57 / 91
Kapitel 05
受難 02
しおりを挟む
王城内・ルディの執務室。
ルディがデスクに座していると「ルディ! ルディ!」と大声が聞こえてきた。すぐにウルリヒが室内に入ってきた。その腕にアキラを抱えて。
ルディは素早く椅子から立ち上がってウルリヒに近づいた。
「ルディ! ビシュラは何処だッ」
「殿下。そのように慌ててどうされました」
「アキラが突然気を失ってしまった。ビシュラが部屋におらん。ビシュラはいずこか」
「棄てました」
ウルリヒはルディの顔を見て停止した。
「それはどういうことだ?」
う……、とアキラが声を漏らした。
ウルリヒは腕のなかのアキラに目を落とした。
アキラは何度か呻き声を漏らし、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
「おお、気づいたか。アキラ。どうした。具合が悪いのか?」
「いや、大丈夫。たまにものすごく眠たくなるだけだから」
ウルリヒはそう言われてもまったく意味が分からなかった。彼には人間についての知識がないから致し方なかった。アキラが下ろしてくれと言うので、言われるがまま慎重に床に下ろした。
ウルリヒはアキラからルディへと目線を戻した。
「ルディ。ビシュラを棄てたとはどういう意味だ?」
「えッ⁉」
ルディは表情を微塵も変えぬまま、尻尾がクルッと弧を描いた。
「雪原へ棄てて参りました」
アキラは一瞬、ルディが何を言ったのか分からなかった。それは獣人ならではの冗談か、それともルディの下手なジョークかと考え至る。だがし、ルディの無表情と冷たい目線を見てそうではないと察した。
ゾクッとアキラの背中を悪寒が走った。
「どういうことッ」
アキラは激昂しながら血の気が引いてゆくのが自分でも分かった。
厳しい気候のこの国で屋外に長時間捨て置かれること、それが何を意味するか、どういう結果となるか、説明されずとも明らかだ。
ウルリヒも少々困惑した表情をルディに向けた。
「ルディ。一体何があって……」
「あの者は〝四ツ耳〟でした」
それを聞いたウルリヒは、一瞬表情を変えた。
ルディはウルリヒからアキラへと目線を移し、腰を折ってマズルを近づけた。
「如何に貴女様の侍女とはいえ、〝四ツ耳〟などを殿下のお側に寄らせるわけには参りません」
「よつみみ……?」
「替わって、貴女様の侍女は私めが最高の者を揃えましょう。御心配には及びませんよ」
「そんなの要らない。ビシュラさんを連れ戻して」
アキラは凜とした瞳をルディに向けた。
ルディは不思議そうに首をやや傾げた。
「あの〝四ツ耳〟をそんなにもお気に入りですか。どういった経緯で貴女様に仕えたか存じませんが〝四ツ耳〟など下賤の者。殿下の寵を受ける貴女様には相応しくございませんよ」
「よつみみが何のことかわたしには分からない。下賤なんて言われても知ったことじゃない。ビシュラさんを早くここに連れ戻して。こんな寒さのなか放り出されたら――」
「無論、そのつもりで放逐いたしました」
それはつまり、積極的な殺意でなくとも、ビシュラの死を予見したということだ。むしろ、そうするために放り出したと認めたのだ。
そうした張本人であるルディに何を言っても無駄だ。この冷たい目は、情が通じるような相手ではない。
アキラはウルリヒの腕を掴んで引っ張った。
「ウルリヒくん。ビシュラさんをここに戻してッ」
「アキラ……」
ウルリヒが困り顔をし、ルディがフッと笑みを零した。
「まさかそこまで御執心とは」
ルディは悪巫山戯のように口の端を吊り上げた。何かを企んでいるようにさえ感じた。
