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Kapitel 13:雷鎚
神鎚 03
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つーーー。
天尊は頬を生温かいものが伝ってくるのを感じた。自分の頬に触れて指先で拭い取ってみると、ぬるりとした赤い液体。
「あン? 血ィ?」
制約の無効化よりによって外傷は癒えた。以降負傷した覚えも無い。血液は眼球から流れ出ていた。
現況の天尊にとっては取るに足らないこと。手の甲でグイッと一気に拭った。
ルフトの視界からフッと天尊の姿が消えた。今の今まで視界に収めていたはずなのに。
ギクッと身構えた瞬間、突然天尊が眼前に現れた。
完全に不意を突かれ、視界の外から迫る手を躱せなかった。喉元を掴まれて片手で持ち上げられた。喉が締まって呼吸ができずバタバタと手足を動かした。
「グッ、カッ……アッ……」
「ルフト……ッ!」
ヒンメルは気力を振り絞った。もう動かないと諦めかけた手を懸命に持ち上げてルフトに伸ばした。
しかしながら、白髪の悪魔はそれを看過しなかった。立ち上がることも儘ならないヒンメルの身体を、無情にガゴンッと蹴り飛ばした。ヒンメルは地面に倒れこんだ。
「ふッ、はははははははッ!」
天尊は苦悶に歪んだルフトの表情を眺めて笑声を上げた。
口を開けば勝手に笑みが零れる。誰も彼も必死な面持ちをするのが、苦悶する様が、絶望し悲嘆に暮れる者どもが、喜劇のように面白可笑しい。
両足を大地に着けてしっかりと立つことが、思いきり拳を握ることが、肺深くまで息をすることが、このような基本的なことが、こんなにも心地良く感じるのは初めてだ。足を踏み出せば大地を砕き、命令ひとつでドラゴンを使役し、黒雲を呼び天候をも支配する。
これが愉悦でないわけがなかろう。微酔いのように心地良く、エクスタシーのようにゾクゾクする。
――誰も俺を傷つけられない。誰も逆らえない。誰も斃せない。
何でもできる。何も恐ろしくない。逐一考えを巡らせて正当化する必要性などあるか。殺したいから殺す。壊したいから壊す。誰もそれを咎めることなどできない。
俺は強いからだ。強者の蛮行を断罪する神などいない。救いを求めるべき神などこの世にいない。
だから弱者は血反吐を吐いて這いずり回って息絶える。自分自身すらも救えない敗者に叶えられる願いなどないのだ。無力な者は黙って俺の前に平伏して踏み躙られろ。
――今度はハッキリとティエンの声が聞こえた……。
耀龍による白の治療は続いていた。
白は浅い睡眠と覚醒を繰り返す微睡んだ意識のなかで、遠くに天尊の声を聞いた。好き勝手に遊び回る子どものように愉快そうな高らかな笑声。
耀龍の真横に控えていた縁花は、ふと、白の傷口に翳した耀龍の手が小刻みに震えていることに気づいた。
「耀龍様。御気分が優れないのでは」
「イヤ、特には。何ともないよ」
耀龍は縁花のほうへ顔を向けずに答えた。本人にも自覚はなかった。
(無理もない。A級とはいえ、実戦経験などお有りではないのだから)
耀龍は、軍人として名を馳せる天尊とも、貴人に仕え身を挺して護る縁花とも異なる。自由気儘な学生の身分であり、汗水垂らす必要などない、切った張ったをする必要などない、貴族の令息。高い能力を有してこそいれど、それを実際に費やす機会などない。矜持と怨恨を掲げた命懸けの遣り取り、傷つき倒れて今にも命を散らさんとする人々、このような生々しい現場に臨場したことはなかった。
白は再びゆっくりと瞼を持ち上げた。いたたっ、とわずかに声を漏らして身動きをした。
「動いちゃダメだって」
「もうだいぶ痛くないから大丈夫」
「だからそれはオレが痛覚を麻痺させてるだけなの」
「ありがとう、ロン」
「そういうことじゃなくて」
白は上半身を起こそうとして地面に肘や手の平をついた。その拍子に傷口からツキーンと痛みが走った。その痛みを堪えて顔を顰めつつ、ヨロヨロと上半身を起こして立ち上がった。
その目線は天尊のほうへ向いていた。
「ティエンのところに……行かないと」
「何で」
「ティエンの声がしたから」
