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Kapitel 05
急襲 04
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〈――――緊急入電‼〉
突然マクシミリアンの脳内に声が響き、ヴァルトラムとの呑気な会話を遮った。
「フェイィッ⁉」
まずは音量に驚いた。声の主は緋。珍しく余裕の無い声だった。
〈複数体の獣人が城内に侵入! アキラ・ビシュラ両名を拉致して城外へ逃走中! 尚、ユリイーシャ姫は保護している。各員、逃走者を全力で発見し追跡! 最優先事項だッ!〉
にわかにマクシミリアンの顔色が変わって強張った。
ヴァルトラムはマクシミリアンの変化に早々に気づいた。プログラムを扱えないヴァルトラムは、直接脳内に届く伝令を聞くことができない。しかし、マクシミリアンを見れば事態が急変したことは察知できた。
〈誰でもいいから大隊長と歩兵長を叩き起こせッ!〉
通信は乱暴に切断された。
直後、マクシミリアンは緊張した面持ちをヴァルトラムへと向けた。
「フェイが何だって?」
「ビシュラと、大隊長のカワイイカノジョが獣人に攫われた、と」
ヴァルトラムは長椅子から腰を持ち上げた。
「獣人はどこだ?」
「城から逃げたそうです。現在、総員で捜索中」
ヴァルトラムは張り出し陣の先端まで移動した。そこから宏大な大地を見渡してスンスンと鼻先を動かした。その所作には、動揺も興奮も見てとれなかった。
「…………。あ~、ケモノ臭ェのがいるな」
「追えますか? こちらから救出に向かわんとビシュラが自力で脱出するのは無理でしょう」
ゴオオッ! ――突風を巻いてヴァルトラムとマクシミリアンの頭上を、数頭の飛竜が通過した。
数頭の飛竜が城の上空で旋回し、その後、四方に分かれて飛んでいった。
ブワッ。バサッバサッ!
張り出し陣の先端にいるヴァルトラムとマクシミリアンに強風が吹きつけた。そのほうを見ると、ズィルベルナーが跨がった飛竜が滞空していた。
飛竜の足首には枷が装備されている。そこから垂れる鎖の先には飛竜を地に繋ぎ止めるための錨、枷には鎖を巻き上げる装置が付いている。ズィルベルナーの飛竜も空高く飛び上がるために、ガラガラガラガラッと音を立てながら鎖を巻き上げている最中だ。
「緋姐から伝令あったろ。騎兵隊は飛竜で捜索する」
ズィルベルナーは滞空した状態でヴァルトラムとマクシミリアンに告げた。
マクシミリアンは飛竜の羽搏きによって起こる風に目を細め、ズィルベルナーを見上げた。
「大隊長は?」
「さっき飛び起きてたぜ。直に出るハズだ」
ズィルベルナーの飛竜は立派な翼を大きく羽搏かせ、高く上昇する。
……はずだったのだが、飛竜はガクンッとその場に縫い止められたように動けなかった。高い鳴き声を上げて両翼を大きく羽搏かせても一向に高度が上がらなかった。
不審に思ったズィルベルナーが眼下を見下ろすと、ヴァルトラムが飛竜の鎖を掴んでいた。身体もトルクも人よりも何倍も大きな飛竜を片手の腕力のみで引き留めた。
「ゲッ。竜の錨を……!」
「俺を乗せろ」
「はぁあ⁉」とズィルベルナーはオーバーに聞き返した。
「無茶言うな! ンなクソ重てェブーツ履いてる歩兵長なんか乗せたら俺のオフェリアが潰れちまう! 第一オフェリアは繊細なんだから中年なんて乗せまセンー!」
マクシミリアンは額を押さえた。この非常時に何を言っているのか。緋の剣幕はかなり余裕が無かった。巫山戯ていて手遅れになったら多少の折檻では済むまい。
ヴァルトラムが鎖をグイッと引っ張り、ズィルベルナーの愛騎・オフェリアはさらにガクンッと高度を下げた。
明らかに嫌がっている甲高い鳴き声が、ズィルベルナーの耳には嫌な風に響く。飛竜は単なる乗り物や移動手段ではない。飛竜に騎乗することを許された者は、飛竜と意思疎通ができる。言語によらない絆のようなものだ。無論、痛みや苦しみも理解する。
「ちょッ……オッサンやめろ! オフェリアが嫌がってンだろッ」
「ゴチャゴチャ言うな、乗せろ」
「嫌だっつってんだろ、激重中年!💢」
ヴァルトラムとズィルベルナーが小競り合いをしているところに、飛竜に跨がったトラジロが現れた。飛竜を繋ぎ止めているヴァルトラム、それに対して喚き散らしているズィルベルナーと悲鳴を上げる飛竜。聡明なトラジロは一見して情況を大まかに理解した。
「無理です、ヴァルトラム。あなたの特殊装甲ブーツを乗せては飛べません」
「デケエ図体は見掛け倒しか」
確かに飛竜は大きい。翼の部分を除いてもゆうにヴァルトラムよりも大きく、その両翼を広げれば二倍三倍にも巨大になる。
