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Kapitel 05
40:奪還 06
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天尊が放った一撃による眩い閃光が消え失せ、辺りの状態が目視できるようになった頃、ビシュラは絶句していた。
ビシュラの回復プログラムの手がとまったことにはヴァルトラムも気が付いた。壁に凭れて座り込んでいるヴァルトラムが首から上だけを動かしてビシュラのほうを見ると、血色の悪い顔で天尊のほうを見たまま愕然として、カタカタと小刻みに震えていた。
「まさか大隊長……先程は、セーブして……」
「してたに決まってんだろ。オメエや嬢ちゃんがいたからな。アイツのパワーならあんな床くれぇぶち破るはずだ」
「そ、そんな……っ、プログラムを使わずに単身でこれほどの破壊力を実現することが、可能なんて……⁉」
ヴァルトラムは当たり前のことのように放言したが、ビシュラはまさにこの世のものとは思えないものを見た、という表情だった。そうか、この人にとっては当たり前のことなのだと考え至ると改めて血の気が引き、額からぶわっと汗が噴き出した。
(自分自身が武器そのもの。これこそが、大隊長が《雷鎚》と呼ばれる本当の理由――――! ネームドと呼ばれる人たちが皆このような破壊力を有するのだとしたら、歩兵長も……?)
ヴァルトラムはビシュラの視線が自分へと向いていることに気付き、フンッと鼻で笑った。
「どうした、急にバケモノを見るようなツラして。今更三本爪飛竜騎兵大隊に来たことを後悔か?」
後悔は、恐らくずっとしている。観測所最高権力の所長イヴァンに命じられたという事実で本音を覆い隠している。逃げ出したいのも本音、役に立ちたいのも本音。役に立つどころか足を引っ張ってばかりの自分に嫌気が差す。
(わたしなんかが三本爪飛竜騎兵大隊の隊員として相応しくなる日が来ることなんて、あるのでしょうか……)
天尊はウルリヒのほうへゆっくりと足を出した。一歩ずつ踏み締めるように近付きながら、その間も一瞬たりともウルリヒから目を離さなかった。
するとウルリヒの体がピクッと撥ねた。そのあと、久方振りの呼吸をするように一度大きく背が盛り上がり、ウルリヒが顔を上げた。
「貴様……あの、強烈な一撃さえも……ブラフだったのか……」
ウルリヒは地面に伏したまま口惜しそうに拳を握り締めた。しかしながら最早立ち上がる力さえないであろうことは天尊には分かっている。
「まだ息があるか。テメエ等獣人はすばしっこくしぶとく……手間ばかり掛かって嫌ンなるぜ」
天尊は「はあ」と溜息を吐いた。それからヴァルトラムへチョイチョイと手招きするような仕草をした。ヴァルトラムは天尊の意を汲み、近くに転がっていた剣を拾い、天尊に向かって投げた。
ヒュンヒュン、と回転しながら飛んできた剣、その柄を天尊は器用に掴み取った。
アキラはハッとした。天尊の声音が、先程までの怒号とは比較にならないほど重たく感じたからだ。こういうときの天尊にはとても嫌な予感がする。そして恐らく、この予感は当たってしまうのだ。
「離してください」
アキラは真剣な顔をしていったのに、ヴァルトラムはまるでその声が聞こえていないかのように、顔すら其方に向けなかった。
ウルリヒの前に立った天尊が剣を高く翳し、アキラはギクッとした。一刻の猶予もないと悟ったアキラは「離してください!」と声を大きくしたがヴァルトラムの態度は一向に変わらなかった。懸命に振り払おうとしてもビクともしない。とりつく島もない。この男はアキラの意志を完全に無視するつもりなのだ。それが天尊の命令によるものなのか、アキラが取るに足らない存在だからなのか、その真意は分からないが、アキラにもヴァルトラムを説得している余裕は無かった。
アキラは現状自分にできる限りの実力行使、つまりは噛み付いてやろうと口をあんぐと開けた。
