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Kapitel 05
26:獣の王子 02
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ウルリヒは宣言した通り、アキラとビシュラの元に服を届けてくれた。共にテーブルを囲んで食事をしようと誘われた以上、寝間着のまま赴くわけにもいかないし二人は与えられた服に着替えることにした。
急いで用意されたのであろう服は、一級品とは言えなかったが粗末なものではなかった。獣人が統治するこの国でヒト用の服を一日も待たず用意したのだから立派なものだ。二人を召使いや奴隷のように扱うつもりはないことが見て取れる。
二人の支度が済み、日が大地に隠れそうな頃、部屋に従者が呼びにやって来た。そうして付いていった先に着いたのは、食事が用意された部屋だった。
部屋の中央には八人程度が座れそうなテーブル、壁に壮大な絵画などはなく剣が組み合わさった置物が掲げてあるのみ。天井のシャンデリアには色ガラスでできた煌びやかな装飾などはなく、純粋に照明としての役割を果たしている。ヴィンテリヒブルク城に比べるとかなりこぢんまりと質素に感じられ、晩餐やパーティの間というよりは私室的役割が強い。
ウルリヒとルディは既にテーブルに着いていた。アキラとビシュラがテーブルに近付くと使用人が椅子を引いてくれた。ウルリヒを最も上座にして、向かって垂直にアキラとルディが対面になり、ビシュラはアキラの隣に座った。
アキラは自分の正面に座っているルディを見た。テーブルの上には四人分の食器が並べてあるから、ルディも食事を共にするのだろう。
「……将軍さん」
アキラが独り言のように零すと、ルディは小さく会釈を返した。
ウルリヒは嬉しそうな表情でズイッとアキラに顔を近付けてきた。
「ルディのことは覚えたのか。俺のことも覚えたか?」
「ウルリヒ、くん」
ウルリヒは口角を大きく引き上げて更に嬉しそうな表情をした。ルディもやや俯いて口許を隠すようにクッと笑みを零した。
「王子を〝くん〟呼ばわりとは」
ウルリヒはルディの肩をパンパンッと叩いた。
「ルディは幼い頃から一緒に育った兄弟のようなものだ。食事を一緒にとることも多い。だから今日も呼んだ。食事は人数が多いほうが楽しいだろう」
(御自分だけだと会話に詰まったときに困るからでしょう)
ルディは横目でウルリヒを見た。この部屋の雰囲気通りウルリヒは質実剛健な気質。兵士からの信奉は篤いのだが、異性との会話はどちらかといえばあまり得意とはしていない。
(楽しくしてくれようとしてるんだ……。服も食べ物もわざわざ用意してくれたし、悪い人じゃないみたいなんだよね、たぶん)
「大急ぎで用意させたが服は気に入ったか?」
ウルリヒに尋ねられ、アキラはニコッと笑った。
「ありがとう」
「女の……特にヒトの服はよく分からんが、似合っていると思うぞ。イヤ、アキラはエンブラだが……それでも似合っている、うん」
ウルリヒはアキラの顔を覗き込んで大袈裟なくらいウンウンウンと何度も頷いた。
「エンブラも同じような服を着るのか?」
「着てる人もいるけど、わたしは普段は全然違う恰好かな」
「アキラは普段どんな服を着ているのだ?」
「毎日制服を……って、こっちにも制服ってあるんですか? ビシュラさん」
アキラは隣に座っているビシュラのほうに顔を向ける。
「ございますよ。学院に通っている生徒は制服を着用しますし、三本爪飛竜騎兵大隊も式典時や公式の場では軍服を着用します」
ビシュラの言葉を聞いてルディが「ふぅん」と意味ありげに息を零した。
「侍女が、三本爪飛竜騎兵大隊のことにも随分詳しい様子だな」
「……アキラさまの婚約者のウーティエンゾンさまの隊です。わたしといえども知識程度には」
ビシュラはウルリヒとルディに対してそれぞれ頭を下げた。
「わたしにまでこのような服を用意していただきありがとうございます」
「侍女といえどいつまでも寝間着でいさせるわけにはいかない。ニーズヘクルメギルに輿入れする令嬢に仕える者だ、お前もそれなりの家の者なのだろう」
ウルリヒから掛けられた言葉に対し、ビシュラは何も答えなかった。
「聞けばお前は何やら不思議なプログラムを使うそうだが」