「あなたのブーツは規格外の重量です。飛竜に乗りたければブーツを脱ぎなさい」
トラジロは冷静に放言した。飛竜を誰よりもよく知る騎兵隊の長として妥当な判断に思えたが、それに異論を唱えたのはマクシミリアンだった。
「特殊装甲ブーツは歩兵長の装備です! 戦いに行こうってのに装備外せってのはナイでしょう!」
「ええ。装備を外すのは最良の選択ではない。だから、ほかの歩兵隊員たちと同じく地上から追いかけて来なさい」
ヴァルトラムとトラジロは睨み合うようにして視線をかち合わせた。
マクシミリアンとしてもトラジロの説明は妥当なものだった。装備を外すことなどできないのだから、彼ら歩兵隊員は地を這ってでもいくしかない。いつでもそうしてきたように。
しかしながら、ヴァルトラムは飛竜の鎖から手を離さなかった。トラジロが溜息を吐きそうになった頃、ヴァルトラムが口を開いた。
「どうやって獣人を探す?」
「は?」
「月明かりしかねェのにオメエら騎兵隊の目で森のなかから獣人を探せんのか。アイツらの脚は速ェぞ」
トラジロの表情がにわかに不愉快そうに変化した。その変化はとても小さかったが、ヴァルトラムは見逃さなかった。小馬鹿にするようにハッと軽く笑った。
「俺はできるぜ」
トラジロとズィルベルナーは飛竜を駆り高速で夜空を移動する。ズィルベルナーの愛騎・オフェリアの背にはヴァルトラムも乗っていた。
ズィルベルナーとしては不本意だ。なんだかんだと一悶着の末に結局はこうなってしまった。
彼ら二頭の飛竜の前には黒い飛竜。先頭を突っ切るその飛竜は天尊のものだ。ズィルベルナーは天尊の背中を見て、へー、と感嘆を漏らした。
「サスガに速ェなー、大隊長のディアンウェイは。後から来たのに追いつかれちまった」
「逃走者にもそろそろ追いつけるとよいのですが」
ヴァルトラムも天尊の黒い飛竜をジッと見詰めた。その飛竜はほかのものよりも一回り大きな個体でありながらも速度は一番だ。
「アイツの飛竜ならブーツで乗れたんじゃねェか?」
「ディアンウェイでも無理です。自分の総重量の程度くらい把握しなさい」
トラジロは、ハーアッ、と大きめの溜息を吐いた。
ヴァルトラムが飛竜に乗ることができた理由、それは単純にブーツを脱いだからだ。ブーツを装着していては騎乗できないというのならば脱ぐしかない。情況に於いて最優先すべきは装備ではなく追跡だとヴァルトラムは判断した。マクシミリアンにとっては有り得ない決断だったが、ヴァルトラムはさして迷いもせずそれを決めた。
「どうなの歩兵長。ビシュラちゃんとアキラちゃんを攫ったヤツに少しは近づいてんの?」
「もう見えてる」
「そういうことは早く言いなさい」
この男は本当にトラジロを苛つかせる。本人にそのつもりはなくても言動のほとんどが理解できない。
「オメエらにもそろそろ見えるだろ」
彼らはヴァルトラムが指差した方向に目を向けた。
丁度、森が薄くなる地帯に差しかかり、四つの影が飛び出した。地面を高速で直進する影は紛れもなく獣人。ふたりの獣人がそれぞれアキラとビシュラを肩に担いだり片腕に抱いたりしており、残りふたりはその前後を守るように疾走している。
トラジロたちが獣人たちを視認できたのは視界を邪魔するものがないからだ。夜間にこれほどの速度で移動するものを木々が茂る地帯で発見するのは難しい。ヴァルトラムの異常とも言える視力がなければ発見は不可能だったろう。
「流石は獣人ですね。持続的にこれだけの速度を出せるとは。後続の歩兵隊は間に合わないでしょう。そろそろ境界が近いというのに……」
トラジロは後方を振り返り、ついてきている騎兵隊員たちに指示を出した。
複数の飛竜が獣人を空から包囲して威嚇するが、彼らの逃走の足を停めることはできなかった。敏捷に左右に動いて飛竜の鉤爪を素早く回避した。
何度も仕掛けては回避されるのを繰り返し、その反復はヴァルトラムにはどうにも埒が明かないように見えた。肉を突く鳥の啄みのようにじれったい。ヴァルトラムは前を進む天尊に「オイ」と声を掛けた。
「オメエにもヤツらが見えてんだろ。なに黙ってついてってやがる。何もしねェでこのまま女攫われるつもりか」
天尊からの返答はなく、ヴァルトラムはチッと舌打ちした。ズィルベルナーに天尊の横に並ぶように指示した。
天尊は、ヴァルトラムとズィルベルナーが騎乗するオフェリアが、ピタリと横に並んでもそちらを一瞥もしなかった。天尊の表情は険しく、明らかに余裕がなかった。しかし、ヴァルトラムが配慮してやるはずもない。
「オイコラ。得意の雷はどうした」
「ダメだ。雷撃じゃアキラにもダメージが及ぶ」
ヴァルトラムは大袈裟に「はあ?」と聞き返した。何を言っているのだとでも言いたげに。
