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Kapitel 14:帰
贄 02
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天尊は両膝を突いた憐れな弟・麗祥を正視し、首をやや横に倒して口の端を引き上げてニヤリと笑った。
「じゃあ死ね」
白は弾かれたように顔を上げた。腕の発熱に苦しみながらも、天尊の発言は聞き過ごせるものではなかった。
「ティエン……ッ」
「アキラ待って。動かないで。解析中だから」
耀龍が、立ち上がろうとした白の腕を捕まえて引き留めた。視点は白の腕に浮いた青黒い紋様に固定されていた。
「耀龍様。解析には如何程お時間を要しそうですか」
「麗のヤツ、あんな短時間でしっかりプロテクトを仕込んでる。プログラム自体は複雑なものじゃないハズなのに……ッ」
白は耀龍の衣服をガッと掴んだ。
「ティエンを止めなきゃ、あの人を殺しちゃう! ロンも止めてよ!」
「そんなことしてる間にアキラの腕がなくなるッ」
耀龍は眉間にいくつも皺を刻み、実に深刻な表情だった。白の手首が無くなる可能性があるからだけではない。ふたりの兄の熾烈な諍い、その然らぬ結末を噛み締めていた。
「天哥々を怒らせたのは麗だ。麗だってこんなことすればどうなるかくらい分かってただろうに。そうだ、分かってたんだ。分かってて天哥々に逆らった。だったら仕方のないことなんだよ」
生まれたときから競り合いながら多くの時間を共に過ごした兄弟。だから麗祥の心が分かってしまう。あれはおそらく、自身の使命と兄への愛情の間で押し潰されている。故に、とうに死を覚悟している。どちらのためにも死ねる。
――麗、お前は莫迦だ。自ら望んで責務を負い、命令される立場を選び、それに殉じるだなんて。
兄様たちの真似をしてるつもりか。どれだけ真似をしたって、幸せになれないなら無意味じゃないか。どれだけ近くに行こうとしたって、嫌われたら最悪じゃないか。
お前は何になりたかったんだよ。お前は何が欲しかったんだよ。本当に愚かで、直向きで、純粋な……オレの同胞。
ぽたたっ。――耀龍の手に雫が降りかかった。
白の腕を這う紋様の上にも落ち、その発する熱によってすぐさま蒸発して消えた。
「なんでそんな簡単に諦めちゃうんだよ……っ」
耀龍が白の顔を見ると、その大きい瞳いっぱいに涙を溜めていた。黒い瞳から溢れた一滴が、またポツンと耀龍の手の上に落ちた。
何故、泣く。兄と弟が殺し合う。それは悲劇だが、互いに退けぬ、互いに自身の大切なものが懸かっているのだから避けがたいことだ。
しかしながら、白はそれを受け容れない。彼らの死生観や価値観などどうでもよい。死んでほしくない。そのような単純な願いをいとも容易く口にする。彼らよりも諦めが悪く、優しい。彼らとは異なる世界に生きているから、こんなにも素直に泣けるのだ。
「あの人のこともティエンのことも諦めないでよ! ふたりが死んじゃったら悲しいでしょ! ボクは死なせたくない……!」
白が口にした願いが、耀龍の脳内を反響して胸の奥へと呑みこまれてゆく。
熱い。胸も背中も、身体の中心が急激に熱くなる。純真無垢な少女によって吹きこまれた願いが、熱を持って留まる。
「…………。……うん」
耀龍は小さく頷いた。
「カカカカカッ」
悪魔が、嗤っている。
地面に両膝を突いて振り仰ぐ麗祥の視界には、天尊だけだった。天尊の周辺をどす黒い気流が渦巻く。おそらくそれは天尊が意識するものでもなければ、制御するものでもない。