「何のことか分かりかねます」
内心ギクリとした。ただの侍女がプログラムを扱えるのはおかしい。アスガルトの住人ならばネェベルを有しているのは当然であり、ヴァルトラムのように学院を卒業していなくても厖大なネェベルを持て余している者はいる。しかしながら、プログラムを実行するのはただの侍女には過ぎたる素養だ。
「制服とはどのようなものだ」
ウルリヒのいつもよりも弾んだ声が飛んできてルディは「ふう」と息を吐いた。ビシュラを少々詮索してみたい気もあったが、そのような雰囲気ではなくなった。
(案外、王子にしては珍しく会話を楽しまれているようで良かった)
「水色のリボンが付いた緑の制服。季節で変わるけど」
「リボンか。可愛らしいな」
「可愛いものが好きなの? ヒトも可愛く見えるから好きなんでしょ?」
「か、可愛いものを好むのが変か? 当然のことではないか」
アキラは食器に目を落とし、ふと考えてみた。
「そう言われてみれば当たり前のことなのかも」
「そうだろう。アキラも可愛いものが好きだろう?」
「好きだよ」
ウルリヒは「じゃあ」と言って自分の胸に手を当てた。
「では……俺みたいなのは、あまり好まないか」
「ウルリヒくんみたいなのって」
「お前とは全然違うだろう。毛むくじゃらで牙や爪があって、可愛いところなど一つもない」
アキラはウルリヒの顔を見詰めて「うーん」と唸った。その間ウルリヒは胸に当てた掌から自分の心臓がドキドキと鼓動を打っているのを感じていた。尋ねておいてビクビクするなど滑稽だなと、自分でも思う。
「初めて見たときは恐かったけど、今は別に嫌いってわけじゃあ……」
「そうかっ」
ウルリヒの表情がぱぁあと明るくなったように見えた。顔も獣毛で覆われているのに普通の人より感情が読み取りやすいのは、この国の国民性だろうか。
食事の後、ウルリヒからもう少し話をしないかと誘われた。此処から先はルディとビシュラは同席せずに二人きりで。召使いや奴隷とは別格の好待遇とはいえ、王子からの申し出に対して基本的に拒否権はない。ビシュラは最後まで反対していたけれど部屋に戻された。
アキラはウルリヒに誘われ、食事をした部屋の隣の部屋に移動した。なかは既に暖炉で温められていた。灯りは暖炉の火と燭台の蝋燭だけ。薄暗いが、暖炉の前に椅子が二つあることと、奥にデスクと壁際に本棚があることは分かる。やはり王子の私室と考えるにはこぢんまりとしているが、書斎か仕事部屋なのだろうか。
「ここは誰の部屋?」
「誰の部屋ということもないが……いや、俺の部屋の一つということになるか。たまにしか使わないが。さっきの部屋もルディや親しい仲間と食事をするときくらいにしか使わない」
ウルリヒはアキラの手を引いて椅子まで案内した。腰掛けた椅子はかなり大きく、女性なら二人は座れそうだ。同じ大きさの椅子にウルリヒは一人でドサッと座り足を広げた。
「王子さまだから部屋が一杯あるんだね」
「俺は贅沢か……?」
アキラはきょとんして首を傾げる。
「贅沢してもいいんじゃない、の? 王子さまだから」
「エンブラの王子はそうなのか?」
「うーん、どうだろ? 実際にお姫さまや王子さまを見たのはこっちに来て初めてだからなあ。でも豪華な生活をしているイメージはあるかな。わたしみたいな一般人からすると」
「王子だからと言って必要もないのに贅沢をすることはないだろう? 威風堂々たる風体をして民に不安を与えないのも王の責務の一つではあるが、それそのものが目的になっては本末転倒だ」
ウルリヒは腕組みをして少々悩んだような顔をした。
「ルディに言わせると、俺は王子としてもう少し着飾ったりしたほうがいいのだそうだが」
「そう? ちゃんとした恰好だなと思ったけど」
「こ、今夜は、そう努めた……っ。妙な恰好をして、アキラに嫌われたくないからな」
「変なの」
アキラの言葉でギクッとしたウルリヒの尻尾がピーンッと伸びた。
「誘拐してきて帰してくれないのに、今更嫌われるとかを気にするの」
「そ、それは……」
ウルリヒは自分を真っ直ぐに見てくる真っ黒の瞳から目を背けた。アキラの言うことは尤もだ。力尽くで攫ってきた略奪犯が、これほど恐ろしい姿をした者が、か弱い生き物に好かれたいと願うのは矛盾している。
「……すまん」
