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Kapitel 01
05:善良と魔物 03
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翌朝。
背中に人の体温を感じてゾクリとした。覚醒するとほぼ同時にそこから飛び出そうとしたが、腕を捕まえられ引き戻された。ヴァルトラムはビシュラの腰と胸部に腕を巻き付け自分の下へ引き込もうとする。ビシュラは必死に藻掻くが抵抗も空しくヴァルトラムの腕の中に囲まれてしまった。
ヴァルトラムの胸板と自身の背中が密着した瞬間、全身を鳥肌が襲った。
「離して! 離してくださいっ」
嫌だ。恐い。痛い。この男の近くにはいたくない。穢される。貶められる。壊される。自分でいられなくなる。そのような拒絶の感情のみが止め処なく湧き出てきて己の内で渦巻く。
「どこに行く気だ。俺のモンになったからには勝手にどこにも行かせねェ」
「なんっ……⁉」
「オメエは俺の女だ、ビシュラ」
ビシュラは驚いて顔色を変えた。ヴァルトラムはビシュラの左右に手を突き、上半身を起こした。そして小刻みに震えるビシュラを見下ろす。
「気に入ったから俺の女にしてやるっつってんだ。俺が決めた。オメエに拒否する権利はねェ」
これは死の宣告か? 悪魔に烙印を押された気分だ。純潔を踏み躙り一夜己が儘にしただけでは飽き足らずまだ尚繋ぎ止めようというのか。ビシュラには悪魔と契約した覚えなど無いというのに。これではあまりにも不条理すぎる。
バキィッ!
頭に血が上ったビシュラはヴァルトラムの顔面を殴った。と言ってもビシュラの拳ではヴァルトラムに効くわけがなく、殴った拳のほうが痛いだろうけれど。
「嫌です! 絶対に嫌です!」
「テメエー……」
ヴァルトラムは自分を殴ったビシュラの手首を掴まえた。
「いやぁぁああああああっ!」
バタァンッ!
ビシュラが悲鳴を上げた瞬間、部屋の扉が勢いよく開け放たれた。
「――――……」
其処に立っていたのは、タイミング良く面会に訪れた緋。扉を開けようとしたところビシュラの悲鳴が聞こえ、何事かと豪快に扉を開け放ったのだ。
ベッドの上でヴァルトラムに組み敷かれている裸のビシュラ。何があったか瞬時に察した緋はギリッと奥歯を噛んでヴァルトラムを睨み付ける。
「今のアタシには大隊長により権限が与えられている」
険しい表情をしてツカツカツカと早足でベッドに近付いてくる。その間にプログラムを発動させ、メタルのメリケンサックを構築して拳全体を覆った。
「あァ? 権限だァ? 二位官のオメエに何の権限がある」
緋はメタルで覆われた拳を振りかぶった。
「バカやらかした上官を力一杯ぶん殴っていい権限だよッ!」
バッゴォオッ!
緋はヴァルトラムの顔面に思いっきり拳を叩き付けた。ビシュラのパンチとは異なり流石にこれは持ち堪えられなかったようで、ヴァルトラムの体がベッドから吹き飛んだ。
緋は羽織っていたロングコートを脱ぎ、ばさっとビシュラに被せてやった。そしてビシュラをベッドから引き上げ、手を引いて足早に部屋から出て行く。
「死んどけ腐れ野郎‼」
緋はそう吐き捨てて扉を開けたときよりも力強く閉めた。
緋はビシュラの腕を引き早足で歩かせ、自室へと連れてきた。半ば無理矢理だったが、裸体にコートを一枚かけただけの姿を人目に晒すのはあまりにも不憫に思ったのだ。
緋とビシュラはリビングのソファに並んで座っていた。緋が出してくれたマグカップには温かいティーが入っており、カップを両手で包んでいるだけでも徐々にビシュラの気は静まってきた。憤怒という感情は炎のように熱いものなのだろうと思っていたが、今朝ビシュラの全身を襲ったのは氷のような冷たさだった。その冷たさがマグカップの温度によって緩やかに溶かされていく。
ビシュラの様子を察してか、緋がゆっくりと口を開いた。