「危ないからここから動いちゃダメだ。ここにいれば縁花が守ってくれる。オレには聞こえなかった。天哥々は何も言ってないよ」
耀龍はフルフルと首を左右に振った。白を引き留めるための嘘ではなく、治療に集中していたからか、本当に耀龍には天尊の声は聞こえなかった。
白は、そんなはずはないとは言わなかった。「そうかもしれないね」と笑った。
「でも、ティエンを止めなくちゃ。ティエンが……あの人たちを殺しちゃうかもしれないから」
「ダメだ、アキラ。今の天哥々は普通の状態じゃない」
耀龍は思わず白の手を捕まえた。
白が痛みに肩を撥ねて顔を顰め、耀龍は「ゴメン」と慌てて手を離した。
「ティエンが普通じゃないのなんていつものことだよ」
「そうじゃないッ」
耀龍は突然、声を大きくした。その表情には余裕がなかった。
「そうじゃないんだ……普通じゃないなんて、そんな単純なことじゃなくて……もしかしたら天哥々は――」
――ダメだ。アキラは人間だ。こんなことをアキラに言ってもどうにもならない。オレにだってどうにもできないことなのに。
「大丈夫だよ」
白はハッキリと言葉にした。耀龍がとても不安そうにするから、安心させようと思って。
子どもをあやすのはお手の物だ。こちらが動揺を見せてはいけない。何もできなくても、何ができるのか分からなくても、何でもないことのように泰然と笑ってみせる。
「大丈夫だからそんなに心配しないで、ロン。ティエンを連れて、早く家に帰ろう」
耀龍は顎を上げ、白の顔を見上げた。
嗚呼、笑うのか。渺々と吹く風が悪鬼の嗤いのように響き、遠くから苦痛に喘ぐ声が谺し、湿っぽい血と埃の臭いが立ち籠める、現世にぽっかりと生じた辺獄のようなこの場所で、少女は優しく微笑んだ。
蒼白い顔、細い腕、小さな躰、そのような脆弱なものしか持たないのに、どうしてそんなにも優しくなれるのだ。
――キミはオレにできないことをする。キミはオレとは違うもの。キミは一体何者だ。
白の腕を捕まえている耀龍の手に、縁花がそっと手を置いた。耀龍は不思議そうに縁花を見て、自然と白から手が離れた。
縁花は白の顔を真っすぐに見た。
「お行きなさい、姑娘」
耀龍は縁花の言葉を聞いて驚いた。自分の意思とは真逆の言葉をこの侍従が口にするとは思わなかった。
耀龍がまた白を捕まえようとした手を、白に届くその前に縁花が捕まえた。
「縁花!」
「姑娘。貴女は誰に命じられることもなく、貴女が心から願うことをしてよいのです」
白はコクッと頷いた。クルッと耀龍と縁花に背中を向けて駆け出した。
白を追おうと立ち上がった耀龍の前に、縁花が素早く立ちはだかった。
壁のように仁王立ちになった縁花に対して、耀龍は怪訝な目線を向けた。いつも従順で優秀な侍従が、この緊急事態こそ反抗的になる理由が分からなかった。
「縁花。どうして」
「貴方様はいらっしゃってはなりません、耀龍様」
「アキラは行かせるのにオレの邪魔はするのか。オレは天哥々の弟、赫の末子だぞ!」
「御身が何たるかを自覚しておられるのならば、私が申し上げることを御理解いただけるはずです。貴方様は赫=ニーズヘクルメギルの若君、統治者となるべく生を受けられたのです。多くの人々を正しく導く責務がおありです。それは何物にも優先します。御自分の意思で行く道をお決めになることは叶いません」
耀龍はグッと拳を握り締め、喉元まで出かかった悪罵じみた反論を呑みこんだ。
耀龍はいまだ自由気儘な身分ではあるが、自身をよく理解している。自身が置かれている立場も、どのように意思決定すべきであるかも、どう立ち振る舞うべきなのかも。だから、縁花の発言がまったく正しいことを否定できなかった。
――オレはキミのようにはできない。オレはキミとは違うもの。オレは自身が何者であるか知っている。
キミはオレよりもひどく脆弱で無力で、ずっと優しく、際限なく与えて、限りなく自分を犠牲にする……憐れな生き物。
どんっ! ――白は〝何か〟に体当たりしてしまった。
天尊に向かって一直線に駆け寄っていたが、その途中に見えない〝何か〟があった。
「何? 何かある? 壁?」
手の平で宙を探ると硬質な〝何か〟に行き当たった。眼前にあるのにまったく以て視認できず、そこに存在するのが信じられない。そこで景色が歪んだり色が変わったりすることもなく、完全なる透明だ。