ウルリヒは床に向かってポツリと零した。
王子だからと言って傲慢に偉ぶる素振りもない、無理難題を命令するわけでもない、自分が悪いと思えば素直に謝罪する。彼はやはり善人なのであろう。そう思ってしまえばアキラも彼をきつく責めることはできない。
「どうしてユリイーシャさんを攫おうとしたの?」
アキラの声は詰るような調子ではなかった。ウルリヒは目だけを動かしてアキラを見る。
「父上が部下に命じた。俺の知らないことだった。言い訳のように聞こえるかも知れないが」
「じゃあウルリヒくんは反対だった?」
「勿論。欲しいからと言って奪うのは短慮だ」
ウルリヒはアキラのほうへ首を伸ばしてズイッと顔を近付けた。
「俺も訊きたいことがある。アキラは何故ユリイーシャ姫の身代わりになった? ニーズヘクルメギルに輿入れする娘ともなれば、姫君の為とはいえ身代わりになっていいような身分ではないだろう」
「わたしは人間だから身分なんて関係ないよ」
アスガルトの住人たちは皆、アキラをとても大層なもののように扱う。しかし、それは決まってアキラ自身の価値ではなくて天尊のオマケのようにして付加されたものだ。それが解るからアキラは自分が大仰に扱われると可笑しくなってしまう。
元の世界に戻れば何処にでもいる普通の女子高生なんですよって。
「それにあのときは後先考えてなかっただけだよ。ただユリイーシャさんを連れて行かせちゃダメだって思って……。ユリイーシャさんはティエンのお兄さんを……婚約者のこと本当に好きなの。子どもの頃からずっと恋してるのが話を聞いてるだけでも伝わってくる」
アキラはウルリヒの目を真っ直ぐに見詰めた。
「だからもうユリイーシャさんのことは諦めて?」
ウルリヒはしばしアキラの瞳を覗き込んでいた。暖炉の光を移し込んだアキラの瞳は美しかった。黒い瞳が炎の色をキラキラと反射する様は、澄み切った冬の夜空に星が瞬くようだ。見詰めていると吸い込まれそうになって頭が引き寄せられるような錯覚。そういえば異性とこれほどまでに見詰め合ったことはあっただろうか。会話すら不得手だというのにそのような経験をしたことがあるはずがない。このまま引力のまま引き寄せられて肩を抱き寄せてもいいのだろうか……。
半ば朦朧とそのようなことを考えていたウルリヒは、ある瞬間ハッと我に返りアキラから目を逸らした。
「俺も……婚約者のいる女に横恋慕するなどみっともないことは父上が早々に諦めてくださればと思っている」
肘置きに頬杖を突いてふーっと息を吐く。溜息ではない、それに見せ掛けた深呼吸だ。先程の思考を頭から振り払う為の。
「だが父上のお気持ちも解らないでもない。ユリイーシャ姫は母上に似ているからな」
「似て、るの?」
「姿形は似てない。俺たちフローズヴィトニルソンと違ってお前はこんなにも小さくて細いのだからな」
アキラが意外そうな顔で訊ねてきたから、ウルリヒはハハッと笑った。
「ユリイーシャ姫と母上は毛色がとてもよく似ている」
「毛色って、ユリイーシャさんの髪の毛のこと?」
ウルリヒは「うむ」と答えた。全く見当違いな人違いをする兵士たちなどとは異なり、ウルリヒはユリイーシャの姿を見知っている。母は幼き頃の想い出のなかにしかいないが今でも一番に思い出すのは深い海のような高い空のような艶やかな見事な毛並みだ。
「父上はユリイーシャ姫を一目見たときに母上の面影を見たのだろう。母上はもうず随分昔に亡くなられたのだが、父上は歳を取って近頃は随分と気が弱くなられた。母上の面影で寂しさを埋めようとなさっているのかも知れん。……昔は、そういう方ではなかったのだがな」
歳を経るとは、心身が老いるとは、時が過ぎるとは、そういうことなのかも知れない。かつては緑豊かに生い茂り立派だった巨木が、立ち枯れて空っぽになって風化して朽ちていくように、エナジーがゆるゆると外へ流れ出てゆくことなのかも知れない。剛かったものが柔くなり、強かったものが弱くなり、平気だったはずの痛みやつらさに耐えられないようになっていく。克服したはずの悪夢に苛まれ始める。
やがてそうなってしまうなんて、若く頑健なウルリヒにはまだ想像だにすることができないけれど。
「大切な人がいなくなって寂しいって気持ちは解るけど」
