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Kapitel 14:帰
夢幻
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「これは……〝獣の羽〟なのか……?」
麗祥は天尊の背中から立ち上る黒い翅翼を見詰め、茫然として言葉を取り零した。
何故、天尊が〝獣の羽〟を持つか。〝獣の羽〟はプログラムで生じた翼とは異なり生来のものであり、天尊が持ち得るはずがない。〝獣の羽〟を持つならば、それこそが天尊の生のままの姿ということだ。しかし、麗祥は兄のこのような禍々しい姿を目にするのは初めてだった。
「離れろッ……アキラ」
天尊は白を軽く突き飛ばして自分から距離を取らせた。
再び駆け寄ろうとした白を、手の平を突き出して制した。
「ティエン! それどうしッ……」
「縁花! アキラを守れッ」
天尊に命じられた縁花が耀龍を振り返ると、コクンと頷きが返ってきた。縁花は直ぐさま白の背後へ移動し、否応なしに抱え上げてその場から退避させた。
――《黒轄》
天尊はプログラムによって複数の黒いコの字型の物体を発生させた。それは二個一対。ガチャンッ、ガチャンッ、と重厚な音を立てて綴じ合わせ、天尊から生えた黒い翅翼を押さえこんだ。
「麗、龍! お前たちも《黒轄》を打ちこめッ」
「天哥々に直接⁉」
「そんなことしたら天哥々にダメージが!」
弟たちは驚きのままに聞き返した。
「構っている場合かッ」
ガジャアンッ! ――天尊は自分の手の甲に《黒轄》を貫通させて地面に縫いつけた。
「ガアアアアッ!」と天尊は雄叫びを上げた。
苦痛もダメージもあるが、手段を選り好みする余裕はなかった。事態は一刻を争うまでに切迫している。身の内で猛り狂う力の奔流が、自我の堰を突破するのにもう寸分の猶予もなかった。
ドッ! ドドドッ! ――麗祥と耀龍が発生させた《黒轄》が天尊を捕らえた。
コの字を綴じ合わせた四角の環が、天尊の上半身を拘束した。
「ハッ、ハッ、ハアッ……!」
ギシッギシッ、と全身を擂り潰されそうな圧力に耐え、額から玉のような汗が滑り落ちた。
全身を拘束されて苦痛まみれの状態でも脳内では変わらず〝声〟がグルグルと回る。〝声〟は快楽のほうへと、自由のほうへと、誘惑する。欲求の儘に行動し生きよと囃し立てる。力ある者にはそれが許される。強者は何をしても許される。それが世界のルールだ。
――「大好きだよティエン。だからどこにも行かないで」
「ボクはキミに優しい人でいてほしいんだよ」――
――ああ、分かっている。俺はお前の望むように在り続ける。もう二度とお前を泣かせたりしない。だから、俺を愛してくれ。俺の傍にいてくれ。
ガチィンッ! ――天尊は奥歯を噛み締めた。
「いつまでもガチャガチャ煩ェエエーーーーッ!」
バシュゥウンッ!
