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Kapitel 11:父親
父親 05
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天尊と紫、銀太の三人は銭湯から帰宅した。
天尊が疋堂家の玄関ドアの前で分かれて耀龍の部屋に帰ろうとすると、紫からちょっと時間あるかなと呼び止められた。銀太はもうすぐ就寝時間。大人ふたりだけの話だとピンと来た。銭湯へのお誘い同様、天尊が白の実父からの誘いを断るはずがなかった。
マンション近くの公園。
天尊と紫は、マンション敷地内の公園ではなく、数分歩いたところにある公園にやって来た。此方は子ども用の遊具ではなく、遊歩道があり、ジョギングやウォーキングの利用者が多い。
ふたりは街灯に照らされたベンチに腰かけた。紫がふたりの間にビニール袋を置いた。中身は先ほどコンビニエンスストアで購入した缶ビール。冷えた缶ビールを天尊に差し出した。
天尊は礼を言ってそれを受け取った。
「こんなところで悪いね。俺から誘っておいて何だけど、この辺のお店にてんで詳しくないものだから。ティエンゾンくんも知らないなんて意外だったな。普段、あまり飲み歩いたりしないの?」
「ええ。こちらに来てからは飲んでいません」
「もしかして、お酒、好きじゃない? 飲めないなら無理しなくてもいいよ」
「いいえ。せっかく大哥からお誘いいただいたのですから。光栄です」
カシュッ、と気持ちのよい音を立てて紫が缶ビールの蓋を開けた。続けて天尊も開けた。紫は、おつかれー、と缶ビール同士をぶつけて乾杯した。
紫は缶ビールを呷ってゴクゴクッと喉を鳴らした。ぷはーッ、と爽快に息を吐いた。
「キミはタバコは吸う?」
「ええ。少々」
「へー。そうなんだあ」
「?」
「タバコ、吸っていいよ」
「いいえ。今は持っていません」
天尊が紫のほうを見るとニコニコしていた。質問の意図は推し量りかねるが、まあ、嫌われてはいないようだ。
「白ちゃんに告白したって話、本当なんだよね。フラれたのも本当?」
「ええ。事実です」
「もしかしてキミはロリータ・シンドロームの人?」
「…………。そうだと言ったらどうしますか」
「通報する」
――イヤ、嫌われているかもしれないな。
試されているのか痛烈な厭味か、どちらだろうか。天尊は顔面に笑みを貼りつけたまま微動だにしなかった。
天尊と顔を突き合わせて数秒後、紫はふにゃっと表情を緩めた。
「でも、そうじゃなくて、本当に白ちゃんをひとりの人間としてよく知って恋をしたというなら、ありがとう」
……で、と紫は缶ビールを脇に置き、額を指先でカリカリと掻いて話を続けた。
「キミはロリータ・シンドロームじゃないという前提で訊くんだけど、どうして白ちゃんなの。モチロン、父親にとっては世界一可愛くて素直でイイ子だけど、キミはそうじゃない。キミは父親でも兄でもない、ひとりの男だ」
――本題はこれか。
紫が天尊と、銀太も白も抜きにしてしたかったこと。所謂、男同士の腹を割った話。
天尊は紫がこのように問い質すのは当然だと思った。紫は子どもたちに無関心ではない、確かに愛情がある。遠く離れて暮らす娘の近くに得体の知れない男がいて、危惧しないはずがない。
「父親としては気になるんだよね。白ちゃんが断ったならもういいやとは思えない。俺は白ちゃんの傍にいないけど、キミは近くにいる。あんなに堂々と宣言するんだもん、まだまだ全然諦めてなさそうだ」
「断られはしましたが嫌われてはいないようですので」
天尊はハハッと笑った。
「私の白への想いは真剣です。大哥とも真剣に向き合わねばならないと考えております。ですから、偽りなくお答えします」
缶ビールを自分の横に置き、座り直して紫のほうへ身体の正面を向けた。
「私は職業柄、いろいろな土地でいろいろな者の、いろいろな面を見ました。善い面も悪い面も。おそらくは、最も本能的で本質的な面を見る機会が多かった。私はアキラのような存在に出会ったことがありません。分け隔て無く思い遣りを持ち、献身的で、慈しみ深く、繊細だ。とても愛おしく、護りたいと思っています。アキラを、アキラの暮らしを、私は必ず護ります」