「獣人四人の位置が近すぎます。雷撃がどれにヒットしてもふたりに影響してしまうでしょう。ビシュラが起きているなら〝壁〟を張るなりできたでしょうが。……先ほどからピクリとも動かない。意識が無いようだ」
トラジロはフルフルッと首を左右に振った。
アキラもビシュラもまるで荷物のようにじっとしている。抵抗されると無傷のままで運ぶことが難しいからであろう、獣人たちは攫ったふたりを何らかの手段で意識が無い状態にしたらしい。
「じゃあ、そこに見えてンのにみすみす逃すってのか。バカか」
トラジロはすぐさまコラッと叱ったが、ヴァルトラムはそのようなものは気にしなかった。小馬鹿にして鼻先で嘲弄し、腕を真っ直ぐに伸ばして銃を構えた。
それを見た天尊は、ハッと顔色を変えた。
「やめろ! アキラに当たったらどうするッ」
「ちゃんと狙ってやる。当たんねェよう祈ってろ」
「殺すぞヴァルトラム!」
ヴァルトラムの指が引鉄にかかる。天尊の喚き、トラジロの制止する声を無視して照準を定めた。そこからは躊躇することなく機械的に引鉄を引くだけだ。
そうしようとした瞬間、突然体勢が揺らいだ。ズィルベルナーの飛竜が急に方向を変えた。無論、ズィルベルナーの命令である。
体勢を崩されたヴァルトラムは、発射しても必ず当たらないと分かると引鉄を引くのを已めた。ギロッと目だけ動かしてズィルベルナーを見た。
「何しやがる、クソガキ」
「大隊長がダメだっつってんだろッ」
ヴァルトラムはチイッと舌打ちをした。
自分の女が怪我をするからと手を拱いている者と、ただ従順に盲目に命令だけを遵守しようとする者、情況分析ばかり宣うお行儀の良い者、仮にも歴戦の戦士と謳われる男たちが雁首揃えてじれったいにも程がある。じれったいを通り越して苛立ち、怒りに近い感情も湧いてくる。
「ドイツもコイツも使えねェ」
ヴァルトラムはそう言い捨て、飛竜の背中を蹴って宙に身を投げ出した。
銃だけを手にして暗闇に吸いこまれるように真っ逆さまに落ちてゆく。常人ならば地面に叩きつけられてひとたまりもない高度だが、この男が自らそうした以上、誰も案じてなどいなかった。
ヴァルトラムは落下地点から走り出し、一直線に獣人を目指した。上空から見ているからよく分かるが、とんでもない速さで追跡している。人よりも遙かに俊敏な獣人に走力で引けを取らないなど常識では考えられない。
「ダッシュで獣人に追いついてやがる歩兵長💧」
「本当に規格外の男ですね」
ズィルベルナーとトラジロは、半ば惘れて乾いた笑みを漏らした。
ドドドドドドドドドドッ!
背後から恐ろしい速度で接近してくる不穏な音と気配。全力疾走の自分たちに追いつく追跡者などいるはずがない、そう思っている獣人たちは不審がって振り返った。
そこにいたのはヒト。長い銃身を肩に担いだ異様な男と目が合い、ギョッとした。
「女返せ」
「‼」
驚愕した獣人の顔面に、ヴァルトラムは銃口を突きつけた。
ズゴォンッ!
眼前での発砲。獣人は咄嗟に地面を強く蹴り、すんでのところで弾丸を回避した。人には真似できない反応速度だ。
ヴァルトラムは暢気に、へえ、と感嘆じみた声を漏らした。
銃声を聞いて気が気でなくなったのは天尊のほうだった。
「あんな至近距離でぶっ放しやがって……!」
トラジロは獣人たちの進行方向に目を伸ばして眉間に皺を刻んだ。
「ダメだ。これ以上は追えない」
「トラジロ?」
ズィルベルナーはトラジロのほうへ目線を向けた。トラジロは深刻な表情だった。
「もう本当に境界だ。今の私たちには境界を越えることはできません」
「何で?」
ズィルベルナーはきょとんとして訊ねたが、トラジロはそれを無視した。ズィルベルナーの相手をしている猶予は無い。飛竜を降下させてヴァルトラムに近寄った。
「これ以上追ってはいけません。停止しなさいヴァルトラム!」
ヴァルトラムはトラジロに耳を貸さなかった。一瞬振り返ることもせず獣人との距離を詰めた。
ズドン、ズドン、ズドンッ! ――ヴァルトラムは間近で続け様に発砲した。
獣人たちはヴァルトラムの弾丸をことごとく躱した。
ひとりの獣人が足を停め地を蹴り、木を蹴った。ピンボールのように跳ね回り、ヴァルトラムのほうへ身体を捻った。鋭利な獣人の爪がヴァルトラムを襲った。
カキィンッ! ――ヴァルトラムの腕の付け根付近に鋭利な爪が突き立てられ、深く肉を抉った。……はずだった長い爪が、音を立てて折れ、その欠片が硝子のように四散した。
獣人は自慢の爪が柔らかい肉を裂けないなど想像したことも無かった。おそらく生まれて初めての体験に、ハッキリと顔色を変えた。
「爪が……⁉」
「効かねェなァ」
ヴァルトラムはグッと拳を握りこむ。半ば呆けている獣人の顔面に拳を叩きこんだ。
ゴッキィイン!