天尊が怒号を上げると同時に背中の黒い翅翼は四散した。
翼の体を成していた肉は、飛び散って瞬く間に干涸らびて屑と化した。
「天哥々のネェベルが鎮静化してる……?」
耀龍はホッと安堵の吐息を漏らした。
カッ。――空一面が白く光った。
夜にも関わらず、強い光が雲の陰影をクッキリと照らし出した。雲が割れて大地に光が差した。光のなかにはいくつもの人影があった。光の柱が空に吸いこまれるように収束したあと、大地には武装した兵士たちの一団があった。
麗祥は、だらんと片腕をぶら下げて蹌踉めきながら立ち上がった。
「貴男と《オプファル》を連行するために、私と共にビヴロストを通過するはずだった小隊です」
プログラムによって地面に固定された天尊は、小隊をジロリと瞥見した。
「アキラに手を出すな」
「この期に及んでまだ、たかが人間ひとりに執心されるのですか」
「たかが人間じゃねェから執着してんだバーカ」
天尊は血で汚れた赤い歯を剥いて麗祥に向かって不敵に笑って見せた。
この期に及んで、事ここに至って、その様になっても、引き際を弁えぬ。麗祥は、兄はやはり合理を捨ててしまったのだと思った。人間の少女への恋着がために。
「天哥々といえども、そのダメージでは一個小隊を相手にすることはできないはず。抵抗なさらず速やかにアスガルトへ御帰還ください」
「あまり舐めるな。今でもその気になれば貴様ら全員二度と戦えん身体にする程度のことは可能だ」
「《黒轄》で満足に身動きも取れないではありませんか。そのお体で何ができるというのです。強がりは――」
麗祥はふと天尊のその向こうを見た瞬間、中途で発言をやめた。
天尊の背後の空間に磨りガラスのようなものが見えた。ガラス越しに人よりも何倍も大きな影が蠢いている。その心許ない隔たりの向こう側に、巨大で恐ろしげな生物がいる。
「――――竅せ」
ぐにぃいん。――磨りガラスのような面を引き延ばして黒い鱗に覆われた竜頭が出現した。
鱗は硬質の光沢を放ち、大きな爬虫の眼球を機敏に上下左右に動かす。天尊を守護する鎧か大楯のように、敵にギョロリと睨みを利かせた。
グルルルルル……、とドラゴンは威嚇するように喉を鳴らした。山をも抉る途轍もない破壊力を持つ一閃を、いつでも放つことができると牽制するように。
「これほど高位種のガンドを度々ミズガルズで召喚するなど、なんと軽率な……ッ」
「選ばせてやる、麗。お前の小隊を犠牲にするのと、お前の言う〝たかが人間ひとり〟、どっちを取るのか」
ほとんど勝者の余裕ではないか。四肢の自由を奪われ、体力を消耗し、深手を負い、それでも尚、悠然と駆け引きを持ちかける。
麗祥は口惜しそうにクッと唇を噛んだ。忌々しい。その様でもまだ白旗を揚げずに交渉を持ちかけるなど、またしても経験の差を思い知らされる。
麗祥は、耀龍と縁花の陰に守られている白を一瞥した。
任務の完遂は目前だが、無理を押し通せば小隊を失いかねないのは事実だ。人間を軽んじるが故に、強引な手段を決断することはできなかった。天尊には完全に足元を見られている。人間の少女ひとりと生え抜きの部隊を引き換えにすることなど、できはしないと見抜かれた。
如何なさいますか、と小隊のひとりが麗祥に尋ねた。
「ッ…………ヒキドーアキラの確保は現時点にて放棄。天哥々……无天尊・赫=ニーズヘクルメギルに錠をかけよ。アスガルトへ連行する」
麗祥に命じられて十人程度の兵士が天尊を取り囲んだ。しかし、天尊から一定の距離をとり近づこうとはしなかった。
天尊の背後では竜頭が睨みを利かせて威嚇している。武装した兵士であっても気が立ったドラゴンに接近するなどしたくはなかった。