紫は天尊のことを何も知らない。今日知り合い、ともに風呂に入り、たった今わずかばかり酒を酌み交わした程度の仲だ。しかし、嘘は言っていないと直感した。見慣れない乳白色の瞳は奇妙だが、不思議と説得力があった。
「キミは……とても真摯だね。白ちゃんを子ども扱いせずに対等に接してくれている……気がする。イヤ、本当にありがとう」
紫は天尊から顔を逸らした。脇に置いた缶ビールを手に取ってグビッと嚥下した。自分の太腿に肘を突いて片方の手の平で顔半分を覆った。
「キミに比べると俺は……至らない父親で恥ずかしいな」
紫には、好き勝手に生きている自覚があった。
仕事だからと免罪符にして、未成年の子どもだけを此國に残して年中国外に出ている。好きなことを生業にし、さまざまなものを顧みず好きなように生き、にもかかわらず謗りを受けず、幸福を享受している。
父親の自分が自由に生きるということは、我が子を、白を犠牲にすることだ。この自由は白の献身の上に成り立っている。家事や育児など、自分の不得手の一切を白が請け負っている。白に申し訳なく思っている。自己愛を捨てきれぬ不出来な父親だ。
「それなのに、白ちゃんはこんな俺を立派だって言ってくれて、好きだって言ってくれる本当にイイ子――……あ。ちょっとごめん。ヤバイ……泣きそう」
ウッ、と紫は突如嗚咽しかけて目頭を押さえた。
「俺はさー……必要なときに傍にいないし、そもそも白ちゃんに助けを求められたこともないし、情けないよ」
――ああ、まったく以て情けなく、愚かだ。
天尊にとって、白の存在は何物にも替えがたい。傍にいるためになら何を捨てても構わない。しかし、紫はその権利よりも自己愛を選んだ。それができるのは、父子という決して断てぬ関係性があり、白が自分を心底嫌悪することはないと盲信しているからだ。
……と、よもや天尊が内心を吐露することはなかった。紫が白へ抱く負い目は、付け入る隙だ。
「先ほどアキラが言ったとおり、アキラは大哥のことを父として敬愛しています。アキラが父親を悪く言うのを、私は一度たりとも聞いたことがありません。どうか、御自分をそのように卑下なされませんよう」
天尊は紫に自信満面の笑みを披露した。
「白ちゃんがキミを信用するのも分かる気がする」
「そうだと嬉しいのですが」
「ハハッ。謙遜だなあ。白ちゃんはキミを信頼してるよ。白ちゃんが昔の事件のことを誰かに話すなんて、考えられない。キミも白ちゃんからの信頼に応えてる。母親があんな事件を起こすなんて、惨いことなのにキミは動じていない」
「これまでに何があっても、これから先に何かあっても、私のやるべきことは変わりません。アキラの脅威を排除し、護ります」
「キミは頼もしいね。なんというか、揺るぎない。だから白ちゃんはキミを信頼してるのかな」
「痛み入ります」
紫は頬杖を突き、フーッと息を吐いた。
「白ちゃんは実は人付き合いが得意なほうじゃない、と俺は思ってるんだ」
これには天尊も異論は無かった。或る一線から踏みこませないあの習性は、年相応の熱病のような軽はずみな人間関係を構築するには向いていないだろう。
「親切で優しい子だけれど、自分に踏みこまれることを嫌う。弱味を見せちゃいけないと思っているのかもしれない。しっかりしてるけど臆病な子だよ」
紫は頬杖を突いた体勢で顔だけを天尊のほうへクリッと向けた。
「でも、キミには自分のことを話して、銀太くんとも親しくさせて、俺の目から見ると……好意的ですらあるよ。だから、俺はキミを善い人なんだと思う。まだキミのことを全然知らないけどね。白ちゃんが信頼してるってことは、少なくとも白ちゃんと銀太くんにとっては〝善い人〟だ。俺の言う〝善い人〟は、ふたりにとってメリットがあるという意味だととってもらってもいい。白ちゃんと銀太くんの近くにキミのような協力的な人がいてくれることは頼もしい」
「では大哥は、私がアキラの傍にいることに否定的ではないと、そう考えてよろしいですか」