毛むくじゃらの巨体が激しく揺らぎ、殴り飛ばされた頭部は地面にぶち当たった。火花が散って意識を揺らす。朦朧と霞みがかる視界の端でピカッと何かが閃いた。
「退けェッ!」
仲間の声が聞こえるが、揺れる脳味噌では、どちらが「退く」でどちらが「進む」なのか、瞬時に把握することは無理だった。足を踏み出そうとするとクラッと地面が傾いた。
ズドォオオン!
ヴァルトラムがその場から飛び退き、次の瞬間にはヴァルトラムによって殴り飛ばされた獣人を仲間が抱えて待避した。間一髪だった、天尊の雷撃が落ちたのは。
ヴァルトラムが空を見上げると、天尊が飛竜の上から彼らを見下ろしていた。
「俺には容赦なしかよ、あの野郎」
天尊が雷撃を封じたのはアキラを巻き添えにしないためのみ。ヴァルトラムが巻き添えになろうとも攻撃しない理由にはならない。ヴァルトラムが負傷もしくは戦線から離脱することは全体戦力の低下にはなるが、それによって目的が達せられるならば必要な犠牲だと割り切れる。言ってしまえば巻き添えを食うほうが悪いのだ。
天尊は悪びれる態度など一切見せずヴァルトラムからフイッと視線を外し、獣人の追跡を再開した。
「お待ちください大隊長!」
天尊もまたトラジロに耳を貸さなかった。前だけを、アキラだけを見ている天尊に対し、トラジロは声を張り上げる。
「これ以上は追跡不可能です! ここから先は境界を越えますッ」
「知るか!」
天尊には冷静な判断力など最早なかった。本来の天尊ならばトラジロが指摘せずともとっくに情況を把握している。アキラしか見なくなった天尊は、大隊を率いる者としては有能とは言えなかった。
トラジロは天尊を諭すことを早々に諦めた。天尊のことをよく知っているからこそ即決で諦めが付いた。この人は、自分の進言を聞き入れる義務などない。部下のすべてを無視してでも自身の信じた道を突き進める立場にある。
だから無駄なことに労力を使うのは切り上げて実力行使に出ることにした。
「現地点に於いて追跡を中止! 総員で大隊長をお停めしろ! これ以上進めさせるなッ」
トラジロは騎兵隊員たちに指示を飛ばした。
次にズィルベルナーのほうへ顔を向け、獣人を追跡しているヴァルトラムを指差した。
「ズィルベルナー。貴男はヴァルトラムをどうにかしなさい。私とほかの者は大隊長をお停めしなければなりません」
「どうにかってどうやって⁉」
「体当たりでも何でもして停止させなさい!」
ズィルベルナーはゴクッと生唾を嚥下した。
ヴァルトラムをどうにかする、など誰にでもはできないようなことを簡単に言ってくれる。自分だってどうにかすることが難しいから、わざわざ観測所からツテを使ってビシュラを呼び寄せたのではないか。
瞬間的に頭を使って考えてみたが、やはりよい案は浮かばなかった。トラジロが言った通りの手段しかないようだ。ズィルベルナーは、はぁ~あ、と深い溜息を吐いた。
ハッハッハッハッと短く激しい呼吸が獣人の口から突き出た。
疲れているのではない。壁も道も無い大地を全力で走っているのに、追い詰めらる焦燥感が離れてゆかない。走っても走っても振り切れない。少しでも気を抜くと鳥肌が立ちそうになる。焦燥感の正体は、ずっと後ろについてくるけたたましい足音だ。
「しつこいヤツだ! ヒトのクセにッ」
「もうすぐ境界だ! 走れ走れ走れ!」
「どこまで走るって?」
ザワッ。
声を聞いただけで背筋が飛び上がった。これは、恐怖だ。黒い腕が伸びてくる。夜のなかから、闇が捕まえにやってくる。
獣人にとって夜は恐怖すべきものではない。少量の光でも困らない目を持つ彼らにとって夜は当たり前の日常であり、時として外敵から姿を隠すのを手伝ってくれる有利な時間だ。
しかしながら、これは夜ではない。夜と似て非なるもの、闇。これほどまでに恐ろしいものは――――《魔物》だ。
「もぉおお俺は知らねェからなーッ!」
恐怖による緊張の糸を断ち切ったのは、あらぬ方向から飛び出してきた大声だった。
ズィルベルナーはやけっぱちの体で大声を張り上げながら、ヴァルトラムの横っ腹目掛けて突進した。オフェリアを奮い立たせ、その巨体をヴァルトラムに激突させた。
ドォオオオンッ!
