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Kapitel 05:門番

門番 05

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 アキラ天尊ティエンゾンは芝生の上にレジャーシートを広げて銀太ギンタの帰りを待っていた。チームメンバーや応援に来た家族たちは解散した。だだっ広いグラウンドや芝生に二人だけが残った。
 天尊は自分の腕を枕にしてゴロンと横になっていた。対照的に、白は落ち着きがなかった。レジャーシートの上に腰を下ろしてもソワソワと周囲を気にしていた。

「ちょっと遅くない?」

「落ち着け。まだそんなに時間は経っていない」

 白は突然ハッと表情を変えた。

「川が近いし、もしかしたら落ちたりしてないかな。すぐそこ大きな道路だし、銀太、走るのに夢中で道路に飛び出したり……」

「そんなことになったらセンセエから連絡が来る。それに、センセエの脚なら本気を出せばギンタくらいすぐに捕まえられる」

「そう……?」

「そうだ」

 先ほどから白はずっとこの調子だ。心配の種を思いついては蒼い顔をする。それを天尊が否定して落ち着かせるが、またしばらくすると新しい種を思いつく。身の丈にそぐわず勇敢な弟を持つ思い遣り深い姉は、心配が尽きない。
 天尊から見ても今の白は明らかに落ち着きがなかった。普段はあんなにも大人顔向けのしっかり屋さんなのに。

「…………。やっぱり心配だから、ボクちょっとその辺見てくる」

「宛てもないのにか。行き違いになるぞ」

 立ち上がろうとした白の手を、天尊が引き留めた。
 天尊は上半身を起こして胡座を掻いた。

「アキラがいない間にギンタが戻ってきてみろ。臍を曲げたギンタと二人きりで気まずい思いをさせる気か」

「それは確かに空気がギスギスしそう」

 白は、うーん、と唸った。
 あの強情な弟は、一度臍を曲げてしまったらそう簡単に機嫌を直してくれない。天尊に噛みつく姿が目に浮かぶ。

「もし俺が――……」

 天尊は唇を開いた状態で、停止した。
 ――もし俺がいなくなったら、同じように心配してくれるか。
 自然と思いついたその言葉を、願望を、口にしてはいけない。それは盲いた強欲であり、強欲は罪だ。如何に不遜な男でも、目の前の善良な少女に対して罪を犯すことはできなかった。

(どうして俺は、アキラには期待するんだろうな)

「ティエン?」

 白は天尊を真正面に据えて首を傾げた。
 その純真な黒い瞳に晒されると、天尊の口は余計に固く閉ざされた。自分勝手な願望を言えるわけがない。いついなくなるとも知れない身で、愛する弟と同じように心から案じて、心から想って、心から惜しんでくれなど。
 もしもそれを望んでしまったなら、きっと白は拒絶しない。慈悲深い娘だから。

「イヤ、何でもない。とにかくもう少し待て」

 天尊は白の手をスルリと離し、またゴロンと寝転がった。


 それから然程時を待たずして、白は大人と子どもの二人組が此方に向かって歩いてくるのを見つけた。それが銀太と頌栄ショーエーであると目視し、自然とレジャーシートから立ち上がっていた。
 白は頌栄に何度も頭を下げて礼を言った。頌栄は、いいから気にしないで、と面倒そうな顔色は微塵も見せなかった。短い会話を交わしただけで、それじゃあまた幼稚園で、と始終笑顔で別れた。
 白はしゃがみ込んで銀太の手を握り、顔を覗きこんだ。

「ケガしてない? 危ないことしなかった?」

「してない……」

 銀太は白から顔を背けて小さな声で応えた。

「よう。おかえり」

 天尊がかけた言葉に対し、銀太は無言であり完全に無視をした。天尊は自分はまだ許されていないのだと悟った。何が気に障ったのかは分からないけれど。
 白の表情がキリッと引き締まり、銀太はキュッと力んだ。姉が叱るモードにスイッチを切り替えたことを察知した。

