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Kapitel 05

受難 01

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 フローズヴィトニルソン王城。
 城下から帰ったウルリヒは、アキラを担いだまま自室へと入った。
 ソファーの上にアキラを降ろし一度顔色を窺ったあと、抱き締めた。アキラが苦しくないように注意を払いながらも、許される限りの強い力で華奢な体を締めつけた。それから、アキラの首筋やうなじ辺りに鼻先を擦りつけるように埋めた。
 生きているものの匂いや温度を疑いようがないぐらいに確かめた。無意識の行為だったが、本能はそうでもしないと不安が収まらないことを知っていた。

「子どもが好きなのはよいが、あまり無茶をしてくれるな。肝を冷やしたぞ」

「ごめんなさい」

 アキラは謝ったあと、ねえねえ、とウルリヒの身体を叩いた。

「勝手にお城から出ちゃったらあの子、何か罰を受けたりする?」

 アキラは心配そうな面持ちだった。
 アキラを見詰めながらウルリヒの耳がピクピクと動いた。

「お願いだからあの子に何もしないで。わたしが行ってみたいって言った所為だから。あの子は何も悪くないの。ずっとわたしを守ろうとしてくれた、とてもいい子だよ」

「そんなにもあの子どもを案じているのか」

「ウルリヒくん。お願い」

 ウルリヒはフーッと息を吐いた。
 この期に及んで子どもの身の心配か。あの場で最も危険だったのは、このか弱いエンブラの娘だ。自分の到着が少しでも遅れていれば、何処とも知れぬ場所へ連れ去られていたかもしれないというのに。

「アキラがそんなにも乞うのであれば、親にもほかの者たちにも何も言わぬ。但し、今頃ルディからたっぷりと叱られている。灸を据える意味ではそれで充分だろう」

 アキラはウルリヒの毛並みを握り締め、眉尻を下げ不安そうな表情を見せた。

「叩いたりしない?」

「せぬ。アキラが悲しむ」

「約束してくれる?」

 この国では、大人が子どもを折檻することが当たり前なのかもしれない、弱いものが撲たれることは自然の摂理なのかもしれない。しかし、アキラにはそれを看過できない。できることなら苦痛や恐怖から守ってあげたいと思ってしまう。何の責任も持たない通りすがりのような自分でも。
 ウルリヒは「大丈夫だ」とでも言うように、自分の体毛を握り締めるアキラの手にそっと手を添えた。

「だが本来、子どもといえど王城に給仕する者が勝手に城外へ出ることも、抜け道を作ったり通ったりすることも許されておらん。見つけてしまったからには抜け道は塞がざるを得ん。二度同じことがあれば次こそ罰は免れんぞ」

 アキラの正面に片膝を突いていたウルリヒは、アキラの隣に腰かけた。アキラの肩を抱き自分の身体へ凭れかけさせた。
 アキラはウルリヒの胸の上に頭を置く恰好となり、まるで上等な毛布のような感触だった。

「アキラは……我らフローズヴィトニルソンの子でも守るのだな、おそらくはヒトの子と同じように」

 アキラは毛布のような感触にホッと一息つき、自然と瞼を閉じた。

「何の子どもかなんて考えてなかったよ。あの子が危なかったから勝手に体が動いただけで……。ウルリヒくんもそういうかんじ、解るでしょ?」

「解るな」

 ウルリヒからハハッと小さな笑い声が聞こえた。

「だが、目の前でやられると心臓に来る……」

 ウルリヒは、市場で感じた心臓を握り潰されそうな感覚を思い出した。あのような、槍で突き刺されるような鋭い不安は、自身をかけた戦いのなかでは感じたことがない。武人として生きるからには自分の肉体が傷つくことは怖くはない。しかし、大切な者が血を流すことを想像しただけで、言い表せないほどの寒気に襲われる。

「もう二度と危険なことはしないでくれ。王城の外へ出たいなら俺が連れてってやる。アキラが行きたいなら何処でも行かせてやる。侍女も子どもらも伴っていこう」

 心から失いたくないと思った。初めて自分の持ち物以外の何かを。
 自身の手足や爪牙と同じように欠けてはいけないものだから、離れないように繋いでおく。ずっと傍に置いて、いつでもぬくもりを確認する。誰にも渡したくない、奪われたくない。

