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Kapitel 13:雷鎚

諦観

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 夕飯後。疋堂ヒキドー家。
 夕食が済んでごちそうさまを完了すると、天尊ティエンゾンは入浴へ、銀太ギンタ耀龍ヤオロンはリビングでテレビゲームを始めた。アキラ縁花ユェンファはキッチンで洗い物や後片づけをしていた。
 調理に関してはもっぱら白の仕事、最近では縁花が手伝ってくれる。
 当初は、天尊よりも立派な体格で強面で、正直恐いと思ったが、接する機会が増えるにつれて自然と親切な人柄だと知った。白を子どもと軽んじず、幼い銀太には子どもとして丁寧に接してくれる。愛嬌を振りまくことこそないが、沈着で話しやすい人物だ。
 キュッ、と洗い物をしていた縁花が蛇口を閉めた。

「ありがとう存じます」

 突然そのようなことを言われ、白はキョトンとした。仕舞おうとした鍋を手に持ったまま縁花を見上げた。

耀龍ヤオロン様の御食事を御用意いただき誠にありがとう存じます」

「用意、しますよ? 学校から帰ってきたらロンもユェンさんもお腹空きますよね」

 そこまで言って白はハッとし、あ、と声を漏らした。

「もしかして、ティエンに何か言われました? 食費入れろとか、スペース的にアレだとか……」

「いいえ」と縁花はシンクのほうに向いていた身体の正面を白へと向けた。

姑娘クーニャンから御食事のお誘いを連日お断り申し上げ、大変失礼いたしました。姑娘クーニャンにおかれましては、さぞや御気分を害されたでしょう。本来ならば私がせねばならぬことですが、姑娘クーニャン耀龍ヤオロン様のお身体を案じられて御食事を御用意いただいております。その格別の御配慮を思いますと、大変心苦しく――」

 縁花が頭を下げ、白は慌てて首をブンブンッと左右に振った。

「そんなに大袈裟に考えずに気軽に食べに来てください。ロンとユェンさんがいてくれたほうが銀太が喜ぶんです」

 ありがとう存じます、と縁花は今一度丁重に頭を下げた。
 白は自分を子どもと軽んじない態度自体は嬉しいが、丁重過ぎて緊張してしまった。

 縁花は洗い終わった皿を一枚ずつ几帳面に乾燥機へ等間隔に並べてゆく。
 白は調理器具を元の場所へしまい終えて手持ち無沙汰になった。縁花の作業もそろそろ終わりそうだから、少しだけ気になったことを尋ねてみることにした。

「あの、質問、してもいいですか? なにか忙しいなら今じゃなくてもいいんですけど」

「はい。何でしょうか」

「ロンは学校でファーくんって呼ばれてますよね。どうしてですか?」

 縁花は食器をすべて乾燥機へ並べ終えて蓋を閉じた。肘の上まで捲り上げていたシャツの袖を戻しつつ、白からの質問に答える。

耀龍ヤオロン様はこちらでは便宜上、ファ耀龍ヤオロンと名乗っておられます」

「それでファーくんかー」と白は得心がいった。

「便宜上ってことは、本名は別ですか?」

「正式な御尊名は耀龍ヤオロンファ=ニーズヘクルメギル様です」

「じゃあ、ティエンも?」

「はい。无天尊ウーティエンゾンファ=ニーズヘクルメギル様が、大隊長の御尊名です」

 そのような話をしていると、当人の天尊がキッチンに姿を現した。シャワーを浴びて髪がまだ濡れていた。入浴後の水分補給に冷蔵庫で冷えたドリンクを求めてやって来た。
 白は口を噤んで天尊の動向を見守った。
 天尊は白の隣を通り抜けてキッチン内へ入り、縁花の大きな体を邪魔くさそうに交わし、キッチンの奥の冷蔵庫まで辿り着いた。平均的な大人ふたりがようやく立てる幅しかない空間で、大柄なふたりが擦れ違うのはさぞかし窮屈かろう。
 冷蔵庫のドアを開けて中身を物色する天尊に向かって、白が口を開く。

「ティエンの本名って長いね」

 天尊は縁花のほうを振り返ってジロッと睨んだ。

「オイ」

「出過ぎた真似をいたしました」

 縁花はスッと頭を下げた。
 天尊はパタンと冷蔵庫のドアを閉めた。手にはミネラルウォーターのペットボトル。縁花はグラスを差し出したが、天尊はそれを断ってペットボトルのキャップを捻った。