「そこまで仰有るのなら、あの者を城に置くことを許しましょう。しかし、我が儘を聞き入れるのですから、無条件というわけにはゆきません」
「オイ、ルディ」
何かを言いかけたウルリヒを、ルディは視線で制止させた。
ルディの言動はこの国において至極妥当だ。ウルリヒも強くは反対しなかった。
「〝四ツ耳〟を王族と同じ城に住まわせているなど民に知れれば、殿下の権威が損なわれかねません。これは殿下のみならず王族にとって甚大なるリスク。それを許容しても構わないと申し上げているのですから、相応の条件を提示するのは当然のことです」
「何をすればビシュラさんを戻してくれるの」
アキラに迷いはなかった。自分が無力であることをよく知っている。ビシュラを助けるために、ルディから差し出されたものが何であれ、すべて呑みこむほかに何もできないことをよく理解している。
そしてルディは、この令嬢が特別聞き分けがよく諦めのよい性格であることを、とっくに見抜いていた。
「やはり、貴女様はとても聡明であられますね」
ルディは、アキラの返答を待ち構えていたかのようにほくそ笑んだ。
§ § § § §
灰白色の空、一面の銀世界。
見えるものはすべて塗り潰されたように真っ白だ。まるで色の失われた世界。自然物も建物も目印になるものは何もなく、人も獣も存在しない。今は何時でどちらが北で南なのか、どちらの方角から来たのかも分からない。
ビシュラは、ルディの命令を受けた数人の獣人によって王城から連れ出され、枷を外され放置された。見ず知らずの場所だが、わざわざ捨てに来たということは、王城からかなり離れた地点なのだろう。
「や、やっと外に……」
ビシュラは数日振りの自由を確認するように深く呼吸した。
冷気に切りつけられたかのように気管や肺が痛かった。寒さで震えが止まらず歯がガタガタと鳴り、指先がビリビリと痺れる。この肉体は獣人に比べて劣り、過酷な環境には順応できない。自分に許されている時間はそれほど長くはないのかもしれない。これが最初で最後のチャンスかもしれない。
ビシュラは手の平を天に向けて瞼を閉じた。
――広域探査網展開
ビシュラの足元を起点にして網状のものが一瞬チラッと煌めいて全方位に拡がった。発生源であるビシュラ以外の者には見えない網、それは終点を目で追えないほど遠くまで伸びてゆく。
ビュオオオオッ、と強い寒風が全身に吹きつけた。こうして集中しているように見える間も、頬や手など冷たい外気に晒されている部位が切られるように痛い。
沈黙してしばらく、ビシュラはハッと目を開いた。
「ありました。ヴィンテリヒブルク城――……!」
王城の城下町からも遠く離れたこの雪原には、流石に通信を妨害するようなジャミングは存在しなかった。
ビシュラは探査プログラムを収束し、直ぐさまプログラムを切り替えた。
――長距離間信号発信プログラム開始
――法紋展開
脳内だけに響く細く甲高い音。
ビシュラはやるべきことを終えたあと、自分の胸元をぎゅっと握り締めた。
一縷の望みを見つけたはずなのに胸が強く締めつけられる。手放しで信じるには不安が大きすぎる。何かしていないと心細くて泣き出しそうだ。そのような情けない様を、子どものような様を、誰もいないこの場所であっても晒すわけにはいかないと、まだプライドを守る根性は残されていた。現実問題、この情況では何かしていないと死はフィクションではない。
ビシュラはヴィンテリヒブルク城の方角へ向かって足を踏み出した。
(アキラさんひとりフローズヴィトニルソンの王城に残すのは心配ですが、〝四ツ耳〟のわたしが戻っても、きっと王城に入ることは許されません)
ゴォォオオオッ!