トン、とアキラは額をヴァルトラムに押さえられた。
「嬢ちゃん、やめとけ。オメエの歯のほうが保たねェ」
「手を離してください!」
「何をするつもりだ?」
アキラは全力で腕を振ろうとしているのに、ヴァルトラムは何てことはないように淡々と問い掛けた。
「ティエンをとめます! あのままじゃウルリヒくんをっ……」
「今更だ。俺等の仕事を分かってんのか、嬢ちゃん」
アキラはキュッと唇を噛み、ヴァルトラムを睨むような目付きで見た。
「今更だろうと何だろうと、ティエンがそんなことするところっ……わたしが見たくないんです!」
漸くヴァルトラムの目がアキラのほうを向いた。ヴァルトラムと目が合い、アキラはその翠玉から目を離すことはなかった。アキラはヴァルトラムが恐ろしく強いということは重々理解したし、この男に対して交渉材料たり得るものは一切有していないが、目を離してしまったらこの手を離してくれる可能性はゼロになると思ったから。
目を合わせるということはきっと、ヴァルトラムがアキラに対して一瞬でも興味を持ったということ、少しでも耳を傾ける心持ちになったということ、アキラには何の力も無いからこそこの機会をみすみす見逃すような真似はできない。
アキラはもう祈るような気持ちでヴァルトラムの目を見詰めていた。何の気紛れか、ヴァルトラムはするりとアキラから手を離した。アキラは「ありがとうございます」と口早に告げて駆け出した。
ビシュラは驚いてまじまじとヴァルトラムを見た。この男は少女が懇願したからといってそう易々と聞き入れるような性情では無いと思っていた。況してや「大隊長の恋人」などという肩書きを恐れるような人物でもない。
「アキラさんを行かせてしまってよろしいのですか歩兵長。大隊長は武器を手にしていらっしゃいます。王子にもまだ意識があります。危険なのでは……」
ヴァルトラムは「さあな」と軽く顎を揺すった。
「あの嬢ちゃんには覚悟があるみてぇだからよォ」
「覚悟?」
「アイツの為ならどうなっちまってもいいってツラしてらァ」
その言葉を聞いて、ビシュラは「あ」と小さな声で零した。緋も似たようなことを言っていた。
――「その時になったら惚れた男の為に自分の命を捨てられる女だってことだ、アキラは」
「能力に見合わない行動をするヤツは厄介だ。譬え誰かの為だとしてもな。弱いヤツ、戦えないヤツは初めから戦線に立つべきじゃない」――
あれは決して賛美ではない。莫迦にしたのでもない。きっと、憐れんでいたのだ。己の身の程も知らず盲目になり命を散らす行為を。
つまり緋はそれをアキラに見たのだ。あんなにも脆弱な身でありながら、あんなにも無力でありながら、あんなにもうら若くありながら、己を顧みず天尊を守ろうとする愚行。それはビシュラには信じられないくらいに愚かしい悲劇。
「ダメです……アキラさんは人間なのに……そのようなことをなさっては、ダメです……」
「黙って見てろ」
「どうしてですかっ」
ビシュラは勢いよく言い返したがヴァルトラムの視線が自分のほうへ向くとギクッとして押し黙った。
「もう腹ァ決めちまったヤツをとめるには、同じように腹ァ決めなきゃなんねェ。だがオメエには覚悟がねェだろ?」
「ティエン、ダメぇっ!」
その声が耳に届き、天尊の手はピタリと停止した。剣の切っ先や、殺意の籠もった視線はウルリヒに向けたまま。
アキラはウルリヒを背にして天尊の前に滑り込んだ。アキラのほうが追い詰められたような必死の形相で天尊を見てくる。このようなアキラが何を言うかなど想像が付く。だから天尊には動揺などなかった。ゾッとするくらい冥く冷たい目で眼下を見ていた。
「こ、殺さないで……」
「何故」
アキラの声は震えてしまっていたのに、天尊は冷淡に簡潔に問い返してきた。
「ボクとビシュラさんを攫ったのはウルリヒくんの意思じゃないの! ここに連れてこられて、ウルリヒくんはボクたちにひどいことしなかったよ。ちゃんと部屋もゴハンも用意してくれた。いつも優しくしてくれた。ウルリヒくんは悪い人じゃないよ」