「ボクには最初からティエンって名乗ったの、どうして?」

「嘘は言っていない。親父が付けた名は天尊ティエンゾンだ」

 天尊はそう言ってペットボトルに直接口を付けてミネラルウォーターを呷った。

「ユェンさんはウーティエンゾンが本名だって」

「〝ウー〟は、単なる識別記号みたいなモンだ。そのほうが判りやすくて都合がいい」

「判りやすいって何が?」

「〝ウー〟とは、継承権を持たないという意味です。耀龍ヤオロン様と大隊長の御父上は、ファ=ニーズヘクルメギルの当代の族長で在らせられます。ファ=ニーズヘクルメギルは、アスガルト最古にして最も権威ある貴族。継承問題は最も重要な事柄のひとつです。継承順位が明確であることは、一族内に余計な軋轢や諍いを生まない術です」

 白は他人事のように、へー、と漏らした。天尊や耀龍に関わることでも、異世界の話も貴族のお家騒動にも現実感がなかった。

「じゃあ、ロンが跡継ぎなんだ?」

ロンがなることもまずない」

 天尊はゴクッゴクッと喉を鳴らしてミネラルウォーターを飲み干した。
 空にしたペットボトルをシンクの脇に置いた。ペットボトルの天辺に拳を落としてペキペキペキッと縦に押し潰した。

耀龍ヤオロン様と大隊長を含めまして、族長御大には男児が五人おられます。耀龍ヤオロン様は末弟で在られ、自ずと継承順位は高いものではありません」

「まあ、まず長男が跡を継ぐ。健康で、優秀だ」

 白には、天尊の口振りがなんとなく投げ遣りに感じた。自分には関係ない事柄であるらしいから、無理もない。
 天尊はコンパクトにしたペットボトルを縁花に押しつけ、キッチンから出て行った。


 耀龍と縁花が自室へと帰った後、白は銀太を風呂に入れて寝かしつけた。銀太の部屋から出てくると、天尊がリビングのソファに座していた。テーブルの上には煙草の箱とライターがあった。
 白はリビングや自分の部屋へ行かず、キッチンのなかに入った。ややあって、マグカップをひとつ持って出て来た。
 コトン、と天尊の前にマグカップが置かれた。中身は湯気を立てるコーヒー。

「ティエン、まだ寝ないかなと思って。飲まない?」

「ありがとう」

 天尊はマグカップの取っ手に指を通し、口へと運んだ。
 白はカーペットの上、天尊の傍に座りこんで天尊の顔を見上げた。

「どうかしたか」

 その視線に気づいた天尊は、白に目を落として片眉を引き上げた。

「機嫌悪くない?」

「悪くない。どうした」

「ティエンはいろいろ聞かれるの、イヤ? ティエンのいないところでユェンさんに聞いちゃってゴメンね。もしかしたら、ボクに言えないこととか言いたくないこととかあるのかなって」

 気分を害して拗ねたとでも思われたのか。天尊は眉間に皺を寄せてバツが悪そうに笑った。

「アキラは俺にいろいろ話してくれた。俺もアキラに訊かれたら何でも話す。アキラに興味を持たれるのは悪くない」

「興味はあるけど、興味半分に訊いちゃいけないこともあるでしょ。何でも話すっていうなら尚更だよ」

 白は、めっ、と叱りつけるような口調で天尊に言った。
 天尊は白の思い遣りをいじらしく感じ、白の頭を柔らかく撫でた。
 自身の好奇心を満たすためだけに根掘り葉掘り質問を重ねる人物は少なくない。しかし、この優しい少女は、自分と向き合う者を思い遣って無責任な行動はしない。

「ティエン、お兄ちゃんいるんだね」

「ああ。上にふたりな」

「ティエンが五人兄弟の真ん中かー。ティエンが弟なんて、ぽくない」

「ぽくないか。言っておくが、俺はロンほど甘ったれの弟じゃなかった」

「だと思う。ティエンのお兄ちゃんってどんな人?」

「厳しいのと甘いの」

「じゃあ、もうひとりの弟さんは?」

ロンとあまり変わらん」

「なんだか、ティエンの感想、薄い」

 ふむ、と天尊は顎の無精髭に触れた。

「俺は家を出てもう長いし仕事で彼方此方行ったからな、兄弟とはあまり会わん。歳の離れた弟がどう育ったかは分からん。顔を合わせる頻度はロンも変わらんが、ロンにしても何故俺にああも懐いたのか正直分からん」

「ティエンのこと好きだからでしょ」

 白は、そんなことは当たり前のことだと冗談みたいに笑った。
 天尊が真面目に分からないというのが可笑しく感じるほど、自然なことだった。
 天尊は自分の太腿に頬杖を突いて白の顔を見詰めた。