ウルリヒが見たアキラの顔は、物悲しそうだった。想像で口にしているとは到底思えないほど、痛々しい。愛らしい顔の眉間に細かな皺を刻んで何かを噛み締めているような表情。
お前もまた、そのような途轍もない悲しみを体験したことがあるのか。喪失による悲哀は永久に抜けない釘のようなものだ。死ぬまで心の臓に刺さったままなのだ。
「でも、ウルリヒくんのお母さんとユリイーシャさんは別の人だよ。違う人で寂しさを埋められる……?」
「…………。俺もそう思う」
ウルリヒはアキラのほうを見てフッと笑みを零した。
「お前は優しいな、アキラ」
「わたし何か優しいこと言った、今?」
「俺の解釈が間違っていなければ、寂しいのがつらいからといって別のもので無理矢理誤魔化そうとするのは不誠実だと聞こえた。死んだ者に対しても礼を欠かないのは素晴らしい。それが自然とできるのは心根が優しいからだ」
そういうものかと、アキラはきょとんとして聞き入れた。
「優しい優しいって、最近よく言われる」
「ではアキラは誰に対しても本当に優しいのだな」
「んー。そんなに特別なことはしてないけど」
「優しくしようと思ってわざわざ優しくするなら本当の優しさとは言えまい」
本当の優しさ……。アキラは心のなかで独り言を呟き、自分の膝頭辺りに目を落とした。
「じゃあ昔のわたしはズルかったな。ひどい人間だと思われたくなくて優しくしてた気がする」
今でもたまに母親のことを思い出す。今ではもう、赤の他人だというのに。
幼い頃の記憶のなかでは母は明るく笑っている。活発で好奇心旺盛で少女のような人だった。決して子ども嫌いなどではなかったし気性の荒い人でもなかった。最初に会ったときは嬉しくてしょうがなかったし、父との仲睦まじい姿を見て幼心に幸福を感じていた。誰も彼も幸福だったのだ。姿の見えない何かがあの人を変えてしまうまでは。
あの人にとって〝それ〟は、自分の人生も自分そのものも変えてしまった〝それ〟は、わたしなんじゃないかと思ってる。誰もわたしを責めないけれど、わたしはたまに自分は悪魔なんじゃないかと思える。少なくともあの人にとっては、わたしは人生を狂わせた〝何か〟だ。
その事実が恐ろしすぎて、良い子にしていないといけない、誰かに迷惑を掛けてはいけない、何かの役に立つ人間でなければいけないと心の何処かで追い立てられている気がする。
ウルリヒが突然バンッと肘置きに掌を突いた。そして上半身を椅子から乗り出してアキラのほうにめいいっぱい体を近付ける。
「結果的に他者に優しくしているのならば良い行いではないか。アキラに優しくされて拒む者はいまい。優しくされた者は感謝もしよう!」
ウルリヒの語調はまるで獣が吠えているようだった。咄嗟に声量を抑えるのを忘れてしまい、ハッとした。ヒトの女子どもなら怯えて震え上がっても仕方がない。
ウルリヒが「すまない」と言おうとした矢先、アキラがアハッと吹き出した。
「さっきと言ってること全然違う」
アキラはコロコロと笑った。此処に囚われた日から落ち着き払った態度で見掛けよりも大人びて見えていたが、無邪気な笑顔を見ていると嗚呼やはり年端もゆかない少女だなと実感した。
(笑うと益々可愛らしい❤)
「王子さまが言ってることそんなにクルクル変えてもいいの?」
ウルリヒはバツが悪いのか長い鼻の頭をヒクヒクと動かした。
「此処には俺とアキラしかいない。ほかに誰も聞いていないからよいのだっ」
ウルリヒが必死に苦しい弁明を繰り広げるほど更に可笑しくなってくる。しかしこれ以上笑うと怒り出してしまいそうだから、アキラは懸命に自分の口を閉じようとする。笑いたいのを堪えて唇がわなわなと震える。
「そ、それに俺は泣いてほしくないのだ、アキラには」
ウルリヒは「はぁー」と大きく息を吐きながら言った。
「泣いてないよ?」
「泣きそうだと思った。悲しそうなニオイがしたんだ」
「感情にもニオイがあるの? ウルリヒくんすごい」
アキラは笑うのをピタッと已めてウルリヒの顔を見る。
最も身近なアスガルトの住人である天尊にもそのようなことは言われたことがない。思っている以上に獣人の鼻というのは特別なようだ。
「好いている者を悲しませたくないのは当たり前だろう。欲しいものは何でも用意する、俺にできることは何でもする、だから泣かないでくれ」