「退けて! コレを退けてよティエン!」
白は〝壁〟をドンドンッと叩いた。
それでどうにかなるとは思えなかったが、そもそもどうにかする術を持たないから、その程度のことしかできなかった。
天尊はこちらに背中を向けており、ルフトの持ち上げたまま振り向きもしなかった。〝壁〟の所為で聞こえないのかもしれない。白は思いっきり大声で叫んだ。
「退けろってば!」
不可視の〝壁〟を叩いて幾度目か、突然フッと消失した。
全力で叩いていた白は、勢い余って前方に転げた。すぐに立ち上がって天尊の視界へと駆けこんだ。
天尊の前に回りこんで顔を見た途端、瞬時に眉根を寄せた。
「ティエン……どうしたの、その目」
天尊は目から流れ出た赤い液体を一度は拭ったが、再び頬に一本の筋を作っていた。白はそれにも驚いたが、何よりも驚いたのは、乳白色であるはずの天尊の瞳が濃い紫に色づいていたことだった。
乳白色の瞳を見慣れた今となっては、ギラギラと光る紫眼に強い違和感を覚えた。まるで別人のようだ。
「目なんかどうでもいい。今はとにかく気分がイイ」
天尊は白い歯を剥き出しにしてニィッと笑った。
「俺は強い。今なら何だってぶっ壊せる。コイツらは手も足も出せん。指ひとつでぶち殺せる」
白は少し、恐いと思ってしまった。
血涙を流しながら冷笑に歪んだ顔。悪徳の権化と遭遇したような根源的な感情のざわめきを感じる。恐怖心か嫌悪感か、一歩距離を置きたくなった。
これは誰だ。何者だ。本当に天尊か。瞳の色はまったく変わってしまった。その心は変わらずに天尊のままなのか。
「もう殺さないって、言ったよね」
「……あの時とは違う。アイツらはアキラを拉致しようとしたが、コイツらはアキラを人質にして、怪我までさせた。殺すに充分だ」
「そんなことしなくていい。ケガはロンが治してくれた。ボクは無事だよ」
天尊はルフトから手を離した。子どもが遊び飽きた玩具を放るように呆気なく手放した。
ルフトは地面に崩れ落ち、背中を丸めて激しく咳きこんだ。
「今日コイツらを見逃してどうなると? 今日はアキラの命は助かった。しかし、二度目もそうなる保証はない。生き残ったコイツらは、経験によって知恵をつけて周到になる。一度でも歯向かったヤツは殺しておくべきだ」
ドッス! ――天尊は地面に蹲っているルフトの腹部を爪先で蹴飛ばした。
「やめて!」と白は声を上げた。
天尊は白の頬にそっと手を添えた。敵と接するのとは正反対に、白には柔らかく触れる。
「だが、アキラにはそんな覚悟はできんだろう。アキラは優しい女だ。だから、俺が手を下す。お前に害を為すものは、俺が全部ぶっ壊してやる」
白はふるふると首を左右に振り、天尊の服を掴んだ。
「そんなことしないで……ッ。ボクは、ティエンが殺したり壊したりしなくて、優しい人でいてくれるほうがいい……ッ」
天尊が力強い言葉を発する度に、白を堪らなく不安にさせた。恐ろしい怪物になってしまうのではないかと。瞳の色が変わり、心が入り替わり、怪物になってしまうのかもしれない。
怪物になんてなってしまわないで。それがもうひとりの貴方だとしても。それが紛れもなく貴方なのだとしても。一時の偽りでも構わないから、優しい貴方でいて。
「何故だ?」
「なぜって……」
「それをやる力があるのに、やらないでいる理由が解らん」
壊すことよりも、壊さないほうに理由が要るのか。力を持つとはこういうことか。力を持つ者自身がその力に目が眩み、力を揮うことが目的にすり替わり、力そのものが正義となる。力を持つ者こそ、力を求める者こそ、力に魅入られやすい。純然たる力に惹かれない者はいないのだから。
ぽたたっ。――間近で天尊を見上げる白の顔に、天尊の目から溢れ出た緋色の雫が降りかかった。
生温かい。本物の涙のように。紅玉のように綺麗に輝いてぽとりと落ちる。白磁の肌に真紅の涙を流しながら微笑む貴方は、この世のものならざるほど強く美しい。
そのようなものを手に入れるために何を手放したのだろう。愚かで憐れだ。悲しく不憫だ。自らの魔力に喰らいつかれた悪魔を、愛しく哀れに思うわたしはきっと、断罪されるに値するほどに愚かだ。
ペキペキッ……ミシッ。バキンッ!