「アキラは俺をどんな人物だと思っている?」

「優しい人」

 白が即答すると、天尊は「そうか」と微笑んだ。
 白はドキッとした。目尻を下げて安堵したような、穏和で無邪気な笑顔を不意に目にしてしまったから。
 優しい人だと言った程度で、何がそんなにも嬉しいのか分からない。天尊が親切にしてくれる分、欲しいと言うものを返してあげたいのに、本当は何も分からない。疎まれたくないと何も訊いてこなかったからか、一線を引いて距離を縮めようとしなかったからか。

「アキラ。ありがとう」

 天尊は白の後頭部に手を回して自分のほうへ引き寄せ、白の額にキスをした。触れたと思った瞬間に離れる、軽い口吻くちづけだった。

「ッ⁉」

 白は額を手で押さえてガバッと立ち上がった。天尊にとっては挨拶のようなものなのだろう。しかし、白には何気なく流してしまえなかった。

「寝るッ」

 天尊は、真っ赤になった白の顔を見て、肩を揺すって笑った。

「愛しているよ。おやすみ」

「~~~……ッ」

 白は天尊に背を向けてパタパタタッと早足で自分の部屋へと向かった。おやすみも告げずに部屋のなかに入ってドアを閉めた。

 白は自室のベッドに俯せに倒れこんだ。
 天尊の言動は、ともすれば揶揄われているのではないかと疑ってしまう。通常であれば、白だって真面に取り合わない。
 しかしながら、あの日の天尊の告白は本気だと知っている。だから、どう向き合い、どう接し、どう答えるのが正しいのか分からない。天尊が告白の返答も愛情の返礼も求めることは已めたと言いながら、このような行動を取るのも理解できない。

「不意打ちズルイ……」

 白はベッドシーツに向かって愚痴った。


  § § § § §


 翌日、昼休み。私立瑠璃瑛ルリエー学園中等部学生食堂。
 白と虎子トラコはふたりだけで丸テーブルを囲んだ。虎子の傍には付き人兼護衛の国頭クニガミが立った。

「男の人から愛してるとか、言われたことある?」

 白の質問は唐突だった。場所が場所だけに、女子生徒たちに取り囲まれる可能性があるから、前置きをする余裕がなかったのかもしれない。
 虎子は、唐突で不躾な質問に取り乱した様子はなかった。握っていたナイフとフォークをそっと皿の上に置いてペーパーで口を拭いた。

「イヤ、ごめん」と白はふるふると小さく頭を左右に振った。

「こんなところでする話題じゃなかった。今のナシ」

「むしろ、アキラはございませんの。お手紙やプレゼントをよくいただいているではありませんか」

「おっ、男の人からはないよッ」

 白は咄嗟に大きめの声量を出してしまい、その声が届いた周囲の生徒たちはにわかにザワついた。

甲斐カイ先輩は……⁉)

 甲斐家の御曹司が中等部の中性的アイドルに好意を寄せているのは、中等部・高等部では有名な話だ。当の御曹司が隠すつもりがないから無理もない。
 虎子は、御曹司など白のなかでは物の数にも入っていないと再確認できて、ウンウンと満足げに頷いた。あのような人物に大切な無二の親友を翻弄されるなど腹に据えかねる。

「突然いかがしました。アキラがそのような話題をするのは珍しいですね」

「どッ、どうもしてないけど、こーゆー話題できるのココしかいないもん。それにココが言うことは大体正しいし」

 虎子は、白が友だち甲斐のあることを言ってくれて機嫌をよくした。
 紅茶のカップを優雅に口許へ運ぶ動作だけで、お嬢様の付き人である国頭にはそれが分かった。

「わたくしに何か相談事がおありなのですね」

「意見を賜りたいデス」

 虎子の察しの良さは非常に助かる。白は苦笑したあと、言いづらそうに伏し目がちになった。

「好きじゃないけど一緒にいたいっていうのはズルイ、かなあ? 好きって言われても同じものを返せないのに、引き留めようとするのはフェアじゃないなって気がしてるんだけど」

(色恋に公正性など求めても無意味だと思うのですけれど。アキラらしいといえばアキラらしいですね)

 誰の話か、とは虎子は追及しなかった。白が敢えて言わなかったということは、訊かれたくないのだろう。
 数年来の親友であるが、こういった話題になるのが珍しいのは、ふたりとも好きだの嫌いだのといった恋愛話から縁遠い感性だからだ。ならば、自然とこういう話題が出たのは、白に何かしらの変化があったということだろう。
 白の生活における最大の変化が何であるかは言うまでもない。だから、虎子は訊かずとも大方の見当は付いた。

「ズルイ、よね?」

アキラはズルイと思っているのですね」

 白は申し訳なさそうな上目遣いで虎子を見た。
 虎子は申し訳なく思うことなど何も無いのに、と内心思いながら紅茶のカップを傾けた。
 白が見守るなか、虎子はほぼ無音でソーサーの上にカップを戻した。