「少し落ち着いたか? 大したものを出してやれなくてすまないな」
ビシュラはふるふると首を左右に振った。如何ともしがたい制圧から救出してくれた腕力と、新雪に触れるように言葉を選んでくれる優しさと、マグカップの温かさ、ビシュラを励ましたものは確かにそのようなものだ。
コートの下は一枚残らず剥ぎ取られ、袖口からは覗く細い手首には強く押さえ付けられていたに違いない指の跡、冷たい床に裸足の爪先、改めてビシュラの姿を見て緋はチッと舌打ちした。
「悪いなビシュラ。お前の代わりにあのクソヤローを殴り殺してやりたいがアタシじゃ力不足だ」
ビシュラはやや俯き、笑顔を零した。目を落とした拍子に視界に入った手首の跡を、コートの袖で隠す。緋が自分よりも大きな人でよかった。
「……フェイさんは、お優しいですね……」
笑顔を作るビシュラを見て緋は信じられないという顔をする。
「何言ってんだ」
「いつもわたしを気遣ってくださいますし、いっぱい助言もしてくださいました……」
「オイ、何笑ってんだ。無理して笑うことないだろ」
「無理は、しておりませんよ。よくよく御助言いただいておりましたのに理解しておりませんでした。此度のことはわたしの不注意です」
「お前まさか歩兵長を許すつもりじゃないだろうな」
否定的に追求されるとビシュラは少し困ったように、また笑った。
「わたし如きが許すなど……。何があったとしてもわたしはたかが初等所員、三本爪飛竜騎兵大隊の歩兵隊長さまとでは問題にもなりません。わたしの過失です」
「違うだろ。あのクソヤローが――」
「悪いのはわたしです。だから……だから……」
緋は吸い寄せられるようにビシュラの目を見る。泣いてはいないのだな。痛かったろうに、辛かったろうに、否、今もまだ昨夜の感触が居残っているだろうに、何でもない振りをするのだな。
「もう、忘れさせてください……」
緋の言葉を遮ってビシュラはポツリと、だがハッキリと言葉にした。
緋はそれ以上ビシュラを焚き付けることなどできなかった。生来の心根の優しさ、平和を尊重する心、何よりも平穏と安寧を望む弱き者。ヴァルトラムどころかトラジロや緋とさえも異なる。この娘は、ヴァルトラムを糾弾するより何よりも「無かったこと」にしてしまいたいのだ。昨夜のことは悪夢であったと思い込みたいのだ。自分が純潔を失い穢れたなどこれ以上思い知らされたくはないのだ。
真にビシュラを破壊するのは奪われた純潔などではない。心穏やかに過ごす平生の日常が瓦解すること。たった一つの真実に囚われて壊れてしまうくらいなら、跡も痛みも悲しみも忘れてすべてを無かったことにしてしまいましょう。
そして少女は、己を引き裂いた嵐の夜の記憶を封印した。
§ § § § §
「あのオッサンを殺せ!」
大隊長執務室のドアを乱暴に開け、緋は怒声を張り上げた。
室内にいた天尊とトラジロは呆気に取られ、やりかけの動作を停止して緋を注視する。
「…………。突然入ってきて何を言い出すのですか緋姐。オッサンとはヴァルトラムのことでしょうけれど。その発言には大いに賛成しますが、最近は謹んで処分を受け入れているようですし、歩兵隊長という地位にいる以上はそれなりの――」
「御託はいいからアイツを殺せ! 大隊長ッ」
緋はトラジロを遮って語気を荒げた。
「今更ヴァルトラムのことでお前がそんなに興奮するとは珍しいな。何があった」
緋は歩兵隊二位官として長らくヴァルトラムの補佐を務め行動を共にする時間が長い故に、その性質をよく理解しまた諦めている。だからヴァルトラムの行いを愚かで浅はかだと呆れはしても、こうまで怒り心頭になることは久し振りのことだ。
「レイプされた」
トラジロは飲み物をブッと吹き出した。
「緋姐がですか⁉」
「ビシュラだよ!」