「ウッ……ガアア……ッ」
白は呻き声に気づいてハッとした。
ルフトとヒンメルが、上から重たいものに押しつけられたかのように地面にへばりついていた。
「体が、潰れッ……!」
白は何が起こっているのか理解できず途惑った。
天尊はルフトへ手の平を向けた。
ボキンッ! ――重圧に耐久できずルフトの腕はへしゃげた。
「ウアアアアーッ!」
ルフトの絶叫に弾かれるようにして、白は天尊の服に両手で縋った。情況の理解は追いつかないが、天尊がやったという確信はあった。
「やめて! ティエンやめて!」
天尊は白と目を合わせず、苦悶する弱者を見下し、愉悦に口許を歪めた。
白は、自分の声はもう天尊には届かないのだと気づいた。
このように近くにいても声が届かないなら、このように近くにいても振り向いてくれないなら、このように近くにいても遠くを見るなら、一体何のために一緒にいると約束したのだろう。
自分と天尊がまったく異なる生き物だとは自覚した。生きる世界も境遇も、価値観も善悪の判断も、良識や道徳も一致しない。しかし、傍にいれば、言葉を交わせば、一緒にいろいろなことを経験すれば、解り合えると信じた。
――あなたを信じた。信じている。信じていたい。
「嘘つき!」
白からその言葉が投げかけられた瞬間、天尊の眉がピクッと撥ねた。
天尊はゆっくりと、おそるおそる、白のほうへ目線を向けた。深く俯いた白の表情を、高慢な天尊の位置からは窺い知れなかった。
「ボクが嫌がることはしないって言ったクセに、ティエンの嘘吐き」
白から投げかけられた、罵倒とも言えない否定の言葉。それは紛れもなく嫌悪だと理解して思考が一時停止した。その直後、天尊の腕を悪寒のようなものが駆け抜けた。
急激に酔いが覚めるように頭から熱が引いてゆく。
これは夢か現か――。天尊は、白が自分を否定する情況を現実だとは思いたくなかった。ならば、ひどく居心地の良かった〝今まで〟が夢か。
頭を軽く振ると一瞬、眩暈に似た感覚がした。寝惚けた頭を無理矢理叩き起こすような不快感。何かに浮かされていた。熱か、白昼夢か、己自身の魔力か。考えることを已め、力の奔流に身を任せるのは、すべてを委ねてしまうのは、ひどく心地よかった。
天尊は慌てて地面に片膝を突いて白の顔を下から覗きこんだ。
白は両目に涙を溜めていた。天尊が頬に触れると、涙がポロポロと溢れ出た。
涙のぬくもりに触れ、自分はいま現実に立っているのだと気づく。力が齎す怒濤の快感の前には、正気などそれほどまでに稀薄だ。
「お願いだから……もうやめてよ……」
しかしながら、少女の涙に何が替えられるだろう。愛しい愛しいこの想いに勝るものなど何もない。神の如き力も惜しくはない。すべてを儘にする全能感も及ばない。敵を完膚なきまでに討ち滅ぼす冷徹さなど捨てよう。
今となっては欲しいものはそれほど多くはない。この涙を止めることさえできればよい。小さな体を抱き締めることさえできればよい。愛する少女の傍にいることさえできればよい。
「分かった。分かったから泣くな。頼むから、泣かないでくれ」
天尊は白の後頭部を優しく包み、その狭い額に自分の額を押しつけた。
「アキラの嫌がることはしない。何でもアキラの望む通りにする。だから……そんな顔で俺を見るな」
天尊は白の細い体をギュッと抱き締めた。縋りつくように。足下にキスをするように。
自身の傲慢さを恥じ、行いを悔い、力を御し、自分が間違っていたと、一方的に許しを請う。とにかく許されたい。厭われたくない。離れていかないでくれと願う。そうだ、心の底から願ったのは、この少女から愛されることだけだったはずだ。
――「ティエンは、優しい人だよ」――
微笑みながらそう言った白の声が、脳内で再生される。鼓膜を擽る感触さえ蘇ってきてじんわりと胸に染み入る。
それを言うのは誰でもよいわけではない。白が言ってくれるからこそ価値がある。白にそう想われていたい。
白はグズッと鼻を啜り、袖で涙を拭った。
「うん……。もう泣かないから……家に帰ろ」
「ああ。泣かせて悪かった。帰ろうな」
始めから白の望みはそれだけだった。
天尊は額に皺を寄せてバツが悪そうな笑顔を作った。そのようなことすら失念してしまっていたことを恥じた。