自然と持ち上がりかけた自分の腕を、ウルリヒは瞬時に制止した。アキラに触れる勇気はまだない。触れれば今以上に自分とは別の生き物だと実感させてしまうことは否めない。折角会話をして食事をして笑ってくれるのに、恐がらせて嫌われてしまいたくない。
急いで用意されたのであろう服は、一級品とは言えなかったが粗末なものではなかった。獣人が統治するこの国でヒト用の服を一日も待たず用意したのだから立派なものだ。二人を召使いや奴隷のように扱うつもりはないことが見て取れる。
二人の支度が済み、日が大地に隠れそうな頃、部屋に従者が呼びにやって来た。そうして付いていった先に着いたのは、食事が用意された部屋だった。
部屋の中央には八人程度が座れそうなテーブル、壁に壮大な絵画などはなく剣が組み合わさった置物が掲げてあるのみ。天井のシャンデリアには色ガラスでできた煌びやかな装飾などはなく、純粋に照明としての役割を果たしている。ヴィンテリヒブルク城に比べるとかなりこぢんまりと質素に感じられ、晩餐やパーティの間というよりは私室的役割が強い。
ウルリヒとルディは既にテーブルに着いていた。アキラとビシュラがテーブルに近付くと使用人が椅子を引いてくれた。ウルリヒを最も上座にして、向かって垂直にアキラとルディが対面になり、ビシュラはアキラの隣に座った。
アキラは自分の正面に座っているルディを見た。テーブルの上には四人分の食器が並べてあるから、ルディも食事を共にするのだろう。
「……将軍さん」
アキラが独り言のように零すと、ルディは小さく会釈を返した。
ウルリヒは嬉しそうな表情でズイッとアキラに顔を近付けてきた。
「ルディのことは覚えたのか。俺のことも覚えたか?」
「ウルリヒ、くん」
ウルリヒは口角を大きく引き上げて更に嬉しそうな表情をした。ルディもやや俯いて口許を隠すようにクッと笑みを零した。
「王子を〝くん〟呼ばわりとは」
ウルリヒはルディの肩をパンパンッと叩いた。
「ルディは幼い頃から一緒に育った兄弟のようなものだ。食事を一緒にとることも多い。だから今日も呼んだ。食事は人数が多いほうが楽しいだろう」
(御自分だけだと会話に詰まったときに困るからでしょう)
ルディは横目でウルリヒを見た。この部屋の雰囲気通りウルリヒは質実剛健な気質。兵士からの信奉は篤いのだが、異性との会話はどちらかといえばあまり得意とはしていない。
(楽しくしてくれようとしてるんだ……。服も食べ物もわざわざ用意してくれたし、悪い人じゃないみたいなんだよね、たぶん)
「大急ぎで用意させたが服は気に入ったか?」
ウルリヒに尋ねられ、アキラはニコッと笑った。
「ありがとう」
「女の……特にヒトの服はよく分からんが、似合っていると思うぞ。イヤ、アキラはエンブラだが……それでも似合っている、うん」
ウルリヒはアキラの顔を覗き込んで大袈裟なくらいウンウンウンと何度も頷いた。
「エンブラも同じような服を着るのか?」
「着てる人もいるけど、わたしは普段は全然違う恰好かな」
「アキラは普段どんな服を着ているのだ?」
「毎日制服を……って、こっちにも制服ってあるんですか? ビシュラさん」
アキラは隣に座っているビシュラのほうに顔を向ける。
「ございますよ。学院に通っている生徒は制服を着用しますし、三本爪飛竜騎兵大隊も式典時や公式の場では軍服を着用します」
ビシュラの言葉を聞いてルディが「ふぅん」と意味ありげに息を零した。
「侍女が、三本爪飛竜騎兵大隊のことにも随分詳しい様子だな」
「……アキラさまの婚約者のウーティエンゾンさまの隊です。わたしといえども知識程度には」
ビシュラはウルリヒとルディに対してそれぞれ頭を下げた。
「わたしにまでこのような服を用意していただきありがとうございます」
「侍女といえどいつまでも寝間着でいさせるわけにはいかない。ニーズヘクルメギルに輿入れする令嬢に仕える者だ、お前もそれなりの家の者なのだろう」
ウルリヒから掛けられた言葉に対し、ビシュラは何も答えなかった。
「聞けばお前は何やら不思議なプログラムを使うそうだが」
「何のことか分かりかねます」
内心ギクリとした。ただの侍女がプログラムを扱えるのはおかしい。アスガルトの住人ならばネェベルを有しているのは当然であり、ヴァルトラムのように学院を卒業していなくても厖大なネェベルを持て余している者はいる。しかしながら、プログラムを実行するのはただの侍女には過ぎたる素養だ。