「関係ない。アキラを攫った。アキラを愛した。殺す理由に充分だ」
ドスッと胸を刺し貫かれた気分だった。
この人は、わたしの為になら容赦なく命を奪う。路傍の花を手折るようにいとも容易く。わたしを愛しているが故にあなたが誰かを殺すということを、堪えられるほどわたしは強くはない。
「め、目の前で誰かが死ぬなんてイヤだ……。ティエンが誰かを殺すところなんて見たくない……っ」
「こんな畜生野郎の為にアキラが心を痛める必要なんかない」
アキラがウルリヒを庇おうとすればするほど天尊の視線は冷めてゆく。天尊の心が動かないことはアキラにも伝わっていた。ひとたび天尊が動き出せば、アキラにはそれを停める手立てはない。
「ティエンもウルリヒくんもおんなじように生きてる! 殺すなんて絶対良くない……!」
天尊の眉尻がピクッと撥ねた。
「同じようにだと? そのクソ獣と俺の命が同等だってかッ⁉」
「同じだよ! ボクにとっては!」
天尊の怒号に、離れているビシュラでさえビクッと体を撥ねさせたのに、アキラはすぐさま言い返した。それから二人は正面から睨み合うようにして沈黙した。
苛立っている天尊には隊の誰も口答えなどしない。トラジロや緋でさえ反論はしない。しても無駄だからだ。天尊が黒と言えば黒に、是と言えばそうなるのだ。アキラが天尊に同調せず食い下がってみせたのは流石だが、それがよい状況とは言えなかった。天尊は異を唱える者に対して決して寛容ではない。
「今のは流石によくねェなァ。またキレるぞ、アイツ」
バチッ、パチパチ……。
ヴァルトラムが他人事のように言った直後、案の定天尊の周囲の空気が俄に騒がしくなる。苛立ちによってネェベルが沸き立ち、また苛立ちによって制御を離れた電流が溢れ出ている。
「ほ、歩兵長! 大隊長をおとめください!」
ビシュラにそう言われ、ヴァルトラムは明らかに「何で俺が」という面倒臭そうな顔をした。しかしながら断ってビシュラに批難されるのは更に面倒臭い。
「オイ、カミナリどうにかしろ。嬢ちゃんが黒焦げになっちまうぞ」
「うるせえ黙ってろ!」
怒鳴った拍子にバチィンッとアキラの近くに雷を落としてしまい、天尊はチッと舌打ちした。しかしながらそれがほんの少し天尊の頭を冷やした。確かに少々腹が立ったくらいでアキラに怪我をさせたなら、とんでもない悔恨を残す。
「俺とソイツ、どっちが大事だ」
予想外の問い掛けにアキラは「え……?」と聞き返してしまった。
「アキラは、俺とその獣人のどっちを愛している?」
「っ……ボクが好きなのはティエンだよ」
アキラは弾かれたように顔を上げ、その頬は若干色めいていた。天尊は息をするように好きだとか愛しているだとか口にするが、アキラにとっては覚悟の要る言葉なのだ。それこそ命を懸けてしまいそうな程に。
好きだと告げるべき相手が目の前に、声の届く距離に、手の届く範囲にいるということ、その幸福を今更ながら実感する。遠く引き離されたからこそ、今あなたを近くに感じている。
「全然知らないところに連れてこられたけど……絶対ティエンが来てくれるって、信じてた……。ティエンはいつだってボクを助けてくれるって……っ」
「来るに決まっている、アキラのいるところならどこでも」
天尊は漸く剣を下ろした。それからアキラに向かって両手を広げた。好きだという一言だけでじわりと満たされる自尊心。なんと他愛もないのだろうと自嘲が漏れる。
アキラの足は自然と天尊のほうへ進んだ。誘われるように、引き寄せられるように、在るべき場所に還るように。あの手を取ればやっと帰ることができるのだ。大好きな人の許へ、元いた場所へ、自分の居場所へ。
ザンッ!
アキラの背後で突然気配が生まれた。否、正確には起き上がった。蛇が首を擡げるように床から這い上がり、鉄紺色の腕がアキラを追い掛ける。ウルリヒとて今アキラを逃してしまえば二度と捕らえることはできないだろうと分かっているのだ。
ドスンッ!