カッ。
突然、夜空が閃光を放った。
上空から雲を割って大地に突き刺さる光の柱、そのなかにひとつの黒い影が見えた。
天尊は頬を生温かいものが伝ってくるのを感じた。自分の頬に触れて指先で拭い取ってみると、ぬるりとした赤い液体。
「あン? 血ィ?」
制約の無効化よりによって外傷は癒えた。以降負傷した覚えも無い。血液は眼球から流れ出ていた。
現況の天尊にとっては取るに足らないこと。手の甲でグイッと一気に拭った。
ルフトの視界からフッと天尊の姿が消えた。今の今まで視界に収めていたはずなのに。
ギクッと身構えた瞬間、突然天尊が眼前に現れた。
完全に不意を突かれ、視界の外から迫る手を躱せなかった。喉元を掴まれて片手で持ち上げられた。喉が締まって呼吸ができずバタバタと手足を動かした。
「グッ、カッ……アッ……」
「ルフト……ッ!」
ヒンメルは気力を振り絞った。もう動かないと諦めかけた手を懸命に持ち上げてルフトに伸ばした。
しかしながら、白髪の悪魔はそれを看過しなかった。立ち上がることも儘ならないヒンメルの身体を、無情にガゴンッと蹴り飛ばした。ヒンメルは地面に倒れこんだ。
「ふッ、はははははははッ!」
天尊は苦悶に歪んだルフトの表情を眺めて笑声を上げた。
口を開けば勝手に笑みが零れる。誰も彼も必死な面持ちをするのが、苦悶する様が、絶望し悲嘆に暮れる者どもが、喜劇のように面白可笑しい。
両足を大地に着けてしっかりと立つことが、思いきり拳を握ることが、肺深くまで息をすることが、このような基本的なことが、こんなにも心地良く感じるのは初めてだ。足を踏み出せば大地を砕き、命令ひとつでドラゴンを使役し、黒雲を呼び天候をも支配する。
これが愉悦でないわけがなかろう。微酔いのように心地良く、エクスタシーのようにゾクゾクする。
――誰も俺を傷つけられない。誰も逆らえない。誰も斃せない。
何でもできる。何も恐ろしくない。逐一考えを巡らせて正当化する必要性などあるか。殺したいから殺す。壊したいから壊す。誰もそれを咎めることなどできない。
俺は強いからだ。強者の蛮行を断罪する神などいない。救いを求めるべき神などこの世にいない。
だから弱者は血反吐を吐いて這いずり回って息絶える。自分自身すらも救えない敗者に叶えられる願いなどないのだ。無力な者は黙って俺の前に平伏して踏み躙られろ。
――今度はハッキリとティエンの声が聞こえた……。
耀龍による白の治療は続いていた。
白は浅い睡眠と覚醒を繰り返す微睡んだ意識のなかで、遠くに天尊の声を聞いた。好き勝手に遊び回る子どものように愉快そうな高らかな笑声。
耀龍の真横に控えていた縁花は、ふと、白の傷口に翳した耀龍の手が小刻みに震えていることに気づいた。
「耀龍様。御気分が優れないのでは」
「イヤ、特には。何ともないよ」
耀龍は縁花のほうへ顔を向けずに答えた。本人にも自覚はなかった。
(無理もない。A級とはいえ、実戦経験などお有りではないのだから)
耀龍は、軍人として名を馳せる天尊とも、貴人に仕え身を挺して護る縁花とも異なる。自由気儘な学生の身分であり、汗水垂らす必要などない、切った張ったをする必要などない、貴族の令息。高い能力を有してこそいれど、それを実際に費やす機会などない。矜持と怨恨を掲げた命懸けの遣り取り、傷つき倒れて今にも命を散らさんとする人々、このような生々しい現場に臨場したことはなかった。
白は再びゆっくりと瞼を持ち上げた。いたたっ、とわずかに声を漏らして身動きをした。
「動いちゃダメだって」
「もうだいぶ痛くないから大丈夫」
「だからそれはオレが痛覚を麻痺させてるだけなの」
「ありがとう、ロン」
「そういうことじゃなくて」
白は上半身を起こそうとして地面に肘や手の平をついた。その拍子に傷口からツキーンと痛みが走った。その痛みを堪えて顔を顰めつつ、ヨロヨロと上半身を起こして立ち上がった。
その目線は天尊のほうへ向いていた。
「ティエンのところに……行かないと」
「何で」
「ティエンの声がしたから」
「危ないからここから動いちゃダメだ。ここにいれば縁花が守ってくれる。オレには聞こえなかった。天哥々は何も言ってないよ」
