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Kapitel 05
奪還 05
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崩落と土煙が収まりかけた頃、ルディはヴァルトラムの姿を目視してハッとした。
ヴァルトラムはその両腕にふたりのヒトを抱えていた。片方の肩にアキラを抱え、脇に抱えているのはビシュラだ。ビシュラには意識が無いようでぐったりとしている。自身の頭上にも瓦礫が降り注ぐなか、上階から落下してきたアキラとビシュラを判別し、受け止めていたのだ。
「馬鹿野郎! アキラが怪我するだろうがッ! ブッ殺すぞ!」
「ちゃんと受け止めてんだろうが。よく見ろ」
頭上から降ってきた叱責。ヴァルトラムが上階を見上げると、思ったとおり天尊が天井に開けた穴から飛び降りてくるところだった。
ヴァルトラムは自分の肩にしがみつく形になっているアキラのほうへ目を移した。
「怪我はねェだろうな、嬢ちゃん。俺が殺されるらしい」
「だ、だいじょうぶ、です」
アキラが返事した直後、天尊がヴァルトラムの腕から奪い取るようにしてアキラを引き剥がした。
ヴァルトラムは率直に言ってアキラの容貌は嗜好に合わない。天尊に「とりゃしねェ」と言ったが聞いていない様子だった。
天尊はアキラが言葉を交わす暇も無く正面から抱き締めた。アキラは足が床から浮いたまま堅い感触に押し潰され、息苦しくて言葉を発せられなかった。
ありがとうとか会いたかったとか伝えたかったのだけれど。天尊のほうも言葉を発さなかったが、抱き締める強さから彼の言いたいことはすべて伝えてもらった気がした。
天尊は一頻りアキラの無事を確かめ、床に下ろした。それからようやくヴァルトラムの有様を確認して、片眉を引き上げた。
「随分やられているな。何をしている」
「戦闘用ブーツじゃねェからしっくりこねェ。銃もなかなか言うこときかねェしよ」
「いつもと装備が違うくらいでその様か、無能」
「テメエも手こずってんだろ。血塗れでクソみっともねェ」
ヴァルトラムは天尊と皮肉を言い合い、それから部屋の隅へ移動した。
意識のないビシュラを床に横たえた。血色は良くないが呼吸はある。鼓動も聞こえる。一見して致命傷となるような外傷も無い。差し当たって、すぐさま命に別状はないだろう。
ヴァルトラムはしゃがみこんだ体勢で、ビシュラの頭の天辺から爪先まで観察した。そして、足首で目を留めた。痣のような跡。それが何であるか、ビシュラの置かれていた情況を考えれば想像に難くない。
「ビシュラに足枷をハメやがったのはどいつだ」
ヴァルトラムの言葉が聞こえ、アキラはハッとした。天尊の視線が自分の足許に向かっていることに気づき、サッと天尊の背後に回って足首を隠した。
その一瞬でも天尊はアキラの足枷の後を見逃さなかった。
「囚われ人に枷をするのは当然のことだ」
ルディは何の後ろめたさもなくハッキリと答えた。
ヴァルトラムはゆっくりと立ち上がり、ルディのほうを振り返った。
「テメエか。俺のオンナが随分世話になったみてぇだなァ、ケモノォ」
「恩着せがましく世話というほどのことをしたつもりはないが、それならどうした」
パキパキッ、とルディは長い指を動かして骨を鳴らした。
ルディが臨戦態勢に入ると、ウルリヒが近くにやって来た。ウルリヒから「大丈夫か」と声を掛けられ「問題ありません」と返した。
ヴァルトラムは銃を握った腕をルディのほうへ真っ直ぐに伸ばした。引鉄を引いた瞬間、ルディを飲みこむほどの光の束が発射された。
ズドォオンッ!
ルディとウルリヒはその場から飛び退いて回避したが、壁には外に通じる大穴が開いた。
ウルリヒはそれを見て、ほう、と感嘆を零したが、ルディはギリッと歯を食い縛った。
「大した威力だ。並の銃ではないな」
「何を悠長な! 奴の所為で王城の被害は甚大です」
天尊は爆風や粉砕された壁の欠片などからアキラを背に庇いながらチッと舌打ちをした。
ヴァルトラムの銃の威力は、先ほど天尊が調整してやったときとは段違いだ。二手に分かれたあと、自分勝手に調整を加えたことは明らかだ。そして、ヴァルトラムは自分の得物とは言え細かな手を加えることは得意ではなく、その威力はこの場での適度とは思えなかった。
「莫迦が。銃の出力を上げて戻すの忘れたな」
アキラの耳に「う……」とか細い呻き声が聞こえ、ビシュラのほうを振り返った。
意識を取り戻したビシュラは、床から上半身を引き摺り起こす。アキラはビシュラに駆け寄り、上半身を支えてやった。
「行動は可能か」
天尊はビシュラのほうを振り返らずに尋ねた。アキラには少々冷淡に感じるほどの抑揚のない声で。しかし、それも致し方がない。此処は敵陣中であり、まさに敵首魁と対峙しているのだから。
「申し訳ございません。即時の復帰は難しそうです……」
「状態は」
「行動不能なほどの負傷はありません。ですが、ネェベルの消耗が大きいです。回復にはしばし時間がかかるかと……」