しっかりと掴んでいないと外套が吹き飛ばされてしまいそうな強風。ビシュラは真っ直ぐ歩いて行くことすら容易ではなかった。
(マントは渡されましたが、流石にこの寒さは凌ぎきれません。ですが、じっとしていても身体が凍るだけ。歩けなくなるまで歩き続けるしかありませんね。少しでもヴィンテリヒブルク城に近づいたほうが得策です。わたしの足で辿り着けるとは思えな……いや、考えるのはやめます。とにかく動いてないと死んでしまうのは確かなのですから)
どれほどの時間を歩いたのだろう。時計がなく正確な時間は分からず、距離も分からない。ただ確かなことは、一時間前よりも一分前よりも一歩前よりも、目的地に近づいたということ。此処で懸命に努力していることは無駄ではないと自分に言い聞かせ、一歩一歩前に進む。そうしていないと心が折れそうになる、見渡す限り何もない真っ白な世界では。
この国に来て思い知らされた。人を殺めることなどは簡単だ。獣人ならばその爪のたった一掻きで人を殺められる。直接手を下さずとも、この過酷な環境下では置き去りにするだけで、少々目を瞑るだけで、容易に命を奪うことができる。
これまで死について真剣に考える必要などないほど、安寧に生きてこられた。死に直面したときに思い出すのは、あの人の顔。
「……歩兵長……」
それはもう不思議なことではなかった。ビシュラにとってはヴァルトラムは力や強さの象徴。
自分に無いものすべてを持っている、死の危機に瀕した自分が焦がれるものすべてを持っている。盲目的にヴァルトラムを崇敬する者たちも、このような心持ちなのだろうか。常にこのような心持ちであの男の背中を追っているのだろうか。己との差を思い知りながら。
此処から味方が待つ地への距離と、脆弱な自分と強さの象徴であるヴァルトラムとの距離、どちらも変わらぬ遠方に感じられた。
――あの人は、わたしが想うほどには、わたしを思い出してくれてはいないだろうけれど、一歩でもあの人の近くへ行かなければ。
「歩兵、長……」
最早、呼吸をしたときの喉の痛みすら感じなくなった。手足が冷えている感覚もない。体内で熱を生み出すより先に外気に奪われてゆき、熱という熱が吸い取られるように失われてゆく。
ザクッ。――ビシュラは雪の上に両膝をついた。
足から力が抜け、自分の体重を支えきれなかった。咄嗟に両手を出す体力も残っておらず、全身から雪に突っ伏した。
立ち上がって再び歩き出さなければいけないはずなのに、頭では何をすべきか分かっているのに、体を動かせない。
「歩兵長……早く……」
体が重たい。瞼も重たい。何より頭が重たい。もう何も考えられない。吹き荒ぶ風雪のなか、あの人の名前だけを呼んでいた。
「歩兵長……歩兵――……早く……アキラさん、を――……」
ルディがデスクに座していると「ルディ! ルディ!」と大声が聞こえてきた。すぐにウルリヒが室内に入ってきた。その腕にアキラを抱えて。
ルディは素早く椅子から立ち上がってウルリヒに近づいた。
「ルディ! ビシュラは何処だッ」
「殿下。そのように慌ててどうされました」
「アキラが突然気を失ってしまった。ビシュラが部屋におらん。ビシュラはいずこか」
「棄てました」
ウルリヒはルディの顔を見て停止した。
「それはどういうことだ?」
う……、とアキラが声を漏らした。
ウルリヒは腕のなかのアキラに目を落とした。
アキラは何度か呻き声を漏らし、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
「おお、気づいたか。アキラ。どうした。具合が悪いのか?」
「いや、大丈夫。たまにものすごく眠たくなるだけだから」
ウルリヒはそう言われてもまったく意味が分からなかった。彼には人間についての知識がないから致し方なかった。アキラが下ろしてくれと言うので、言われるがまま慎重に床に下ろした。
ウルリヒはアキラからルディへと目線を戻した。
「ルディ。ビシュラを棄てたとはどういう意味だ?」
「えッ⁉」
ルディは表情を微塵も変えぬまま、尻尾がクルッと弧を描いた。
「雪原へ棄てて参りました」
アキラは一瞬、ルディが何を言ったのか分からなかった。それは獣人ならではの冗談か、それともルディの下手なジョークかと考え至る。だがし、ルディの無表情と冷たい目線を見てそうではないと察した。
ゾクッとアキラの背中を悪寒が走った。
「どういうことッ」
アキラは激昂しながら血の気が引いてゆくのが自分でも分かった。
厳しい気候のこの国で屋外に長時間捨て置かれること、それが何を意味するか、どういう結果となるか、説明されずとも明らかだ。
ウルリヒも少々困惑した表情をルディに向けた。
「ルディ。一体何があって……」
「あの者は〝四ツ耳〟でした」
それを聞いたウルリヒは、一瞬表情を変えた。
ルディはウルリヒからアキラへと目線を移し、腰を折ってマズルを近づけた。
「如何に貴女様の侍女とはいえ、〝四ツ耳〟などを殿下のお側に寄らせるわけには参りません」