耀龍はフルフルと首を左右に振った。白を引き留めるための嘘ではなく、治療に集中していたからか、本当に耀龍には天尊の声は聞こえなかった。
白は、そんなはずはないとは言わなかった。「そうかもしれないね」と笑った。
「でも、ティエンを止めなくちゃ。ティエンが……あの人たちを殺しちゃうかもしれないから」
「ダメだ、アキラ。今の天哥々は普通の状態じゃない」
耀龍は思わず白の手を捕まえた。
白が痛みに肩を撥ねて顔を顰め、耀龍は「ゴメン」と慌てて手を離した。
「ティエンが普通じゃないのなんていつものことだよ」
「そうじゃないッ」
耀龍は突然、声を大きくした。その表情には余裕がなかった。
「そうじゃないんだ……普通じゃないなんて、そんな単純なことじゃなくて……もしかしたら天哥々は――」
――ダメだ。アキラは人間だ。こんなことをアキラに言ってもどうにもならない。オレにだってどうにもできないことなのに。
「大丈夫だよ」
白はハッキリと言葉にした。耀龍がとても不安そうにするから、安心させようと思って。
子どもをあやすのはお手の物だ。こちらが動揺を見せてはいけない。何もできなくても、何ができるのか分からなくても、何でもないことのように泰然と笑ってみせる。
「大丈夫だからそんなに心配しないで、ロン。ティエンを連れて、早く家に帰ろう」
耀龍は顎を上げ、白の顔を見上げた。
嗚呼、笑うのか。渺々と吹く風が悪鬼の嗤いのように響き、遠くから苦痛に喘ぐ声が谺し、湿っぽい血と埃の臭いが立ち籠める、現世にぽっかりと生じた辺獄のようなこの場所で、少女は優しく微笑んだ。
蒼白い顔、細い腕、小さな躰、そのような脆弱なものしか持たないのに、どうしてそんなにも優しくなれるのだ。
――キミはオレにできないことをする。キミはオレとは違うもの。キミは一体何者だ。
白の腕を捕まえている耀龍の手に、縁花がそっと手を置いた。耀龍は不思議そうに縁花を見て、自然と白から手が離れた。
縁花は白の顔を真っすぐに見た。
「お行きなさい、姑娘」
耀龍は縁花の言葉を聞いて驚いた。自分の意思とは真逆の言葉をこの侍従が口にするとは思わなかった。
耀龍がまた白を捕まえようとした手を、白に届くその前に縁花が捕まえた。
「縁花!」
「姑娘。貴女は誰に命じられることもなく、貴女が心から願うことをしてよいのです」
白はコクッと頷いた。クルッと耀龍と縁花に背中を向けて駆け出した。
白を追おうと立ち上がった耀龍の前に、縁花が素早く立ちはだかった。
壁のように仁王立ちになった縁花に対して、耀龍は怪訝な目線を向けた。いつも従順で優秀な侍従が、この緊急事態こそ反抗的になる理由が分からなかった。
「縁花。どうして」
「貴方様はいらっしゃってはなりません、耀龍様」
「アキラは行かせるのにオレの邪魔はするのか。オレは天哥々の弟、赫の末子だぞ!」
「御身が何たるかを自覚しておられるのならば、私が申し上げることを御理解いただけるはずです。貴方様は赫=ニーズヘクルメギルの若君、統治者となるべく生を受けられたのです。多くの人々を正しく導く責務がおありです。それは何物にも優先します。御自分の意思で行く道をお決めになることは叶いません」
耀龍はグッと拳を握り締め、喉元まで出かかった悪罵じみた反論を呑みこんだ。
耀龍はいまだ自由気儘な身分ではあるが、自身をよく理解している。自身が置かれている立場も、どのように意思決定すべきであるかも、どう立ち振る舞うべきなのかも。だから、縁花の発言がまったく正しいことを否定できなかった。
――オレはキミのようにはできない。オレはキミとは違うもの。オレは自身が何者であるか知っている。
キミはオレよりもひどく脆弱で無力で、ずっと優しく、際限なく与えて、限りなく自分を犠牲にする……憐れな生き物。
どんっ! ――白は〝何か〟に体当たりしてしまった。
天尊に向かって一直線に駆け寄っていたが、その途中に見えない〝何か〟があった。
「何? 何かある? 壁?」
手の平で宙を探ると硬質な〝何か〟に行き当たった。眼前にあるのにまったく以て視認できず、そこに存在するのが信じられない。そこで景色が歪んだり色が変わったりすることもなく、完全なる透明だ。