「分かった。そこで待機していろ」
ヴァルトラムとルディはほぼ同時に動き出した。ルディは素早く左右に跳ね回るように動き、ヴァルトラムに倒されて床に突っ伏している兵士たちからナイフを拾い上げた。
ルディはヴァルトラムに向かって複数のナイフを放った。ヴァルトラムもルディがナイフを回収したところを見逃さなかったし、その軌道も見えている。しかし、回避する素振りはなくルディへの最短距離を突き進んだ。
「どうせ効きゃあしねェんだ。小手先の芸はやめとけ」
案の定、ヴァルトラムに到達したナイフは突き刺さることはなく筋肉に弾かれた。ただの一本を除いては。
ヒュンッ、と突如として眼前に現れた閃く切っ先。ヴァルトラムは首を捻ってそれを回避した。
「それは避けるのだな?」
ナイフを回避したことにより生まれた死角。ルディはすでに其処へ回りこんでいた。
ドッスウ! ――ヴァルトラムの腹部にルディの爪が突き刺さった。
ルディは渾身の力で爪を押し進めた。深く深く、今までで最も奥深く、その長い爪のみならず指そのものが届きそうなほど深く。
「《魔物》はネームドでありながらプログラムが不得手というのは事実らしい」
ずるり、とルディは爪を引き抜いた。自身の爪に滴る血液を一瞥し、腕を振るって払った。払いきれない血が手の甲から毛並みを濡らしていた。
「貴様に攻撃が通用しないのはプログラムによる防護ではなく、単純に肉体の頑丈さ故。ならば、鍛えようのない部位への攻撃は避けざるを得ないというわけだ」
「確かに目玉が潰れるかどうかは試したことがねェなァ」
ヴァルトラムがルディへ銃口を向けた。ルディは俊敏にその場で片足を軸として回転して彼の足を払った。
ヴァルトラムは重量級のウエイトのままにダァンッと床に背を打ったが、その銃口は執拗にルディを追跡する。すでに引鉄に指は掛かっている。
ルディが銃身を蹴って軌道を逸らした瞬間、ズドンッと発射された。どのような体勢であってもヴァルトラムの銃弾の威力は変わらない。また王城の一部を破壊され苦々しく思っている最中――
「!」
ドスッ、とルディの太腿に鋭利な痛みが走った。
そこに目を向けると、ヴァルトラムがマチェットナイフを突き立てていた。そして、それを乱暴に引き倒して大腿筋を引き裂いた。
ルディは堪らずヴァルトラムの上から飛び退いた。
ズダァンズダンッ! ズドォン!
ヴァルトラムはルディ目掛けて撃ちまくったがすべて回避された。
ルディが床や壁を跳ね回る度、ビチャチャッと血液で斑点が生まれてゆく。出血の量からして常人ならば俊敏に動き回るどころか、立ち上がることも難しい深手であろう。
「まだそんだけ動けるか」
ヴァルトラムは忌々しげにするどころか、クハハッと笑みを零した。
ドンッ、と天尊は床を蹴り地を這うように滑空してウルリヒに突進した。
ウルリヒは、力尽きて床に倒れていた兵士から拾い上げたのであろう剣を握っていた。
天尊はウルリヒの剣撃を躱したり組み合ったりしつつ、隙を見てウルリヒの腹部を蹴り飛ばし、建物のなかから庭園へと蹴り出した。
ウルリヒは地面の上を転げながら素早く体勢を立て直し、顔を上げた。すると、自分の足許に格子状に光る線が地表を這っていた。
――《千畳鑓》
ザクゥッ!
地表を張り巡らされた格子の交点から銀竹が突き上がり、ウルリヒの腿や腕に突き刺さった。
ウルリヒは野獣のような咆哮を上げて剣を振るった。銀竹を薙ぎ払い、ギロッと天尊を睨んだ。
天尊は足を停めていた。ウルリヒの気は完全に逸れていたのに何故距離を詰めなかった。
――《氷鎚撃》
ウルリヒはフッと全身が翳り、頭上に何かが出現したことに気づいた。
天を振り仰ぐと、巨大な氷の塊が宙に浮いていた。如何な極寒の大地とはいえ、このようなものは自然現象ではない。天尊の仕業であるとピンと来た次の瞬間には、急転直下。
ウルリヒは自分目掛けて降ってくる氷塊に力いっぱい剣を叩きつけた。氷塊の重量と薄刃がギリッギリと鳴きながら鬩ぎ合う。
オオオオオオオッ! ――野獣の雄叫びが谺した。
ウルリヒは筋張った腕を渾身の力で振り切った。
ビキッビキビキビキィッ!
氷塊は真っ二つに割れ、ズズズンッと重たい音を立てて地面に突き刺さった。
氷塊の重量と対抗した所為で剣の刀身は折れてしまった。名もない剣で命拾いをできたのだから上出来だ。ウルリヒは剣を地面に投げ捨てた。
天尊がその場を動かないのはまたプログラムを実行しているからであろう。ウルリヒは地を蹴り放たれた矢の如く俊敏な動作で天尊との間を詰めた。
(プログラム発動のタイムラグを突く!)
大規模で高出力なプログラムであればあるほど大量のネェベルを消費し、発動までには時間を要する。それはこの世界の基礎的な知識であり、プログラムを得手としないフローズヴィトニルソンでも無論知っている。そして、フローズヴィトニルソンはプログラムに練達するヒトよりも身体能力が遥かに高く、何倍も俊敏に動くことが可能。プログラムの間隙を突くことも困難ではない。
ウルリヒの爪が宙を裂きながら天尊を襲う。
ズドドドドドンッ!