パキパキッ、と気流に巻き上げられた枯れ枝や乾いた土が割れる音。黒い気流が生み出す重苦しく禍々しい蒸した空気のなか、何とも言えない臭いが立ち篭める。
天尊が拳を振り上げた。稲妻を巻きながら圧倒的質量を叩きこむそれは《雷鎚》たる由縁。
麗祥はヘルメットが如く自身が圧壊されることを想像しても、死を覚悟してしまえば動揺はなかった。まだ立ち上がり抵抗する力は残っているが、力の差を考えれば徒労に終わることは目に見えている。
何よりも、自身の矜恃と兄への愛情との間で揺れ動くのには、いささか疲れた。兄に逆らい、兄と敵して、兄と争い、心を磨り減らした。心が血を流す苦行から解放されたいと、もう願ってしまっている。
――いっそ殺してくれて構わない。私が貴男を手にかけるくらいならば。
脳内は大変静かに終わりを待った。
――「大きくなったら連れて行ってくださいますか」
「天哥々をお助けできるような、立派な大人になります」――
静まり返った頭蓋のなかに幼い子どもの声が響いた。
ああ、これは自分と弟・耀龍の思い出だとすぐに気づいた。何故早く大人になりたいと思ったか、何故兄のようになりたいと思ったか、何故こんなにもあの人間の少女が憎らしいのか、すべてがすんなりと臓腑へと落ちてゆく。
「天哥々……」
誰を呼んだのだろう。眼前で今まさに拳を打たんとしている男をか、それとも幼き日について回った兄をか。
何も成長していないじゃあないか。少しも大人になれていないじゃあないか。焦がれ追い求めるものは、今も昔も変わらず兄なのだと思い知る。
「ティエンやめてーーッ!」
少女の高い声によって麗祥はハッと我に返った。
頭を動かして声のほうを振り向くと、少女が背後から天尊の腰に抱きついた。
「この人を殺しちゃダメ!」
「何故だ」
「自分の弟だよ! ダメに決まってるッ」
「殺さなければアキラが死ぬ」
「何かほかの方法を考えてッ」
天尊は自分の腰に回された白の腕に目を落とした。
「腕が熱いな、アキラ」
天尊が振り向き、白は腰元から腕を放した。
天尊は白の腕を下から掬い上げた。青黒い紋様はすでにかなりの熱を持っており、周囲の皮膚が赤く腫れ上がっている。
天尊が親指の腹で青黒い紋様に触れ、白は不意に走った鋭い痛みにウッと顔を顰めた。
「もう時間がそんなにない」
天尊の二本の指が麗祥に向いた。
ズドンッ! ――指先から放たれた光線が麗祥の腕を穿った。
ドンッ、ドンッ、と続け様にほかの腕や足も撃たれた。
「グッ! ッアア……ッ」
麗祥は地面に蹲って苦痛に喘いだ。
「ティエン!」
「殺さないとしたら拷問でもするしかない」
天尊は麗祥を見下ろして冷徹に放言した。
白は天尊の手を振り払った。麗祥を背中に庇って天尊の真正面に立ちはだかった。
「自分の弟が苦しんでるところ見て平気なのッ」
天尊が一歩近づくと、白はジリッと後退りしそうになった。
重苦しい湿気を纏った異様な空気と、無慈悲な目。かつて天尊と言い合いになったときもこれほどの威圧感はなかった。
天尊は腰を折って地面に片膝を突き、白の前に傅いた。
「お前を苦しめているのがその弟だ。お前を苦しめるものは何であれ敵だ。お前の敵は俺が排除する。俺はお前のためなら何でもする」
鈍い紫色の瞳をした天尊は、冷酷な台詞を口にしながら微笑んだ。
違う、これは白の知る天尊ではない。共に時間を過ごした、同じ家で暮らした、白が好きだと思った、天尊ではない。