「退けて! コレを退けてよティエン!」
白は〝壁〟をドンドンッと叩いた。
それでどうにかなるとは思えなかったが、そもそもどうにかする術を持たないから、その程度のことしかできなかった。
天尊はこちらに背中を向けており、ルフトの持ち上げたまま振り向きもしなかった。〝壁〟の所為で聞こえないのかもしれない。白は思いっきり大声で叫んだ。
「退けろってば!」
不可視の〝壁〟を叩いて幾度目か、突然フッと消失した。
全力で叩いていた白は、勢い余って前方に転げた。すぐに立ち上がって天尊の視界へと駆けこんだ。
天尊の前に回りこんで顔を見た途端、瞬時に眉根を寄せた。
「ティエン……どうしたの、その目」
天尊は目から流れ出た赤い液体を一度は拭ったが、再び頬に一本の筋を作っていた。白はそれにも驚いたが、何よりも驚いたのは、乳白色であるはずの天尊の瞳が濃い紫に色づいていたことだった。
乳白色の瞳を見慣れた今となっては、ギラギラと光る紫眼に強い違和感を覚えた。まるで別人のようだ。
「目なんかどうでもいい。今はとにかく気分がイイ」
天尊は白い歯を剥き出しにしてニィッと笑った。
「俺は強い。今なら何だってぶっ壊せる。コイツらは手も足も出せん。指ひとつでぶち殺せる」
白は少し、恐いと思ってしまった。
血涙を流しながら冷笑に歪んだ顔。悪徳の権化と遭遇したような根源的な感情のざわめきを感じる。恐怖心か嫌悪感か、一歩距離を置きたくなった。
これは誰だ。何者だ。本当に天尊か。瞳の色はまったく変わってしまった。その心は変わらずに天尊のままなのか。
「もう殺さないって、言ったよね」
「……あの時とは違う。アイツらはアキラを拉致しようとしたが、コイツらはアキラを人質にして、怪我までさせた。殺すに充分だ」
「そんなことしなくていい。ケガはロンが治してくれた。ボクは無事だよ」
天尊はルフトから手を離した。子どもが遊び飽きた玩具を放るように呆気なく手放した。
ルフトは地面に崩れ落ち、背中を丸めて激しく咳きこんだ。
「今日コイツらを見逃してどうなると? 今日はアキラの命は助かった。しかし、二度目もそうなる保証はない。生き残ったコイツらは、経験によって知恵をつけて周到になる。一度でも歯向かったヤツは殺しておくべきだ」
ドッス! ――天尊は地面に蹲っているルフトの腹部を爪先で蹴飛ばした。
「やめて!」と白は声を上げた。
天尊は白の頬にそっと手を添えた。敵と接するのとは正反対に、白には柔らかく触れる。
「だが、アキラにはそんな覚悟はできんだろう。アキラは優しい女だ。だから、俺が手を下す。お前に害を為すものは、俺が全部ぶっ壊してやる」
白はふるふると首を左右に振り、天尊の服を掴んだ。
「そんなことしないで……ッ。ボクは、ティエンが殺したり壊したりしなくて、優しい人でいてくれるほうがいい……ッ」
天尊が力強い言葉を発する度に、白を堪らなく不安にさせた。恐ろしい怪物になってしまうのではないかと。瞳の色が変わり、心が入り替わり、怪物になってしまうのかもしれない。
怪物になんてなってしまわないで。それがもうひとりの貴方だとしても。それが紛れもなく貴方なのだとしても。一時の偽りでも構わないから、優しい貴方でいて。
「何故だ?」
「なぜって……」
「それをやる力があるのに、やらないでいる理由が解らん」
壊すことよりも、壊さないほうに理由が要るのか。力を持つとはこういうことか。力を持つ者自身がその力に目が眩み、力を揮うことが目的にすり替わり、力そのものが正義となる。力を持つ者こそ、力を求める者こそ、力に魅入られやすい。純然たる力に惹かれない者はいないのだから。
ぽたたっ。――間近で天尊を見上げる白の顔に、天尊の目から溢れ出た緋色の雫が降りかかった。
生温かい。本物の涙のように。紅玉のように綺麗に輝いてぽとりと落ちる。白磁の肌に真紅の涙を流しながら微笑む貴方は、この世のものならざるほど強く美しい。
そのようなものを手に入れるために何を手放したのだろう。愚かで憐れだ。悲しく不憫だ。自らの魔力に喰らいつかれた悪魔を、愛しく哀れに思うわたしはきっと、断罪されるに値するほどに愚かだ。
ペキペキッ……ミシッ。バキンッ!