「ティエンを蹴ったこと、ティエンに謝りなさい」

「ヤダ」

「何か理由があったとしてもティエンを蹴ったのは悪いことだよ。銀太も悪いことだと思うでしょ。悪いことをしたら謝らなきゃダメです」

「ぜったいヤダ」

 天尊は小首を傾げた。
 銀太が強情なのは分かっているが、大好きな姉の言うことも聞き入れないとは、今日はかなり手強い。

「そこまでギンタにすねられるほどのことを俺がしたか?」

 銀太は天尊を見上げた。
 言葉で答えをくれてやる代わりに、両手の指で口の両端をめいいっぱい引き伸ばして引っ張ってイーッとして見せた。

「……したらしいな」

 天尊は腕組みをして苦笑した。
 こら、と白は銀太を叱りつけた。

「何でそういう態度なの? ティエンは銀太の為に試合に出てくれたんだよ。毎日練習したのも試合があるからだよ。ホームランを打ってくれたとき銀太も喜んでたでしょ。ティエンに〝ごめんなさい〟と〝ありがとう〟は?」

「イヤなものはイヤだ」

「いい加減にしなさい、銀太。怒るよ」

「アキラはティエンのみかたすんのかッ」

「ボクは二人の味方です」

 白は淡々と銀太を諫めた。
 その態度が余計に銀太を歯痒くさせた。自分でも言い表すことのできない憤慨を、白に理解させる手立てはなかった。
 白と銀太の喧嘩を一歩離れて見守っていた天尊は、所在なさげに額を指先で掻いた。

「あー……俺のことはもういいから。そんなことでお前たちがケンカをするな」

「これはケンカじゃありません。叱ってるんです」

「何故に敬語だ?」

「子どもを叱るときは感情的になってはいけないからです」

 天尊は思わず白から顔を逸らした。その毅然とした顔付きで見詰められると、自分が叱られている気分になってくる。

「ギンタも悪気があってやったわけじゃないだろ。男はあれくらいのやんちゃはするものだ。少しくらい大目に見てやれ」

「やんちゃと暴力は違います。話もせず、説明もなく、いきなり蹴ったのは暴力です。暴力は大目に見れることではありません」

「お、おう……」

「父が不在の間、銀太の保護者はボクです。ボクは銀太に対して責任があります。いけないこととすべきことを、ちゃんと教える責任です」

「分かった、アキラが正しい。分かった」

 天尊は「Stop」という意思を込めて白に対して手の平をビッと押し出した。正論で武装した正義の使者と一対一で対決するなど御免被りたい。

「銀太。ティエンを蹴ったのはいけないことだから、ティエンに謝りなさい」

 白は銀太のほうに顔を引き戻すと同時に小さな手をスルリと離した。
 それは白にとっては特段他意があるわけではない自然な動作。しかし、その瞬間銀太の頭は真っ白になった。自分と姉とを繋ぐ目に見えない何かが途切れたような気がした。自分以外の何かが選び取られ、見向きもされなくなったような疎外感。それは、銀太にとって絶望に等しい。

「ティエンがいなければよかったのに……」

 銀太の口からポツリと非情な言葉が零れた。
 銀太は顔を上げてギリッと天尊を睨みつけた。

「ティエンなんかうちにこなきゃよかったんだ! アキラのいちばんはオレなのに! アキラはずっとオレのことがいちばんスキなのに! ティエンなんか大キライだッ! どっかいけ!」

 天尊は瞬間的に声を失した。
 子どもに罵倒された程度で傷つくようなヤワな精神構造ではないが、完全に不意打ちだった。良好な関係性を築いたと思ったのは、どうやら過信だったらしい。

「銀太ッ」

 白の手が宙に浮いた。銀太を撲たねばならないと思ったからだ。しかし、その手は空中で停止した。白の躊躇そのままに、心細げにふるふると震えた。
 銀太は猛烈に食ってかかっておきながら、縋るような瞳だ。何かを懸命に訴えかけるような必死さがある。
 正義や道徳を教える為にこの手を振り下ろさねばならないのか。幼子の縋りつく目を見なかった振りをして冷たく突き放さなければならない、途轍もない非情が、白にはつらかった。
 宙で途惑う小さな手を、天尊が大きな手で柔らかく受けとめた。