「よつみみ……?」
「替わって、貴女様の侍女は私めが最高の者を揃えましょう。御心配には及びませんよ」
「そんなの要らない。ビシュラさんを連れ戻して」
アキラは凜とした瞳をルディに向けた。
ルディは不思議そうに首をやや傾げた。
「あの〝四ツ耳〟をそんなにもお気に入りですか。どういった経緯で貴女様に仕えたか存じませんが〝四ツ耳〟など下賤の者。殿下の寵を受ける貴女様には相応しくございませんよ」
「よつみみが何のことかわたしには分からない。下賤なんて言われても知ったことじゃない。ビシュラさんを早くここに連れ戻して。こんな寒さのなか放り出されたら――」
「無論、そのつもりで放逐いたしました」
それはつまり、積極的な殺意でなくとも、ビシュラの死を予見したということだ。むしろ、そうするために放り出したと認めたのだ。
そうした張本人であるルディに何を言っても無駄だ。この冷たい目は、情が通じるような相手ではない。
アキラはウルリヒの腕を掴んで引っ張った。
「ウルリヒくん。ビシュラさんをここに戻してッ」
「アキラ……」
ウルリヒが困り顔をし、ルディがフッと笑みを零した。
「まさかそこまで御執心とは」
ルディは悪巫山戯のように口の端を吊り上げた。何かを企んでいるようにさえ感じた。
「そこまで仰有るのなら、あの者を城に置くことを許しましょう。しかし、我が儘を聞き入れるのですから、無条件というわけにはゆきません」
「オイ、ルディ」
何かを言いかけたウルリヒを、ルディは視線で制止させた。
ルディの言動はこの国において至極妥当だ。ウルリヒも強くは反対しなかった。
「〝四ツ耳〟を王族と同じ城に住まわせているなど民に知れれば、殿下の権威が損なわれかねません。これは殿下のみならず王族にとって甚大なるリスク。それを許容しても構わないと申し上げているのですから、相応の条件を提示するのは当然のことです」
「何をすればビシュラさんを戻してくれるの」
アキラに迷いはなかった。自分が無力であることをよく知っている。ビシュラを助けるために、ルディから差し出されたものが何であれ、すべて呑みこむほかに何もできないことをよく理解している。
そしてルディは、この令嬢が特別聞き分けがよく諦めのよい性格であることを、とっくに見抜いていた。
「やはり、貴女様はとても聡明であられますね」
ルディは、アキラの返答を待ち構えていたかのようにほくそ笑んだ。
§ § § § §
灰白色の空、一面の銀世界。
見えるものはすべて塗り潰されたように真っ白だ。まるで色の失われた世界。自然物も建物も目印になるものは何もなく、人も獣も存在しない。今は何時でどちらが北で南なのか、どちらの方角から来たのかも分からない。
ビシュラは、ルディの命令を受けた数人の獣人によって王城から連れ出され、枷を外され放置された。見ず知らずの場所だが、わざわざ捨てに来たということは、王城からかなり離れた地点なのだろう。
「や、やっと外に……」
ビシュラは数日振りの自由を確認するように深く呼吸した。
冷気に切りつけられたかのように気管や肺が痛かった。寒さで震えが止まらず歯がガタガタと鳴り、指先がビリビリと痺れる。この肉体は獣人に比べて劣り、過酷な環境には順応できない。自分に許されている時間はそれほど長くはないのかもしれない。これが最初で最後のチャンスかもしれない。
ビシュラは手の平を天に向けて瞼を閉じた。
――広域探査網展開
ビシュラの足元を起点にして網状のものが一瞬チラッと煌めいて全方位に拡がった。発生源であるビシュラ以外の者には見えない網、それは終点を目で追えないほど遠くまで伸びてゆく。
ビュオオオオッ、と強い寒風が全身に吹きつけた。こうして集中しているように見える間も、頬や手など冷たい外気に晒されている部位が切られるように痛い。
沈黙してしばらく、ビシュラはハッと目を開いた。
「ありました。ヴィンテリヒブルク城――……!」
王城の城下町からも遠く離れたこの雪原には、流石に通信を妨害するようなジャミングは存在しなかった。
ビシュラは探査プログラムを収束し、直ぐさまプログラムを切り替えた。
――長距離間信号発信プログラム開始
――法紋展開
脳内だけに響く細く甲高い音。
ビシュラはやるべきことを終えたあと、自分の胸元をぎゅっと握り締めた。
一縷の望みを見つけたはずなのに胸が強く締めつけられる。手放しで信じるには不安が大きすぎる。何かしていないと心細くて泣き出しそうだ。そのような情けない様を、子どものような様を、誰もいないこの場所であっても晒すわけにはいかないと、まだプライドを守る根性は残されていた。現実問題、この情況では何かしていないと死はフィクションではない。
ビシュラはヴィンテリヒブルク城の方角へ向かって足を踏み出した。
(アキラさんひとりフローズヴィトニルソンの王城に残すのは心配ですが、〝四ツ耳〟のわたしが戻っても、きっと王城に入ることは許されません)
ゴォォオオオッ!