「ウッ……ガアア……ッ」
白は呻き声に気づいてハッとした。
ルフトとヒンメルが、上から重たいものに押しつけられたかのように地面にへばりついていた。
「体が、潰れッ……!」
白は何が起こっているのか理解できず途惑った。
天尊はルフトへ手の平を向けた。
ボキンッ! ――重圧に耐久できずルフトの腕はへしゃげた。
「ウアアアアーッ!」
ルフトの絶叫に弾かれるようにして、白は天尊の服に両手で縋った。情況の理解は追いつかないが、天尊がやったという確信はあった。
「やめて! ティエンやめて!」
天尊は白と目を合わせず、苦悶する弱者を見下し、愉悦に口許を歪めた。
白は、自分の声はもう天尊には届かないのだと気づいた。
このように近くにいても声が届かないなら、このように近くにいても振り向いてくれないなら、このように近くにいても遠くを見るなら、一体何のために一緒にいると約束したのだろう。
自分と天尊がまったく異なる生き物だとは自覚した。生きる世界も境遇も、価値観も善悪の判断も、良識や道徳も一致しない。しかし、傍にいれば、言葉を交わせば、一緒にいろいろなことを経験すれば、解り合えると信じた。
――あなたを信じた。信じている。信じていたい。
「嘘つき!」
白からその言葉が投げかけられた瞬間、天尊の眉がピクッと撥ねた。
天尊はゆっくりと、おそるおそる、白のほうへ目線を向けた。深く俯いた白の表情を、高慢な天尊の位置からは窺い知れなかった。
「ボクが嫌がることはしないって言ったクセに、ティエンの嘘吐き」
白から投げかけられた、罵倒とも言えない否定の言葉。それは紛れもなく嫌悪だと理解して思考が一時停止した。その直後、天尊の腕を悪寒のようなものが駆け抜けた。
急激に酔いが覚めるように頭から熱が引いてゆく。
これは夢か現か――。天尊は、白が自分を否定する情況を現実だとは思いたくなかった。ならば、ひどく居心地の良かった〝今まで〟が夢か。
頭を軽く振ると一瞬、眩暈に似た感覚がした。寝惚けた頭を無理矢理叩き起こすような不快感。何かに浮かされていた。熱か、白昼夢か、己自身の魔力か。考えることを已め、力の奔流に身を任せるのは、すべてを委ねてしまうのは、ひどく心地よかった。
天尊は慌てて地面に片膝を突いて白の顔を下から覗きこんだ。
白は両目に涙を溜めていた。天尊が頬に触れると、涙がポロポロと溢れ出た。
涙のぬくもりに触れ、自分はいま現実に立っているのだと気づく。力が齎す怒濤の快感の前には、正気などそれほどまでに稀薄だ。
「お願いだから……もうやめてよ……」
しかしながら、少女の涙に何が替えられるだろう。愛しい愛しいこの想いに勝るものなど何もない。神の如き力も惜しくはない。すべてを儘にする全能感も及ばない。敵を完膚なきまでに討ち滅ぼす冷徹さなど捨てよう。
今となっては欲しいものはそれほど多くはない。この涙を止めることさえできればよい。小さな体を抱き締めることさえできればよい。愛する少女の傍にいることさえできればよい。
「分かった。分かったから泣くな。頼むから、泣かないでくれ」
天尊は白の後頭部を優しく包み、その狭い額に自分の額を押しつけた。
「アキラの嫌がることはしない。何でもアキラの望む通りにする。だから……そんな顔で俺を見るな」
天尊は白の細い体をギュッと抱き締めた。縋りつくように。足下にキスをするように。
自身の傲慢さを恥じ、行いを悔い、力を御し、自分が間違っていたと、一方的に許しを請う。とにかく許されたい。厭われたくない。離れていかないでくれと願う。そうだ、心の底から願ったのは、この少女から愛されることだけだったはずだ。
――「ティエンは、優しい人だよ」――
微笑みながらそう言った白の声が、脳内で再生される。鼓膜を擽る感触さえ蘇ってきてじんわりと胸に染み入る。
それを言うのは誰でもよいわけではない。白が言ってくれるからこそ価値がある。白にそう想われていたい。
白はグズッと鼻を啜り、袖で涙を拭った。
「うん……。もう泣かないから……家に帰ろ」
「ああ。泣かせて悪かった。帰ろうな」
始めから白の望みはそれだけだった。
天尊は額に皺を寄せてバツが悪そうな笑顔を作った。そのようなことすら失念してしまっていたことを恥じた。
カッ。
突然、夜空が閃光を放った。
上空から雲を割って大地に突き刺さる光の柱、そのなかにひとつの黒い影が見えた。
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