アキラの言うズルイ状況を解消するには、一緒にいたいから好きになる、ということをしなければなりませんわね」

「そうなるよね。でもそれは」

「本末転倒ですわ」

 虎子がキッパリと断言し、白もウンウンと頷いた。
 やはり頼りになるアドバイザーだ。自分でも勘づいている胸の内を、婉曲を用いずにスパッと指摘する存在。

「それに……」と虎子はフフフと笑声を漏らした。

「好きにならなくてはいけないからと好きになれるものなら、こんなに簡単な話はないですわね。それができないから人生は難しいのですわ」

 虎子は白のほうへ顔を向けて嫣然と微笑んだ。

「公平性の観点からはズルイと言えなくもない状況かもしれませんが、お互いが一緒にいたいと思った末にそうしているのならば、両者の欲求は満たされますわね」

「アキラくんには一緒にいたい人がいるのかい」

 ………………。
 突然、白と虎子の間に以祇モチマサが出現し、ふたりは硬直した。
 満面の笑みの以祇と、無表情な白と虎子、三人の間に沈黙が流れた。
 甲斐家の御曹司は、白と虎子の反応など気にしなかった。胸に手を当てて白へズイッと顔を近づけた。

「僕ならば、いつでもどこへでもキミの許へ駆けつける。キミの望むままに一緒に時間を過ごそう」

「以祇。脈絡もなく現れないでください。ここは中等部の食堂ですよ」

「しょっちゅう中等部に顔を出して何をしてるんですか。高等部生徒会はそんなにお暇じゃないはずですよ」

 以祇は背筋を伸ばして胸を張った。

「生徒会に優秀な人材が多いのは事実だね。彼らに比べれば僕などいてもいなくても同じようなものさ」

(この人、何で生徒会役員になれたんだろう?)

 白は以祇を見て首を捻った。
 学園の命運を握ると言っても過言ではない生徒会役員の選出は人気投票ではないはずだが、数千人にのぼる生徒のなかから彼が選ばれた理由は能力ではなく、家柄とデフォルトの笑顔と物腰の柔らかさなのではないかと疑いたくなる。

「中等部生徒会に用があってついでに学食に立ち寄ったのだけれどね、アキラくんの恋バナを小耳に挟んではスルーはできないね。気になって居ても立ってもいられないね。僕はキミに恋して夢中なのだから」

 以祇は白の手を掬い上げて見詰めた。

「恋バナじゃありません。ただの仮定の話です」

「仮定の話でおおいに結構。共に恋愛観について語り合おうではないか。キミと僕は認識のすり合わせが必要だと常日頃思っていたところだよ」

「いえ、遠慮させていただきます」

 白は一貫して淡白に振る舞うのに、以祇の心は折れない。白が手ひどく振り払ったりしないのをよいことに、手の甲を両手で包んでさすさすと撫でた。
 虎子は以祇の手の甲をパシンッと叩いた。以祇は白の手に被せていたほうの手をパッと離した。

「つれないね、アキラくん。キミは僕の気持ちと真っ向から向き合ってくれないけれど、もうすでにキミの心のなかには誰かいるのかな」

「え?」

「もしかして好きな人がいるのかい? ……と、尋ねているつもりだよ」

 以祇は、白の手を少しだけキュッと握った。
 自然と白は以祇の顔に目線を向けた。以祇は白の目を真っすぐに見詰めて微笑んだ。
 顔を合わせる度に好きだと言われ、その冗談を交わすのは日常茶飯事。冗談と決めつけて、いや、そう思いたくて、正面から向き合ったことは数少ない。
 目を覗きこんでほんの少し嫌な予感がした。もしや、この人はジョークや社交辞令ではないのではいかと。きっと、天尊から真剣に愛を告げられたあの日から、世界を見る目が変わってしまった。

「いませんよ。ボクが誰かを好きになるなんてこと、無いんです」

 そう言って、白は少しだけ困ったように笑った。
 虎子は何も言わずに目を伏せた。
 白がそのような諦観を口にすることに心を痛めたが、無遠慮に口を挟んで踏みこむことはできない。白の諦観は、彼女の傷口そのものだ。
 白は心から信じた大好きな人に裏切られたあの頃に、〝自分〟を諦めた。好かれようと必死に振る舞う小賢しい、有りの儘の、我が儘ばかりの自分、そのようなものが他人に受け容れられることは、きっと有り得ない。正しい人でいること、煩わしくない存在でいること、良い子でいることを心懸けてようやっと、おっかなびっくり人と関わっていられる。そのような小賢しく姑息な自分が誰かに求められたとしたら、それはきっとその人を騙している。
 有りの儘の姿――本性――素の自分では、愛される資格が無い。ならば、愛する資格も無い。当たり前のことだ。
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