「制服とはどのようなものだ」
ウルリヒのいつもよりも弾んだ声が飛んできてルディは「ふう」と息を吐いた。ビシュラを少々詮索してみたい気もあったが、そのような雰囲気ではなくなった。
(案外、王子にしては珍しく会話を楽しまれているようで良かった)
「水色のリボンが付いた緑の制服。季節で変わるけど」
「リボンか。可愛らしいな」
「可愛いものが好きなの? ヒトも可愛く見えるから好きなんでしょ?」
「か、可愛いものを好むのが変か? 当然のことではないか」
アキラは食器に目を落とし、ふと考えてみた。
「そう言われてみれば当たり前のことなのかも」
「そうだろう。アキラも可愛いものが好きだろう?」
「好きだよ」
ウルリヒは「じゃあ」と言って自分の胸に手を当てた。
「では……俺みたいなのは、あまり好まないか」
「ウルリヒくんみたいなのって」
「お前とは全然違うだろう。毛むくじゃらで牙や爪があって、可愛いところなど一つもない」
アキラはウルリヒの顔を見詰めて「うーん」と唸った。その間ウルリヒは胸に当てた掌から自分の心臓がドキドキと鼓動を打っているのを感じていた。尋ねておいてビクビクするなど滑稽だなと、自分でも思う。
「初めて見たときは恐かったけど、今は別に嫌いってわけじゃあ……」
「そうかっ」
ウルリヒの表情がぱぁあと明るくなったように見えた。顔も獣毛で覆われているのに普通の人より感情が読み取りやすいのは、この国の国民性だろうか。
食事の後、ウルリヒからもう少し話をしないかと誘われた。此処から先はルディとビシュラは同席せずに二人きりで。召使いや奴隷とは別格の好待遇とはいえ、王子からの申し出に対して基本的に拒否権はない。ビシュラは最後まで反対していたけれど部屋に戻された。
アキラはウルリヒに誘われ、食事をした部屋の隣の部屋に移動した。なかは既に暖炉で温められていた。灯りは暖炉の火と燭台の蝋燭だけ。薄暗いが、暖炉の前に椅子が二つあることと、奥にデスクと壁際に本棚があることは分かる。やはり王子の私室と考えるにはこぢんまりとしているが、書斎か仕事部屋なのだろうか。
「ここは誰の部屋?」
「誰の部屋ということもないが……いや、俺の部屋の一つということになるか。たまにしか使わないが。さっきの部屋もルディや親しい仲間と食事をするときくらいにしか使わない」
ウルリヒはアキラの手を引いて椅子まで案内した。腰掛けた椅子はかなり大きく、女性なら二人は座れそうだ。同じ大きさの椅子にウルリヒは一人でドサッと座り足を広げた。
「王子さまだから部屋が一杯あるんだね」
「俺は贅沢か……?」
アキラはきょとんして首を傾げる。
「贅沢してもいいんじゃない、の? 王子さまだから」
「エンブラの王子はそうなのか?」
「うーん、どうだろ? 実際にお姫さまや王子さまを見たのはこっちに来て初めてだからなあ。でも豪華な生活をしているイメージはあるかな。わたしみたいな一般人からすると」
「王子だからと言って必要もないのに贅沢をすることはないだろう? 威風堂々たる風体をして民に不安を与えないのも王の責務の一つではあるが、それそのものが目的になっては本末転倒だ」
ウルリヒは腕組みをして少々悩んだような顔をした。
「ルディに言わせると、俺は王子としてもう少し着飾ったりしたほうがいいのだそうだが」
「そう? ちゃんとした恰好だなと思ったけど」
「こ、今夜は、そう努めた……っ。妙な恰好をして、アキラに嫌われたくないからな」
「変なの」
アキラの言葉でギクッとしたウルリヒの尻尾がピーンッと伸びた。
「誘拐してきて帰してくれないのに、今更嫌われるとかを気にするの」
「そ、それは……」
ウルリヒは自分を真っ直ぐに見てくる真っ黒の瞳から目を背けた。アキラの言うことは尤もだ。力尽くで攫ってきた略奪犯が、これほど恐ろしい姿をした者が、か弱い生き物に好かれたいと願うのは矛盾している。
「……すまん」
ウルリヒは床に向かってポツリと零した。
王子だからと言って傲慢に偉ぶる素振りもない、無理難題を命令するわけでもない、自分が悪いと思えば素直に謝罪する。彼はやはり善人なのであろう。そう思ってしまえばアキラも彼をきつく責めることはできない。
「どうしてユリイーシャさんを攫おうとしたの?」
