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Kapitel 01

08:暗愚と盲目 01

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 イーダフェルト南エリア・観測所。
 〝観測所〟は異界を常時観測し続けると同時に、アスガルト最高峰の研究機関でもある。施設は天高く聳える三本の塔と地下から成る。地下施設はほとんどが研究のための施設であり、外部の者はおろか、限られた所員しか足を踏み入れることが許されない極秘スペースも存在するという噂だ。そして、地上に突き出す三本の塔のうち最も背が高い中央の塔、その最上部にアスガルトの叡智の長たる所長が座すのである。

 観測所・中央棟所長室。

「失礼いたします!」

 ガーッ、とドアが左右に開いくや否やひとりの所員が飛びこんできた。

「所長ッ、所長!」

「何を慌てている」

 観測所所長イヴァンとデスクを挟んで何やら話をしていた人物――イヴァンの補佐たる人物――副所長は、取り乱した所員を見て少々惘れた。
 所員はイヴァンのデスクにバタバタと足早に近づいた。所長に対する礼節を少なからず失念するほどには慌てふためいており、大きな身振りで話し始める。

「い、今、正面ゲートに三本爪飛竜リントヴルム騎兵大隊リッターの歩兵部隊隊長殿がおいでに! ま、まさか、あのヴァルトラム大尉殿が、と、とうとう直々においでになるとは予想外でございました。い、いささか準備のほどがッ……」

「落ち着きなさい。すでにカメラで把握しています」

 イヴァンに代わって副所長が答えた。
 イヴァンは自分のデスクに目を落とした。デスクの表面からわずかに浮いた平面に疑似ディスプレイが表示されており、そこには褐色肌の巨躯と桃色髪の女性が所内を移動する姿が映し出されている。

三本爪飛竜リントヴルム騎兵大隊リッター歩兵部隊隊長ヴァルトラム大尉殿、同二位官フェイ中尉殿御両名は、所長への直接の謁見を求めておいでです。御両名直々の御訪問となるとお断り申し上げるのは難しくッ……」

 所員の表情は明らかにイヴァンたちに助けを求めていた。彼の飛竜の大隊の相手など普通の所員には当然に手に余る。
 副所長は所員からイヴァンのほうへと目線を移動させた。

「御訪問の目的は言わずと知れていますが、如何なさいますか? 所長」

「〝あのヴァルトラム大尉〟から御丁寧に書状が届くなど槍でも降るのかと思っていたが、ついに業を煮やしたというわけだ」

 所員は天変地異でも起きたかと動転しているのに、イヴァンは随分の暢気に構えていた。否、彼が慌てたり焦ったりする場面など副所長ですら見たことがない。まるですべてのことを識っているかのように、そうなることが分かっていたかのように、冷静に受け流してしまう。

「追い返すわけにもいくまい。所員に相手をさせたのでは怪我人では済まないだろうからな」

「警備兵を呼びますか」

「いやいや。折角の御足労だ。こちらも労に応えようではないか」


 黒の装束に瑠璃色のマントを垂らした三本爪飛竜騎兵大隊の正装。実戦部隊である彼の飛竜の大隊が式典以外で正装を纏うことは珍しい。それに身を包んで帯刀し凛と立つヴァルトラムとフェイは、並の所員では近づきがたい威容を誇った。
 ガッ、ガッ、ガッ、ガッ。
 ヴァルトラムは重たい軍靴を鳴らし、マントをたなびかせ、所内の廊下を我が物顔で進んでゆく。緋もそれに続いた。
 研究者・科学者が詰める観測所において、軍服を羽織ったヴァルトラムと緋は異質な存在。誰もがふたりを注視するが近づこうとはしなかった。
 ふたりが訪問したときに運悪く一番初めに応対してしまった所員だけが、もう泣き出しそうな顔で後を追いかける。ここは研究者の聖域。分野違いの乱暴者に勝手をしてもらっては困るのだ。

「お、お待ちください、ヴァルトラム大尉殿。ここは研究施設であり、デリケートな機材や生物を数多く扱っております。関係者以外の出入りを禁じているエリアも多くございます。そ、そのように御自由に出歩かれては困りますッ」