「帰還なさるお心をお決めになったのなら、どうかガンドをお収めください」と麗祥。
「《ビヴロスト》の転送が確定したら閉じてやる」
用心深いことだ、と麗祥は小さく嘆息を漏らした。反論せずに言われたとおりにアスガルトへの〝道〟を開くことにした。
――《ビヴロスト》アクセスプログラム起動
「――……って……」
「姑娘?」
縁花は、腕のなかの白が何か言葉を発したと思った。白はだらんと脱力して縁花の腕に俯せに凭れかかっていた。
「どうされました。お気を確かに。姑娘ッ」
縁花は白の体勢を仰向けにさせて揺り動かしたが反応はなかった。
耀龍は慌てて白を覗きこんだ。白の瞼は閉じられ、呼びかけても目を開くことはなかった。
「アキラッ、アキラ! 何があったの縁花」
「分かりません。いつの間にか姑娘の意識が――」
――「待って。ティエンを連れて行かないで」――
ボクの声は、ティエンに届いたかな。
それからのことはよく覚えてない。腕が痛くて、熱くて、燃え出しそうで、なのに意識がぼんやりした。近くでロンやユェンさんの声がした気がする。
ティエンの声はどこにも聞こえなかった。遠くにも近くにも。
§ § § § §
アスガルト・観測所。
ミズガルズとアスガルトは《ビヴロスト》システムによって隔てられる。そのシステムの円滑かつ停滞のない管理・運営を司ると同時に、ミズガルズでの事象を観測し記録する機関である。
また、免許の発行や通行の許可・検閲など往来に関するすべてを管理する。アスガルトからミズガルズへ移動する際もその逆も、必ず観測所を通過しなければならない。
普段は淡々と職務を遂行するばかりの所員たちが、これからここを通過する件には少なからずざわつきを隠せずにいた。
「行きは単身だったが帰りは物々しいことになったものだ」
「所長。あまり大きなお声で仰有りませぬよう。ニーズヘクルメギルの方々がおいでなのですから」
所長と呼ばれた男、つまり観測所の最高責任者は、自分の補佐官の神経質そうな表情を一瞥してフッと笑った。
それから、転送装置の真ん前を占拠する一団、〝ニーズヘクルメギルの方々〟のほうへと視線を滑らせた。平素はこのような場所には用のない者たちだ。所員たちがざわついている理由は彼らの訪問による。
「物々しいのはこちらもか。ニーズヘクルメギルの総帥補佐官殿にして次期族長様が直々に出迎えとは」
〈通行許可確認。座標修正完了。転送受信カウントダウン――……〉
金属製の床の上に環状の紋様が幾重にも施されていた。そこがアスガルトにおける出発点であり帰還地点。
床面の紋様が仄かに青白く光り出した。環状の金属板がいくつも床から浮上し、それぞれの方向、それぞれの速度で回転する。床面の紋様の発光が強くなって光柱が立ち上がった。直径数メートルはある光柱は天井まで伸びた。
しばらくして光が収束し、最初に姿を現したのは麗祥だった。
麗祥は、帰還の様を無言で見詰める黒髪の男を見つけるなり、ハッとして足早に近寄った。
「一大哥……ッ。まさかこちらまでおいでになるとは」
一大哥――麗祥と同じく長い黒髪を垂らした長身の男――彼らの長兄。
麗祥は長兄に対して恭しく頭を垂れた。
彼は天尊に対しても充分に敬意を払ったが、長兄へ向けたそれは天尊にするのとは種類が異なった。敬愛する兄に対するのみならず、自分の上に立つ者への従属意識が篭められていた。
長兄もまた、弟からの敬意と従順を当然の如く受け容れた。
「お前ならば必ず天尊を連れ帰ると思っていた。よくぞ果たした、麗祥」
「光栄です。ありがとう存じます」
続いて、十人以上の兵士が姿を現した。その中心には天尊。両腕と首に錠を施され、その錠から伸びる手綱は兵士たちに握られていた。