天尊はそつがなく打算的で賢い性情だ。言質を取りたがっている。と、察した。見え透いているとて、自分にはそれを批判する権利もない。そこまで徹底するのは、白に対する想いが本気である証左とも言える。
「正直なところ、たまにしか帰らない俺が、白ちゃんに偉そうに命令したり無理矢理言うこと聞かせたりできないよ。白ちゃんさえいればこの家は問題なく回ってる。俺がもらえる役割なんて精々経済的な援助くらい。まあ、これは当然だけど。だからね、我が家で起こることの決定権は白ちゃんにあると、俺は思ってる」
天尊は如何にもそのとおり、とばかりに小さく頷いた。
「キミには、さらに正直に本音を言っちゃおうかな。お酒が入ってるし、口も軽くなる」
紫は天尊の前で缶ビールを、ちゃぽちゃぽと左右に振って見せた。
「俺は白ちゃんには強く出れないところがあるから納得した振りをしてるだけ、かもしれないよ。キミが〝善い人〟でいる限り、俺はキミを白ちゃんから引き離すことはできない」
天尊の表情は笑んだままだったが、目付きが鋭く真剣になった。
紫は釘を刺した。自分と白とではスタンスが異なり、手放しで信用したわけではなく、査定中であると。もしも、紫が白へ抱く負い目を払拭するほどの落ち度が天尊にあったときは、容赦なく対応するという牽制だ。
「私が尻尾を出すのを待っている、ということですか」
「まさか。キミが白ちゃんと銀太くんにとっていつまでも〝善い人〟であることが一番いいと思っているよ、ティエンゾンくん」
紫は天尊にウィンクをして戯けて見せた。
それから、さあさあ、と天尊に缶ビールを持つよう促した。表面上はふたりとも笑顔で再度乾杯を交わした。
(敢えて腹の内を晒すことで牽制するとは、意外と食えん男だな)
§ § § § §
国際空港ターミナル・喫煙室。
白と銀太、天尊の三人は、仕事先へと戻る紫の見送りにやってきた。喫煙室内には天尊と紫のふたり。白と銀太は室外のチェアに座って待っている。
紫は胸元のポケットから煙草の箱を取り出した。トントンと箱を叩いて煙草の頭を出し、天尊に箱ごと差し出した。
「ティエンゾンくんもどう? 銘柄にこだわるタイプ?」
「いいえ。では頂戴します」
天尊は煙草の箱から飛び出た一本を引き抜いた。紫は天尊にライターを手渡して自分も煙草を一本口に咥えた。天尊が煙草に火を付け、紫も手に戻ってきたライターで火を付けた。
熱を持った苦味を肺に深く吸いこんだあと、フーッと口から一筋の煙を吐き出した。
「ティエンゾンくん。俺はね、キミのこと嫌いじゃないよ」
脈絡のない発言。天尊は紫の顔へ目線を向けた。
「振る舞いは堂々としていて立派。尊大と言ってもいい。なのに俺に対してだけは過ぎるくらい礼儀正しい。抜け目なくて恐いところもあるけど、人柄は憎めない」
「真摯に受け止めます」
「でもね、俺はこれでも白ちゃんの父親だから」と紫は間髪入れずに続けた。
「キミが白ちゃんを好きだと言うならその気持ちを否定はしません。やめてくれとも言いません。白ちゃんがキミを好きになったら、まあ仕方が無いでしょう。恋愛なんて親が口出ししてどうなる問題じゃないことは分かってるつもりです。だけどね、男親の心情ってものを察してほしい。キミと白ちゃんが今後どうなったとしても、白ちゃんとの関係は清く正しくお願いしますよ? ティエンゾンくん」
「……畏まりました」
天尊が絞り出した声は、先ほどよりもワントーン低かった。
昨夜も思ったが、白の父親はとんだ食わせ者だ。下手に出る振りをして、こちらが拒否できないと分かっている要求を突きつける。父親らしくない自覚がある割には父親らしい台詞を吐くじゃあないか。疎ましい。
紫は、天尊の承諾を聞き、ニパッと白い歯を見せた。
胸ポケットに手を突っこんで、今度は煙草ではなく一枚の紙切れを取り出した。
それを目の前に差し出された天尊は「コレは?」と片眉を引き上げた。
紫は唇の前に人差し指を立ててウィンクして見せた。
「賄賂」
「はい?」
「俺との口約束なんか守ってくれなさそうだから。賄賂を渡しておけば少しは守ってくれる気になるかと思って」
「御心配は無用です。そのようなものなくとも私は――」