天尊に爪が届く寸前、ウルリヒは衝撃に穿たれ、その場に縫い止められた。
屈強な肉体を持つウルリヒの足を停めさせるほどの衝撃、それこそが天尊の雷撃。
しかしながら、ウルリヒは戦意を喪失しなかった。仁王立ちで天尊を眼下に睨みつけた。
「まったく……。ケモノは無駄に頑丈で苛つくな」
「キ、サマ……ッ」
臓腑までも焼き上がりそうな苦痛のなかでも悪態は零れた。咽喉を火傷しそうなほど吐く息が熱い。自身の毛皮、自身の肉が焦げる臭い。熱という苦痛を噛み殺し、足を一歩踏み出した。
ウルリヒは天尊の胸座を掴み、顎を大きく開いた。
ガッリィイッ!
ウルリヒは天尊の鎖骨に食いついた。
太い牙が肩から鎖骨までどんどんめりこんだ。ドクッドクッと脈打つ度に、ブジュッブジュッと血が噴き出した。
「ティエンッ!」
少女の甲高い悲鳴が耳を劈いた。この世の終末のように悲愴でありながら微かに甘さが漂う。そう感じるのは、愛しさが付き纏うから。
――嗚呼、その甘さで呼ぶのが俺の名であったなら。
その悲愴さで想われて、その悲愴さを捧げて戦い、その悲愴さのなかで散れたなら。愛すれば愛するほど、悲愴さは弥増すものだ。
カチンッ。
ヴァルトラムは引鉄を引いたが、弾丸は発射されなかった。何度か指を動かしてもカチッカチッと音が鳴るだけ。
ヴァルトラムは沈黙した銃をただただ真っ直ぐにルディに向けていた。
銃口の延長線上の先で、ルディが口の端を引き上げて笑った。剥き出しになった白い歯列がギラリと光った。
「弾切れか?」
弾丸の出ない銃など重たい鉄の棒切れに過ぎない。俊敏性を損なったルディでも恐れることなど何もなかった。のしっのしっ、と悠然とヴァルトラムに近づいてゆく。ヴァルトラムは弾の出ない銃を木偶のように構えるのみ。
ルディが一歩一歩踏み出す度に血が滴るが、自身の優位性は苦痛を緩和させる。いいや、歴戦のネームド《朱い魔物》に勝利するという優越感は、苦痛や疲労をゼロにし、この快楽は何物にも勝る。
「この銃は俺専用でよォ。難しいことは知らねェが、俺のネェベルを弾に変換にしてんだと」
「貴様のネェベルが切れたということか。あのような高威力を連発すること自体が馬鹿げている」
カチンッ。
ヴァルトラムはまた引鉄を引いた。やはり弾丸は出なかった。
ピチャン、と雫が落ちた。ヴァルトラムの銃を構えた腕から赤い雫がポタポタと零落する。棒切れと化した銃を構え続ける様は、ルディには愚直で鈍重で滑稽に見えた。
しかしながら、同じくらい感服もする。武器が不能になろうとも、満身創痍になろうとも、戦意を喪失しないのは流石と言える。そうであるからこそ打ち倒すことに意義がある。競り勝ち打倒したいと、踏み拉き屈服させたいと、戦闘する本能がそうせよと命じる。男であるならかくあるべしと。強者なら強者の上に立ちたいと願うのは、何よりも根源的な本能だ。
ネェベルの研究に長けプログラムを駆使し、宙に浮いた先鋭の都市でこの世界の中枢を握るヒトに、自らの屈強な肉体と武技を鍛え上げ、何よりも忠誠と武勇を重んじ、北の大地の果てに居城を構えるフローズヴィトニルソンが勝る。つまりは、フローズヴィトニルソンがヒトに勝る、それはルディが密やかに望んでいた決定的な証明に他ならなかった。
ルディはヴァルトラムの目の前まで辿り着き、胸を張った。さあ、撃てるものなら撃ってみよ。ネェベルが底を突き、意味を失った銃で、ヒトが頼る武器で。
ヴァルトラムは一度離れた指をまた引鉄に添えた。いつもは堅いだけの感触にぬるりと血の感触が加わった。だからといって仕損じるなどということは有り得ない。
そう、有り得ないのだ。ヴァルトラムが射撃を誤ることなど。
「だからよー……俺の銃に弾切れは、ねェ」
ドドゥンッ‼
銃口に光が収斂し、ルディを飲みこむ。銃口の真ん前に立っていたルディは、目を瞠った。眩い。熱い。だが、回避することはできない。自身を焼く焔から逃げ惑うことすら許されない。
一瞬意識が飛んでいた、のだと思う。ピチャンと雫の弾ける音で目が覚めた。
「なかなかイイ線いってたぜ、オメエ」
低い声が降ってきて、視界の端に靴が見えた。これはあの男の靴だ。自身は斃れ、あの男は立っている。これが現実だ。勝利することが叶うと思ったことこそが夢だったか。
「弾切れは……演技か。そういうことを……する、男には……見えなかったが……」