天尊と長兄は、無言で視線をぶつけ合った。天尊は麗祥のように頭を垂れて御機嫌を伺うなどということはせず、長兄も満身創痍で拘束された弟を見ても眉ひとつ動かさなかった。互いに彫刻のように無表情にして沈黙。麗祥すらふたりの胸中を推し量ることはできなかった。
「天尊――……。武装兵士に取り押さえられ枷を嵌められ、まるで咎人のような有様だな。斯様にならねば帰還せぬとは、ミズガルズは貴様にとって余程住み良いところであったようだ」
「……ハッ」
長兄は能面のように無表情のまま訓戒を垂れた。
天尊は反論するのも馬鹿馬鹿しいとでも言いたげに鼻先で嘲弄しただけだった。
§ § § § §
白が目を覚ますとベッドの上にいた。
見慣れた天井と寝心地。自分の部屋で眠っていたのだとすぐに気づいた。
自動車の走行音、自転車のベル、幼い子どもの声、小さくテレビの音も。ベランダのドアが開いているのだろうと思った。日常的な生活音を聞くと、意識を失う前の出来事が夢のように思えた。
しかしながら、そうではない。身体がとても怠くて起き上がるのがつらい。首から上だけを動かしてベランダのほうに顔を向けた。
そこには耀龍がいた。ベッドの横に置いた低いスツールに腰かけていた。起き抜けでまだぼんやりとしている白と目が合うと、ニッコリと微笑んだ。
「傷、キレイに治って良かったよ」
「ロンが治してくれたの?」
「アキラに痕なんて残したら天哥々に怒られるからね」
「ありがとう」
それきり、耀龍は黙った。顔には微笑みを湛えたまま、白と目が合わないようにベッドの端に目を落とした。
白は耀龍が何を言おうとしているのか、分かるような気がした。おそらく本題をどう切り出そうか考えているのだろう。どう言えば、自分を納得させられるか。最も傷つけずに済むか。
耀龍の胸中を推察した白は、先んじて口を開くことにした。
「ロンも、帰るんでしょ」
耀龍は一瞬、驚いた表情をした。そしてすぐに「……うん」と応え、敵わないなあ、と眉間に皺を寄せて笑みを零した。
耀龍がミズガルズを訪れたのは天尊の扶けとなることが目的だ。修学などは建前に過ぎないことは分かり切っている。天尊がいなくなれば、此処にいる意味もなくなる。
そうだ、天尊は去ったのだ。この場所から、この家から、白の傍から。神様は、別れを言う暇さえ与えてくれなかった。
「ねえ、ロン」
「何? 動き回るのはまだ我慢したほうがいいよ。早く学校に行きたいだろうけど、オレも人間を治すのには馴れてないから、ちょっとだけ自信がないんだ」
「ティエンに……ボクの声は聞こえたかな」
「アキラ、あのとき天哥々に何か言ったの?」
耀龍に聞こえていないのならばもっと離れていた天尊に届いたはずがない。
白はすんなりと諦めた。耀龍から目を逸らし、頭の位置を枕の中央付近に戻して天井を見上げた。そっと瞼を閉じた。
「〝さよなら〟しても泣かない自信はあったんだけど……〝さよなら〟言われないほうがツライとは知らなかったなあ」
――ロンはすぐそこにいるのに「いつ帰ってくるの」とは訊けなかった。
そんなことは二度とないと返ってくるのが恐くて。
もう分かってる。ティエンにはもう会えなくて、ティエンがいたあの頃には戻れない。ティエンは何も残していってくれなかった。
作り物やおとぎ話のような、半透明の翼やドラゴン、魔法のように自由に空を飛んで雷や炎を操り、白い髪や白い瞳は幻みたい――――
すべては、ボクがみていた長い長い夢だったのかもしれない。
だからボクはただ静かに自分の目を手で覆ったんだ。
物語のページを閉じるように。
Das Ende.