優しく微笑むその容貌は空々しく、きっとそこには愛情などない。壊したいから壊す、刃向かうから叩きのめす、それだけの力があるから思うが儘に揮う。それはつまり、愛情よりも破壊衝動が勝る。
「ッ……違う。そんなことをしてほしいんじゃない。ボクはキミに……優しい人でいてほしいんだよ」
白は天尊の首に両腕を回してそっと抱きついた。
「優しいティエンに戻ってよ……」
血と汗と土と、煙草のニオイ。この人が天尊である痕跡。痕跡と思い出を残して一体何処へ去ってしまったのだろう。
寂しさと悲しさと、背筋の冷たさ。この悲しさは、愛しい人が去ってしまう途方もない喪失感に似ているだろうか。
――戻ってきてよ、ティエン。キミがもう一度戻ってきてくれますように、捕まえられますように、これ以上苦しみませんように、傷つくことがありませんように――……そうただただ願った。
「アキラ……」
天尊は白の背中にソッと手を置いた。
小刻みに震えている。泣いているのか。悲しませて泣かせてしまったのか。このように小さくて脆いお前を。お前の敵をことごとく討ち滅ぼし、お前をすべての危難から護りたいのに。
〈眠てぇこと言いやがる。ぶっ殺すぞ〉
突然、天尊の脳内に声が響いた。
頭のなかに誰かいるような大音響。鼓膜を震わすのではなく自分の内から聞こえた確信があった。何故なら、その声は今までも脳内の片隅でコソコソと囁き続けていたからだ。得体の知れないノイズは耳障りではあったが、絶大な力を揮う万能感の前にはどうでもよいことだった。
〈誰も俺をとめられねェ、俺の邪魔はさせねェ。邪魔をするなら殺す。たとえこの女でもだ〉
「クソッ! 違うッ」
天尊は〝声〟を振り払うために頭を強く振った。
「ティエン……?」
白は天尊の異変を感じ取った。天尊の表情を窺おうと離れようとしたが、天尊のほうから白の背中を握り締めてきた。
〈ガタガタガタガタうるっせェ。何もできねェクセに綺麗事ばっかりほざきやがって。この俺に弱ェヤツが指図してんじゃねェ〉
「……違う。黙ってろ」
〈弱ェヤツの言い分なんざ知ったこっちゃねェ。目障りなモンは全部消し炭にしてやらァ。1秒でカタが付く〉
「勝手なことを言うな。黙れッ」
〈強ェヤツが何より正しい。力が正義だ。弱ェヤツは死ね。とっととおっ死ね〉
「うるせェ……」
〈ぶっ壊す。何もかも真っ平らにしてやる〉
「うっせェんだよクソ野郎ッ!」
「ティエン!」
天尊の脳内のノイズ――囁き声の喧騒――或る種の混乱状態を打ち破ったのは白の声だった。
我を取り戻した天尊の視界いっぱいに白の顔があった。心配そうな表情に気づいた途端に、脳内のノイズがスーッと引いていった。
「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ……」
「大丈夫? ティエン、だよね? 平気? 何ともない?」
白は天尊の額に浮いた脂汗を手で拭ってやる。
〈ぶっ殺す!〉
「うるせえッ」
ダァンッ! ――天尊は地面を拳で叩いた。
〝声〟はいまだ天尊を離さない。脳内に直接響く声。内なる声。つまりは、自身の根底に抱える本性。理性で蓋をして抑圧している破壊衝動の呼び声。
一度は遠退いた〝声〟が、白の声を押し退けて怒濤のように一気に寄せてくる。気を緩めると声に頷いてしまいそうになる。心地良く気怠い微睡みに身を委ねてしまいそうになる。
「クソがッ。乗っ取られてたまるか……。出てくんじゃねェ……ッ」
ティエン、ティエン、と白は何度も名前を呼んだが、最早天尊の耳には届いていなかった。
〈何もかもぶち壊す‼〉
バキッメリメリメリィッ!