トラジロは険しい表情をして天尊に視線を送る。〝観測所〟所員という身分かつ所長自ら人選されたビシュラを、冷遇すること、ぞんざいに扱うこと、ましてや傷付けることは〝観測所〟との関係を悪化させることに繋がると、トラジロはよく理解している。ビシュラの身分は本人が自覚しているほどに軽いものではない。
「お前が現場を押さえたのか、緋」
「アタシが見付けたのはヤられた後だった。オッサンを思いっ切りぶん殴ってビシュラを部屋まで連れてったよ」
緋の言葉を聞いてトラジロは顔色を変えた。
「思いっ切りって、どのくらいの力でですか」
「だから思いっ切りだ。全力でぶん殴った」
「緋姐の全力……はあ、また施設の修繕費が」
「そんなモンはどうでもいいッ」
トラジロにとってはビシュラが傷付けられたことも今期の出費が嵩むことも同じ程度の問題だとでもいうのか。馬鹿にするな。緋の怒りはそのようなものではない。
「あの娘、泣きもしないんだ。あんなに弱っちいクセして」
宙の一点を睨んで今にも叫び出して怒鳴り散らしそうな衝動を抑え込む。本当に泣き叫ぶべきなのは怒り狂うべきなのは、ビシュラだ。なのにあの娘はそうしない。
「ビシュラはあの最低の人でなしにも情けをかける。自分を襲った相手を身分が違うからって、御大層な〝歩兵隊長さま〟だからって許すつもりなんだ。あんなに優しい娘が、あのクソヤローの為に割を食うなんて間違ってるだろ」
緋は視線を動かしてギロッと天尊を睨む。
「だがアタシには歩兵長を殺せない。その力が無い。だから大隊長が殺せッ」
天尊は椅子の背もたれに沈み込み、肘置きに肘をついて体の前で指を組み合わせた。
「ビシュラは何と言っている?」
冷静な声だ。緋のように語気を荒げるではなく、トラジロのように内心で算段をするではなく、この部屋で一番落ち着き払っている。
「……忘れたいと」
「つまり、無かったことにしたいということだな」
それを聞いた瞬間、緋の目にカッと火が点った。早足で天尊の前まで歩いて行き、握った拳をデスクに叩き付けた。
「お咎めナシか、ふざけんな!」
「懲罰には理由が必要だ。ヴァルトラムに懲罰を与えたいのならビシュラのことを、ビシュラがされたことを、ビシュラがそうなった経緯を、表沙汰にせざるを得ない。あの清純そうな娘は実はケダモノみたいな男に喰われたキズ物だってそこら中に知らしめるのか?」
「!」
「お前だってヴァルトラムがビシュラを傷付けたことに腹を立てているんだろう。これ以上ビシュラを傷付けるようなことになるのが望みか。ヴァルトラムを罰してお前の気は晴れるかも知れんが〝観測所〟に戻ったビシュラはどうなる。陰口を叩かれ後ろ指を指されるのか」
天尊に正論をぶつけられても緋の瞳に宿った怒りの火は消えない。緋は口惜しそうな表情でフイッと顔を逸らした。
「ビシュラを守るには、ビシュラが言うように忘れてしまって無かったことにするのが一番いいのかもな」
歩兵隊第一詰所。
歩兵隊員たちが詰める部屋にヴァルトラムが姿を現すと、彼等は俄に沸き立った。圧倒的な戦力を誇るヴァルトラムは羨望と憧憬の的であり、謹慎処分が明けるのを首を長くして待っていたのだ。
「全快誠におめでとうございます歩兵長殿!」
「歩兵長、おはようございます!」
「お体は大丈夫ですか!」
次々にかけられる声にぞんざいな受け答えをしたりしなかったり、ヴァルトラムは室内を進んでいく。三本爪飛竜騎兵大隊の八割以上を占める歩兵隊は大所帯であり、部屋を分けても一室ごとの広さは大きい。部屋の端から端まではかなり大きな声を出せなければ届かない。
ヴァルトラムはある隊員に目をとめた。ビシュラを捜索に出掛けたときに緋と共に伴っていた男性隊員だ。彼の名は「マクシミリアン」。歩兵隊所属三位官である。
「マックス。俺のブーツは」
「メンテ中です」
「まだ終わってねェのか」
「今回は大分長いこと使いっぱなしでしたからね。部品交換やら磨きやらで時間かかるっつってましたよ」
途端にヴァルトラムがぶすーとやや不機嫌になったことが分かったが、彼にはもっと懸念せねばならないことがあった。マクシミリアンは自分の後方を親指で差した。その延長線を目で辿ると緋に辿り着いた。