麗祥は天尊の背中から立ち上る黒い翅翼を見詰め、茫然として言葉を取り零した。
何故、天尊が〝獣の羽〟を持つか。〝獣の羽〟はプログラムで生じた翼とは異なり生来のものであり、天尊が持ち得るはずがない。〝獣の羽〟を持つならば、それこそが天尊の生のままの姿ということだ。しかし、麗祥は兄のこのような禍々しい姿を目にするのは初めてだった。
「離れろッ……アキラ」
天尊は白を軽く突き飛ばして自分から距離を取らせた。
再び駆け寄ろうとした白を、手の平を突き出して制した。
「ティエン! それどうしッ……」
「縁花! アキラを守れッ」
天尊に命じられた縁花が耀龍を振り返ると、コクンと頷きが返ってきた。縁花は直ぐさま白の背後へ移動し、否応なしに抱え上げてその場から退避させた。
――《黒轄》
天尊はプログラムによって複数の黒いコの字型の物体を発生させた。それは二個一対。ガチャンッ、ガチャンッ、と重厚な音を立てて綴じ合わせ、天尊から生えた黒い翅翼を押さえこんだ。
「麗、龍! お前たちも《黒轄》を打ちこめッ」
「天哥々に直接⁉」
「そんなことしたら天哥々にダメージが!」
弟たちは驚きのままに聞き返した。
「構っている場合かッ」
ガジャアンッ! ――天尊は自分の手の甲に《黒轄》を貫通させて地面に縫いつけた。
「ガアアアアッ!」と天尊は雄叫びを上げた。
苦痛もダメージもあるが、手段を選り好みする余裕はなかった。事態は一刻を争うまでに切迫している。身の内で猛り狂う力の奔流が、自我の堰を突破するのにもう寸分の猶予もなかった。
ドッ! ドドドッ! ――麗祥と耀龍が発生させた《黒轄》が天尊を捕らえた。
コの字を綴じ合わせた四角の環が、天尊の上半身を拘束した。
「ハッ、ハッ、ハアッ……!」
ギシッギシッ、と全身を擂り潰されそうな圧力に耐え、額から玉のような汗が滑り落ちた。
全身を拘束されて苦痛まみれの状態でも脳内では変わらず〝声〟がグルグルと回る。〝声〟は快楽のほうへと、自由のほうへと、誘惑する。欲求の儘に行動し生きよと囃し立てる。力ある者にはそれが許される。強者は何をしても許される。それが世界のルールだ。
――「大好きだよティエン。だからどこにも行かないで」
「ボクはキミに優しい人でいてほしいんだよ」――
――ああ、分かっている。俺はお前の望むように在り続ける。もう二度とお前を泣かせたりしない。だから、俺を愛してくれ。俺の傍にいてくれ。
ガチィンッ! ――天尊は奥歯を噛み締めた。
「いつまでもガチャガチャ煩ェエエーーーーッ!」
バシュゥウンッ!
天尊が怒号を上げると同時に背中の黒い翅翼は四散した。
翼の体を成していた肉は、飛び散って瞬く間に干涸らびて屑と化した。
「天哥々のネェベルが鎮静化してる……?」
耀龍はホッと安堵の吐息を漏らした。
カッ。――空一面が白く光った。
夜にも関わらず、強い光が雲の陰影をクッキリと照らし出した。雲が割れて大地に光が差した。光のなかにはいくつもの人影があった。光の柱が空に吸いこまれるように収束したあと、大地には武装した兵士たちの一団があった。
麗祥は、だらんと片腕をぶら下げて蹌踉めきながら立ち上がった。
「貴男と《オプファル》を連行するために、私と共にビヴロストを通過するはずだった小隊です」
プログラムによって地面に固定された天尊は、小隊をジロリと瞥見した。
「アキラに手を出すな」
「この期に及んでまだ、たかが人間ひとりに執心されるのですか」
「たかが人間じゃねェから執着してんだバーカ」
天尊は血で汚れた赤い歯を剥いて麗祥に向かって不敵に笑って見せた。
この期に及んで、事ここに至って、その様になっても、引き際を弁えぬ。麗祥は、兄はやはり合理を捨ててしまったのだと思った。人間の少女への恋着がために。
「天哥々といえども、そのダメージでは一個小隊を相手にすることはできないはず。抵抗なさらず速やかにアスガルトへ御帰還ください」
「あまり舐めるな。今でもその気になれば貴様ら全員二度と戦えん身体にする程度のことは可能だ」
「《黒轄》で満足に身動きも取れないではありませんか。そのお体で何ができるというのです。強がりは――」