天尊の背中の肉を突き破って体内から何かが飛び出してきた。
それは、黒い火焔が天に向かって立ち上っているようだった。焼け焦げたように真っ黒で、天尊自身よりも巨大で、コウモリのように節張って皮膜があり、空に拡がる巨大な暗幕――――禍々しい。
白は目を見開いて声を失した。何度も見た天尊の半透明の翼とはまったく異なる、異形の翼。
「じゃあ死ね」
白は弾かれたように顔を上げた。腕の発熱に苦しみながらも、天尊の発言は聞き過ごせるものではなかった。
「ティエン……ッ」
「アキラ待って。動かないで。解析中だから」
耀龍が、立ち上がろうとした白の腕を捕まえて引き留めた。視点は白の腕に浮いた青黒い紋様に固定されていた。
「耀龍様。解析には如何程お時間を要しそうですか」
「麗のヤツ、あんな短時間でしっかりプロテクトを仕込んでる。プログラム自体は複雑なものじゃないハズなのに……ッ」
白は耀龍の衣服をガッと掴んだ。
「ティエンを止めなきゃ、あの人を殺しちゃう! ロンも止めてよ!」
「そんなことしてる間にアキラの腕がなくなるッ」
耀龍は眉間にいくつも皺を刻み、実に深刻な表情だった。白の手首が無くなる可能性があるからだけではない。ふたりの兄の熾烈な諍い、その然らぬ結末を噛み締めていた。
「天哥々を怒らせたのは麗だ。麗だってこんなことすればどうなるかくらい分かってただろうに。そうだ、分かってたんだ。分かってて天哥々に逆らった。だったら仕方のないことなんだよ」
生まれたときから競り合いながら多くの時間を共に過ごした兄弟。だから麗祥の心が分かってしまう。あれはおそらく、自身の使命と兄への愛情の間で押し潰されている。故に、とうに死を覚悟している。どちらのためにも死ねる。
――麗、お前は莫迦だ。自ら望んで責務を負い、命令される立場を選び、それに殉じるだなんて。
兄様たちの真似をしてるつもりか。どれだけ真似をしたって、幸せになれないなら無意味じゃないか。どれだけ近くに行こうとしたって、嫌われたら最悪じゃないか。
お前は何になりたかったんだよ。お前は何が欲しかったんだよ。本当に愚かで、直向きで、純粋な……オレの同胞。
ぽたたっ。――耀龍の手に雫が降りかかった。
白の腕を這う紋様の上にも落ち、その発する熱によってすぐさま蒸発して消えた。
「なんでそんな簡単に諦めちゃうんだよ……っ」
耀龍が白の顔を見ると、その大きい瞳いっぱいに涙を溜めていた。黒い瞳から溢れた一滴が、またポツンと耀龍の手の上に落ちた。
何故、泣く。兄と弟が殺し合う。それは悲劇だが、互いに退けぬ、互いに自身の大切なものが懸かっているのだから避けがたいことだ。
しかしながら、白はそれを受け容れない。彼らの死生観や価値観などどうでもよい。死んでほしくない。そのような単純な願いをいとも容易く口にする。彼らよりも諦めが悪く、優しい。彼らとは異なる世界に生きているから、こんなにも素直に泣けるのだ。
「あの人のこともティエンのことも諦めないでよ! ふたりが死んじゃったら悲しいでしょ! ボクは死なせたくない……!」
白が口にした願いが、耀龍の脳内を反響して胸の奥へと呑みこまれてゆく。
熱い。胸も背中も、身体の中心が急激に熱くなる。純真無垢な少女によって吹きこまれた願いが、熱を持って留まる。
「…………。……うん」
耀龍は小さく頷いた。
「カカカカカッ」
悪魔が、嗤っている。
地面に両膝を突いて振り仰ぐ麗祥の視界には、天尊だけだった。天尊の周辺をどす黒い気流が渦巻く。おそらくそれは天尊が意識するものでもなければ、制御するものでもない。
パキパキッ、と気流に巻き上げられた枯れ枝や乾いた土が割れる音。黒い気流が生み出す重苦しく禍々しい蒸した空気のなか、何とも言えない臭いが立ち篭める。