突然マクシミリアンの脳内に声が響き、ヴァルトラムとの呑気な会話を遮った。
「フェイィッ⁉」
まずは音量に驚いた。声の主は緋。珍しく余裕の無い声だった。
〈複数体の獣人が城内に侵入! アキラ・ビシュラ両名を拉致して城外へ逃走中! 尚、ユリイーシャ姫は保護している。各員、逃走者を全力で発見し追跡! 最優先事項だッ!〉
にわかにマクシミリアンの顔色が変わって強張った。
ヴァルトラムはマクシミリアンの変化に早々に気づいた。プログラムを扱えないヴァルトラムは、直接脳内に届く伝令を聞くことができない。しかし、マクシミリアンを見れば事態が急変したことは察知できた。
〈誰でもいいから大隊長と歩兵長を叩き起こせッ!〉
通信は乱暴に切断された。
直後、マクシミリアンは緊張した面持ちをヴァルトラムへと向けた。
「フェイが何だって?」
「ビシュラと、大隊長のカワイイカノジョが獣人に攫われた、と」
ヴァルトラムは長椅子から腰を持ち上げた。
「獣人はどこだ?」
「城から逃げたそうです。現在、総員で捜索中」
ヴァルトラムは張り出し陣の先端まで移動した。そこから宏大な大地を見渡してスンスンと鼻先を動かした。その所作には、動揺も興奮も見てとれなかった。
「…………。あ~、ケモノ臭ェのがいるな」
「追えますか? こちらから救出に向かわんとビシュラが自力で脱出するのは無理でしょう」
ゴオオッ! ――突風を巻いてヴァルトラムとマクシミリアンの頭上を、数頭の飛竜が通過した。
数頭の飛竜が城の上空で旋回し、その後、四方に分かれて飛んでいった。
ブワッ。バサッバサッ!
張り出し陣の先端にいるヴァルトラムとマクシミリアンに強風が吹きつけた。そのほうを見ると、ズィルベルナーが跨がった飛竜が滞空していた。
飛竜の足首には枷が装備されている。そこから垂れる鎖の先には飛竜を地に繋ぎ止めるための錨、枷には鎖を巻き上げる装置が付いている。ズィルベルナーの飛竜も空高く飛び上がるために、ガラガラガラガラッと音を立てながら鎖を巻き上げている最中だ。
「緋姐から伝令あったろ。騎兵隊は飛竜で捜索する」
ズィルベルナーは滞空した状態でヴァルトラムとマクシミリアンに告げた。
マクシミリアンは飛竜の羽搏きによって起こる風に目を細め、ズィルベルナーを見上げた。
「大隊長は?」
「さっき飛び起きてたぜ。直に出るハズだ」
ズィルベルナーの飛竜は立派な翼を大きく羽搏かせ、高く上昇する。
……はずだったのだが、飛竜はガクンッとその場に縫い止められたように動けなかった。高い鳴き声を上げて両翼を大きく羽搏かせても一向に高度が上がらなかった。
不審に思ったズィルベルナーが眼下を見下ろすと、ヴァルトラムが飛竜の鎖を掴んでいた。身体もトルクも人よりも何倍も大きな飛竜を片手の腕力のみで引き留めた。
「ゲッ。竜の錨を……!」
「俺を乗せろ」
「はぁあ⁉」とズィルベルナーはオーバーに聞き返した。
「無茶言うな! ンなクソ重てェブーツ履いてる歩兵長なんか乗せたら俺のオフェリアが潰れちまう! 第一オフェリアは繊細なんだから中年なんて乗せまセンー!」
マクシミリアンは額を押さえた。この非常時に何を言っているのか。緋の剣幕はかなり余裕が無かった。巫山戯ていて手遅れになったら多少の折檻では済むまい。
ヴァルトラムが鎖をグイッと引っ張り、ズィルベルナーの愛騎・オフェリアはさらにガクンッと高度を下げた。
明らかに嫌がっている甲高い鳴き声が、ズィルベルナーの耳には嫌な風に響く。飛竜は単なる乗り物や移動手段ではない。飛竜に騎乗することを許された者は、飛竜と意思疎通ができる。言語によらない絆のようなものだ。無論、痛みや苦しみも理解する。
「ちょッ……オッサンやめろ! オフェリアが嫌がってンだろッ」
「ゴチャゴチャ言うな、乗せろ」
「嫌だっつってんだろ、激重中年!💢」
ヴァルトラムとズィルベルナーが小競り合いをしているところに、飛竜に跨がったトラジロが現れた。飛竜を繋ぎ止めているヴァルトラム、それに対して喚き散らしているズィルベルナーと悲鳴を上げる飛竜。聡明なトラジロは一見して情況を大まかに理解した。
「無理です、ヴァルトラム。あなたの特殊装甲ブーツを乗せては飛べません」
「デケエ図体は見掛け倒しか」
確かに飛竜は大きい。翼の部分を除いてもゆうにヴァルトラムよりも大きく、その両翼を広げれば二倍三倍にも巨大になる。
「あなたのブーツは規格外の重量です。飛竜に乗りたければブーツを脱ぎなさい」
トラジロは冷静に放言した。飛竜を誰よりもよく知る騎兵隊の長として妥当な判断に思えたが、それに異論を唱えたのはマクシミリアンだった。