「だから……もう、勝手に何処にも行かないでくれ」

 ウルリヒはアキラを抱き締めていた両手を自分の頭へと持ってゆき、頭を抱えて懇願した。

「うん。これからは気をつけ――」

 アキラはくらりと眩暈に襲われた。
 とす、とウルリヒの腕に頭を突っこんだ。
 ウルリヒの尻尾は反射的にピーンッと跳ね上がった。

「ア、アキラ……?」

 ウルリヒはアキラへ呼びかけたが、反応はなかった。アキラは瞼を閉じており、ずるりと前傾に倒れかかった。
 ウルリヒは慌ててアキラの身体を抱き留めた。「アキラ! アキラ!」と何度呼びかけてもアキラは目を覚まさなかった。


  § § § § §


 王城内・某一室。

「アキラさまをこちらへお連れください!」

 ウルリヒとルディが、かくれんぼの最中にいなくなったアキラと男の子を城外で見つけて連れ戻し、そのまま自室へアキラを連れ去ってしまったあと、ビシュラは部屋へと戻されていた。足は再び鎖に繋がれて。
 ルディは子どもらを必要充分に叱りつけたあと、ビシュラの許を訪れた。ビシュラはルディに対し、同じことばかりを繰り返していた。

「レディは殿下の部屋だ。何度同じことを言わせる」

「アキラさまはウーティエンゾンさまの婚約者ですよ! の御方以外の男性と部屋でふたりきりなんて許されません! 今すぐこちらへお連れくださいッ」

 このような遣り取りを、先ほどからビシュラとルディとの間で何往復もしている。流石に飽きてきたルディは、やや小首を傾げ溜息を吐いた。

「今となっては婚約者など何の意味もない。レディとお前はこの国から出られはしないのだから」

「いいえ。アキラさまとわたしは必ずイーダフェルトに帰ります」

「如何にして」

「それは……」

「勇敢かつ屈強なフローズヴィトニルソンの兵士に守られた王城から、か弱いヒトが逃げ果せられると、本気で考えているわけではあるまい」

 ビシュラは押し黙った。ルディの主張はまったく以て妥当だ。

「この部屋よりも豪奢な館、美しいドレス、高価な宝石、レディ・アキラが望めば我が君は何でもお与えになるだろう。危害を与えるつもりは毛頭ない。ある程度の自由も許される。レディが殿下の寵愛を受け続ける限り、何不自由なく暮らせるというのに何の不満がある」

 ルディの目が一瞬ギラッと煌めいた。
 ビシュラは怯みそうになったが、拳をキュッと握り締めて視線を返した。

「アキラさまの望みはここにはありません。イーダフェルトに帰ることだけが望みなのですから」

「つれないことだ」とルディはフフッと笑った。

「そう冷たくしないでほしい、ビシュラ。私もお前を気に入っているというのに」

 ルディがズイッと間を詰めてきて、ビシュラは思わず一歩後退った。
 ルディはビシュラの背中に手を回し、後頭部の高い位置でひとつにまとめた長い髪に触れた。指先の長い爪にくるくると髪を巻き弄ぶ。

「その愛らしい姿も、時として反抗的なところも、ただの侍女とは思えんところもな」

「買い被りです。わたしは一介の侍女に過ぎません」

 ルディがフッと笑みを零し、ビシュラは反射的に身を竦めた。被捕食者の勘か、嫌な予感が最高潮に高まる。

「女の秘密は嫌いではない。私のものにすれば、その秘密も暴けるだろう」

 ルディは太い腕をビシュラの細い腰に回したかと思うと、一気に自分のほうへと引き寄せた。ビシュラの顎に手を添え、首を左右に傾げてさまざまな角度からビシュラの顔立ちを観察した。ウルリヒほど顕著ではないが、当然ルディもヒトの造形を人形のように愛らしいと認識している。

「何をッ……!」

「殿下は多少気短な性情ゆえよく勘違いされるが、私などより遙かに紳士的な御方だ。私は自分の欲しいものを力尽くで手に入れることを、悪とは思わない」

 ルディはいきなりビシュラを抱え上げ、キャアッと悲鳴が上がった。軽々とベッドの上に放り投げ、ビシュラに覆い被った。

「このような真似ッ……一国の将軍ともあろう御方が恥ずかしくはないのですかッ」

 ビシュラは手足を激しく動かしルディを退けようとしたが、すぐに両腕を掴まれベッドに押さえつけられた。自分より遙かに大きく重たい身体を撥ね除けることはできなかった。

「強者が欲しいものを力で手に入れることが何かおかしいか? 自然の摂理だ」

「わたしはあなたのものになどなりませんッ」

 ルディの思惑を悟ったビシュラは、身震いがした。
 ルディは、身体を硬直させて青ざめるビシュラを見て、クスクスと笑う。

「成人していると言っていたが、まるで生娘のように初々しい」

(《無間地獄コムエーヴィゲヘレ》を……! しかし、いま使ってしまってはいざというときに発動できないかも……ッ)

 ビシュラにとって《無間地獄》は唯一の切り札、隠し持った最後の懐刀。切り札はその存在すらも知られず最後の最後、究極の局面で切ってこそ最大の効力を発揮する。その逆に、正体を知られてしまえば無力化されることも容易い。

(アキラさんをお助けするためでなければ《無間地獄コムエーヴィゲヘレ》は使えない! 絶対に、アキラさんだけは絶対にお守りしなければ……ッ)

 今までずっと誰かに守られてきた。自分ひとりさえ守る力を持たず、自分より強い人たちばかりに囲まれて。
 自分は弱い存在でも仕方がなかった。環境が、周囲が、己自身がそれを許した。自分の弱さを本気で何とかする必要などなかった。自分が弱い所為で不利益を被るのは自分だけだったから、それでも良かった。
 しかしながら、いま自分が弱い所為で、自分が不甲斐ない所為で、傷つくのは自分だけではない。自分の所為でアキラが傷つくのは嫌だ。自分よりも幼く、何の力も持たないアキラを、守るのは自分だけしかいない。

「そう怯えるな。何も取って食おうというわけではない」

 ビシュラはキュッと強く瞼を閉じた。
 じっとりと覆い被さる重み、自分のものとは異なる温度、オーデコロンに混じる獣の匂い。近すぎる他人の存在感に圧迫されて呼吸がハッハッと短く早くなる。硬くて重たいかたまりに押し潰されてしまいそうだ。
 人のものよりも長い舌がザラザラの感触で首筋を這った。鋭い牙で甘噛みされ、そこから悪寒が全身を走り抜けた。

(イ、イヤ……! こんな人に触られたくないッ……。歩兵長――……!)

 ビシュラは声にならない声で胸の内で叫びを上げた。
 このようなときに脳裏を過ったのはヴァルトラムの顔だった。ビシュラが知るなかで最も暴虐で、最も冷酷で、最も強い男。
 どれほどひどい人だと分かっていても、これほど遠く離れてしまっても、忘れられない。あの人はもう忘れてしまったかもしれないのに。無慙で無力で無様に、強いあの人を呼ぶしか能がない。
 ビシュラが全身にギュウギュウに力を入れ、堅く瞼を閉じたままでいると、突然ルディの手が停止した。土壇場で慈悲でも芽生えたか。そのような生半可な覚悟で行動するような目付きに見えなかったが。

「貴様……! その姿はッ」

 ビシュラはハッとした。
 頭の皮がピンと突っ張るようなこの感覚。何よりも疎ましく、しかし、自分にとって自然のものであるこの感覚。

(興奮して耳がッ……)

「貴様は〝四ツ耳〟だったのか。よくも私を欺いたな」

 ルディは上半身を起こし、ビシュラを俯瞰した。
 鼻に皺を寄せた不愉快そうな表情。眼光に在り在りと隠る侮蔑と不快感。覚えのある拒絶と排斥。ビシュラは〝四ツ耳〟はヒトのみならず獣人からも疎まれると知った。

「〝四ツ耳〟がニーズヘクルメギルへ輿入れする姫の侍女になどなれるはずがない。やはりお前は侍女ではないな。何者だ。なぜレディと共にいる」

「…………」

 無論、ビシュラは答えなかった。ルディにはだけさせられた胸元を両手で押さえ、口を真一文字に閉じた。
 〝プログラムを実行する侍女〟以上に〝高貴な身分に仕える四ツ耳の侍女〟は怪しまれるものだ。しかし、飛竜の大隊の一員などと白状するわけにはいかない。この場を収束させる上手い説明も思いつかず、口を閉ざすしかなかった。

「まあよい」

 ルディが何を考えてそう言ったのか、ビシュラには分からなかった。
 不可解そうに、そして不安そうに眉根を寄せているビシュラに伸びてくるその腕は、鋭く堅い爪を剥き出しにして、まさに獣のそれだ。抵抗すれば引き裂くという意思の表れだとビシュラはすぐに察した。〝四ツ耳〟などその程度の存在だ。少しでも意に沿わなければ傷つけて捨てて、何の良心の呵責もない瑣末な存在だ。

「喋らぬならそれでよい。口があろうとなかろうと〝四ツ耳〟に大差は無い。貴様が此処にいること自体が間違いだ」
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