「歩兵長、フェイをどうにかしてくれませんか。ムチャクチャ機嫌悪くてどーにもこーにも」
緋は自分のデスクに座っていたが、眉間に皺を刻んで表情は険しい。上官であるヴァルトラムが近付いてきて視界に入っても無視。他の隊員たちのように挨拶もしなければ目さえ合わせない。
「俺のツラァ全力でぶん殴ったのにまだ足んねェのか」
「うるせえ、死ね」
そのやりとりを聞いていたマクシミリアンは心の中で「ひいい」と絶叫。三位官とはいえ、二位官の緋がヴァルトラムに対して好き勝手には振る舞っていると青ざめてしまう。
ヴァルトラムにしても緋の御機嫌取りなどする気は毛頭ない。こちらを振り向きもしない緋の後ろを通過して部屋の中央最奥へ向かった。
一応、応接スペースとされている其処にはローテーブルとソファがある。ヴァルトラムは上等な革張りのソファにどすんと沈み込み、ローテーブルの上に両足を放り出した。それから何処からともなく二本の剣を取り出した。それは全く同じ意匠の、対を成す短剣――ビシュラのものだ。
ヴァルトラムは刀剣の類いなど扱い慣れているくせに、彼女の短剣をクルクルと回したり角度を変えて見たりして随分熱心に観察している。まるで物珍しい玩具を手に入れたかのようだ。
「ビシュラの剣を渡せ。アタシから返す」
スッと視界に掌が差し込まれた。ヴァルトラムは目だけを動かしてチラリとその手を見たが、すぐに刀身へと目を戻した。
「何でオメエに渡さなきゃなんねェ。こりゃあ俺のだ」
「あァ? ビシュラのだろうが」
「アイツは俺のモンだ。アイツのモンも俺のモンだ」
(くああ~~、殺してぇ💢)
ドォンッ!
緋はヴァルトラムが足を乗せているローテーブルを蹴り飛ばした。
隊員たちはざわっと動揺したが、無論ヴァルトラムは微塵も揺らぎはしなかった。剣を握ったまま微動だにせず、緋を直視する視線も固定したままだ。
「どのツラ下げてそんな厚かましいこと言えるんだ。その短剣もあの娘も、アンタにとっちゃ物珍しいオモチャみたいなものなんだろ。その程度であんな優しい娘を泣かせやがって、この人でなしが。自分のものだって言うなら少しは人らしく大事にしてみせろ」
「大事に、なァ」
ヴァルトラムは他人事のように反復した。緋だってこの男から謝罪の言葉が聞けるなど最初から期待していやしない。もしかしたら緋の言う通り「人でなし」だから、本当に意味が分かっていないのかも知れない。
「オメエは随分ビシュラを気に入っているみてぇだな」
「ビシュラは、いい娘だ」
緋はしっかりと言葉にした。剣の刀身に落ちていたヴァルトラムの目が緋に向く。
「戦い方も身に付けてない、戦場も知らない、人を傷付けたこともない。何も知らない善良な娘だ。ああいう娘はあのままでいい。キレイなものや優しいものに囲まれて平和に過ごしたほうがいいんだ。アンタやアタシみたいなヤツが、あの娘の邪魔しちゃいけないんだよ」
ビシュラを観察して、よく笑うし話すし動き回る女だと思った。ヴァルトラムの為に何かしようとまでする女だった。平生周りにいる隊員たちだって勿論笑うし喋る。仕事中は忙しく動きもする。戦場ではそれこそ死に物狂いで生き残ろうとする。そのような彼等ともビシュラは異なる。あの本質的に善良な娘は、他の存在とは異なる。ビシュラの何かがそう思わせる。他の連中とは異なる何かを隠し持っているのかも知れないと思わせる。手を伸ばせば容易く手折られる、あれほどまでに小さく弱い存在が。
ヴァルトラムはビシュラの剣を持ったまま椅子から立ち上がった。
緋はヴァルトラムをギロッと睨み上げた。
「話の途中だぞ。どこに行くつもりだ」
「オメエの言う通り〝大事に〟してやってくらァ」
「は? 何を言っているんだ」
ヴァルトラムは、眉を顰める緋の横をすり抜けて先程入ってきた扉のほうへ向かった。