「特殊装甲ブーツは歩兵長の装備です! 戦いに行こうってのに装備外せってのはナイでしょう!」
「ええ。装備を外すのは最良の選択ではない。だから、ほかの歩兵隊員たちと同じく地上から追いかけて来なさい」
ヴァルトラムとトラジロは睨み合うようにして視線をかち合わせた。
マクシミリアンとしてもトラジロの説明は妥当なものだった。装備を外すことなどできないのだから、彼ら歩兵隊員は地を這ってでもいくしかない。いつでもそうしてきたように。
しかしながら、ヴァルトラムは飛竜の鎖から手を離さなかった。トラジロが溜息を吐きそうになった頃、ヴァルトラムが口を開いた。
「どうやって獣人を探す?」
「は?」
「月明かりしかねェのにオメエら騎兵隊の目で森のなかから獣人を探せんのか。アイツらの脚は速ェぞ」
トラジロの表情がにわかに不愉快そうに変化した。その変化はとても小さかったが、ヴァルトラムは見逃さなかった。小馬鹿にするようにハッと軽く笑った。
「俺はできるぜ」
トラジロとズィルベルナーは飛竜を駆り高速で夜空を移動する。ズィルベルナーの愛騎・オフェリアの背にはヴァルトラムも乗っていた。
ズィルベルナーとしては不本意だ。なんだかんだと一悶着の末に結局はこうなってしまった。
彼ら二頭の飛竜の前には黒い飛竜。先頭を突っ切るその飛竜は天尊のものだ。ズィルベルナーは天尊の背中を見て、へー、と感嘆を漏らした。
「サスガに速ェなー、大隊長のディアンウェイは。後から来たのに追いつかれちまった」
「逃走者にもそろそろ追いつけるとよいのですが」
ヴァルトラムも天尊の黒い飛竜をジッと見詰めた。その飛竜はほかのものよりも一回り大きな個体でありながらも速度は一番だ。
「アイツの飛竜ならブーツで乗れたんじゃねェか?」
「ディアンウェイでも無理です。自分の総重量の程度くらい把握しなさい」
トラジロは、ハーアッ、と大きめの溜息を吐いた。
ヴァルトラムが飛竜に乗ることができた理由、それは単純にブーツを脱いだからだ。ブーツを装着していては騎乗できないというのならば脱ぐしかない。情況に於いて最優先すべきは装備ではなく追跡だとヴァルトラムは判断した。マクシミリアンにとっては有り得ない決断だったが、ヴァルトラムはさして迷いもせずそれを決めた。
「どうなの歩兵長。ビシュラちゃんとアキラちゃんを攫ったヤツに少しは近づいてんの?」
「もう見えてる」
「そういうことは早く言いなさい」
この男は本当にトラジロを苛つかせる。本人にそのつもりはなくても言動のほとんどが理解できない。
「オメエらにもそろそろ見えるだろ」
彼らはヴァルトラムが指差した方向に目を向けた。
丁度、森が薄くなる地帯に差しかかり、四つの影が飛び出した。地面を高速で直進する影は紛れもなく獣人。ふたりの獣人がそれぞれアキラとビシュラを肩に担いだり片腕に抱いたりしており、残りふたりはその前後を守るように疾走している。
トラジロたちが獣人たちを視認できたのは視界を邪魔するものがないからだ。夜間にこれほどの速度で移動するものを木々が茂る地帯で発見するのは難しい。ヴァルトラムの異常とも言える視力がなければ発見は不可能だったろう。
「流石は獣人ですね。持続的にこれだけの速度を出せるとは。後続の歩兵隊は間に合わないでしょう。そろそろ境界が近いというのに……」
トラジロは後方を振り返り、ついてきている騎兵隊員たちに指示を出した。
複数の飛竜が獣人を空から包囲して威嚇するが、彼らの逃走の足を停めることはできなかった。敏捷に左右に動いて飛竜の鉤爪を素早く回避した。
何度も仕掛けては回避されるのを繰り返し、その反復はヴァルトラムにはどうにも埒が明かないように見えた。肉を突く鳥の啄みのようにじれったい。ヴァルトラムは前を進む天尊に「オイ」と声を掛けた。
「オメエにもヤツらが見えてんだろ。なに黙ってついてってやがる。何もしねェでこのまま女攫われるつもりか」
天尊からの返答はなく、ヴァルトラムはチッと舌打ちした。ズィルベルナーに天尊の横に並ぶように指示した。
天尊は、ヴァルトラムとズィルベルナーが騎乗するオフェリアが、ピタリと横に並んでもそちらを一瞥もしなかった。天尊の表情は険しく、明らかに余裕がなかった。しかし、ヴァルトラムが配慮してやるはずもない。
「オイコラ。得意の雷はどうした」
「ダメだ。雷撃じゃアキラにもダメージが及ぶ」
ヴァルトラムは大袈裟に「はあ?」と聞き返した。何を言っているのだとでも言いたげに。
「獣人四人の位置が近すぎます。雷撃がどれにヒットしてもふたりに影響してしまうでしょう。ビシュラが起きているなら〝壁〟を張るなりできたでしょうが。……先ほどからピクリとも動かない。意識が無いようだ」