アキラの声は詰るような調子ではなかった。ウルリヒは目だけを動かしてアキラを見る。
「父上が部下に命じた。俺の知らないことだった。言い訳のように聞こえるかも知れないが」
「じゃあウルリヒくんは反対だった?」
「勿論。欲しいからと言って奪うのは短慮だ」
ウルリヒはアキラのほうへ首を伸ばしてズイッと顔を近付けた。
「俺も訊きたいことがある。アキラは何故ユリイーシャ姫の身代わりになった? ニーズヘクルメギルに輿入れする娘ともなれば、姫君の為とはいえ身代わりになっていいような身分ではないだろう」
「わたしは人間だから身分なんて関係ないよ」
アスガルトの住人たちは皆、アキラをとても大層なもののように扱う。しかし、それは決まってアキラ自身の価値ではなくて天尊のオマケのようにして付加されたものだ。それが解るからアキラは自分が大仰に扱われると可笑しくなってしまう。
元の世界に戻れば何処にでもいる普通の女子高生なんですよって。
「それにあのときは後先考えてなかっただけだよ。ただユリイーシャさんを連れて行かせちゃダメだって思って……。ユリイーシャさんはティエンのお兄さんを……婚約者のこと本当に好きなの。子どもの頃からずっと恋してるのが話を聞いてるだけでも伝わってくる」
アキラはウルリヒの目を真っ直ぐに見詰めた。
「だからもうユリイーシャさんのことは諦めて?」
ウルリヒはしばしアキラの瞳を覗き込んでいた。暖炉の光を移し込んだアキラの瞳は美しかった。黒い瞳が炎の色をキラキラと反射する様は、澄み切った冬の夜空に星が瞬くようだ。見詰めていると吸い込まれそうになって頭が引き寄せられるような錯覚。そういえば異性とこれほどまでに見詰め合ったことはあっただろうか。会話すら不得手だというのにそのような経験をしたことがあるはずがない。このまま引力のまま引き寄せられて肩を抱き寄せてもいいのだろうか……。
半ば朦朧とそのようなことを考えていたウルリヒは、ある瞬間ハッと我に返りアキラから目を逸らした。
「俺も……婚約者のいる女に横恋慕するなどみっともないことは父上が早々に諦めてくださればと思っている」
肘置きに頬杖を突いてふーっと息を吐く。溜息ではない、それに見せ掛けた深呼吸だ。先程の思考を頭から振り払う為の。
「だが父上のお気持ちも解らないでもない。ユリイーシャ姫は母上に似ているからな」
「似て、るの?」
「姿形は似てない。俺たちフローズヴィトニルソンと違ってお前はこんなにも小さくて細いのだからな」
アキラが意外そうな顔で訊ねてきたから、ウルリヒはハハッと笑った。
「ユリイーシャ姫と母上は毛色がとてもよく似ている」
「毛色って、ユリイーシャさんの髪の毛のこと?」
ウルリヒは「うむ」と答えた。全く見当違いな人違いをする兵士たちなどとは異なり、ウルリヒはユリイーシャの姿を見知っている。母は幼き頃の想い出のなかにしかいないが今でも一番に思い出すのは深い海のような高い空のような艶やかな見事な毛並みだ。
「父上はユリイーシャ姫を一目見たときに母上の面影を見たのだろう。母上はもうず随分昔に亡くなられたのだが、父上は歳を取って近頃は随分と気が弱くなられた。母上の面影で寂しさを埋めようとなさっているのかも知れん。……昔は、そういう方ではなかったのだがな」
歳を経るとは、心身が老いるとは、時が過ぎるとは、そういうことなのかも知れない。かつては緑豊かに生い茂り立派だった巨木が、立ち枯れて空っぽになって風化して朽ちていくように、エナジーがゆるゆると外へ流れ出てゆくことなのかも知れない。剛かったものが柔くなり、強かったものが弱くなり、平気だったはずの痛みやつらさに耐えられないようになっていく。克服したはずの悪夢に苛まれ始める。
やがてそうなってしまうなんて、若く頑健なウルリヒにはまだ想像だにすることができないけれど。
「大切な人がいなくなって寂しいって気持ちは解るけど」
ウルリヒが見たアキラの顔は、物悲しそうだった。想像で口にしているとは到底思えないほど、痛々しい。愛らしい顔の眉間に細かな皺を刻んで何かを噛み締めているような表情。
お前もまた、そのような途轍もない悲しみを体験したことがあるのか。喪失による悲哀は永久に抜けない釘のようなものだ。死ぬまで心の臓に刺さったままなのだ。