「オイ、オッサン!」
まだ文句が言い足りない緋はヴァルトラムの後ろを追い掛けていった。
背中に人の体温を感じてゾクリとした。覚醒するとほぼ同時にそこから飛び出そうとしたが、腕を捕まえられ引き戻された。ヴァルトラムはビシュラの腰と胸部に腕を巻き付け自分の下へ引き込もうとする。ビシュラは必死に藻掻くが抵抗も空しくヴァルトラムの腕の中に囲まれてしまった。
ヴァルトラムの胸板と自身の背中が密着した瞬間、全身を鳥肌が襲った。
「離して! 離してくださいっ」
嫌だ。恐い。痛い。この男の近くにはいたくない。穢される。貶められる。壊される。自分でいられなくなる。そのような拒絶の感情のみが止め処なく湧き出てきて己の内で渦巻く。
「どこに行く気だ。俺のモンになったからには勝手にどこにも行かせねェ」
「なんっ……⁉」
「オメエは俺の女だ、ビシュラ」
ビシュラは驚いて顔色を変えた。ヴァルトラムはビシュラの左右に手を突き、上半身を起こした。そして小刻みに震えるビシュラを見下ろす。
「気に入ったから俺の女にしてやるっつってんだ。俺が決めた。オメエに拒否する権利はねェ」
これは死の宣告か? 悪魔に烙印を押された気分だ。純潔を踏み躙り一夜己が儘にしただけでは飽き足らずまだ尚繋ぎ止めようというのか。ビシュラには悪魔と契約した覚えなど無いというのに。これではあまりにも不条理すぎる。
バキィッ!
頭に血が上ったビシュラはヴァルトラムの顔面を殴った。と言ってもビシュラの拳ではヴァルトラムに効くわけがなく、殴った拳のほうが痛いだろうけれど。
「嫌です! 絶対に嫌です!」
「テメエー……」
ヴァルトラムは自分を殴ったビシュラの手首を掴まえた。
「いやぁぁああああああっ!」
バタァンッ!
ビシュラが悲鳴を上げた瞬間、部屋の扉が勢いよく開け放たれた。
「――――……」
其処に立っていたのは、タイミング良く面会に訪れた緋。扉を開けようとしたところビシュラの悲鳴が聞こえ、何事かと豪快に扉を開け放ったのだ。
ベッドの上でヴァルトラムに組み敷かれている裸のビシュラ。何があったか瞬時に察した緋はギリッと奥歯を噛んでヴァルトラムを睨み付ける。
「今のアタシには大隊長により権限が与えられている」
険しい表情をしてツカツカツカと早足でベッドに近付いてくる。その間にプログラムを発動させ、メタルのメリケンサックを構築して拳全体を覆った。
「あァ? 権限だァ? 二位官のオメエに何の権限がある」
緋はメタルで覆われた拳を振りかぶった。
「バカやらかした上官を力一杯ぶん殴っていい権限だよッ!」
バッゴォオッ!
緋はヴァルトラムの顔面に思いっきり拳を叩き付けた。ビシュラのパンチとは異なり流石にこれは持ち堪えられなかったようで、ヴァルトラムの体がベッドから吹き飛んだ。
緋は羽織っていたロングコートを脱ぎ、ばさっとビシュラに被せてやった。そしてビシュラをベッドから引き上げ、手を引いて足早に部屋から出て行く。
「死んどけ腐れ野郎‼」
緋はそう吐き捨てて扉を開けたときよりも力強く閉めた。
緋はビシュラの腕を引き早足で歩かせ、自室へと連れてきた。半ば無理矢理だったが、裸体にコートを一枚かけただけの姿を人目に晒すのはあまりにも不憫に思ったのだ。
緋とビシュラはリビングのソファに並んで座っていた。緋が出してくれたマグカップには温かいティーが入っており、カップを両手で包んでいるだけでも徐々にビシュラの気は静まってきた。憤怒という感情は炎のように熱いものなのだろうと思っていたが、今朝ビシュラの全身を襲ったのは氷のような冷たさだった。その冷たさがマグカップの温度によって緩やかに溶かされていく。
ビシュラの様子を察してか、緋がゆっくりと口を開いた。
「少し落ち着いたか? 大したものを出してやれなくてすまないな」
ビシュラはふるふると首を左右に振った。如何ともしがたい制圧から救出してくれた腕力と、新雪に触れるように言葉を選んでくれる優しさと、マグカップの温かさ、ビシュラを励ましたものは確かにそのようなものだ。