麗祥はふと天尊のその向こうを見た瞬間、中途で発言をやめた。
天尊の背後の空間に磨りガラスのようなものが見えた。ガラス越しに人よりも何倍も大きな影が蠢いている。その心許ない隔たりの向こう側に、巨大で恐ろしげな生物がいる。
「――――竅せ」
ぐにぃいん。――磨りガラスのような面を引き延ばして黒い鱗に覆われた竜頭が出現した。
鱗は硬質の光沢を放ち、大きな爬虫の眼球を機敏に上下左右に動かす。天尊を守護する鎧か大楯のように、敵にギョロリと睨みを利かせた。
グルルルルル……、とドラゴンは威嚇するように喉を鳴らした。山をも抉る途轍もない破壊力を持つ一閃を、いつでも放つことができると牽制するように。
「これほど高位種のガンドを度々ミズガルズで召喚するなど、なんと軽率な……ッ」
「選ばせてやる、麗。お前の小隊を犠牲にするのと、お前の言う〝たかが人間ひとり〟、どっちを取るのか」
ほとんど勝者の余裕ではないか。四肢の自由を奪われ、体力を消耗し、深手を負い、それでも尚、悠然と駆け引きを持ちかける。
麗祥は口惜しそうにクッと唇を噛んだ。忌々しい。その様でもまだ白旗を揚げずに交渉を持ちかけるなど、またしても経験の差を思い知らされる。
麗祥は、耀龍と縁花の陰に守られている白を一瞥した。
任務の完遂は目前だが、無理を押し通せば小隊を失いかねないのは事実だ。人間を軽んじるが故に、強引な手段を決断することはできなかった。天尊には完全に足元を見られている。人間の少女ひとりと生え抜きの部隊を引き換えにすることなど、できはしないと見抜かれた。
如何なさいますか、と小隊のひとりが麗祥に尋ねた。
「ッ…………ヒキドーアキラの確保は現時点にて放棄。天哥々……无天尊・赫=ニーズヘクルメギルに錠をかけよ。アスガルトへ連行する」
麗祥に命じられて十人程度の兵士が天尊を取り囲んだ。しかし、天尊から一定の距離をとり近づこうとはしなかった。
天尊の背後では竜頭が睨みを利かせて威嚇している。武装した兵士であっても気が立ったドラゴンに接近するなどしたくはなかった。
「帰還なさるお心をお決めになったのなら、どうかガンドをお収めください」と麗祥。
「《ビヴロスト》の転送が確定したら閉じてやる」
用心深いことだ、と麗祥は小さく嘆息を漏らした。反論せずに言われたとおりにアスガルトへの〝道〟を開くことにした。
――《ビヴロスト》アクセスプログラム起動
「――……って……」
「姑娘?」
縁花は、腕のなかの白が何か言葉を発したと思った。白はだらんと脱力して縁花の腕に俯せに凭れかかっていた。
「どうされました。お気を確かに。姑娘ッ」
縁花は白の体勢を仰向けにさせて揺り動かしたが反応はなかった。
耀龍は慌てて白を覗きこんだ。白の瞼は閉じられ、呼びかけても目を開くことはなかった。
「アキラッ、アキラ! 何があったの縁花」
「分かりません。いつの間にか姑娘の意識が――」
――「待って。ティエンを連れて行かないで」――
ボクの声は、ティエンに届いたかな。
それからのことはよく覚えてない。腕が痛くて、熱くて、燃え出しそうで、なのに意識がぼんやりした。近くでロンやユェンさんの声がした気がする。
ティエンの声はどこにも聞こえなかった。遠くにも近くにも。
§ § § § §
アスガルト・観測所。
ミズガルズとアスガルトは《ビヴロスト》システムによって隔てられる。そのシステムの円滑かつ停滞のない管理・運営を司ると同時に、ミズガルズでの事象を観測し記録する機関である。
また、免許の発行や通行の許可・検閲など往来に関するすべてを管理する。アスガルトからミズガルズへ移動する際もその逆も、必ず観測所を通過しなければならない。
普段は淡々と職務を遂行するばかりの所員たちが、これからここを通過する件には少なからずざわつきを隠せずにいた。
「行きは単身だったが帰りは物々しいことになったものだ」
「所長。あまり大きなお声で仰有りませぬよう。ニーズヘクルメギルの方々がおいでなのですから」