「でも、ウルリヒくんのお母さんとユリイーシャさんは別の人だよ。違う人で寂しさを埋められる……?」
「…………。俺もそう思う」
ウルリヒはアキラのほうを見てフッと笑みを零した。
「お前は優しいな、アキラ」
「わたし何か優しいこと言った、今?」
「俺の解釈が間違っていなければ、寂しいのがつらいからといって別のもので無理矢理誤魔化そうとするのは不誠実だと聞こえた。死んだ者に対しても礼を欠かないのは素晴らしい。それが自然とできるのは心根が優しいからだ」
そういうものかと、アキラはきょとんとして聞き入れた。
「優しい優しいって、最近よく言われる」
「ではアキラは誰に対しても本当に優しいのだな」
「んー。そんなに特別なことはしてないけど」
「優しくしようと思ってわざわざ優しくするなら本当の優しさとは言えまい」
本当の優しさ……。アキラは心のなかで独り言を呟き、自分の膝頭辺りに目を落とした。
「じゃあ昔のわたしはズルかったな。ひどい人間だと思われたくなくて優しくしてた気がする」
今でもたまに母親のことを思い出す。今ではもう、赤の他人だというのに。
幼い頃の記憶のなかでは母は明るく笑っている。活発で好奇心旺盛で少女のような人だった。決して子ども嫌いなどではなかったし気性の荒い人でもなかった。最初に会ったときは嬉しくてしょうがなかったし、父との仲睦まじい姿を見て幼心に幸福を感じていた。誰も彼も幸福だったのだ。姿の見えない何かがあの人を変えてしまうまでは。
あの人にとって〝それ〟は、自分の人生も自分そのものも変えてしまった〝それ〟は、わたしなんじゃないかと思ってる。誰もわたしを責めないけれど、わたしはたまに自分は悪魔なんじゃないかと思える。少なくともあの人にとっては、わたしは人生を狂わせた〝何か〟だ。
その事実が恐ろしすぎて、良い子にしていないといけない、誰かに迷惑を掛けてはいけない、何かの役に立つ人間でなければいけないと心の何処かで追い立てられている気がする。
ウルリヒが突然バンッと肘置きに掌を突いた。そして上半身を椅子から乗り出してアキラのほうにめいいっぱい体を近付ける。
「結果的に他者に優しくしているのならば良い行いではないか。アキラに優しくされて拒む者はいまい。優しくされた者は感謝もしよう!」
ウルリヒの語調はまるで獣が吠えているようだった。咄嗟に声量を抑えるのを忘れてしまい、ハッとした。ヒトの女子どもなら怯えて震え上がっても仕方がない。
ウルリヒが「すまない」と言おうとした矢先、アキラがアハッと吹き出した。
「さっきと言ってること全然違う」
アキラはコロコロと笑った。此処に囚われた日から落ち着き払った態度で見掛けよりも大人びて見えていたが、無邪気な笑顔を見ていると嗚呼やはり年端もゆかない少女だなと実感した。
(笑うと益々可愛らしい❤)
「王子さまが言ってることそんなにクルクル変えてもいいの?」
ウルリヒはバツが悪いのか長い鼻の頭をヒクヒクと動かした。
「此処には俺とアキラしかいない。ほかに誰も聞いていないからよいのだっ」
ウルリヒが必死に苦しい弁明を繰り広げるほど更に可笑しくなってくる。しかしこれ以上笑うと怒り出してしまいそうだから、アキラは懸命に自分の口を閉じようとする。笑いたいのを堪えて唇がわなわなと震える。
「そ、それに俺は泣いてほしくないのだ、アキラには」
ウルリヒは「はぁー」と大きく息を吐きながら言った。
「泣いてないよ?」
「泣きそうだと思った。悲しそうなニオイがしたんだ」
「感情にもニオイがあるの? ウルリヒくんすごい」
アキラは笑うのをピタッと已めてウルリヒの顔を見る。
最も身近なアスガルトの住人である天尊にもそのようなことは言われたことがない。思っている以上に獣人の鼻というのは特別なようだ。
「好いている者を悲しませたくないのは当たり前だろう。欲しいものは何でも用意する、俺にできることは何でもする、だから泣かないでくれ」
自然と持ち上がりかけた自分の腕を、ウルリヒは瞬時に制止した。アキラに触れる勇気はまだない。触れれば今以上に自分とは別の生き物だと実感させてしまうことは否めない。折角会話をして食事をして笑ってくれるのに、恐がらせて嫌われてしまいたくない。
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