トラジロはフルフルッと首を左右に振った。
アキラもビシュラもまるで荷物のようにじっとしている。抵抗されると無傷のままで運ぶことが難しいからであろう、獣人たちは攫ったふたりを何らかの手段で意識が無い状態にしたらしい。
「じゃあ、そこに見えてンのにみすみす逃すってのか。バカか」
トラジロはすぐさまコラッと叱ったが、ヴァルトラムはそのようなものは気にしなかった。小馬鹿にして鼻先で嘲弄し、腕を真っ直ぐに伸ばして銃を構えた。
それを見た天尊は、ハッと顔色を変えた。
「やめろ! アキラに当たったらどうするッ」
「ちゃんと狙ってやる。当たんねェよう祈ってろ」
「殺すぞヴァルトラム!」
ヴァルトラムの指が引鉄にかかる。天尊の喚き、トラジロの制止する声を無視して照準を定めた。そこからは躊躇することなく機械的に引鉄を引くだけだ。
そうしようとした瞬間、突然体勢が揺らいだ。ズィルベルナーの飛竜が急に方向を変えた。無論、ズィルベルナーの命令である。
体勢を崩されたヴァルトラムは、発射しても必ず当たらないと分かると引鉄を引くのを已めた。ギロッと目だけ動かしてズィルベルナーを見た。
「何しやがる、クソガキ」
「大隊長がダメだっつってんだろッ」
ヴァルトラムはチイッと舌打ちをした。
自分の女が怪我をするからと手を拱いている者と、ただ従順に盲目に命令だけを遵守しようとする者、情況分析ばかり宣うお行儀の良い者、仮にも歴戦の戦士と謳われる男たちが雁首揃えてじれったいにも程がある。じれったいを通り越して苛立ち、怒りに近い感情も湧いてくる。
「ドイツもコイツも使えねェ」
ヴァルトラムはそう言い捨て、飛竜の背中を蹴って宙に身を投げ出した。
銃だけを手にして暗闇に吸いこまれるように真っ逆さまに落ちてゆく。常人ならば地面に叩きつけられてひとたまりもない高度だが、この男が自らそうした以上、誰も案じてなどいなかった。
ヴァルトラムは落下地点から走り出し、一直線に獣人を目指した。上空から見ているからよく分かるが、とんでもない速さで追跡している。人よりも遙かに俊敏な獣人に走力で引けを取らないなど常識では考えられない。
「ダッシュで獣人に追いついてやがる歩兵長💧」
「本当に規格外の男ですね」
ズィルベルナーとトラジロは、半ば惘れて乾いた笑みを漏らした。
ドドドドドドドドドドッ!
背後から恐ろしい速度で接近してくる不穏な音と気配。全力疾走の自分たちに追いつく追跡者などいるはずがない、そう思っている獣人たちは不審がって振り返った。
そこにいたのはヒト。長い銃身を肩に担いだ異様な男と目が合い、ギョッとした。
「女返せ」
「‼」
驚愕した獣人の顔面に、ヴァルトラムは銃口を突きつけた。
ズゴォンッ!
眼前での発砲。獣人は咄嗟に地面を強く蹴り、すんでのところで弾丸を回避した。人には真似できない反応速度だ。
ヴァルトラムは暢気に、へえ、と感嘆じみた声を漏らした。
銃声を聞いて気が気でなくなったのは天尊のほうだった。
「あんな至近距離でぶっ放しやがって……!」
トラジロは獣人たちの進行方向に目を伸ばして眉間に皺を刻んだ。
「ダメだ。これ以上は追えない」
「トラジロ?」
ズィルベルナーはトラジロのほうへ目線を向けた。トラジロは深刻な表情だった。
「もう本当に境界だ。今の私たちには境界を越えることはできません」
「何で?」
ズィルベルナーはきょとんとして訊ねたが、トラジロはそれを無視した。ズィルベルナーの相手をしている猶予は無い。飛竜を降下させてヴァルトラムに近寄った。
「これ以上追ってはいけません。停止しなさいヴァルトラム!」
ヴァルトラムはトラジロに耳を貸さなかった。一瞬振り返ることもせず獣人との距離を詰めた。
ズドン、ズドン、ズドンッ! ――ヴァルトラムは間近で続け様に発砲した。
獣人たちはヴァルトラムの弾丸をことごとく躱した。
ひとりの獣人が足を停め地を蹴り、木を蹴った。ピンボールのように跳ね回り、ヴァルトラムのほうへ身体を捻った。鋭利な獣人の爪がヴァルトラムを襲った。
カキィンッ! ――ヴァルトラムの腕の付け根付近に鋭利な爪が突き立てられ、深く肉を抉った。……はずだった長い爪が、音を立てて折れ、その欠片が硝子のように四散した。
獣人は自慢の爪が柔らかい肉を裂けないなど想像したことも無かった。おそらく生まれて初めての体験に、ハッキリと顔色を変えた。
「爪が……⁉」
「効かねェなァ」
ヴァルトラムはグッと拳を握りこむ。半ば呆けている獣人の顔面に拳を叩きこんだ。
ゴッキィイン!