「何でもするぜ。愉しくやり合うためならな」
クハハッ、とヴァルトラムは声を上げて笑った。
真実、機嫌は大変よろしい。それは勝利したからではない。北の果て、獣人の国の若き将軍との流血を伴う戦闘は、久し振りに彼が満足いく程度には愉しめたからだった。
「おーお。ピンチってヤツかァ?」
ヴァルトラムの声が近くで聞こえ、ビシュラは弾かれたように顔を上げた。
そこには、朱色の髪を揺らしながら億劫そうに肩を揺すって歩く、待ち望んだヴァルトラムの姿があった。
「歩兵長! 御無事でッ……」
ヴァルトラムはしっかりとした足取りでビシュラとアキラのほうへ近づいてきた。その視線は天尊のほうを向いており、ウルリヒに齧りつかれている天尊の様を見てハッと鼻で笑った。
「女を奪い返しにきただけなのに情けねェーなァ、大隊長ォ」
天尊はギリッと奥歯を噛み締めた。ヴァルトラムからの侮蔑は聞き捨てならない。
天尊のプライドを最も刺激するのは、同じ血統を持つ者として物心つく以前から比較され続けた実の兄たちではなく、上官として踏ん反り返る父親ではなく、いつもこの男だ。忌々しくも近しい本質を持つが故に。
「無駄口叩いてねェでッ……テメエは黙って……アキラを守っとけクソ戦闘狂がァッ!」
ドッスゥ! ――天尊はウルリヒの腹に拳をめりこませた。
その衝撃でウルリヒの顎が肩から浮いた。天尊は頭を高く引き上げ、全体重を額に乗せてウルリヒの額に叩きつけた。
ガキャァン! ――かなり強かな音が響いた。
強烈な頭突きを喰らったウルリヒは、視界に火花が散って蹌踉めいた。その衝撃で天尊の鎖骨から血飛沫が舞い上がった。
咄嗟に「ティエン!」と駆け出そうとしたアキラの腕を、ヴァルトラムが捕まえた。
「放っとけ。アイツはあの程度、どうともでもする」
アキラは若干抵抗したが、ヴァルトラムにとって小娘ひとり捕まえておくことなど造作も無かった。難しいのは絶妙な力加減くらいのものだ。
ヴァルトラムはアキラの腕を捕まえたまま、床に座りこんでいるビシュラを見下ろした。
「ビシュラ。回復系プログラムは使えんだろ。俺を治せ」
「はい。直ちに」
ヴァルトラムが床に座りこみ、アキラは引っ張られるようにして膝を付けるしかなかった。その拍子に目に入ったビシュラの顔色は蒼白かった。
ビシュラは肩で息をし顔に汗を浮かべ、どう見ても十全の状態ではなかった。
「でもビシュラさん、とても疲れてるんじゃ……」
「いえ、このくらいはどうということはございません。歩兵長の御命令ですから」
ビシュラはヴァルトラムの胸板の前に両手を翳した。
キィイイイーン。――ウルリヒの鼓膜に甲高い音が届いた。
否、ヒトにとっては音ですらない。これは獣人の聴覚だからこそ聞き逃さなかった音の波。ウルリヒは先ほどから何度かこの音を耳にしている。
――《機銃掃……
ウルリヒは天尊との距離を一足飛びに詰めた。そして、筋肉が盛り上がった腕を撓らせた。
(プログラムの発動よりも俺のほうが迅い!)
天尊はウルリヒに向かって突き出すつもりだった手を瞬時に引き戻し、体の前で十字に組んだ。
ガチィンッ! ――ウルリヒの自慢の爪は硬いものに阻まれた。
ウルリヒは天尊のガードした腕ごと切り裂くつもりだったのに、だ。天尊は、本来全身を薄い膜で防護するものである《装甲》を両腕周辺に集結することにより、防御力を何倍にも高めた。瞬時にプログラムをアレンジすることはかなりの熟練度を要するが、天尊ほどの実戦経験ともなれば難は無かった。
ウルリヒは、天尊が拳を構えたのが見え、ギクリとした。
ドォオンッ!
天尊の拳は虚空を撃った。空振りでありながらすさまじい衝撃だった。すぐ真横を通過した衝撃の波がウルリヒの鼓膜を揺らした。これは紛れもなく先ほど目にした、頑丈さで知られるマルモア石製の床を破砕した一撃だ。
(ヒトとは思えぬ恐ろしい威力だ。……だが、俺ならば持ち堪えられる)
ウルリヒは天尊の拳撃を目の当たりにしても一厘も怖れず、さらに距離を詰めた。己の爪牙に劣らず肉体の頑健さにも自負があった。
敗北を知らぬ勇者であるが故に。戦士の誉れを欲する勇壮であるが故に。勝ち取るべきものに固執するが故に。勝利は目前、勝機は見えた、神の鉄鎚をも怖れぬ。
(ヤツが一撃を放つ内にもっと迅く、もっと深く懐に入る。次こそ確実に心臓を仕留める!)