「白ちゃんの小さな頃の激プリティ❤な写真だけど、要らない?」
パシュッ、と天尊は素早く紫の手から写真を奪い取った。
「謹んで頂戴いたします」
「キミは欲望に忠実で、やっぱりとても心配だよ」
§ § § § §
国際線ターミナル・送迎デッキ。
白と銀太は金網の間近に立って指をかけ、紫が搭乗した飛行機の離陸を見届けた。天尊は背後からふたりを見守った。
銀太は飛行機が遠く離れてゆくのを気が済むまで眺めたあと、白のほうへ目線を移した。
「ユカリはこんどはいつかえってくるんだ?」
「さあ、いつかな。向こうに着いた頃に連絡して訊いてみよっか」
白は片方の手を金網から外して銀太の頭を撫でた。
「父さんのことあんなに嫌がってたのに。いなくなると寂しくなっちゃった?」
「ぜんぜん」
銀太はふるふると頭を左右に振った。
全然かあ、と白は零した。姉には分かる。弟の返事は強がりではなく率直な感想だ。
「そろそろ中に入ろう。ここは風が強い。身体が冷えるぞ」
白と銀太の上に陰が降りかかり、声が降ってきた。
かしゃん、と金網に指を引っかけた白の手の上に、天尊が手を置いた。掌中にすっぽりと収まる白の手は、すでに冷えていた。
白は天尊を見上げてサングラスの向こうにあるはずの白眼をじっと見詰めた、
ふと問答をしてみようと思った。
問答、それは紫から〝あの人〟の話を聞いたときに胸に浮かんだ疑問。結婚相手との思い出も、強く執着した我が子の存在も、忘却してしまった不可思議な現象のその理由。
何故にその問答を天尊に求めるか。我々の物の道理では説明のつかない不可思議な現象を、同様に不可思議な存在に尋ねるのは正しい考え方だ。
「ティエン……あの人に何かした?」
「あの人?」
天尊はそう聞き返して白と目線を合わせた。誰を指しているのか、何を問い質されているのか、すぐに分かった。しかし、やはりの動揺は見せなかった。
白の試すような視線。疑心の問答。天尊はこれを優しいと思った。いくらかは真実を予見しつつも一方的に決めつけることをせず、こちらが嘘を吐く猶予を充分に残してくれる。
天尊は白い歯を見せてニッと微笑んだ。
「いいや、何も」
白は天尊から目を逸らして「そう」と頷いた。
天尊が疋堂家の玄関ドアの前で分かれて耀龍の部屋に帰ろうとすると、紫からちょっと時間あるかなと呼び止められた。銀太はもうすぐ就寝時間。大人ふたりだけの話だとピンと来た。銭湯へのお誘い同様、天尊が白の実父からの誘いを断るはずがなかった。
マンション近くの公園。
天尊と紫は、マンション敷地内の公園ではなく、数分歩いたところにある公園にやって来た。此方は子ども用の遊具ではなく、遊歩道があり、ジョギングやウォーキングの利用者が多い。
ふたりは街灯に照らされたベンチに腰かけた。紫がふたりの間にビニール袋を置いた。中身は先ほどコンビニエンスストアで購入した缶ビール。冷えた缶ビールを天尊に差し出した。
天尊は礼を言ってそれを受け取った。
「こんなところで悪いね。俺から誘っておいて何だけど、この辺のお店にてんで詳しくないものだから。ティエンゾンくんも知らないなんて意外だったな。普段、あまり飲み歩いたりしないの?」
「ええ。こちらに来てからは飲んでいません」
「もしかして、お酒、好きじゃない? 飲めないなら無理しなくてもいいよ」
「いいえ。せっかく大哥からお誘いいただいたのですから。光栄です」
カシュッ、と気持ちのよい音を立てて紫が缶ビールの蓋を開けた。続けて天尊も開けた。紫は、おつかれー、と缶ビール同士をぶつけて乾杯した。
紫は缶ビールを呷ってゴクゴクッと喉を鳴らした。ぷはーッ、と爽快に息を吐いた。
「キミはタバコは吸う?」
「ええ。少々」
「へー。そうなんだあ」
「?」
「タバコ、吸っていいよ」
「いいえ。今は持っていません」
天尊が紫のほうを見るとニコニコしていた。質問の意図は推し量りかねるが、まあ、嫌われてはいないようだ。
「白ちゃんに告白したって話、本当なんだよね。フラれたのも本当?」
「ええ。事実です」
「もしかしてキミはロリータ・シンドロームの人?」
「…………。そうだと言ったらどうしますか」
「通報する」