毛むくじゃらの巨体が激しく揺らぎ、殴り飛ばされた頭部は地面にぶち当たった。火花が散って意識を揺らす。朦朧と霞みがかる視界の端でピカッと何かが閃いた。
「退けェッ!」
仲間の声が聞こえるが、揺れる脳味噌では、どちらが「退く」でどちらが「進む」なのか、瞬時に把握することは無理だった。足を踏み出そうとするとクラッと地面が傾いた。
ズドォオオン!
ヴァルトラムがその場から飛び退き、次の瞬間にはヴァルトラムによって殴り飛ばされた獣人を仲間が抱えて待避した。間一髪だった、天尊の雷撃が落ちたのは。
ヴァルトラムが空を見上げると、天尊が飛竜の上から彼らを見下ろしていた。
「俺には容赦なしかよ、あの野郎」
天尊が雷撃を封じたのはアキラを巻き添えにしないためのみ。ヴァルトラムが巻き添えになろうとも攻撃しない理由にはならない。ヴァルトラムが負傷もしくは戦線から離脱することは全体戦力の低下にはなるが、それによって目的が達せられるならば必要な犠牲だと割り切れる。言ってしまえば巻き添えを食うほうが悪いのだ。
天尊は悪びれる態度など一切見せずヴァルトラムからフイッと視線を外し、獣人の追跡を再開した。
「お待ちください大隊長!」
天尊もまたトラジロに耳を貸さなかった。前だけを、アキラだけを見ている天尊に対し、トラジロは声を張り上げる。
「これ以上は追跡不可能です! ここから先は境界を越えますッ」
「知るか!」
天尊には冷静な判断力など最早なかった。本来の天尊ならばトラジロが指摘せずともとっくに情況を把握している。アキラしか見なくなった天尊は、大隊を率いる者としては有能とは言えなかった。
トラジロは天尊を諭すことを早々に諦めた。天尊のことをよく知っているからこそ即決で諦めが付いた。この人は、自分の進言を聞き入れる義務などない。部下のすべてを無視してでも自身の信じた道を突き進める立場にある。
だから無駄なことに労力を使うのは切り上げて実力行使に出ることにした。
「現地点に於いて追跡を中止! 総員で大隊長をお停めしろ! これ以上進めさせるなッ」
トラジロは騎兵隊員たちに指示を飛ばした。
次にズィルベルナーのほうへ顔を向け、獣人を追跡しているヴァルトラムを指差した。
「ズィルベルナー。貴男はヴァルトラムをどうにかしなさい。私とほかの者は大隊長をお停めしなければなりません」
「どうにかってどうやって⁉」
「体当たりでも何でもして停止させなさい!」
ズィルベルナーはゴクッと生唾を嚥下した。
ヴァルトラムをどうにかする、など誰にでもはできないようなことを簡単に言ってくれる。自分だってどうにかすることが難しいから、わざわざ観測所からツテを使ってビシュラを呼び寄せたのではないか。
瞬間的に頭を使って考えてみたが、やはりよい案は浮かばなかった。トラジロが言った通りの手段しかないようだ。ズィルベルナーは、はぁ~あ、と深い溜息を吐いた。
ハッハッハッハッと短く激しい呼吸が獣人の口から突き出た。
疲れているのではない。壁も道も無い大地を全力で走っているのに、追い詰めらる焦燥感が離れてゆかない。走っても走っても振り切れない。少しでも気を抜くと鳥肌が立ちそうになる。焦燥感の正体は、ずっと後ろについてくるけたたましい足音だ。
「しつこいヤツだ! ヒトのクセにッ」
「もうすぐ境界だ! 走れ走れ走れ!」
「どこまで走るって?」
ザワッ。
声を聞いただけで背筋が飛び上がった。これは、恐怖だ。黒い腕が伸びてくる。夜のなかから、闇が捕まえにやってくる。
獣人にとって夜は恐怖すべきものではない。少量の光でも困らない目を持つ彼らにとって夜は当たり前の日常であり、時として外敵から姿を隠すのを手伝ってくれる有利な時間だ。
しかしながら、これは夜ではない。夜と似て非なるもの、闇。これほどまでに恐ろしいものは――――《魔物》だ。
「もぉおお俺は知らねェからなーッ!」
恐怖による緊張の糸を断ち切ったのは、あらぬ方向から飛び出してきた大声だった。
ズィルベルナーはやけっぱちの体で大声を張り上げながら、ヴァルトラムの横っ腹目掛けて突進した。オフェリアを奮い立たせ、その巨体をヴァルトラムに激突させた。
ドォオオオンッ!
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