ウルリヒの指がもう少しでアキラの衣に届こうかというところ、剣の切っ先が手の甲を貫通しそれは叶わなかった。叶わぬ想いなど断ち切れと言わんばかりに天尊は容赦なく剣を更に押し進め、ブジュッと血が噴き出した。
「アキラ――……っ」
ウルリヒが名を呼ぶと、アキラは振り返った。その瞳は変わらず慈しみ深かった。この期に及んでまだウルリヒの身を案じていることが伝わってくる。しかしながら天尊へ向けるそれとは全く異なっていた。あのように恋い焦がれてはくれない。ウルリヒと同じ熱量を返してはくれない。
天尊はアキラの腕を掴み自分のほうへ一気に引き寄せた。そして、二度と掠め取られてしまわぬようにしっかと抱き留めた。
「アキラは俺のものだ。もう一度でも触れたら、殺す」
ビシュラの回復プログラムの手がとまったことにはヴァルトラムも気が付いた。壁に凭れて座り込んでいるヴァルトラムが首から上だけを動かしてビシュラのほうを見ると、血色の悪い顔で天尊のほうを見たまま愕然として、カタカタと小刻みに震えていた。
「まさか大隊長……先程は、セーブして……」
「してたに決まってんだろ。オメエや嬢ちゃんがいたからな。アイツのパワーならあんな床くれぇぶち破るはずだ」
「そ、そんな……っ、プログラムを使わずに単身でこれほどの破壊力を実現することが、可能なんて……⁉」
ヴァルトラムは当たり前のことのように放言したが、ビシュラはまさにこの世のものとは思えないものを見た、という表情だった。そうか、この人にとっては当たり前のことなのだと考え至ると改めて血の気が引き、額からぶわっと汗が噴き出した。
(自分自身が武器そのもの。これこそが、大隊長が《雷鎚》と呼ばれる本当の理由――――! ネームドと呼ばれる人たちが皆このような破壊力を有するのだとしたら、歩兵長も……?)
ヴァルトラムはビシュラの視線が自分へと向いていることに気付き、フンッと鼻で笑った。
「どうした、急にバケモノを見るようなツラして。今更三本爪飛竜騎兵大隊に来たことを後悔か?」
後悔は、恐らくずっとしている。観測所最高権力の所長イヴァンに命じられたという事実で本音を覆い隠している。逃げ出したいのも本音、役に立ちたいのも本音。役に立つどころか足を引っ張ってばかりの自分に嫌気が差す。
(わたしなんかが三本爪飛竜騎兵大隊の隊員として相応しくなる日が来ることなんて、あるのでしょうか……)
天尊はウルリヒのほうへゆっくりと足を出した。一歩ずつ踏み締めるように近付きながら、その間も一瞬たりともウルリヒから目を離さなかった。
するとウルリヒの体がピクッと撥ねた。そのあと、久方振りの呼吸をするように一度大きく背が盛り上がり、ウルリヒが顔を上げた。
「貴様……あの、強烈な一撃さえも……ブラフだったのか……」
ウルリヒは地面に伏したまま口惜しそうに拳を握り締めた。しかしながら最早立ち上がる力さえないであろうことは天尊には分かっている。
「まだ息があるか。テメエ等獣人はすばしっこくしぶとく……手間ばかり掛かって嫌ンなるぜ」
天尊は「はあ」と溜息を吐いた。それからヴァルトラムへチョイチョイと手招きするような仕草をした。ヴァルトラムは天尊の意を汲み、近くに転がっていた剣を拾い、天尊に向かって投げた。
ヒュンヒュン、と回転しながら飛んできた剣、その柄を天尊は器用に掴み取った。
アキラはハッとした。天尊の声音が、先程までの怒号とは比較にならないほど重たく感じたからだ。こういうときの天尊にはとても嫌な予感がする。そして恐らく、この予感は当たってしまうのだ。
「離してください」
アキラは真剣な顔をしていったのに、ヴァルトラムはまるでその声が聞こえていないかのように、顔すら其方に向けなかった。
ウルリヒの前に立った天尊が剣を高く翳し、アキラはギクッとした。一刻の猶予もないと悟ったアキラは「離してください!」と声を大きくしたがヴァルトラムの態度は一向に変わらなかった。懸命に振り払おうとしてもビクともしない。とりつく島もない。この男はアキラの意志を完全に無視するつもりなのだ。それが天尊の命令によるものなのか、アキラが取るに足らない存在だからなのか、その真意は分からないが、アキラにもヴァルトラムを説得している余裕は無かった。
アキラは現状自分にできる限りの実力行使、つまりは噛み付いてやろうと口をあんぐと開けた。
トン、とアキラは額をヴァルトラムに押さえられた。
