
「何であのガキがオメエの家に行く話になってやがる」
「歩兵長には関係ありません」
それを見た緋はヴァルトラムに「何をしたんだ」と尋ねた。愛想の良いビシュラが上官にツンとするなど何か理由があるに決まっている。そして、きっと無神経な上官に原因があるに違いない。
「この前俺の部屋で――」
「あー! あー! あーッ!」
ビシュラは突然奇声を上げ、ヴァルトラムの言葉を遮った。大男である彼の前で大きく両手を振ったりぴょんぴょん飛び跳ねたりして必死だ。
「それ以上仰有ったら怒ります! 本気ですッ」
ビシュラは頬を赤らめてヴァルトラムをキッと睨んだ。先程ズィルベルナーには「めっ」と叱るくらいで許したのと比較すると今回は真剣だ。
ヴァルトラムはフイッとビシュラから目を逸らして緋を見下ろした。
「買い物っつうのは何の話だ」
「ビシュラが兵舎に移ってきただろう。必要なものを買い出しに行くのをズィルビーが手伝ってやると言い出した。ビシュラの部屋に上がり込みたいだけに決まってるけどな」
「上がり込むだなんてそんな。ズィルベルナー二位官は御厚意から仰有っているだけで」
「甘い」
緋は大きめの声でハッキリと言った。それでもビシュラはズィルベルナーを擁護しようと「そんな……」と小声で反論しようとしたが、ヴァルトラムにもコイツ莫迦かという視線をジーッと向けられてしまった。
やめてください、その目。三白眼の眼力は強烈です。
「これから男だらけの兵舎に住むっていうのに本人がこれじゃ先が思い遣られるな」
緋は頭を軽く左右に振りながら溜息を吐いた。
ああ、そうだ、と緋が零してヴァルトラムを見上げた。
「歩兵長を連れて行け」
ヴァルトラムは無反応だったが、ビシュラは「えっ」と声を漏らした。
緋がヴァルトラムに対して耳を貸せと人差し指でクイクイッと合図し、大男は顔を下げて耳を近付けた。
「兵舎は一応男女が分かれているが、行こうと思えばいつでも行ける。男共がビシュラにツバをつける機会なんかいくらでもある。ビシュラが他の男に手を付けられたら事だ。アンタは人でなしだが、自分の女を守ってやる甲斐性くらいはあるだろ。ビシュラを自分の女だと言うならメンツにかけて他の男を近付けさせるな。自分のモンだとアピールして虫除けしてこい」
流石緋はこういうことには気が回る。ヴァルトラムは小さくコクッと頷いた。
「俺が行く」
「えーっ!」
ビシュラは明らかに嫌そうな声を上げた。
ビシュラはズィルベルナーが手伝うと言い出したときよりも必死に断ろうとした。しかしながらヴァルトラムは頑として発言を撤回せず、全幅の信頼を寄せている緋から滔々と説得された。
ついには、押しに弱い彼女は申し出を了承させられてしまった。
§ § § § §
イーダフェルト・商業地帯。
今日は天気が良く、街路はたくさんの人出で賑わっていた。歩道は見渡すことができるすっと先まで人が尽きないし、車道は車が埋め尽くしている。右を見ても左を見ても高層のビルディングが建ち並んでいる。ショップは流行の最先端を押さえているか、アスガルド全土から集まってきた珍品を揃えたマニア向け。ビシュラが目的としている日用品の買い出しには向かない。
ビシュラは街の中心から少し離れたスーパーマーケットを目指していた。勿論、イーダフェルトでは手に入らないものはないくらいだから街のど真ん中でも日用品を扱う店舗も皆無ではないが、何でも高価だ。彼女は日用品にまで上質を求めるほど高級志向ではない。何よりも現実的な話、収入がそれを許容しない。彼女は身の丈に合うことを信条としていた。
ヴァルトラムは目的地を知らない。ただビシュラの隣を歩いてついてくる。それについて不満はなかったが、二人の間に会話が一切ないのは気にかかった。ビシュラは目的地に向かって足をせかせかと動かすばかりで、ヴァルトラムに愛想笑いもしなかった。ズィルベルナーなどとは柔やかに接するくせに。
「何で機嫌が悪ィ?」
「機嫌が悪いのではありません。怒っているのです」
ビシュラはヴァルトラムを見もせずツンと言い放った。
怒るねえ……、とヴァルトラムが零した独り言が耳に入り、ビシュラは少々不安になった。この男は本当に自分が怒っている理由に見当が付いていないのではなかろうか。