 緋はカッと踵を鳴らして足を止め、所員のほうを振り返った。

「いつまでお待たせするつもりか、無礼者。こちらはエインヘリヤル三本爪飛竜リントヴルム騎兵大隊リッター歩兵部隊隊長ヴァルトラム大尉で在られるぞ。早々にイヴァン所長へお取り次ぎ願おう」

 いつもよりも意識して厳しい口調で言い放ち、所員へと睨みを利かせた。
 圧倒された所員はハハーッと頭を垂れた。

「し、しかし所長は多忙を極めております。突然の御訪問ではお取り次ぎ難しく……」

「所長殿がお忙しい身で在られることは承知している。おいで叶わぬならばこちらから参るまで」

 緋は所員からフイッと顔を逸らして歩き出した。先行していたヴァルトラムに早歩きで追いついた。

「オメエはこういうときに様になる」

「あー、うるさいうるさい。殴りたくなるから黙っていろ」

 緋は、後方でパタパタと足音を立てている所員には聞こえないくらいの小声で言い返した。
 ヴァルトラムは軍服の詰め襟の隙間に指を突っこんだ。グイッと引っ張って詰め襟と首との間に空間を作った。

「しかし、何で〝観測所〟に来るだけでこんな堅苦しいカッコしなくちゃなんねェんだ」

「そう言うな。こういう連中には軍服や階級を見せびらかしたほうが潰しが利く」

「よく分かんねェが、オメエがそう言うならそうなんだろ」

 緋は、ヴァルトラムが観測所の内部を闇雲に進んでいるのかと思っていたが、どうやら違うらしいということに気づいた。一定の間隔で足を止めてはその場に数秒間留まり、フラッと周囲を見回してまた歩き出す。これを何度も繰り返している。
 その行動を妙に思った緋は、二、三歩の間を素早く詰めてヴァルトラムの隣に立った。

「歩兵長。さっきからデタラメに歩き回ってると思ってたが、アンタもしかして」

「まあ待て。初めての場所は俺も時間がかかる」

 緋の勘は当たった。ヴァルトラムは持ち前の尋常ならざる嗅覚や聴覚を駆使し、この広い建造物の内部からビシュラを探し当てようとしている。そのようなことが本当に可能であるか分からないが、ヴァルトラムに問題を起こされては困る。権威を笠に着て無理を通そうという、緋がせっかく仕立てた、被害を最小限に抑える計画が水泡に帰す。

「オイ、アタシたちは強盗や人攫いに来たんじゃない。正攻法じゃないと意味が無いんだぞ。分かってるのか」

 ヴァルトラムから返答は無かった。緋はチッと舌打ち。
 パタパタパタと先ほどよりも急いだ小走りの足音。ずっとあとを付いてきていた所員とは別の者が駆け寄ってきた。

「所長がお会いになるとのことです。ヴァルトラム大尉殿、フェイ中尉殿、御両名ともどうぞこちらへ」

「俺ァこっちに用がある。所長って野郎の相手は任せた」

 緋が「オイッ」と背中に声をかけたが、ヴァルトラムはまるで聞こえていないかのように無視。人一倍耳はいいくせに巫山戯ている。折角〝観測所〟の長でありビシュラと浅からぬつながりを持つであろうイヴァンまで辿り着けるというのに、当のヴァルトラムはそちらへの関心を無くしてしまった。
 大物を引っ張り出してしまったからには無視をするわけにもいかない。緋はこの際、ヴァルトラムを放っておくことにした。
 緋の目的は正攻法に則ってビシュラを手に入れること。つまりは、ビシュラの上長たるイヴァンへの直談判だ。三本爪飛竜リントヴルム騎兵大隊リッター歩兵部隊隊長という大仰な名で正式な書状は何通も送付した。自分は名実共に歩兵隊の二位官であり歩兵隊長の名代として不足無い。あとは書状通りの要求を所長に直接突きつけ「是」と言わせるだけでよいのだから、考えてみればヴァルトラムのような粗野な男は交渉事には同席しないほうが都合がよいかもしれない。