コートの下は一枚残らず剥ぎ取られ、袖口からは覗く細い手首には強く押さえ付けられていたに違いない指の跡、冷たい床に裸足の爪先、改めてビシュラの姿を見て緋はチッと舌打ちした。
「悪いなビシュラ。お前の代わりにあのクソヤローを殴り殺してやりたいがアタシじゃ力不足だ」
ビシュラはやや俯き、笑顔を零した。目を落とした拍子に視界に入った手首の跡を、コートの袖で隠す。緋が自分よりも大きな人でよかった。
「……フェイさんは、お優しいですね……」
笑顔を作るビシュラを見て緋は信じられないという顔をする。
「何言ってんだ」
「いつもわたしを気遣ってくださいますし、いっぱい助言もしてくださいました……」
「オイ、何笑ってんだ。無理して笑うことないだろ」
「無理は、しておりませんよ。よくよく御助言いただいておりましたのに理解しておりませんでした。此度のことはわたしの不注意です」
「お前まさか歩兵長を許すつもりじゃないだろうな」
否定的に追求されるとビシュラは少し困ったように、また笑った。
「わたし如きが許すなど……。何があったとしてもわたしはたかが初等所員、三本爪飛竜騎兵大隊の歩兵隊長さまとでは問題にもなりません。わたしの過失です」
「違うだろ。あのクソヤローが――」
「悪いのはわたしです。だから……だから……」
緋は吸い寄せられるようにビシュラの目を見る。泣いてはいないのだな。痛かったろうに、辛かったろうに、否、今もまだ昨夜の感触が居残っているだろうに、何でもない振りをするのだな。
「もう、忘れさせてください……」
緋の言葉を遮ってビシュラはポツリと、だがハッキリと言葉にした。
緋はそれ以上ビシュラを焚き付けることなどできなかった。生来の心根の優しさ、平和を尊重する心、何よりも平穏と安寧を望む弱き者。ヴァルトラムどころかトラジロや緋とさえも異なる。この娘は、ヴァルトラムを糾弾するより何よりも「無かったこと」にしてしまいたいのだ。昨夜のことは悪夢であったと思い込みたいのだ。自分が純潔を失い穢れたなどこれ以上思い知らされたくはないのだ。
真にビシュラを破壊するのは奪われた純潔などではない。心穏やかに過ごす平生の日常が瓦解すること。たった一つの真実に囚われて壊れてしまうくらいなら、跡も痛みも悲しみも忘れてすべてを無かったことにしてしまいましょう。
そして少女は、己を引き裂いた嵐の夜の記憶を封印した。
§ § § § §
「あのオッサンを殺せ!」
大隊長執務室のドアを乱暴に開け、緋は怒声を張り上げた。
室内にいた天尊とトラジロは呆気に取られ、やりかけの動作を停止して緋を注視する。
「…………。突然入ってきて何を言い出すのですか緋姐。オッサンとはヴァルトラムのことでしょうけれど。その発言には大いに賛成しますが、最近は謹んで処分を受け入れているようですし、歩兵隊長という地位にいる以上はそれなりの――」
「御託はいいからアイツを殺せ! 大隊長ッ」
緋はトラジロを遮って語気を荒げた。
「今更ヴァルトラムのことでお前がそんなに興奮するとは珍しいな。何があった」
緋は歩兵隊二位官として長らくヴァルトラムの補佐を務め行動を共にする時間が長い故に、その性質をよく理解しまた諦めている。だからヴァルトラムの行いを愚かで浅はかだと呆れはしても、こうまで怒り心頭になることは久し振りのことだ。
「レイプされた」
トラジロは飲み物をブッと吹き出した。
「緋姐がですか⁉」
「ビシュラだよ!」
トラジロは険しい表情をして天尊に視線を送る。〝観測所〟所員という身分かつ所長自ら人選されたビシュラを、冷遇すること、ぞんざいに扱うこと、ましてや傷付けることは〝観測所〟との関係を悪化させることに繋がると、トラジロはよく理解している。ビシュラの身分は本人が自覚しているほどに軽いものではない。
「お前が現場を押さえたのか、緋」