――イヤ、嫌われているかもしれないな。
試されているのか痛烈な厭味か、どちらだろうか。天尊は顔面に笑みを貼りつけたまま微動だにしなかった。
天尊と顔を突き合わせて数秒後、紫はふにゃっと表情を緩めた。
「でも、そうじゃなくて、本当に白ちゃんをひとりの人間としてよく知って恋をしたというなら、ありがとう」
……で、と紫は缶ビールを脇に置き、額を指先でカリカリと掻いて話を続けた。
「キミはロリータ・シンドロームじゃないという前提で訊くんだけど、どうして白ちゃんなの。モチロン、父親にとっては世界一可愛くて素直でイイ子だけど、キミはそうじゃない。キミは父親でも兄でもない、ひとりの男だ」
――本題はこれか。
紫が天尊と、銀太も白も抜きにしてしたかったこと。所謂、男同士の腹を割った話。
天尊は紫がこのように問い質すのは当然だと思った。紫は子どもたちに無関心ではない、確かに愛情がある。遠く離れて暮らす娘の近くに得体の知れない男がいて、危惧しないはずがない。
「父親としては気になるんだよね。白ちゃんが断ったならもういいやとは思えない。俺は白ちゃんの傍にいないけど、キミは近くにいる。あんなに堂々と宣言するんだもん、まだまだ全然諦めてなさそうだ」
「断られはしましたが嫌われてはいないようですので」
天尊はハハッと笑った。
「私の白への想いは真剣です。大哥とも真剣に向き合わねばならないと考えております。ですから、偽りなくお答えします」
缶ビールを自分の横に置き、座り直して紫のほうへ身体の正面を向けた。
「私は職業柄、いろいろな土地でいろいろな者の、いろいろな面を見ました。善い面も悪い面も。おそらくは、最も本能的で本質的な面を見る機会が多かった。私はアキラのような存在に出会ったことがありません。分け隔て無く思い遣りを持ち、献身的で、慈しみ深く、繊細だ。とても愛おしく、護りたいと思っています。アキラを、アキラの暮らしを、私は必ず護ります」
紫は天尊のことを何も知らない。今日知り合い、ともに風呂に入り、たった今わずかばかり酒を酌み交わした程度の仲だ。しかし、嘘は言っていないと直感した。見慣れない乳白色の瞳は奇妙だが、不思議と説得力があった。
「キミは……とても真摯だね。白ちゃんを子ども扱いせずに対等に接してくれている……気がする。イヤ、本当にありがとう」
紫は天尊から顔を逸らした。脇に置いた缶ビールを手に取ってグビッと嚥下した。自分の太腿に肘を突いて片方の手の平で顔半分を覆った。
「キミに比べると俺は……至らない父親で恥ずかしいな」
紫には、好き勝手に生きている自覚があった。
仕事だからと免罪符にして、未成年の子どもだけを此國に残して年中国外に出ている。好きなことを生業にし、さまざまなものを顧みず好きなように生き、にもかかわらず謗りを受けず、幸福を享受している。
父親の自分が自由に生きるということは、我が子を、白を犠牲にすることだ。この自由は白の献身の上に成り立っている。家事や育児など、自分の不得手の一切を白が請け負っている。白に申し訳なく思っている。自己愛を捨てきれぬ不出来な父親だ。
「それなのに、白ちゃんはこんな俺を立派だって言ってくれて、好きだって言ってくれる本当にイイ子――……あ。ちょっとごめん。ヤバイ……泣きそう」
ウッ、と紫は突如嗚咽しかけて目頭を押さえた。
「俺はさー……必要なときに傍にいないし、そもそも白ちゃんに助けを求められたこともないし、情けないよ」
――ああ、まったく以て情けなく、愚かだ。
天尊にとって、白の存在は何物にも替えがたい。傍にいるためになら何を捨てても構わない。しかし、紫はその権利よりも自己愛を選んだ。それができるのは、父子という決して断てぬ関係性があり、白が自分を心底嫌悪することはないと盲信しているからだ。
……と、よもや天尊が内心を吐露することはなかった。紫が白へ抱く負い目は、付け入る隙だ。
「先ほどアキラが言ったとおり、アキラは大哥のことを父として敬愛しています。アキラが父親を悪く言うのを、私は一度たりとも聞いたことがありません。どうか、御自分をそのように卑下なされませんよう」
天尊は紫に自信満面の笑みを披露した。