「あの、大尉殿は……?」

「歩兵隊長殿はこちらの施設の素晴らしさにいたく御興味を持たれている。しばし御見学なさりたいそうだ。イヴァン所長へは私が御挨拶へ参る。案内を頼む」


  § § § § §


 ヴァルトラムは緋と分かれたあと、好き勝手に所内を徘徊した。地位は高いがそれ以上に悪名も轟かせている要注意人物から目を離すわけにもいかず、数人の所員が一定の距離を取って後方からついてゆく。
 ヴァルトラムは廊下の中央で足を停めて鼻をスンスンと動かした。

(だいぶ近づいちゃいるはずだが、この建物ン中ァどこもかしこも薬品臭くてイマイチ鼻が効かねェ)

 内部の構造も分からない初めての場所で、近くなっていると自信が持てるだけ、充分に常軌を逸した感覚の持ち主だ。付け加え、ヴァルトラムは勘や運もよいほうだ。このような乱暴者で粗忽な男に、何故か天命は味方することが多い。巨大すぎる力を持つ者は、支配する側だと約された者は、望むもの欲しいものを引き寄せてしまうのかもしれない。

「それでは失礼いたします」

 流石のヴァルトラムも、不意に近くのドアが開いてビシュラが姿を現したときには、よくできた冗談だと笑いたくなった。
 宏大な荒野において腹を空かせた獣の前にウサギのほうから飛びこんで来るなど、このような幸運がそうそうあるか。しかしそれは、ウサギにとってはとんでもない不運に違いない。

「やっと見つけたぜ、ビシュラ」

 その声を耳にした瞬間、ビシュラは電撃に打たれた。
 そんなことは有り得ないと思いつつ振り向き、その姿を、その存在を、その脅威を、目にしてその場に縫い止められた。
 まさか此処にいるはずが無い。此処はビシュラの世界。ビシュラが還りたがった元いた世界。閉ざされて緩やかに穏やかな時間が支配するはずの世界。此処には魔物など存在しないはずなのに。

「あ……あ……ヴァルトラム、歩兵隊長、さま……」

 ビシュラは手に持っていたファイルを取り落とした。本能的に壁際へ逃げた。背中がぶつかってすぐに行き場を無くした。
 ヴァルトラムはビシュラとの距離を詰めた。ビシュラを両手の間隔に挟んで壁に手を突き、追い詰めた。
 彼女の世界は一気に狭くなった。眼前の巨躯に阻まれて視界が翳る。身動きが取れないほどに、息苦しいほどに、一切の自由が許されないほどに、此処は狭い。此処には何も無い。何を持つことも許されない。わたしさえわたしのものではない。ヴァルトラムによって閉じられた狭い狭い世界だ。
 ビシュラを両腕の間に捕らえてそれきり、ヴァルトラムは沈黙した。ビシュラのほうからは声を発するはずがなかった。ヴァルトラム自身も、ヴァルトラムに捕まえられているこの情況も、彼女には恐ろしくて堪らないのだから。
 恐れ戦いたビシュラがただただ凝視していると、ややあってヴァルトラムの唇がゆっくりと動いた。

「フェイは正攻法だ正規の手順だとウルセエが、オメエを目の前にするとどうでもよくなるな。このまま攫っちまうか――……」

 ビシュラは夢でも見ているのかと思った。何度も聞いた低い声なのに、知っているものよりもずっとずっと穏やかに聞こえた。
 嗚呼、なんとも愚かしい。あんなにも恐ろしい目に遭ったのに、あんなにも痛くて苦しい思いに泣いたのに、間近で見るスマラークトの眸は美しい。

「ヴァルトラム歩兵隊長さま……?」

「オメエのために迎えに来てやった。俺のモンになれ」

「どうしてそのようなことを仰有るのですか。あなたはもう自由の身。どこへでも行って、お好きなことがおできになるのに」

「ああ。だからオメエのところに来た」

 何故わたしなのか――――その答えをビシュラはすでに弾き出していた。
 獲物に逃げられたのが口惜しかったから。一度は手に入れたのに取り逃がしたのが気に食わなかったから。逃げた獲物を追うのは獣の本能。獣の考えなどそのようなものだ。本能の儘に行動しているだけだ。