「嬢ちゃん、やめとけ。オメエの歯のほうが保たねェ」
「手を離してください!」
「何をするつもりだ?」
アキラは全力で腕を振ろうとしているのに、ヴァルトラムは何てことはないように淡々と問い掛けた。
「ティエンをとめます! あのままじゃウルリヒくんをっ……」
「今更だ。俺等の仕事を分かってんのか、嬢ちゃん」
アキラはキュッと唇を噛み、ヴァルトラムを睨むような目付きで見た。
「今更だろうと何だろうと、ティエンがそんなことするところっ……わたしが見たくないんです!」
漸くヴァルトラムの目がアキラのほうを向いた。ヴァルトラムと目が合い、アキラはその翠玉から目を離すことはなかった。アキラはヴァルトラムが恐ろしく強いということは重々理解したし、この男に対して交渉材料たり得るものは一切有していないが、目を離してしまったらこの手を離してくれる可能性はゼロになると思ったから。
目を合わせるということはきっと、ヴァルトラムがアキラに対して一瞬でも興味を持ったということ、少しでも耳を傾ける心持ちになったということ、アキラには何の力も無いからこそこの機会をみすみす見逃すような真似はできない。
アキラはもう祈るような気持ちでヴァルトラムの目を見詰めていた。何の気紛れか、ヴァルトラムはするりとアキラから手を離した。アキラは「ありがとうございます」と口早に告げて駆け出した。
ビシュラは驚いてまじまじとヴァルトラムを見た。この男は少女が懇願したからといってそう易々と聞き入れるような性情では無いと思っていた。況してや「大隊長の恋人」などという肩書きを恐れるような人物でもない。
「アキラさんを行かせてしまってよろしいのですか歩兵長。大隊長は武器を手にしていらっしゃいます。王子にもまだ意識があります。危険なのでは……」
ヴァルトラムは「さあな」と軽く顎を揺すった。
「あの嬢ちゃんには覚悟があるみてぇだからよォ」
「覚悟?」
「アイツの為ならどうなっちまってもいいってツラしてらァ」
その言葉を聞いて、ビシュラは「あ」と小さな声で零した。緋も似たようなことを言っていた。
――「その時になったら惚れた男の為に自分の命を捨てられる女だってことだ、アキラは」
「能力に見合わない行動をするヤツは厄介だ。譬え誰かの為だとしてもな。弱いヤツ、戦えないヤツは初めから戦線に立つべきじゃない」――
あれは決して賛美ではない。莫迦にしたのでもない。きっと、憐れんでいたのだ。己の身の程も知らず盲目になり命を散らす行為を。
つまり緋はそれをアキラに見たのだ。あんなにも脆弱な身でありながら、あんなにも無力でありながら、あんなにもうら若くありながら、己を顧みず天尊を守ろうとする愚行。それはビシュラには信じられないくらいに愚かしい悲劇。
「ダメです……アキラさんは人間なのに……そのようなことをなさっては、ダメです……」
「黙って見てろ」
「どうしてですかっ」
ビシュラは勢いよく言い返したがヴァルトラムの視線が自分のほうへ向くとギクッとして押し黙った。
「もう腹ァ決めちまったヤツをとめるには、同じように腹ァ決めなきゃなんねェ。だがオメエには覚悟がねェだろ?」
「ティエン、ダメぇっ!」
その声が耳に届き、天尊の手はピタリと停止した。剣の切っ先や、殺意の籠もった視線はウルリヒに向けたまま。
アキラはウルリヒを背にして天尊の前に滑り込んだ。アキラのほうが追い詰められたような必死の形相で天尊を見てくる。このようなアキラが何を言うかなど想像が付く。だから天尊には動揺などなかった。ゾッとするくらい冥く冷たい目で眼下を見ていた。
「こ、殺さないで……」
「何故」
アキラの声は震えてしまっていたのに、天尊は冷淡に簡潔に問い返してきた。
「ボクとビシュラさんを攫ったのはウルリヒくんの意思じゃないの! ここに連れてこられて、ウルリヒくんはボクたちにひどいことしなかったよ。ちゃんと部屋もゴハンも用意してくれた。いつも優しくしてくれた。ウルリヒくんは悪い人じゃないよ」
「関係ない。アキラを攫った。アキラを愛した。殺す理由に充分だ」
ドスッと胸を刺し貫かれた気分だった。
この人は、わたしの為になら容赦なく命を奪う。路傍の花を手折るようにいとも容易く。わたしを愛しているが故にあなたが誰かを殺すということを、堪えられるほどわたしは強くはない。
「め、目の前で誰かが死ぬなんてイヤだ……。ティエンが誰かを殺すところなんて見たくない……っ」