「あのようなことを人前で話そうとするなんてどうかしてます」
「どのことだ」
「歩兵長が部屋でわたしになさったことについてですッ」
ビシュラは思わず声がやや大きくなった。ヴァルトラムは変わらぬ調子で「ああ」と零した。
「オメエが指だけでイキまくって――」
「あーーーッ‼」
ビシュラはビタッと足を停めてビシュラの顔を見上げた。
「だから! 人前でそういうことを仰有らないでください! フェイさんにも、フェイさんでなくても、絶対に誰にも仰有らないでくださいッッ」
ビシュラは顔を真っ赤にして必死だった。
ん、ああ、とヴァルトラムは聞いているのかいないのか分からない曖昧な返事をした。ビシュラがあまりにも必死だから、それに免じて頷いてやったのかもしれない。情事の内容を明け透けにするなどビシュラの羞恥心では耐えがたいが、この男にとっては些細なことだ。
ビシュラは怒らせていた肩を落として「ふう」と息を吐いた。
「あの、買い出しと行ってもほとんど日用品ですし、本当に歩兵長についてきていただかなくても、いいですよ……?」
「行く」
ビシュラは目的地であるスーパーマーケットに辿り着いた。
店内には軽やかなメロディラインのBGMが流れていた。客は一般人ばかり。ビシュラは当然に溶け込んだが、ヴァルトラムは浮いていた。大柄で屈強そうで目付きが悪く、一見して一般人ではないと分かる。店の出入り口でヴァルトラムと偶然出会した御婦人はビックリして目を丸くしていた。ビシュラが思うに、ギャングとでも勘違いされたのではないだろうか。
これ以上一般人を驚かせては悪い。ビシュラはササッとカートに向かい、やや急ぎ足で商品陳列棚の間へ押していった。等間隔で並ぶ商品陳列棚の間に入ればヴァルトラムを人目から極力隠すことができる。それでもヴァルトラムの頭部は商品陳列棚の高さから飛び出してしまうのだけれど。
ビシュラは慣れた様子で商品をカートのなかへと入れていった。
商品陳列棚の一番上の商品はそうはいかない。ビシュラの身長では背伸びをしてどうにか届くかというところだ。いつも買うお気に入りの菓子に限ってそのようなところに配置される。人気がないのだろうか。
ヴァルトラムの視界でビシュラの指がわきわきと動いていた。その菓子の箱を手に取り、スッとビシュラの前に差し出した。
「今までは何処に住んでた」
「観測所の所員寮です。学院を卒業して一人暮らしもしてみたかったのですが、職場に近いところとなると、どうしてもイーダフェルトは家賃が高いですから」
「ああ、新米だから給金が安いのか」
「そんなにハッキリ仰有らないでください」
ありがとうございます、とビシュラはヴァルトラムから菓子の箱を受け取った。
ヴァルトラムは次から次へと何個もカートのなかに放り込んだ。ビシュラは慌てて「もういいです」と制止した。ビシュラの消費量からして1~2箱買えれば充分なのに。買わない分は棚に戻さなければ。
ビシュラはカートから菓子の箱をヴァルトラムに一つずつ手渡し、ヴァルトラムは文句も言わずにそれを元の場所に戻した。恐らく何も考えずにカートのなかに放り込んだし、今も何も考えずに動作している。
「大隊は兵舎にお住まいの方が多いのですか?」
「さあ。そうなんじゃねェか。あー……フェイは違う。基地外に住んでる」
「二位官ともなるとイーダフェルトにお部屋を借りられるのですね。ではズィルベルナー二位官も?」
その地位が実際に如何程の給金をいただけるのか予想も付かないが観測所でも新米、三本爪飛竜騎兵大隊でも新人のビシュラの給金よりは随分多いに決まっている。
「いや、アイツは確か兵舎にいる」
「ズィルベルナー二位官は大勢といらっしゃるほうが楽しそうですもんね」
「ガキだからな」
ふふ、とビシュラは笑った。ズィルベルナーには失礼だが胸中ではヴァルトラムに同意してしまった。彼は自分よりいくらか年上のはずだが、日々の言動は年下のようだ。屈強で厳めしい男だらけの大隊では、それに和まされている部分もある。
ビシュラを緊張や警戒をさせている代表格は、ヴァルトラムなのだけれど。
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