「白ちゃんがキミを信用するのも分かる気がする」
「そうだと嬉しいのですが」
「ハハッ。謙遜だなあ。白ちゃんはキミを信頼してるよ。白ちゃんが昔の事件のことを誰かに話すなんて、考えられない。キミも白ちゃんからの信頼に応えてる。母親があんな事件を起こすなんて、惨いことなのにキミは動じていない」
「これまでに何があっても、これから先に何かあっても、私のやるべきことは変わりません。アキラの脅威を排除し、護ります」
「キミは頼もしいね。なんというか、揺るぎない。だから白ちゃんはキミを信頼してるのかな」
「痛み入ります」
紫は頬杖を突き、フーッと息を吐いた。
「白ちゃんは実は人付き合いが得意なほうじゃない、と俺は思ってるんだ」
これには天尊も異論は無かった。或る一線から踏みこませないあの習性は、年相応の熱病のような軽はずみな人間関係を構築するには向いていないだろう。
「親切で優しい子だけれど、自分に踏みこまれることを嫌う。弱味を見せちゃいけないと思っているのかもしれない。しっかりしてるけど臆病な子だよ」
紫は頬杖を突いた体勢で顔だけを天尊のほうへクリッと向けた。
「でも、キミには自分のことを話して、銀太くんとも親しくさせて、俺の目から見ると……好意的ですらあるよ。だから、俺はキミを善い人なんだと思う。まだキミのことを全然知らないけどね。白ちゃんが信頼してるってことは、少なくとも白ちゃんと銀太くんにとっては〝善い人〟だ。俺の言う〝善い人〟は、ふたりにとってメリットがあるという意味だととってもらってもいい。白ちゃんと銀太くんの近くにキミのような協力的な人がいてくれることは頼もしい」
「では大哥は、私がアキラの傍にいることに否定的ではないと、そう考えてよろしいですか」
天尊はそつがなく打算的で賢い性情だ。言質を取りたがっている。と、察した。見え透いているとて、自分にはそれを批判する権利もない。そこまで徹底するのは、白に対する想いが本気である証左とも言える。
「正直なところ、たまにしか帰らない俺が、白ちゃんに偉そうに命令したり無理矢理言うこと聞かせたりできないよ。白ちゃんさえいればこの家は問題なく回ってる。俺がもらえる役割なんて精々経済的な援助くらい。まあ、これは当然だけど。だからね、我が家で起こることの決定権は白ちゃんにあると、俺は思ってる」
天尊は如何にもそのとおり、とばかりに小さく頷いた。
「キミには、さらに正直に本音を言っちゃおうかな。お酒が入ってるし、口も軽くなる」
紫は天尊の前で缶ビールを、ちゃぽちゃぽと左右に振って見せた。
「俺は白ちゃんには強く出れないところがあるから納得した振りをしてるだけ、かもしれないよ。キミが〝善い人〟でいる限り、俺はキミを白ちゃんから引き離すことはできない」
天尊の表情は笑んだままだったが、目付きが鋭く真剣になった。
紫は釘を刺した。自分と白とではスタンスが異なり、手放しで信用したわけではなく、査定中であると。もしも、紫が白へ抱く負い目を払拭するほどの落ち度が天尊にあったときは、容赦なく対応するという牽制だ。
「私が尻尾を出すのを待っている、ということですか」
「まさか。キミが白ちゃんと銀太くんにとっていつまでも〝善い人〟であることが一番いいと思っているよ、ティエンゾンくん」
紫は天尊にウィンクをして戯けて見せた。
それから、さあさあ、と天尊に缶ビールを持つよう促した。表面上はふたりとも笑顔で再度乾杯を交わした。
(敢えて腹の内を晒すことで牽制するとは、意外と食えん男だな)
§ § § § §
国際空港ターミナル・喫煙室。
白と銀太、天尊の三人は、仕事先へと戻る紫の見送りにやってきた。喫煙室内には天尊と紫のふたり。白と銀太は室外のチェアに座って待っている。
紫は胸元のポケットから煙草の箱を取り出した。トントンと箱を叩いて煙草の頭を出し、天尊に箱ごと差し出した。
「ティエンゾンくんもどう? 銘柄にこだわるタイプ?」
「いいえ。では頂戴します」
天尊は煙草の箱から飛び出た一本を引き抜いた。紫は天尊にライターを手渡して自分も煙草を一本口に咥えた。天尊が煙草に火を付け、紫も手に戻ってきたライターで火を付けた。