「アタシが見付けたのはヤられた後だった。オッサンを思いっ切りぶん殴ってビシュラを部屋まで連れてったよ」
緋の言葉を聞いてトラジロは顔色を変えた。
「思いっ切りって、どのくらいの力でですか」
「だから思いっ切りだ。全力でぶん殴った」
「緋姐の全力……はあ、また施設の修繕費が」
「そんなモンはどうでもいいッ」
トラジロにとってはビシュラが傷付けられたことも今期の出費が嵩むことも同じ程度の問題だとでもいうのか。馬鹿にするな。緋の怒りはそのようなものではない。
「あの娘、泣きもしないんだ。あんなに弱っちいクセして」
宙の一点を睨んで今にも叫び出して怒鳴り散らしそうな衝動を抑え込む。本当に泣き叫ぶべきなのは怒り狂うべきなのは、ビシュラだ。なのにあの娘はそうしない。
「ビシュラはあの最低の人でなしにも情けをかける。自分を襲った相手を身分が違うからって、御大層な〝歩兵隊長さま〟だからって許すつもりなんだ。あんなに優しい娘が、あのクソヤローの為に割を食うなんて間違ってるだろ」
緋は視線を動かしてギロッと天尊を睨む。
「だがアタシには歩兵長を殺せない。その力が無い。だから大隊長が殺せッ」
天尊は椅子の背もたれに沈み込み、肘置きに肘をついて体の前で指を組み合わせた。
「ビシュラは何と言っている?」
冷静な声だ。緋のように語気を荒げるではなく、トラジロのように内心で算段をするではなく、この部屋で一番落ち着き払っている。
「……忘れたいと」
「つまり、無かったことにしたいということだな」
それを聞いた瞬間、緋の目にカッと火が点った。早足で天尊の前まで歩いて行き、握った拳をデスクに叩き付けた。
「お咎めナシか、ふざけんな!」
「懲罰には理由が必要だ。ヴァルトラムに懲罰を与えたいのならビシュラのことを、ビシュラがされたことを、ビシュラがそうなった経緯を、表沙汰にせざるを得ない。あの清純そうな娘は実はケダモノみたいな男に喰われたキズ物だってそこら中に知らしめるのか?」
「!」
「お前だってヴァルトラムがビシュラを傷付けたことに腹を立てているんだろう。これ以上ビシュラを傷付けるようなことになるのが望みか。ヴァルトラムを罰してお前の気は晴れるかも知れんが〝観測所〟に戻ったビシュラはどうなる。陰口を叩かれ後ろ指を指されるのか」
天尊に正論をぶつけられても緋の瞳に宿った怒りの火は消えない。緋は口惜しそうな表情でフイッと顔を逸らした。
「ビシュラを守るには、ビシュラが言うように忘れてしまって無かったことにするのが一番いいのかもな」
歩兵隊第一詰所。
歩兵隊員たちが詰める部屋にヴァルトラムが姿を現すと、彼等は俄に沸き立った。圧倒的な戦力を誇るヴァルトラムは羨望と憧憬の的であり、謹慎処分が明けるのを首を長くして待っていたのだ。
「全快誠におめでとうございます歩兵長殿!」
「歩兵長、おはようございます!」
「お体は大丈夫ですか!」
次々にかけられる声にぞんざいな受け答えをしたりしなかったり、ヴァルトラムは室内を進んでいく。三本爪飛竜騎兵大隊の八割以上を占める歩兵隊は大所帯であり、部屋を分けても一室ごとの広さは大きい。部屋の端から端まではかなり大きな声を出せなければ届かない。
ヴァルトラムはある隊員に目をとめた。ビシュラを捜索に出掛けたときに緋と共に伴っていた男性隊員だ。彼の名は「マクシミリアン」。歩兵隊所属三位官である。
「マックス。俺のブーツは」
「メンテ中です」
「まだ終わってねェのか」
「今回は大分長いこと使いっぱなしでしたからね。部品交換やら磨きやらで時間かかるっつってましたよ」
途端にヴァルトラムがぶすーとやや不機嫌になったことが分かったが、彼にはもっと懸念せねばならないことがあった。マクシミリアンは自分の後方を親指で差した。その延長線を目で辿ると緋に辿り着いた。
「歩兵長、フェイをどうにかしてくれませんか。ムチャクチャ機嫌悪くてどーにもこーにも」