しっかりと掴んでいないと外套が吹き飛ばされてしまいそうな強風。ビシュラは真っ直ぐ歩いて行くことすら容易ではなかった。
(マントは渡されましたが、流石にこの寒さは凌ぎきれません。ですが、じっとしていても身体が凍るだけ。歩けなくなるまで歩き続けるしかありませんね。少しでもヴィンテリヒブルク城に近づいたほうが得策です。わたしの足で辿り着けるとは思えな……いや、考えるのはやめます。とにかく動いてないと死んでしまうのは確かなのですから)
どれほどの時間を歩いたのだろう。時計がなく正確な時間は分からず、距離も分からない。ただ確かなことは、一時間前よりも一分前よりも一歩前よりも、目的地に近づいたということ。此処で懸命に努力していることは無駄ではないと自分に言い聞かせ、一歩一歩前に進む。そうしていないと心が折れそうになる、見渡す限り何もない真っ白な世界では。
この国に来て思い知らされた。人を殺めることなどは簡単だ。獣人ならばその爪のたった一掻きで人を殺められる。直接手を下さずとも、この過酷な環境下では置き去りにするだけで、少々目を瞑るだけで、容易に命を奪うことができる。
これまで死について真剣に考える必要などないほど、安寧に生きてこられた。死に直面したときに思い出すのは、あの人の顔。
「……歩兵長……」
それはもう不思議なことではなかった。ビシュラにとってはヴァルトラムは力や強さの象徴。
自分に無いものすべてを持っている、死の危機に瀕した自分が焦がれるものすべてを持っている。盲目的にヴァルトラムを崇敬する者たちも、このような心持ちなのだろうか。常にこのような心持ちであの男の背中を追っているのだろうか。己との差を思い知りながら。
此処から味方が待つ地への距離と、脆弱な自分と強さの象徴であるヴァルトラムとの距離、どちらも変わらぬ遠方に感じられた。
――あの人は、わたしが想うほどには、わたしを思い出してくれてはいないだろうけれど、一歩でもあの人の近くへ行かなければ。
「歩兵、長……」
最早、呼吸をしたときの喉の痛みすら感じなくなった。手足が冷えている感覚もない。体内で熱を生み出すより先に外気に奪われてゆき、熱という熱が吸い取られるように失われてゆく。
ザクッ。――ビシュラは雪の上に両膝をついた。
足から力が抜け、自分の体重を支えきれなかった。咄嗟に両手を出す体力も残っておらず、全身から雪に突っ伏した。
立ち上がって再び歩き出さなければいけないはずなのに、頭では何をすべきか分かっているのに、体を動かせない。
「歩兵長……早く……」
体が重たい。瞼も重たい。何より頭が重たい。もう何も考えられない。吹き荒ぶ風雪のなか、あの人の名前だけを呼んでいた。
「歩兵長……歩兵――……早く……アキラさん、を――……」
0
お気に入りに追加
66
あなたにおすすめの小説

靴を落としたらシンデレラになれるらしい
犬野きらり
恋愛
ノーマン王立学園に通う貴族学生のクリスマスパーティー。
突然異様な雰囲気に包まれて、公開婚約破棄断罪騒動が勃発(男爵令嬢を囲むお約束のイケメンヒーロー)
私(ティアラ)は周りで見ている一般学生ですから関係ありません。しかし…
断罪後、靴擦れをおこして、運悪く履いていたハイヒールがスッポ抜けて、ある一人の頭に衝突して…
関係ないと思っていた高位貴族の婚約破棄騒動は、ティアラにもしっかり影響がありまして!?