「こんな畜生野郎の為にアキラが心を痛める必要なんかない」
アキラがウルリヒを庇おうとすればするほど天尊の視線は冷めてゆく。天尊の心が動かないことはアキラにも伝わっていた。ひとたび天尊が動き出せば、アキラにはそれを停める手立てはない。
「ティエンもウルリヒくんもおんなじように生きてる! 殺すなんて絶対良くない……!」
天尊の眉尻がピクッと撥ねた。
「同じようにだと? そのクソ獣と俺の命が同等だってかッ⁉」
「同じだよ! ボクにとっては!」
天尊の怒号に、離れているビシュラでさえビクッと体を撥ねさせたのに、アキラはすぐさま言い返した。それから二人は正面から睨み合うようにして沈黙した。
苛立っている天尊には隊の誰も口答えなどしない。トラジロや緋でさえ反論はしない。しても無駄だからだ。天尊が黒と言えば黒に、是と言えばそうなるのだ。アキラが天尊に同調せず食い下がってみせたのは流石だが、それがよい状況とは言えなかった。天尊は異を唱える者に対して決して寛容ではない。
「今のは流石によくねェなァ。またキレるぞ、アイツ」
バチッ、パチパチ……。
ヴァルトラムが他人事のように言った直後、案の定天尊の周囲の空気が俄に騒がしくなる。苛立ちによってネェベルが沸き立ち、また苛立ちによって制御を離れた電流が溢れ出ている。
「ほ、歩兵長! 大隊長をおとめください!」
ビシュラにそう言われ、ヴァルトラムは明らかに「何で俺が」という面倒臭そうな顔をした。しかしながら断ってビシュラに批難されるのは更に面倒臭い。
「オイ、カミナリどうにかしろ。嬢ちゃんが黒焦げになっちまうぞ」
「うるせえ黙ってろ!」
怒鳴った拍子にバチィンッとアキラの近くに雷を落としてしまい、天尊はチッと舌打ちした。しかしながらそれがほんの少し天尊の頭を冷やした。確かに少々腹が立ったくらいでアキラに怪我をさせたなら、とんでもない悔恨を残す。
「俺とソイツ、どっちが大事だ」
予想外の問い掛けにアキラは「え……?」と聞き返してしまった。
「アキラは、俺とその獣人のどっちを愛している?」
「っ……ボクが好きなのはティエンだよ」
アキラは弾かれたように顔を上げ、その頬は若干色めいていた。天尊は息をするように好きだとか愛しているだとか口にするが、アキラにとっては覚悟の要る言葉なのだ。それこそ命を懸けてしまいそうな程に。
好きだと告げるべき相手が目の前に、声の届く距離に、手の届く範囲にいるということ、その幸福を今更ながら実感する。遠く引き離されたからこそ、今あなたを近くに感じている。
「全然知らないところに連れてこられたけど……絶対ティエンが来てくれるって、信じてた……。ティエンはいつだってボクを助けてくれるって……っ」
「来るに決まっている、アキラのいるところならどこでも」
天尊は漸く剣を下ろした。それからアキラに向かって両手を広げた。好きだという一言だけでじわりと満たされる自尊心。なんと他愛もないのだろうと自嘲が漏れる。
アキラの足は自然と天尊のほうへ進んだ。誘われるように、引き寄せられるように、在るべき場所に還るように。あの手を取ればやっと帰ることができるのだ。大好きな人の許へ、元いた場所へ、自分の居場所へ。
ザンッ!
アキラの背後で突然気配が生まれた。否、正確には起き上がった。蛇が首を擡げるように床から這い上がり、鉄紺色の腕がアキラを追い掛ける。ウルリヒとて今アキラを逃してしまえば二度と捕らえることはできないだろうと分かっているのだ。
ドスンッ!
ウルリヒの指がもう少しでアキラの衣に届こうかというところ、剣の切っ先が手の甲を貫通しそれは叶わなかった。叶わぬ想いなど断ち切れと言わんばかりに天尊は容赦なく剣を更に押し進め、ブジュッと血が噴き出した。
「アキラ――……っ」
ウルリヒが名を呼ぶと、アキラは振り返った。その瞳は変わらず慈しみ深かった。この期に及んでまだウルリヒの身を案じていることが伝わってくる。しかしながら天尊へ向けるそれとは全く異なっていた。あのように恋い焦がれてはくれない。ウルリヒと同じ熱量を返してはくれない。
天尊はアキラの腕を掴み自分のほうへ一気に引き寄せた。そして、二度と掠め取られてしまわぬようにしっかと抱き留めた。
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