所長と呼ばれた男、つまり観測所の最高責任者は、自分の補佐官の神経質そうな表情を一瞥してフッと笑った。
それから、転送装置の真ん前を占拠する一団、〝ニーズヘクルメギルの方々〟のほうへと視線を滑らせた。平素はこのような場所には用のない者たちだ。所員たちがざわついている理由は彼らの訪問による。
「物々しいのはこちらもか。ニーズヘクルメギルの総帥補佐官殿にして次期族長様が直々に出迎えとは」
〈通行許可確認。座標修正完了。転送受信カウントダウン――……〉
金属製の床の上に環状の紋様が幾重にも施されていた。そこがアスガルトにおける出発点であり帰還地点。
床面の紋様が仄かに青白く光り出した。環状の金属板がいくつも床から浮上し、それぞれの方向、それぞれの速度で回転する。床面の紋様の発光が強くなって光柱が立ち上がった。直径数メートルはある光柱は天井まで伸びた。
しばらくして光が収束し、最初に姿を現したのは麗祥だった。
麗祥は、帰還の様を無言で見詰める黒髪の男を見つけるなり、ハッとして足早に近寄った。
「一大哥……ッ。まさかこちらまでおいでになるとは」
一大哥――麗祥と同じく長い黒髪を垂らした長身の男――彼らの長兄。
麗祥は長兄に対して恭しく頭を垂れた。
彼は天尊に対しても充分に敬意を払ったが、長兄へ向けたそれは天尊にするのとは種類が異なった。敬愛する兄に対するのみならず、自分の上に立つ者への従属意識が篭められていた。
長兄もまた、弟からの敬意と従順を当然の如く受け容れた。
「お前ならば必ず天尊を連れ帰ると思っていた。よくぞ果たした、麗祥」
「光栄です。ありがとう存じます」
続いて、十人以上の兵士が姿を現した。その中心には天尊。両腕と首に錠を施され、その錠から伸びる手綱は兵士たちに握られていた。
天尊と長兄は、無言で視線をぶつけ合った。天尊は麗祥のように頭を垂れて御機嫌を伺うなどということはせず、長兄も満身創痍で拘束された弟を見ても眉ひとつ動かさなかった。互いに彫刻のように無表情にして沈黙。麗祥すらふたりの胸中を推し量ることはできなかった。
「天尊――……。武装兵士に取り押さえられ枷を嵌められ、まるで咎人のような有様だな。斯様にならねば帰還せぬとは、ミズガルズは貴様にとって余程住み良いところであったようだ」
「……ハッ」
長兄は能面のように無表情のまま訓戒を垂れた。
天尊は反論するのも馬鹿馬鹿しいとでも言いたげに鼻先で嘲弄しただけだった。
§ § § § §
白が目を覚ますとベッドの上にいた。
見慣れた天井と寝心地。自分の部屋で眠っていたのだとすぐに気づいた。
自動車の走行音、自転車のベル、幼い子どもの声、小さくテレビの音も。ベランダのドアが開いているのだろうと思った。日常的な生活音を聞くと、意識を失う前の出来事が夢のように思えた。
しかしながら、そうではない。身体がとても怠くて起き上がるのがつらい。首から上だけを動かしてベランダのほうに顔を向けた。
そこには耀龍がいた。ベッドの横に置いた低いスツールに腰かけていた。起き抜けでまだぼんやりとしている白と目が合うと、ニッコリと微笑んだ。
「傷、キレイに治って良かったよ」
「ロンが治してくれたの?」
「アキラに痕なんて残したら天哥々に怒られるからね」
「ありがとう」
それきり、耀龍は黙った。顔には微笑みを湛えたまま、白と目が合わないようにベッドの端に目を落とした。
白は耀龍が何を言おうとしているのか、分かるような気がした。おそらく本題をどう切り出そうか考えているのだろう。どう言えば、自分を納得させられるか。最も傷つけずに済むか。
耀龍の胸中を推察した白は、先んじて口を開くことにした。
「ロンも、帰るんでしょ」
耀龍は一瞬、驚いた表情をした。そしてすぐに「……うん」と応え、敵わないなあ、と眉間に皺を寄せて笑みを零した。
耀龍がミズガルズを訪れたのは天尊の扶けとなることが目的だ。修学などは建前に過ぎないことは分かり切っている。天尊がいなくなれば、此処にいる意味もなくなる。
そうだ、天尊は去ったのだ。この場所から、この家から、白の傍から。神様は、別れを言う暇さえ与えてくれなかった。