「私には関係ありませんから!!!」
「私ではありません」
階段で靴を落とせば別物語が始まっていた。
否定したい侯爵令嬢ティアラと落とされた靴を拾ったことにより、新たな性癖が目覚めてしまった公爵令息…
そしてなんとなく気になる年上警備員…
(注意)視点がコロコロ変わります。時系列も少し戻る時があります。
読みにくいのでご注意下さい。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
隣の家に住むイクメンの正体は龍神様でした~社無しの神とちびっ子神使候補たち
鳴澤うた
キャラ文芸
失恋にストーカー。
心身ともにボロボロになった姉崎菜緒は、とうとう道端で倒れるように寝てしまって……。
悪夢にうなされる菜緒を夢の中で救ってくれたのはなんとお隣のイクメン、藤村辰巳だった。
辰巳と辰巳が世話する子供たちとなんだかんだと交流を深めていくけれど、子供たちはどこか不可思議だ。
それもそのはず、人の姿をとっているけれど辰巳も子供たちも人じゃない。
社を持たない龍神様とこれから神使となるため勉強中の動物たちだったのだ!
食に対し、こだわりの強い辰巳に神使候補の子供たちや見守っている神様たちはご不満で、今の現状を打破しようと菜緒を仲間に入れようと画策していて……
神様と作る二十四節気ごはんを召し上がれ!
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!
異世界は『一妻多夫制』!?溺愛にすら免疫がない私にたくさんの夫は無理です!?
すずなり。
恋愛
ひょんなことから異世界で赤ちゃんに生まれ変わった私。
一人の男の人に拾われて育ててもらうけど・・・成人するくらいから回りがなんだかおかしなことに・・・。
「俺とデートしない?」
「僕と一緒にいようよ。」
「俺だけがお前を守れる。」
(なんでそんなことを私にばっかり言うの!?)
そんなことを思ってる時、父親である『シャガ』が口を開いた。
「何言ってんだ?この世界は男が多くて女が少ない。たくさん子供を産んでもらうために、何人とでも結婚していいんだぞ?」
「・・・・へ!?」
『一妻多夫制』の世界で私はどうなるの!?
※お話は全て想像の世界になります。現実世界とはなんの関係もありません。
※誤字脱字・表現不足は重々承知しております。日々精進いたしますのでご容赦ください。
ただただ暇つぶしに楽しんでいただけると幸いです。すずなり。
帝都の守護鬼は離縁前提の花嫁を求める
緋村燐
キャラ文芸
家の取り決めにより、五つのころから帝都を守護する鬼の花嫁となっていた櫻井琴子。
十六の年、しきたり通り一度も会ったことのない鬼との離縁の儀に臨む。
鬼の妖力を受けた櫻井の娘は強い異能持ちを産むと重宝されていたため、琴子も異能持ちの華族の家に嫁ぐ予定だったのだが……。
「幾星霜の年月……ずっと待っていた」
離縁するために初めて会った鬼・朱縁は琴子を望み、離縁しないと告げた。

【完結】番である私の旦那様
桜もふ
恋愛
異世界であるミーストの世界最強なのが黒竜族!
黒竜族の第一皇子、オパール・ブラック・オニキス(愛称:オール)の番をミースト神が異世界転移させた、それが『私』だ。
バールナ公爵の元へ養女として出向く事になるのだが、1人娘であった義妹が最後まで『自分』が黒竜族の番だと思い込み、魅了の力を使って男性を味方に付け、なにかと嫌味や嫌がらせをして来る。
オールは政務が忙しい身ではあるが、溺愛している私の送り迎えだけは必須事項みたい。
気が抜けるほど甘々なのに、義妹に邪魔されっぱなし。
でも神様からは特別なチートを貰い、世界最強の黒竜族の番に相応しい子になろうと頑張るのだが、なぜかディロ-ルの侯爵子息に学園主催の舞踏会で「お前との婚約を破棄する!」なんて訳の分からない事を言われるし、義妹は最後の最後まで頭お花畑状態で、オールを手に入れようと男の元を転々としながら、絡んで来ます!(鬱陶しいくらい来ます!)
大好きな乙女ゲームや異世界の漫画に出てくる「私がヒロインよ!」な頭の変な……じゃなかった、変わった義妹もいるし、何と言っても、この世界の料理はマズイ、不味すぎるのです!
神様から貰った、特別なスキルを使って異世界の皆と地球へ行き来したり、地球での家族と異世界へ行き来しながら、日本で得た知識や得意な家事(食事)などを、この世界でオールと一緒に自由にのんびりと生きて行こうと思います。
前半は転移する前の私生活から始まります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる