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Kapitel 02
入隊 02
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大隊長執務室から出た後、ビシュラは騎兵隊長であるトラジロの元を訪れた。歩兵隊よりは少ないが騎兵隊にも隊員たちが詰める部屋がいくつかある。ビシュラが案内されたのは「騎兵隊第一詰所」であった。ビシュラがこれから毎日出勤し従事するのはこの部屋になることだろう。
そこでトラジロにより当面の作業の説明をされ、騎兵隊の隊員たちへ軽く紹介もしてもらった。急に決まった配属なので色々と準備が間に合っていないのは詮無きこと。今日のところはとりあえずは室内にスペースとデスクの確保と備品の配給、必要最低限の説明が済めば御の字だろう。余談だがズィルベルナーが「ビシュラちゃんは俺の隣」と騒いでいたが、トラジロに一蹴されていた。
ビシュラが自分のデスクを整理していると、緋が騎兵隊第一詰所へやって来た。
「ちょっと来てくれ、ビシュラ」
「フェイさん?」
緋は歩兵隊員だが騎兵隊第一詰所へ遠慮無く入ってきた。三本爪飛竜騎兵大隊全体からの人望が厚く、騎兵隊の連中も次々に頭を下げ挨拶を交わした。
緋はビシュラのデスクまで来ると、豊かな胸の下で腕組みをした。みな見ていない振りをしたが、たゆんと揺れる胸が気にならなかったといえば嘘になる。
「歩兵長のゴキゲン取りを頼みたい」
ビシュラは面食らって「えっ?」と返してしまった。
「お前を騎兵隊に取られてからずっと不機嫌だ。トレーニングルームで八つ当たりされてるヤツらがちょっと不憫でな」
先程八つ当たりでナイフを投げ付ける暴虐振りを目にしてしまった以上、無碍には断れない。自分にできることがあれば何でもしようという気にもなる。
「ゴキゲン取りと言われましても何をすれば」
「お前の顔を見せれば少しは機嫌が直るだろ。トレーニングルームに付いてこい」
ビシュラは「はい」と返事をして椅子から立ち上がった。
「そういえば大隊長との話はどうだった?」
「大隊長は、お噂通りの素敵な方だと思います」
天尊に揶揄われたことを思い出すと顔に熱が戻ってくる。仄かに赤くなったビシュラの頬を見て、緋はアハハと笑った。
「なんだ、ビシュラはああいうのが好みか。骨が折れるぞ」
「そっ、そういう意味では……っ」
天尊のあの風貌と飄々とした態度にあっさりと騙される女は今までも少なからずいたし、世間知らずの小娘などコロッと転んでしまってもおかしくはない。かく言うビシュラも体が密着して鼓動が早まったのは事実だ。
「大隊長は観測所でも有名でした。大貴族ニーズヘクルメギルの御令息にして有名な三本爪飛竜騎兵大隊の大隊長でいらっしゃいますから。高貴なお生まれの上に武芸に秀で、逞しい美丈夫で魅力的だと。皆さんそう噂していました」
「女関係の悪い噂は聞かなかったか?」
「それはまあ……少々、いえ、かなり」
緋はアッハハとまた声を上げて笑った。
「噂を聞いてるんなら自分から寄っていくほどバカじゃないだろう」
「わたし如きが大隊長に言い寄るなど恐れ多いことです。ですが、間近で拝見するとやはり……魅力的な男性だとは、思います……」
「まあ、あんな大隊長でも歩兵長よりはマシだがな」
ビシュラが緋の顔を見上げると、緋は肩を竦めて見せた。
「歩兵長に手を貸したのはアタシだが、歩兵長に当たり前の人らしさなんて期待できない。期待なんてしても裏切られてボロボロになるのがオチだ」
緋はビシュラの頭の上に手を置いてポンポンと撫でた。
「なるべくならアタシはお前がそうなるところは見たくない。早いところ自分の気持ちに見切りをつけることだ」
トレーニングルームではそこかしこから男の呻き声が上がっていた。
まるで屍累々。屈強な男たちが床に伏したり座り込んだりして動けなくなっている。ヴァルトラムがトレーニングと称してその場にいた者を手当たり次第に相手をしたからだ。当のヴァルトラムは相も変わらず無表情でトレーニングルームの中央に足っており、息の一つも切らしていないから恐ろしい。
「どいつもこいつも話にならねェなァ」
「実力差は分かってんだから手加減しろよ!」
唯一人元気なズィルベルナーが抗議するが、ヴァルトラムはハッと鼻で笑った。
「あン? オメエは手加減されてぇのか? 甘ちゃんがよォ。じゃあ手ェ抜いてくださいって頭下げて頼んでみろ」
「誰が下げるかバーカバーカ!💢」
ズィルベルナーはまだまだ元気。擦り傷や打撲は負わされているものの自分の足で立っているし大声を張り上げる気力も食ってかかる気概も失っていない。
(ううっ……歩兵長を刺激しないで、二位官!)
反対に傷だらけの他隊員たちは意気消沈しており、ヴァルトラムがこのストレス発散に早く飽きてくれることを祈っている。
「残ってるのはズィルビーだけか」
トレーニングルームに戻ってきて現状を眺めるなり緋は若干ガッカリした様子。いくらヴァルトラムが相手とはいえ流石に本気は出していないのだし、もう少し粘ってくれると期待したのだが。
「緋姐ぇ~~」
ズィルベルナーは緋とビシュラに駆け寄り「歩兵長がひどいんだよ」と泣き付く。男の嘘泣きほど鬱陶しいものはない。緋にシッシッと手を振られ、今度はビシュラの肩に手を置いた。
「慰めて。ビシュラちゃん」
「御怪我は大丈夫ですか? ズィルベルナー二位官」
「そりゃ痛いよ。だからちょっと喰わして」
「え?」
ズィルベルナーはビシュラの唇に自分のそれを重ねた。
「んんー!」
何の脈絡もなかったから抵抗する暇も無かった。抵抗しようと腕に力を入れようとした途端、急激な眩暈に襲われた。口から魂を吸い出されているようなとんでもない脱力感で足下が覚束ない。ビシュラの全身からカクッと力が抜け、ズィルベルナーは唇を離した。
「あれぇ? ビシュラちゃーん」
軽く揺さぶってみてもビシュラの意識は戻らない。ズィルベルナーは「おかしいな」と独り言を零して緋の顔を見る。
「歩兵長の引き抜きっていうからどんなもんかと思ったら、ちょっと喰っただけでこれぇ? カスカスじゃん」
「あーあ、バカ」
緋はズィルベルナーの腕からビシュラを取り上げた。次の瞬間、ズィルベルナーの姿が視界から消えた。
ドッゴォオン!
ヴァルトラムに顔面を殴り付けられたズィルベルナーは吹っ飛んで壁に激突した。
これは緋の予想範囲内。ズィルベルナーが殴り飛ばされることは別段気にするようなことではない。緋にとっては腕のなかでぐったりしているビシュラのほうが気がかり。頬を軽くペチペチと叩いてみたが反応がない。
「ネェベルがエンプティ寸前だな。ズィルビーのヤツ、喰いすぎだ」
ふっと翳ったので顔を上げてみると、ヴァルトラムが立っていた。視線は完全にズィルベルナーのほうに固定されていた。
「殺す」
ヴァルトラムの言葉を聞いて緋は「はーあ」と溜息を吐いた。この男は目先の腹立ちに気を取られて、意識を失っているビシュラが気にはならないのか。
「ズィルビーをぶっ飛ばすのは後でにしてとりあえずビシュラを休ませてやれ。ネェベルほとんど喰われてるんだ、しんどいはずだ」
バキバキッ、とヴァルトラムは指の骨を豪快に鳴らした。
「ビシュラはオメエに任せる。あのガキぶち殺さねェと気が済まねェ」
何という言い草だ。緋はチッと舌打ちした。
「大事にしろっつったろ。ウチに来たからって、いつ愛想尽かしたっておかしくないんだぞ」
「あァ?」
「ビシュラにとってはウチは居辛い職場だしアンタはマトモじゃない。嫌になって辞めるって言い出すのも時間の問題だろーが」
ヴァルトラムは緋は黙り込んで睨み合う。付き合いの長い当人同士にとっては無言の会話だったのかも知れないが、周囲の者には牽制し合っているように見えた。
暫くするとヴァルトラムは緋の前にしゃがみ込んだ。
「貸せ」
「うっ……」
目が覚めた途端に頭が枕に引っ張られているように重たいことに気付いた。これを引き上げて体を起こすのが億劫。枕? 慣れたものより随分硬い感触がする。一体何を枕にしているのだ。
「起きたか」
不意に降ってきた低い声。まさかと思ったが視界がハッキリして其処にあったのはヴァルトラムの姿。何を枕にしているか? 畏れ多くも歩兵隊長の太腿を枕にしていたのだ。
「ほ、歩兵長っ?」
ビシュラは飛び起きてその場に正座した。ソファの肘掛けに頬杖を突いているヴァルトラムと目が合い、どうやら自分はヴァルトラムの腿を枕にソファに横たわっていたらしいことにようやく気付いた。
「気分は」
「気分? いえ、もう何ともないです。お世話をおかけ致しましたっ」
何故質問されたのだろうと考え、トレーニングルームで卒倒したことを思い出す。初登庁の日に気を失って運ばれるなど何たる失態。
そして倒れて運ばれた先、此処は何処だろう。ビシュラは不躾でない程度に部屋を観察した。ビシュラがまだ説明されていない部屋のようだ。間取りはトラジロに紹介された騎兵隊長執務室に似ているがこちらのほうが少々埃っぽい。
ビシュラが黙って部屋を眺めている間に、ヴァルトラムはソファの前のテーブルから何かを手に取った。ヴァルトラムから差し出されたそれを見てビシュラは「あ」と声を漏らした。
「わたしの剣」
「まだ返してなかったな」
馬鹿正直に手から取ろうとするとスッと引かれた。二、三度それを繰り返し、ビシュラは非難がましい視線をヴァルトラムへ向けた。ニヤリと笑われて悔しくなったビシュラは一層腕と体を伸ばして剣を追い掛けた。
攻防戦を何度か繰り返し夢中になりすぎて気付いていなかった。姿勢が大分前のめりになってしまっていることに。背中をトンッと押してやるとビシュラの姿勢は簡単に崩れた。硬い胸板に鼻をぶつけ涙目で怯んでいる隙に腰に腕を回して逃れられないように囲ってしまった。
「歩兵長っ」
「返してやるからそうむくれんな」
ヴァルトラムはビシュラの掌の上に剣を置いてやった。ビシュラを捕まえることさえできれば剣自体には然程興味が無い。ビシュラは初めて見たときそうであったように、剣を腰のベルトに装着した。あるべきものがあるべき場所に戻ってくるとやはりホッとした。
しかしながら剣を取り戻して落ち着いてみるとこの体勢はどうにかならないものであろうか。いつの間にかヴァルトラムの股の間に座らせられ胸板に凭れかかる体勢になってしまっている。腰に両腕を回して囲われているから体勢を立て直すのも容易ではない。
突然耳を抓まれたビシュラは「ひゃっ」と声を上げてしまった。
「オメエ、普段は何で耳出してねェんだ」
捏ねるように触っているのは人の耳だが、脳内で思い描いているのは獣耳のほうだろう。
「嫌いだからです」
「何でだ。可愛いじゃねェか」
「ほ、歩兵長は、いっ、意外とそういうことを仰有る方なのですね」
咄嗟に声が裏返ってしまった。褒め言葉自体が気恥ずかしかったこともあるが、ヴァルトラムはそういうことをいう人格ではないと思っていたので驚いてしまった。
「可愛けりゃ可愛いって言うだろ」
ヴァルトラムは手で触れているのとは反対側の耳に噛み付いた。ビクッと跳ねたビシュラの体を腰に回した手で抱き締める。耳介の部分を歯で甘噛みし、溝に沿って舌を這わせる。
「歩兵、ちょ……っ」
「可愛い声だな、ビシュラ」
クックッと囀るような笑い声が鼓膜を揺らす。あなたに触れられるだけでわたしの鼓動は高鳴って笑顔を作る余裕も無くなるというのに、あなたはとても慣れた風にわたしを弄ぶ。そのような人だろうとは思っていたけれど。
――「歩兵長に当たり前の人らしさなんて期待できない。期待なんてしても裏切られてボロボロになるのがオチだ」
フェイさんは何故あのようなことを仰有ったのだろう。
わたしはこの人に何も期待などしていやしないのに。
緋がでまかせや大げさなことを言っているとは思わない。自分でもこの男は酷い人だと分かっている。そのような人に何を期待できるというのだろう。
わたしはこの人に何も期待していない。わたしはこの人に捕まってしまっただけ。この人から逃れる術も知らないのに。
そこでトラジロにより当面の作業の説明をされ、騎兵隊の隊員たちへ軽く紹介もしてもらった。急に決まった配属なので色々と準備が間に合っていないのは詮無きこと。今日のところはとりあえずは室内にスペースとデスクの確保と備品の配給、必要最低限の説明が済めば御の字だろう。余談だがズィルベルナーが「ビシュラちゃんは俺の隣」と騒いでいたが、トラジロに一蹴されていた。
ビシュラが自分のデスクを整理していると、緋が騎兵隊第一詰所へやって来た。
「ちょっと来てくれ、ビシュラ」
「フェイさん?」
緋は歩兵隊員だが騎兵隊第一詰所へ遠慮無く入ってきた。三本爪飛竜騎兵大隊全体からの人望が厚く、騎兵隊の連中も次々に頭を下げ挨拶を交わした。
緋はビシュラのデスクまで来ると、豊かな胸の下で腕組みをした。みな見ていない振りをしたが、たゆんと揺れる胸が気にならなかったといえば嘘になる。
「歩兵長のゴキゲン取りを頼みたい」
ビシュラは面食らって「えっ?」と返してしまった。
「お前を騎兵隊に取られてからずっと不機嫌だ。トレーニングルームで八つ当たりされてるヤツらがちょっと不憫でな」
先程八つ当たりでナイフを投げ付ける暴虐振りを目にしてしまった以上、無碍には断れない。自分にできることがあれば何でもしようという気にもなる。
「ゴキゲン取りと言われましても何をすれば」
「お前の顔を見せれば少しは機嫌が直るだろ。トレーニングルームに付いてこい」
ビシュラは「はい」と返事をして椅子から立ち上がった。
「そういえば大隊長との話はどうだった?」
「大隊長は、お噂通りの素敵な方だと思います」
天尊に揶揄われたことを思い出すと顔に熱が戻ってくる。仄かに赤くなったビシュラの頬を見て、緋はアハハと笑った。
「なんだ、ビシュラはああいうのが好みか。骨が折れるぞ」
「そっ、そういう意味では……っ」
天尊のあの風貌と飄々とした態度にあっさりと騙される女は今までも少なからずいたし、世間知らずの小娘などコロッと転んでしまってもおかしくはない。かく言うビシュラも体が密着して鼓動が早まったのは事実だ。
「大隊長は観測所でも有名でした。大貴族ニーズヘクルメギルの御令息にして有名な三本爪飛竜騎兵大隊の大隊長でいらっしゃいますから。高貴なお生まれの上に武芸に秀で、逞しい美丈夫で魅力的だと。皆さんそう噂していました」
「女関係の悪い噂は聞かなかったか?」
「それはまあ……少々、いえ、かなり」
緋はアッハハとまた声を上げて笑った。
「噂を聞いてるんなら自分から寄っていくほどバカじゃないだろう」
「わたし如きが大隊長に言い寄るなど恐れ多いことです。ですが、間近で拝見するとやはり……魅力的な男性だとは、思います……」
「まあ、あんな大隊長でも歩兵長よりはマシだがな」
ビシュラが緋の顔を見上げると、緋は肩を竦めて見せた。
「歩兵長に手を貸したのはアタシだが、歩兵長に当たり前の人らしさなんて期待できない。期待なんてしても裏切られてボロボロになるのがオチだ」
緋はビシュラの頭の上に手を置いてポンポンと撫でた。
「なるべくならアタシはお前がそうなるところは見たくない。早いところ自分の気持ちに見切りをつけることだ」
トレーニングルームではそこかしこから男の呻き声が上がっていた。
まるで屍累々。屈強な男たちが床に伏したり座り込んだりして動けなくなっている。ヴァルトラムがトレーニングと称してその場にいた者を手当たり次第に相手をしたからだ。当のヴァルトラムは相も変わらず無表情でトレーニングルームの中央に足っており、息の一つも切らしていないから恐ろしい。
「どいつもこいつも話にならねェなァ」
「実力差は分かってんだから手加減しろよ!」
唯一人元気なズィルベルナーが抗議するが、ヴァルトラムはハッと鼻で笑った。
「あン? オメエは手加減されてぇのか? 甘ちゃんがよォ。じゃあ手ェ抜いてくださいって頭下げて頼んでみろ」
「誰が下げるかバーカバーカ!💢」
ズィルベルナーはまだまだ元気。擦り傷や打撲は負わされているものの自分の足で立っているし大声を張り上げる気力も食ってかかる気概も失っていない。
(ううっ……歩兵長を刺激しないで、二位官!)
反対に傷だらけの他隊員たちは意気消沈しており、ヴァルトラムがこのストレス発散に早く飽きてくれることを祈っている。
「残ってるのはズィルビーだけか」
トレーニングルームに戻ってきて現状を眺めるなり緋は若干ガッカリした様子。いくらヴァルトラムが相手とはいえ流石に本気は出していないのだし、もう少し粘ってくれると期待したのだが。
「緋姐ぇ~~」
ズィルベルナーは緋とビシュラに駆け寄り「歩兵長がひどいんだよ」と泣き付く。男の嘘泣きほど鬱陶しいものはない。緋にシッシッと手を振られ、今度はビシュラの肩に手を置いた。
「慰めて。ビシュラちゃん」
「御怪我は大丈夫ですか? ズィルベルナー二位官」
「そりゃ痛いよ。だからちょっと喰わして」
「え?」
ズィルベルナーはビシュラの唇に自分のそれを重ねた。
「んんー!」
何の脈絡もなかったから抵抗する暇も無かった。抵抗しようと腕に力を入れようとした途端、急激な眩暈に襲われた。口から魂を吸い出されているようなとんでもない脱力感で足下が覚束ない。ビシュラの全身からカクッと力が抜け、ズィルベルナーは唇を離した。
「あれぇ? ビシュラちゃーん」
軽く揺さぶってみてもビシュラの意識は戻らない。ズィルベルナーは「おかしいな」と独り言を零して緋の顔を見る。
「歩兵長の引き抜きっていうからどんなもんかと思ったら、ちょっと喰っただけでこれぇ? カスカスじゃん」
「あーあ、バカ」
緋はズィルベルナーの腕からビシュラを取り上げた。次の瞬間、ズィルベルナーの姿が視界から消えた。
ドッゴォオン!
ヴァルトラムに顔面を殴り付けられたズィルベルナーは吹っ飛んで壁に激突した。
これは緋の予想範囲内。ズィルベルナーが殴り飛ばされることは別段気にするようなことではない。緋にとっては腕のなかでぐったりしているビシュラのほうが気がかり。頬を軽くペチペチと叩いてみたが反応がない。
「ネェベルがエンプティ寸前だな。ズィルビーのヤツ、喰いすぎだ」
ふっと翳ったので顔を上げてみると、ヴァルトラムが立っていた。視線は完全にズィルベルナーのほうに固定されていた。
「殺す」
ヴァルトラムの言葉を聞いて緋は「はーあ」と溜息を吐いた。この男は目先の腹立ちに気を取られて、意識を失っているビシュラが気にはならないのか。
「ズィルビーをぶっ飛ばすのは後でにしてとりあえずビシュラを休ませてやれ。ネェベルほとんど喰われてるんだ、しんどいはずだ」
バキバキッ、とヴァルトラムは指の骨を豪快に鳴らした。
「ビシュラはオメエに任せる。あのガキぶち殺さねェと気が済まねェ」
何という言い草だ。緋はチッと舌打ちした。
「大事にしろっつったろ。ウチに来たからって、いつ愛想尽かしたっておかしくないんだぞ」
「あァ?」
「ビシュラにとってはウチは居辛い職場だしアンタはマトモじゃない。嫌になって辞めるって言い出すのも時間の問題だろーが」
ヴァルトラムは緋は黙り込んで睨み合う。付き合いの長い当人同士にとっては無言の会話だったのかも知れないが、周囲の者には牽制し合っているように見えた。
暫くするとヴァルトラムは緋の前にしゃがみ込んだ。
「貸せ」
「うっ……」
目が覚めた途端に頭が枕に引っ張られているように重たいことに気付いた。これを引き上げて体を起こすのが億劫。枕? 慣れたものより随分硬い感触がする。一体何を枕にしているのだ。
「起きたか」
不意に降ってきた低い声。まさかと思ったが視界がハッキリして其処にあったのはヴァルトラムの姿。何を枕にしているか? 畏れ多くも歩兵隊長の太腿を枕にしていたのだ。
「ほ、歩兵長っ?」
ビシュラは飛び起きてその場に正座した。ソファの肘掛けに頬杖を突いているヴァルトラムと目が合い、どうやら自分はヴァルトラムの腿を枕にソファに横たわっていたらしいことにようやく気付いた。
「気分は」
「気分? いえ、もう何ともないです。お世話をおかけ致しましたっ」
何故質問されたのだろうと考え、トレーニングルームで卒倒したことを思い出す。初登庁の日に気を失って運ばれるなど何たる失態。
そして倒れて運ばれた先、此処は何処だろう。ビシュラは不躾でない程度に部屋を観察した。ビシュラがまだ説明されていない部屋のようだ。間取りはトラジロに紹介された騎兵隊長執務室に似ているがこちらのほうが少々埃っぽい。
ビシュラが黙って部屋を眺めている間に、ヴァルトラムはソファの前のテーブルから何かを手に取った。ヴァルトラムから差し出されたそれを見てビシュラは「あ」と声を漏らした。
「わたしの剣」
「まだ返してなかったな」
馬鹿正直に手から取ろうとするとスッと引かれた。二、三度それを繰り返し、ビシュラは非難がましい視線をヴァルトラムへ向けた。ニヤリと笑われて悔しくなったビシュラは一層腕と体を伸ばして剣を追い掛けた。
攻防戦を何度か繰り返し夢中になりすぎて気付いていなかった。姿勢が大分前のめりになってしまっていることに。背中をトンッと押してやるとビシュラの姿勢は簡単に崩れた。硬い胸板に鼻をぶつけ涙目で怯んでいる隙に腰に腕を回して逃れられないように囲ってしまった。
「歩兵長っ」
「返してやるからそうむくれんな」
ヴァルトラムはビシュラの掌の上に剣を置いてやった。ビシュラを捕まえることさえできれば剣自体には然程興味が無い。ビシュラは初めて見たときそうであったように、剣を腰のベルトに装着した。あるべきものがあるべき場所に戻ってくるとやはりホッとした。
しかしながら剣を取り戻して落ち着いてみるとこの体勢はどうにかならないものであろうか。いつの間にかヴァルトラムの股の間に座らせられ胸板に凭れかかる体勢になってしまっている。腰に両腕を回して囲われているから体勢を立て直すのも容易ではない。
突然耳を抓まれたビシュラは「ひゃっ」と声を上げてしまった。
「オメエ、普段は何で耳出してねェんだ」
捏ねるように触っているのは人の耳だが、脳内で思い描いているのは獣耳のほうだろう。
「嫌いだからです」
「何でだ。可愛いじゃねェか」
「ほ、歩兵長は、いっ、意外とそういうことを仰有る方なのですね」
咄嗟に声が裏返ってしまった。褒め言葉自体が気恥ずかしかったこともあるが、ヴァルトラムはそういうことをいう人格ではないと思っていたので驚いてしまった。
「可愛けりゃ可愛いって言うだろ」
ヴァルトラムは手で触れているのとは反対側の耳に噛み付いた。ビクッと跳ねたビシュラの体を腰に回した手で抱き締める。耳介の部分を歯で甘噛みし、溝に沿って舌を這わせる。
「歩兵、ちょ……っ」
「可愛い声だな、ビシュラ」
クックッと囀るような笑い声が鼓膜を揺らす。あなたに触れられるだけでわたしの鼓動は高鳴って笑顔を作る余裕も無くなるというのに、あなたはとても慣れた風にわたしを弄ぶ。そのような人だろうとは思っていたけれど。
――「歩兵長に当たり前の人らしさなんて期待できない。期待なんてしても裏切られてボロボロになるのがオチだ」
フェイさんは何故あのようなことを仰有ったのだろう。
わたしはこの人に何も期待などしていやしないのに。
緋がでまかせや大げさなことを言っているとは思わない。自分でもこの男は酷い人だと分かっている。そのような人に何を期待できるというのだろう。
わたしはこの人に何も期待していない。わたしはこの人に捕まってしまっただけ。この人から逃れる術も知らないのに。
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