「ねえ、ロン」
「何? 動き回るのはまだ我慢したほうがいいよ。早く学校に行きたいだろうけど、オレも人間を治すのには馴れてないから、ちょっとだけ自信がないんだ」
「ティエンに……ボクの声は聞こえたかな」
「アキラ、あのとき天哥々に何か言ったの?」
耀龍に聞こえていないのならばもっと離れていた天尊に届いたはずがない。
白はすんなりと諦めた。耀龍から目を逸らし、頭の位置を枕の中央付近に戻して天井を見上げた。そっと瞼を閉じた。
「〝さよなら〟しても泣かない自信はあったんだけど……〝さよなら〟言われないほうがツライとは知らなかったなあ」
――ロンはすぐそこにいるのに「いつ帰ってくるの」とは訊けなかった。
そんなことは二度とないと返ってくるのが恐くて。
もう分かってる。ティエンにはもう会えなくて、ティエンがいたあの頃には戻れない。ティエンは何も残していってくれなかった。
作り物やおとぎ話のような、半透明の翼やドラゴン、魔法のように自由に空を飛んで雷や炎を操り、白い髪や白い瞳は幻みたい――――
すべては、ボクがみていた長い長い夢だったのかもしれない。
だからボクはただ静かに自分の目を手で覆ったんだ。
物語のページを閉じるように。
Das Ende.
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古屋さんバイト辞めるって
四宮 あか
ライト文芸
ライト文芸大賞で奨励賞いただきました~。
読んでくださりありがとうございました。
「古屋さんバイト辞めるって」
おしゃれで、明るくて、話しも面白くて、仕事もすぐに覚えた。これからバイトの中心人物にだんだんなっていくのかな? と思った古屋さんはバイトをやめるらしい。
学部は違うけれど同じ大学に通っているからって理由で、石井ミクは古屋さんにバイトを辞めないように説得してと店長に頼まれてしまった。
バイト先でちょろっとしか話したことがないのに、辞めないように説得を頼まれたことで困ってしまった私は……
こういう嫌なタイプが貴方の職場にもいることがあるのではないでしょうか?
表紙の画像はフリー素材サイトの
https://activephotostyle.biz/さまからお借りしました。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

サドガシマ作戦、2025年初冬、ロシア共和国は突如として佐渡ヶ島に侵攻した。
セキトネリ
ライト文芸
2025年初冬、ウクライナ戦役が膠着状態の中、ロシア連邦東部軍管区(旧極東軍管区)は突如北海道北部と佐渡ヶ島に侵攻。総責任者は東部軍管区ジトコ大将だった。北海道はダミーで狙いは佐渡ヶ島のガメラレーダーであった。これは中国の南西諸島侵攻と台湾侵攻を援助するための密約のためだった。同時に北朝鮮は38度線を越え、ソウルを占拠した。在韓米軍に対しては戦術核の電磁パルス攻撃で米軍を朝鮮半島から駆逐、日本に退避させた。
その中、欧州ロシアに対して、東部軍管区ジトコ大将はロシア連邦からの離脱を決断、中央軍管区と図ってオビ川以東の領土を東ロシア共和国として独立を宣言、日本との相互安保条約を結んだ。
佐渡ヶ島侵攻(通称サドガシマ作戦、Operation Sadogashima)の副指揮官はジトコ大将の娘エレーナ少佐だ。エレーナ少佐率いる東ロシア共和国軍女性部隊二千人は、北朝鮮のホバークラフトによる上陸作戦を陸自水陸機動団と阻止する。
※このシリーズはカクヨム版「サドガシマ作戦(https://kakuyomu.jp/works/16818093092605918428)」と重複しています。ただし、カクヨムではできない説明用の軍事地図、武器詳細はこちらで掲載しております。
※この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
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