天尊が拳を振り上げた。稲妻を巻きながら圧倒的質量を叩きこむそれは《雷鎚》たる由縁。
麗祥はヘルメットが如く自身が圧壊されることを想像しても、死を覚悟してしまえば動揺はなかった。まだ立ち上がり抵抗する力は残っているが、力の差を考えれば徒労に終わることは目に見えている。
何よりも、自身の矜恃と兄への愛情との間で揺れ動くのには、いささか疲れた。兄に逆らい、兄と敵して、兄と争い、心を磨り減らした。心が血を流す苦行から解放されたいと、もう願ってしまっている。
――いっそ殺してくれて構わない。私が貴男を手にかけるくらいならば。
脳内は大変静かに終わりを待った。
――「大きくなったら連れて行ってくださいますか」
「天哥々をお助けできるような、立派な大人になります」――
静まり返った頭蓋のなかに幼い子どもの声が響いた。
ああ、これは自分と弟・耀龍の思い出だとすぐに気づいた。何故早く大人になりたいと思ったか、何故兄のようになりたいと思ったか、何故こんなにもあの人間の少女が憎らしいのか、すべてがすんなりと臓腑へと落ちてゆく。
「天哥々……」
誰を呼んだのだろう。眼前で今まさに拳を打たんとしている男をか、それとも幼き日について回った兄をか。
何も成長していないじゃあないか。少しも大人になれていないじゃあないか。焦がれ追い求めるものは、今も昔も変わらず兄なのだと思い知る。
「ティエンやめてーーッ!」
少女の高い声によって麗祥はハッと我に返った。
頭を動かして声のほうを振り向くと、少女が背後から天尊の腰に抱きついた。
「この人を殺しちゃダメ!」
「何故だ」
「自分の弟だよ! ダメに決まってるッ」
「殺さなければアキラが死ぬ」
「何かほかの方法を考えてッ」
天尊は自分の腰に回された白の腕に目を落とした。
「腕が熱いな、アキラ」
天尊が振り向き、白は腰元から腕を放した。
天尊は白の腕を下から掬い上げた。青黒い紋様はすでにかなりの熱を持っており、周囲の皮膚が赤く腫れ上がっている。
天尊が親指の腹で青黒い紋様に触れ、白は不意に走った鋭い痛みにウッと顔を顰めた。
「もう時間がそんなにない」
天尊の二本の指が麗祥に向いた。
ズドンッ! ――指先から放たれた光線が麗祥の腕を穿った。
ドンッ、ドンッ、と続け様にほかの腕や足も撃たれた。
「グッ! ッアア……ッ」
麗祥は地面に蹲って苦痛に喘いだ。
「ティエン!」
「殺さないとしたら拷問でもするしかない」
天尊は麗祥を見下ろして冷徹に放言した。
白は天尊の手を振り払った。麗祥を背中に庇って天尊の真正面に立ちはだかった。
「自分の弟が苦しんでるところ見て平気なのッ」
天尊が一歩近づくと、白はジリッと後退りしそうになった。
重苦しい湿気を纏った異様な空気と、無慈悲な目。かつて天尊と言い合いになったときもこれほどの威圧感はなかった。
天尊は腰を折って地面に片膝を突き、白の前に傅いた。
「お前を苦しめているのがその弟だ。お前を苦しめるものは何であれ敵だ。お前の敵は俺が排除する。俺はお前のためなら何でもする」
鈍い紫色の瞳をした天尊は、冷酷な台詞を口にしながら微笑んだ。
違う、これは白の知る天尊ではない。共に時間を過ごした、同じ家で暮らした、白が好きだと思った、天尊ではない。
優しく微笑むその容貌は空々しく、きっとそこには愛情などない。壊したいから壊す、刃向かうから叩きのめす、それだけの力があるから思うが儘に揮う。それはつまり、愛情よりも破壊衝動が勝る。
「ッ……違う。そんなことをしてほしいんじゃない。ボクはキミに……優しい人でいてほしいんだよ」
白は天尊の首に両腕を回してそっと抱きついた。
「優しいティエンに戻ってよ……」