「もう、わたしに構わないでください」

 スマラークトの魔術に惑わされてしまわないように、ビシュラはヴァルトラムから顔を背けた。

「今のあなたでしたら、わたしでなくともお相手はいくらでもいらっしゃるはず。いいえ、わたしなどよりももっとよいお相手が……」

「俺ァオメエがいい。だから迎えに来てやった。ここまでしてやってんだ、これ以上手間ァ取らせんな」

「わたしは嫌です」

「そんなに俺が嫌いかオメエ」

 ヴァルトラムはチッと盛大な舌打ちをした。
 ヴァルトラムが気に留めないそのような些細な仕草のひとつひとつが、ビシュラには恐ろしい。本当に機嫌を損ねてしまったら、逆鱗に触れてしまったら、喉を掻き切られることを容易に想像できる。此処が何処であれビシュラが何者であれ、きっと気にするような男ではない。

 自分を嫌いかなど、今さらそのようなことを訊くなんてどうかしている。あれほどまでに決定的に、徹底的に、絶対的に、酷い仕打ちをしておきながら、身に覚えがないかのように振る舞う。あれほどまでに泣かせて悲しませて傷つけておいて、憎まれていないなどと、手に入れられるなどと、どうして考えられるのか。お前がいいなんて、信じられない。

「あなたは……恐い――……」

 ビシュラの震える声が、ポツリと床に落ちた。

「わたしを壊してしまうことなどあなたには簡単なことです。あなたにはもう充分に傷つけられました。わたしが浅はかだったから……。もう許してください……。これ以上あなたにメチャクチャにされるのは嫌です……ッ」

 後悔や自責の念はある。しかし、ヴァルトラムを責める気持ちは無い。世の中のことも男という生き物も、何も知らない自分が幼かったのだ。このような男に惹かれた自分が愚かだったのだ。
 ――運命や神を呪ったりしません。自分の暗愚を一生呪い続けます。だからもう許してください。だからだから、わたしを自由にしてください。

 ヴァルトラムはすでにビシュラを壁際に追い詰めているのに、さらに躙り寄った。額がゴツ、と壁にぶつかった。そのようなことは気にも留めず、眼下の震える娘に視線を注ぎ続けた。

「オメエを壊したりしねェ」

 この生き物は自分とは大いに異なる。優しく儚くか細く脆い存在。ほんの少し加減を間違えただけでだけで、きっと簡単に壊れてしまう。
 目の前にいる自分が心底恐ろしいだろうに、抵抗という抵抗もできず逃げることも叶わず、ただ震えている娘を見ていると、そう思わされた。

「ビシュラ。精々大事だいじにしてやる。だから俺のモンになれ」

 吐息が吹きかかるほど接近しながらも触れなかったのは、野獣のような男が絞り出したせめてもの優しさだった。
 優しさの意味、大事にするとはどういうことか、よく分かっていないくせに約した。そのようなことは今まで生きてきて考えたこともない。一日でも長く生き残られればラッキー、ただ自身の欲に忠実に生きてきた。
 しかしながら、この娘はそうしなければ壊れてしまう。本気の力で抱いただけで脆くも息絶えてしまう。この娘には、ヴァルトラムにそうさせる魔法の力がある。それはきっと、ヴァルトラムが「妙な力」と称したあらゆるものを行動停止にしてしまうプログラムともまったく関係のない特別性。

 ヴァルトラムはビシュラの前髪をそっと掻き分けた。ビシュラが手を避けたり払い除けたりしなかったから、手前勝手に都合良くも、自分は受け入れられたと解釈した。髪の毛を退けて露わになった狭い額にじっくりと口付けを落とした。

「ビシュラ。嫌だっつっても攫って行く。オメエが俺を嫌ってようが構いやしねェ。俺が俺のモンだと決めたからにはオメエは俺のモンだ」

 名前を呼ばれる度にトクトクと心臓が息を吹き返した。唇が触れた額が熱い。握り潰されそうなほど胸が痛い。求められたら胸が締めつけられる。ちっとも甘美などではない、或る種の責め苦だ。

 ――やはりわたしは愚かだ。救いようがなく愚かだ。このようなことを続けていたら、いつか心も体もバラバラになってしまうのに。
 わたしの愚かさの前にはあなたの独善はあまりにも潔い。まるであなたのほうが正しいように錯覚してしまう。
 いいえ、本当にあなたのほうが正しいのかもしれない。自分の気持ちに蓋をしたわたしより、自分の欲にただひたすらに盲目であるあなたのほうが。
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