熱を持った苦味を肺に深く吸いこんだあと、フーッと口から一筋の煙を吐き出した。
「ティエンゾンくん。俺はね、キミのこと嫌いじゃないよ」
脈絡のない発言。天尊は紫の顔へ目線を向けた。
「振る舞いは堂々としていて立派。尊大と言ってもいい。なのに俺に対してだけは過ぎるくらい礼儀正しい。抜け目なくて恐いところもあるけど、人柄は憎めない」
「真摯に受け止めます」
「でもね、俺はこれでも白ちゃんの父親だから」と紫は間髪入れずに続けた。
「キミが白ちゃんを好きだと言うならその気持ちを否定はしません。やめてくれとも言いません。白ちゃんがキミを好きになったら、まあ仕方が無いでしょう。恋愛なんて親が口出ししてどうなる問題じゃないことは分かってるつもりです。だけどね、男親の心情ってものを察してほしい。キミと白ちゃんが今後どうなったとしても、白ちゃんとの関係は清く正しくお願いしますよ? ティエンゾンくん」
「……畏まりました」
天尊が絞り出した声は、先ほどよりもワントーン低かった。
昨夜も思ったが、白の父親はとんだ食わせ者だ。下手に出る振りをして、こちらが拒否できないと分かっている要求を突きつける。父親らしくない自覚がある割には父親らしい台詞を吐くじゃあないか。疎ましい。
紫は、天尊の承諾を聞き、ニパッと白い歯を見せた。
胸ポケットに手を突っこんで、今度は煙草ではなく一枚の紙切れを取り出した。
それを目の前に差し出された天尊は「コレは?」と片眉を引き上げた。
紫は唇の前に人差し指を立ててウィンクして見せた。
「賄賂」
「はい?」
「俺との口約束なんか守ってくれなさそうだから。賄賂を渡しておけば少しは守ってくれる気になるかと思って」
「御心配は無用です。そのようなものなくとも私は――」
「白ちゃんの小さな頃の激プリティ❤な写真だけど、要らない?」
パシュッ、と天尊は素早く紫の手から写真を奪い取った。
「謹んで頂戴いたします」
「キミは欲望に忠実で、やっぱりとても心配だよ」
§ § § § §
国際線ターミナル・送迎デッキ。
白と銀太は金網の間近に立って指をかけ、紫が搭乗した飛行機の離陸を見届けた。天尊は背後からふたりを見守った。
銀太は飛行機が遠く離れてゆくのを気が済むまで眺めたあと、白のほうへ目線を移した。
「ユカリはこんどはいつかえってくるんだ?」
「さあ、いつかな。向こうに着いた頃に連絡して訊いてみよっか」
白は片方の手を金網から外して銀太の頭を撫でた。
「父さんのことあんなに嫌がってたのに。いなくなると寂しくなっちゃった?」
「ぜんぜん」
銀太はふるふると頭を左右に振った。
全然かあ、と白は零した。姉には分かる。弟の返事は強がりではなく率直な感想だ。
「そろそろ中に入ろう。ここは風が強い。身体が冷えるぞ」
白と銀太の上に陰が降りかかり、声が降ってきた。
かしゃん、と金網に指を引っかけた白の手の上に、天尊が手を置いた。掌中にすっぽりと収まる白の手は、すでに冷えていた。
白は天尊を見上げてサングラスの向こうにあるはずの白眼をじっと見詰めた、
ふと問答をしてみようと思った。
問答、それは紫から〝あの人〟の話を聞いたときに胸に浮かんだ疑問。結婚相手との思い出も、強く執着した我が子の存在も、忘却してしまった不可思議な現象のその理由。
何故にその問答を天尊に求めるか。我々の物の道理では説明のつかない不可思議な現象を、同様に不可思議な存在に尋ねるのは正しい考え方だ。
「ティエン……あの人に何かした?」
「あの人?」
天尊はそう聞き返して白と目線を合わせた。誰を指しているのか、何を問い質されているのか、すぐに分かった。しかし、やはりの動揺は見せなかった。
白の試すような視線。疑心の問答。天尊はこれを優しいと思った。いくらかは真実を予見しつつも一方的に決めつけることをせず、こちらが嘘を吐く猶予を充分に残してくれる。
天尊は白い歯を見せてニッと微笑んだ。
「いいや、何も」
白は天尊から目を逸らして「そう」と頷いた。
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