天尊はガチンッと奥歯を噛み締めた。
肉体の奥に備わった内燃機関の回転数が最高潮に達して〝力〟が噴出し、それを乗せた血流が全身を駆け巡り、稲妻を纏った拳には神の威が宿る。立ちはだかるものすべてを打破し、圧砕し、撃摧し、掃滅する――――それこそが《雷鎚》。
ドドドォオオンッ‼
天尊の拳はウルリヒの胸のど真ん中を撃ち抜いた。
ウルリヒの肉体を撃ち抜いた衝撃は、庭園の茨垣を、立ち居並ぶ木々を、その延長線上にあるもの一切を、薙ぎ払った。
ヴァルトラムはその両腕にふたりのヒトを抱えていた。片方の肩にアキラを抱え、脇に抱えているのはビシュラだ。ビシュラには意識が無いようでぐったりとしている。自身の頭上にも瓦礫が降り注ぐなか、上階から落下してきたアキラとビシュラを判別し、受け止めていたのだ。
「馬鹿野郎! アキラが怪我するだろうがッ! ブッ殺すぞ!」
「ちゃんと受け止めてんだろうが。よく見ろ」
頭上から降ってきた叱責。ヴァルトラムが上階を見上げると、思ったとおり天尊が天井に開けた穴から飛び降りてくるところだった。
ヴァルトラムは自分の肩にしがみつく形になっているアキラのほうへ目を移した。
「怪我はねェだろうな、嬢ちゃん。俺が殺されるらしい」
「だ、だいじょうぶ、です」
アキラが返事した直後、天尊がヴァルトラムの腕から奪い取るようにしてアキラを引き剥がした。
ヴァルトラムは率直に言ってアキラの容貌は嗜好に合わない。天尊に「とりゃしねェ」と言ったが聞いていない様子だった。
天尊はアキラが言葉を交わす暇も無く正面から抱き締めた。アキラは足が床から浮いたまま堅い感触に押し潰され、息苦しくて言葉を発せられなかった。
ありがとうとか会いたかったとか伝えたかったのだけれど。天尊のほうも言葉を発さなかったが、抱き締める強さから彼の言いたいことはすべて伝えてもらった気がした。
天尊は一頻りアキラの無事を確かめ、床に下ろした。それからようやくヴァルトラムの有様を確認して、片眉を引き上げた。
「随分やられているな。何をしている」
「戦闘用ブーツじゃねェからしっくりこねェ。銃もなかなか言うこときかねェしよ」
「いつもと装備が違うくらいでその様か、無能」
「テメエも手こずってんだろ。血塗れでクソみっともねェ」
ヴァルトラムは天尊と皮肉を言い合い、それから部屋の隅へ移動した。
意識のないビシュラを床に横たえた。血色は良くないが呼吸はある。鼓動も聞こえる。一見して致命傷となるような外傷も無い。差し当たって、すぐさま命に別状はないだろう。
ヴァルトラムはしゃがみこんだ体勢で、ビシュラの頭の天辺から爪先まで観察した。そして、足首で目を留めた。痣のような跡。それが何であるか、ビシュラの置かれていた情況を考えれば想像に難くない。
「ビシュラに足枷をハメやがったのはどいつだ」
ヴァルトラムの言葉が聞こえ、アキラはハッとした。天尊の視線が自分の足許に向かっていることに気づき、サッと天尊の背後に回って足首を隠した。
その一瞬でも天尊はアキラの足枷の後を見逃さなかった。
「囚われ人に枷をするのは当然のことだ」
ルディは何の後ろめたさもなくハッキリと答えた。
ヴァルトラムはゆっくりと立ち上がり、ルディのほうを振り返った。
「テメエか。俺のオンナが随分世話になったみてぇだなァ、ケモノォ」
「恩着せがましく世話というほどのことをしたつもりはないが、それならどうした」
パキパキッ、とルディは長い指を動かして骨を鳴らした。
ルディが臨戦態勢に入ると、ウルリヒが近くにやって来た。ウルリヒから「大丈夫か」と声を掛けられ「問題ありません」と返した。
ヴァルトラムは銃を握った腕をルディのほうへ真っ直ぐに伸ばした。引鉄を引いた瞬間、ルディを飲みこむほどの光の束が発射された。
ズドォオンッ!
ルディとウルリヒはその場から飛び退いて回避したが、壁には外に通じる大穴が開いた。
ウルリヒはそれを見て、ほう、と感嘆を零したが、ルディはギリッと歯を食い縛った。
「大した威力だ。並の銃ではないな」
「何を悠長な! 奴の所為で王城の被害は甚大です」
天尊は爆風や粉砕された壁の欠片などからアキラを背に庇いながらチッと舌打ちをした。
ヴァルトラムの銃の威力は、先ほど天尊が調整してやったときとは段違いだ。二手に分かれたあと、自分勝手に調整を加えたことは明らかだ。そして、ヴァルトラムは自分の得物とは言え細かな手を加えることは得意ではなく、その威力はこの場での適度とは思えなかった。
「莫迦が。銃の出力を上げて戻すの忘れたな」
アキラの耳に「う……」とか細い呻き声が聞こえ、ビシュラのほうを振り返った。
意識を取り戻したビシュラは、床から上半身を引き摺り起こす。アキラはビシュラに駆け寄り、上半身を支えてやった。
「行動は可能か」
天尊はビシュラのほうを振り返らずに尋ねた。アキラには少々冷淡に感じるほどの抑揚のない声で。しかし、それも致し方がない。此処は敵陣中であり、まさに敵首魁と対峙しているのだから。
「申し訳ございません。即時の復帰は難しそうです……」
「状態は」