血と汗と土と、煙草のニオイ。この人が天尊である痕跡。痕跡と思い出を残して一体何処へ去ってしまったのだろう。
寂しさと悲しさと、背筋の冷たさ。この悲しさは、愛しい人が去ってしまう途方もない喪失感に似ているだろうか。
――戻ってきてよ、ティエン。キミがもう一度戻ってきてくれますように、捕まえられますように、これ以上苦しみませんように、傷つくことがありませんように――……そうただただ願った。
「アキラ……」
天尊は白の背中にソッと手を置いた。
小刻みに震えている。泣いているのか。悲しませて泣かせてしまったのか。このように小さくて脆いお前を。お前の敵をことごとく討ち滅ぼし、お前をすべての危難から護りたいのに。
〈眠てぇこと言いやがる。ぶっ殺すぞ〉
突然、天尊の脳内に声が響いた。
頭のなかに誰かいるような大音響。鼓膜を震わすのではなく自分の内から聞こえた確信があった。何故なら、その声は今までも脳内の片隅でコソコソと囁き続けていたからだ。得体の知れないノイズは耳障りではあったが、絶大な力を揮う万能感の前にはどうでもよいことだった。
〈誰も俺をとめられねェ、俺の邪魔はさせねェ。邪魔をするなら殺す。たとえこの女でもだ〉
「クソッ! 違うッ」
天尊は〝声〟を振り払うために頭を強く振った。
「ティエン……?」
白は天尊の異変を感じ取った。天尊の表情を窺おうと離れようとしたが、天尊のほうから白の背中を握り締めてきた。
〈ガタガタガタガタうるっせェ。何もできねェクセに綺麗事ばっかりほざきやがって。この俺に弱ェヤツが指図してんじゃねェ〉
「……違う。黙ってろ」
〈弱ェヤツの言い分なんざ知ったこっちゃねェ。目障りなモンは全部消し炭にしてやらァ。1秒でカタが付く〉
「勝手なことを言うな。黙れッ」
〈強ェヤツが何より正しい。力が正義だ。弱ェヤツは死ね。とっととおっ死ね〉
「うるせェ……」
〈ぶっ壊す。何もかも真っ平らにしてやる〉
「うっせェんだよクソ野郎ッ!」
「ティエン!」
天尊の脳内のノイズ――囁き声の喧騒――或る種の混乱状態を打ち破ったのは白の声だった。
我を取り戻した天尊の視界いっぱいに白の顔があった。心配そうな表情に気づいた途端に、脳内のノイズがスーッと引いていった。
「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ……」
「大丈夫? ティエン、だよね? 平気? 何ともない?」
白は天尊の額に浮いた脂汗を手で拭ってやる。
〈ぶっ殺す!〉
「うるせえッ」
ダァンッ! ――天尊は地面を拳で叩いた。
〝声〟はいまだ天尊を離さない。脳内に直接響く声。内なる声。つまりは、自身の根底に抱える本性。理性で蓋をして抑圧している破壊衝動の呼び声。
一度は遠退いた〝声〟が、白の声を押し退けて怒濤のように一気に寄せてくる。気を緩めると声に頷いてしまいそうになる。心地良く気怠い微睡みに身を委ねてしまいそうになる。
「クソがッ。乗っ取られてたまるか……。出てくんじゃねェ……ッ」
ティエン、ティエン、と白は何度も名前を呼んだが、最早天尊の耳には届いていなかった。
〈何もかもぶち壊す‼〉
バキッメリメリメリィッ!
天尊の背中の肉を突き破って体内から何かが飛び出してきた。
それは、黒い火焔が天に向かって立ち上っているようだった。焼け焦げたように真っ黒で、天尊自身よりも巨大で、コウモリのように節張って皮膜があり、空に拡がる巨大な暗幕――――禍々しい。
白は目を見開いて声を失した。何度も見た天尊の半透明の翼とはまったく異なる、異形の翼。
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