緋は自分のデスクに座っていたが、眉間に皺を刻んで表情は険しい。上官であるヴァルトラムが近付いてきて視界に入っても無視。他の隊員たちのように挨拶もしなければ目さえ合わせない。
「俺のツラァ全力でぶん殴ったのにまだ足んねェのか」
「うるせえ、死ね」
そのやりとりを聞いていたマクシミリアンは心の中で「ひいい」と絶叫。三位官とはいえ、二位官の緋がヴァルトラムに対して好き勝手には振る舞っていると青ざめてしまう。
ヴァルトラムにしても緋の御機嫌取りなどする気は毛頭ない。こちらを振り向きもしない緋の後ろを通過して部屋の中央最奥へ向かった。
一応、応接スペースとされている其処にはローテーブルとソファがある。ヴァルトラムは上等な革張りのソファにどすんと沈み込み、ローテーブルの上に両足を放り出した。それから何処からともなく二本の剣を取り出した。それは全く同じ意匠の、対を成す短剣――ビシュラのものだ。
ヴァルトラムは刀剣の類いなど扱い慣れているくせに、彼女の短剣をクルクルと回したり角度を変えて見たりして随分熱心に観察している。まるで物珍しい玩具を手に入れたかのようだ。
「ビシュラの剣を渡せ。アタシから返す」
スッと視界に掌が差し込まれた。ヴァルトラムは目だけを動かしてチラリとその手を見たが、すぐに刀身へと目を戻した。
「何でオメエに渡さなきゃなんねェ。こりゃあ俺のだ」
「あァ? ビシュラのだろうが」
「アイツは俺のモンだ。アイツのモンも俺のモンだ」
(くああ~~、殺してぇ💢)
ドォンッ!
緋はヴァルトラムが足を乗せているローテーブルを蹴り飛ばした。
隊員たちはざわっと動揺したが、無論ヴァルトラムは微塵も揺らぎはしなかった。剣を握ったまま微動だにせず、緋を直視する視線も固定したままだ。
「どのツラ下げてそんな厚かましいこと言えるんだ。その短剣もあの娘も、アンタにとっちゃ物珍しいオモチャみたいなものなんだろ。その程度であんな優しい娘を泣かせやがって、この人でなしが。自分のものだって言うなら少しは人らしく大事にしてみせろ」
「大事に、なァ」
ヴァルトラムは他人事のように反復した。緋だってこの男から謝罪の言葉が聞けるなど最初から期待していやしない。もしかしたら緋の言う通り「人でなし」だから、本当に意味が分かっていないのかも知れない。
「オメエは随分ビシュラを気に入っているみてぇだな」
「ビシュラは、いい娘だ」
緋はしっかりと言葉にした。剣の刀身に落ちていたヴァルトラムの目が緋に向く。
「戦い方も身に付けてない、戦場も知らない、人を傷付けたこともない。何も知らない善良な娘だ。ああいう娘はあのままでいい。キレイなものや優しいものに囲まれて平和に過ごしたほうがいいんだ。アンタやアタシみたいなヤツが、あの娘の邪魔しちゃいけないんだよ」
ビシュラを観察して、よく笑うし話すし動き回る女だと思った。ヴァルトラムの為に何かしようとまでする女だった。平生周りにいる隊員たちだって勿論笑うし喋る。仕事中は忙しく動きもする。戦場ではそれこそ死に物狂いで生き残ろうとする。そのような彼等ともビシュラは異なる。あの本質的に善良な娘は、他の存在とは異なる。ビシュラの何かがそう思わせる。他の連中とは異なる何かを隠し持っているのかも知れないと思わせる。手を伸ばせば容易く手折られる、あれほどまでに小さく弱い存在が。
ヴァルトラムはビシュラの剣を持ったまま椅子から立ち上がった。
緋はヴァルトラムをギロッと睨み上げた。
「話の途中だぞ。どこに行くつもりだ」
「オメエの言う通り〝大事に〟してやってくらァ」
「は? 何を言っているんだ」
ヴァルトラムは、眉を顰める緋の横をすり抜けて先程入ってきた扉のほうへ向かった。
「オイ、オッサン!」
まだ文句が言い足りない緋はヴァルトラムの後ろを追い掛けていった。
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