「行動不能なほどの負傷はありません。ですが、ネェベルの消耗が大きいです。回復にはしばし時間がかかるかと……」
「分かった。そこで待機していろ」
ヴァルトラムとルディはほぼ同時に動き出した。ルディは素早く左右に跳ね回るように動き、ヴァルトラムに倒されて床に突っ伏している兵士たちからナイフを拾い上げた。
ルディはヴァルトラムに向かって複数のナイフを放った。ヴァルトラムもルディがナイフを回収したところを見逃さなかったし、その軌道も見えている。しかし、回避する素振りはなくルディへの最短距離を突き進んだ。
「どうせ効きゃあしねェんだ。小手先の芸はやめとけ」
案の定、ヴァルトラムに到達したナイフは突き刺さることはなく筋肉に弾かれた。ただの一本を除いては。
ヒュンッ、と突如として眼前に現れた閃く切っ先。ヴァルトラムは首を捻ってそれを回避した。
「それは避けるのだな?」
ナイフを回避したことにより生まれた死角。ルディはすでに其処へ回りこんでいた。
ドッスウ! ――ヴァルトラムの腹部にルディの爪が突き刺さった。
ルディは渾身の力で爪を押し進めた。深く深く、今までで最も奥深く、その長い爪のみならず指そのものが届きそうなほど深く。
「《魔物》はネームドでありながらプログラムが不得手というのは事実らしい」
ずるり、とルディは爪を引き抜いた。自身の爪に滴る血液を一瞥し、腕を振るって払った。払いきれない血が手の甲から毛並みを濡らしていた。
「貴様に攻撃が通用しないのはプログラムによる防護ではなく、単純に肉体の頑丈さ故。ならば、鍛えようのない部位への攻撃は避けざるを得ないというわけだ」
「確かに目玉が潰れるかどうかは試したことがねェなァ」
ヴァルトラムがルディへ銃口を向けた。ルディは俊敏にその場で片足を軸として回転して彼の足を払った。
ヴァルトラムは重量級のウエイトのままにダァンッと床に背を打ったが、その銃口は執拗にルディを追跡する。すでに引鉄に指は掛かっている。
ルディが銃身を蹴って軌道を逸らした瞬間、ズドンッと発射された。どのような体勢であってもヴァルトラムの銃弾の威力は変わらない。また王城の一部を破壊され苦々しく思っている最中――
「!」
ドスッ、とルディの太腿に鋭利な痛みが走った。
そこに目を向けると、ヴァルトラムがマチェットナイフを突き立てていた。そして、それを乱暴に引き倒して大腿筋を引き裂いた。
ルディは堪らずヴァルトラムの上から飛び退いた。
ズダァンズダンッ! ズドォン!
ヴァルトラムはルディ目掛けて撃ちまくったがすべて回避された。
ルディが床や壁を跳ね回る度、ビチャチャッと血液で斑点が生まれてゆく。出血の量からして常人ならば俊敏に動き回るどころか、立ち上がることも難しい深手であろう。
「まだそんだけ動けるか」
ヴァルトラムは忌々しげにするどころか、クハハッと笑みを零した。
ドンッ、と天尊は床を蹴り地を這うように滑空してウルリヒに突進した。
ウルリヒは、力尽きて床に倒れていた兵士から拾い上げたのであろう剣を握っていた。
天尊はウルリヒの剣撃を躱したり組み合ったりしつつ、隙を見てウルリヒの腹部を蹴り飛ばし、建物のなかから庭園へと蹴り出した。
ウルリヒは地面の上を転げながら素早く体勢を立て直し、顔を上げた。すると、自分の足許に格子状に光る線が地表を這っていた。
――《千畳鑓》
ザクゥッ!
地表を張り巡らされた格子の交点から銀竹が突き上がり、ウルリヒの腿や腕に突き刺さった。
ウルリヒは野獣のような咆哮を上げて剣を振るった。銀竹を薙ぎ払い、ギロッと天尊を睨んだ。
天尊は足を停めていた。ウルリヒの気は完全に逸れていたのに何故距離を詰めなかった。
――《氷鎚撃》
ウルリヒはフッと全身が翳り、頭上に何かが出現したことに気づいた。
天を振り仰ぐと、巨大な氷の塊が宙に浮いていた。如何な極寒の大地とはいえ、このようなものは自然現象ではない。天尊の仕業であるとピンと来た次の瞬間には、急転直下。
ウルリヒは自分目掛けて降ってくる氷塊に力いっぱい剣を叩きつけた。氷塊の重量と薄刃がギリッギリと鳴きながら鬩ぎ合う。
オオオオオオオッ! ――野獣の雄叫びが谺した。
ウルリヒは筋張った腕を渾身の力で振り切った。
ビキッビキビキビキィッ!
氷塊は真っ二つに割れ、ズズズンッと重たい音を立てて地面に突き刺さった。
氷塊の重量と対抗した所為で剣の刀身は折れてしまった。名もない剣で命拾いをできたのだから上出来だ。ウルリヒは剣を地面に投げ捨てた。
天尊がその場を動かないのはまたプログラムを実行しているからであろう。ウルリヒは地を蹴り放たれた矢の如く俊敏な動作で天尊との間を詰めた。
(プログラム発動のタイムラグを突く!)
大規模で高出力なプログラムであればあるほど大量のネェベルを消費し、発動までには時間を要する。それはこの世界の基礎的な知識であり、プログラムを得手としないフローズヴィトニルソンでも無論知っている。そして、フローズヴィトニルソンはプログラムに練達するヒトよりも身体能力が遥かに高く、何倍も俊敏に動くことが可能。プログラムの間隙を突くことも困難ではない。
ウルリヒの爪が宙を裂きながら天尊を襲う。
ズドドドドドンッ!
天尊に爪が届く寸前、ウルリヒは衝撃に穿たれ、その場に縫い止められた。
屈強な肉体を持つウルリヒの足を停めさせるほどの衝撃、それこそが天尊の雷撃。
しかしながら、ウルリヒは戦意を喪失しなかった。仁王立ちで天尊を眼下に睨みつけた。
「まったく……。ケモノは無駄に頑丈で苛つくな」
「キ、サマ……ッ」
臓腑までも焼き上がりそうな苦痛のなかでも悪態は零れた。咽喉を火傷しそうなほど吐く息が熱い。自身の毛皮、自身の肉が焦げる臭い。熱という苦痛を噛み殺し、足を一歩踏み出した。
ウルリヒは天尊の胸座を掴み、顎を大きく開いた。
ガッリィイッ!
ウルリヒは天尊の鎖骨に食いついた。
太い牙が肩から鎖骨までどんどんめりこんだ。ドクッドクッと脈打つ度に、ブジュッブジュッと血が噴き出した。
「ティエンッ!」
少女の甲高い悲鳴が耳を劈いた。この世の終末のように悲愴でありながら微かに甘さが漂う。そう感じるのは、愛しさが付き纏うから。
――嗚呼、その甘さで呼ぶのが俺の名であったなら。
その悲愴さで想われて、その悲愴さを捧げて戦い、その悲愴さのなかで散れたなら。愛すれば愛するほど、悲愴さは弥増すものだ。
カチンッ。
ヴァルトラムは引鉄を引いたが、弾丸は発射されなかった。何度か指を動かしてもカチッカチッと音が鳴るだけ。
ヴァルトラムは沈黙した銃をただただ真っ直ぐにルディに向けていた。
銃口の延長線上の先で、ルディが口の端を引き上げて笑った。剥き出しになった白い歯列がギラリと光った。
「弾切れか?」
弾丸の出ない銃など重たい鉄の棒切れに過ぎない。俊敏性を損なったルディでも恐れることなど何もなかった。のしっのしっ、と悠然とヴァルトラムに近づいてゆく。ヴァルトラムは弾の出ない銃を木偶のように構えるのみ。
ルディが一歩一歩踏み出す度に血が滴るが、自身の優位性は苦痛を緩和させる。いいや、歴戦のネームド《朱い魔物》に勝利するという優越感は、苦痛や疲労をゼロにし、この快楽は何物にも勝る。
「この銃は俺専用でよォ。難しいことは知らねェが、俺のネェベルを弾に変換にしてんだと」
「貴様のネェベルが切れたということか。あのような高威力を連発すること自体が馬鹿げている」
カチンッ。
ヴァルトラムはまた引鉄を引いた。やはり弾丸は出なかった。
ピチャン、と雫が落ちた。ヴァルトラムの銃を構えた腕から赤い雫がポタポタと零落する。棒切れと化した銃を構え続ける様は、ルディには愚直で鈍重で滑稽に見えた。
しかしながら、同じくらい感服もする。武器が不能になろうとも、満身創痍になろうとも、戦意を喪失しないのは流石と言える。そうであるからこそ打ち倒すことに意義がある。競り勝ち打倒したいと、踏み拉き屈服させたいと、戦闘する本能がそうせよと命じる。男であるならかくあるべしと。強者なら強者の上に立ちたいと願うのは、何よりも根源的な本能だ。
ネェベルの研究に長けプログラムを駆使し、宙に浮いた先鋭の都市でこの世界の中枢を握るヒトに、自らの屈強な肉体と武技を鍛え上げ、何よりも忠誠と武勇を重んじ、北の大地の果てに居城を構えるフローズヴィトニルソンが勝る。つまりは、フローズヴィトニルソンがヒトに勝る、それはルディが密やかに望んでいた決定的な証明に他ならなかった。
ルディはヴァルトラムの目の前まで辿り着き、胸を張った。さあ、撃てるものなら撃ってみよ。ネェベルが底を突き、意味を失った銃で、ヒトが頼る武器で。
ヴァルトラムは一度離れた指をまた引鉄に添えた。いつもは堅いだけの感触にぬるりと血の感触が加わった。だからといって仕損じるなどということは有り得ない。
そう、有り得ないのだ。ヴァルトラムが射撃を誤ることなど。
「だからよー……俺の銃に弾切れは、ねェ」
ドドゥンッ‼
銃口に光が収斂し、ルディを飲みこむ。銃口の真ん前に立っていたルディは、目を瞠った。眩い。熱い。だが、回避することはできない。自身を焼く焔から逃げ惑うことすら許されない。
一瞬意識が飛んでいた、のだと思う。ピチャンと雫の弾ける音で目が覚めた。
「なかなかイイ線いってたぜ、オメエ」
低い声が降ってきて、視界の端に靴が見えた。これはあの男の靴だ。自身は斃れ、あの男は立っている。これが現実だ。勝利することが叶うと思ったことこそが夢だったか。
「弾切れは……演技か。そういうことを……する、男には……見えなかったが……」
「何でもするぜ。愉しくやり合うためならな」
クハハッ、とヴァルトラムは声を上げて笑った。
真実、機嫌は大変よろしい。それは勝利したからではない。北の果て、獣人の国の若き将軍との流血を伴う戦闘は、久し振りに彼が満足いく程度には愉しめたからだった。
「おーお。ピンチってヤツかァ?」
ヴァルトラムの声が近くで聞こえ、ビシュラは弾かれたように顔を上げた。
そこには、朱色の髪を揺らしながら億劫そうに肩を揺すって歩く、待ち望んだヴァルトラムの姿があった。
「歩兵長! 御無事でッ……」
ヴァルトラムはしっかりとした足取りでビシュラとアキラのほうへ近づいてきた。その視線は天尊のほうを向いており、ウルリヒに齧りつかれている天尊の様を見てハッと鼻で笑った。
「女を奪い返しにきただけなのに情けねェーなァ、大隊長ォ」
天尊はギリッと奥歯を噛み締めた。ヴァルトラムからの侮蔑は聞き捨てならない。
天尊のプライドを最も刺激するのは、同じ血統を持つ者として物心つく以前から比較され続けた実の兄たちではなく、上官として踏ん反り返る父親ではなく、いつもこの男だ。忌々しくも近しい本質を持つが故に。
「無駄口叩いてねェでッ……テメエは黙って……アキラを守っとけクソ戦闘狂がァッ!」
ドッスゥ! ――天尊はウルリヒの腹に拳をめりこませた。
その衝撃でウルリヒの顎が肩から浮いた。天尊は頭を高く引き上げ、全体重を額に乗せてウルリヒの額に叩きつけた。
ガキャァン! ――かなり強かな音が響いた。
強烈な頭突きを喰らったウルリヒは、視界に火花が散って蹌踉めいた。その衝撃で天尊の鎖骨から血飛沫が舞い上がった。
咄嗟に「ティエン!」と駆け出そうとしたアキラの腕を、ヴァルトラムが捕まえた。
「放っとけ。アイツはあの程度、どうともでもする」
アキラは若干抵抗したが、ヴァルトラムにとって小娘ひとり捕まえておくことなど造作も無かった。難しいのは絶妙な力加減くらいのものだ。
ヴァルトラムはアキラの腕を捕まえたまま、床に座りこんでいるビシュラを見下ろした。
「ビシュラ。回復系プログラムは使えんだろ。俺を治せ」
「はい。直ちに」
ヴァルトラムが床に座りこみ、アキラは引っ張られるようにして膝を付けるしかなかった。その拍子に目に入ったビシュラの顔色は蒼白かった。
ビシュラは肩で息をし顔に汗を浮かべ、どう見ても十全の状態ではなかった。
「でもビシュラさん、とても疲れてるんじゃ……」
「いえ、このくらいはどうということはございません。歩兵長の御命令ですから」
ビシュラはヴァルトラムの胸板の前に両手を翳した。
キィイイイーン。――ウルリヒの鼓膜に甲高い音が届いた。
否、ヒトにとっては音ですらない。これは獣人の聴覚だからこそ聞き逃さなかった音の波。ウルリヒは先ほどから何度かこの音を耳にしている。
――《機銃掃……
ウルリヒは天尊との距離を一足飛びに詰めた。そして、筋肉が盛り上がった腕を撓らせた。
(プログラムの発動よりも俺のほうが迅い!)
天尊はウルリヒに向かって突き出すつもりだった手を瞬時に引き戻し、体の前で十字に組んだ。
ガチィンッ! ――ウルリヒの自慢の爪は硬いものに阻まれた。
ウルリヒは天尊のガードした腕ごと切り裂くつもりだったのに、だ。天尊は、本来全身を薄い膜で防護するものである《装甲》を両腕周辺に集結することにより、防御力を何倍にも高めた。瞬時にプログラムをアレンジすることはかなりの熟練度を要するが、天尊ほどの実戦経験ともなれば難は無かった。
ウルリヒは、天尊が拳を構えたのが見え、ギクリとした。
ドォオンッ!
天尊の拳は虚空を撃った。空振りでありながらすさまじい衝撃だった。すぐ真横を通過した衝撃の波がウルリヒの鼓膜を揺らした。これは紛れもなく先ほど目にした、頑丈さで知られるマルモア石製の床を破砕した一撃だ。
(ヒトとは思えぬ恐ろしい威力だ。……だが、俺ならば持ち堪えられる)
ウルリヒは天尊の拳撃を目の当たりにしても一厘も怖れず、さらに距離を詰めた。己の爪牙に劣らず肉体の頑健さにも自負があった。
敗北を知らぬ勇者であるが故に。戦士の誉れを欲する勇壮であるが故に。勝ち取るべきものに固執するが故に。勝利は目前、勝機は見えた、神の鉄鎚をも怖れぬ。
(ヤツが一撃を放つ内にもっと迅く、もっと深く懐に入る。次こそ確実に心臓を仕留める!)
天尊はガチンッと奥歯を噛み締めた。
肉体の奥に備わった内燃機関の回転数が最高潮に達して〝力〟が噴出し、それを乗せた血流が全身を駆け巡り、稲妻を纏った拳には神の威が宿る。立ちはだかるものすべてを打破し、圧砕し、撃摧し、掃滅する――――それこそが《雷鎚》。
ドドドォオオンッ‼
天尊の拳はウルリヒの胸のど真ん中を撃ち抜いた。
ウルリヒの肉体を撃ち抜いた衝撃は、庭園の茨垣を、立ち居並ぶ木々を、その延長線上にあるもの一切を、薙ぎ払った。
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