「やめておけ。ガキを叩くなどアキラには向いていない」

 白は天尊を振り仰いだ。罪悪感と葛藤に押し潰され、自分のほうが泣き出しそうな表情だった。
 ぎゅ。――銀太が白の服を掴んだ。

「アキラはオレのこと……スキ?」

 銀太の問いかけは、やや脈絡が無かったけれど、白は銀太を真っ直ぐに見てゆっくりと頭を上下に動かした。大袈裟なくらい仕草で気持ちを示した。

「当たり前だよ」

「ティエンよりも? ティエンよりもオレのほうがスキ?」

 不意に引き合いに出された天尊は、片方の眉を引き上げた。

「好きっていうのは、どっちのほうがって比べるものじゃないよ、銀太」

「オレはアキラがいちばんだよッ」

 銀太は切羽詰まった様子で言い返した。
 銀太にとって、白は世界のすべて。言うも愚か、唯一、最大、至上の愛情の矛先。自分が愛する分、相手からも愛されているはずだ。当然にそうでなくては納得できない。子どもの単純で、純粋で、必死な我が儘。
 ――どこにもいかないでアキラ。こっちをむいてアキラ。オレをみてアキラ。オレをすてないで!

 白は、自分に縋りつく必死な眼差しから、幼さ故にまだ言葉にし切れないその胸の内まで悟った。
 白の服を握り締めてギュウギュウに力が入った銀太の手の甲を、ぽんぽんと柔らかく手の平で叩いた。

「うん……。ボクも銀太が一番だよ。世界で一番大好き」

 天尊は銀太の腹立ちの原因が自分にあることは察していた。何故そのように考え至ったかは見当が付かないが、銀太は愛する姉を奪われると思ったらしい。
 否、確かに自分の所為だと考え直した。銀太の何分の一かでよいから、絶えぬ優しさを、人らしいぬくもりを、欲したのは己だ。情けなくも、それを幼子に気取られたのやも知れぬ。奪うつもりなど無い。ほんの少し分けてもらいたくなっただけだ。嗚呼、自覚すると何とも様は無い。

「アキラの一番はお前だ、ギンタ。今までも、これからも、俺がいてもいなくても、アキラの一番はギンタしかいない。アキラがギンタを捨ててほかのものを選んだりするわけがない」

 天尊は銀太の傍にしゃがみこんで片膝を突き、目線の高さを低くしてやった。
 銀太の眼光はナイフのようだった。天尊の言葉を聞き入れず、敵と目したままだ。何も意外ではない。この男児が、姉を奪おうとする憎い敵に容赦するはずがない。

「ギンタからアキラを奪おうとするヤツが現れたら、俺がギンタの前から消してやる。お前たち二人の幸せを壊すヤツは俺が許さない。お前たちのことは、何があっても俺が守ってやる」

「それがティエンだったら?」

 銀太はまるで予め用意していたかのように素早く言い返した。
 天尊は瞬間的に、このガキ、と小憎たらしく思ったが飲みこんだ。ここで反論したのでは、お前から姉を奪うつもりはないという身の潔白は信用されまい。

「ああ。それが俺でも、だ」

 ここで天尊は、銀太の頭を撫でるような子ども扱いをしなかった。そうしてしまえば幼子をあやしている様に成り下がってしまう。これはご機嫌を取って宥め賺しているのではない、対等な者同士の真剣勝負だ。そうでなくては銀太も納得しまい。

「ヤクソクだぞ、ティエン」

「ああ、約束してやる。俺がギンタの幸せを壊すようなことは絶対にない。俺に出来ることなら何でもしてやる」

 本当は約束は好きではない。何であっても、固く守り続けるという行為は得意ではない。自分を犠牲にしてまで守り通さなくてはならないなど、できれば背負いたくない重たい荷物だ。
 一人のほうが気軽だ。一人のほうが自由だ。分かり切っていることなのに、約束という鎖で自分を縛る。そうすることが此処に居座り続けられる根拠だからだ。

「ごめんなさい……」

 銀太は小さな声でそう言った。
 天尊は少々面喰らった。先ほどの敵を射殺すかのような目付きとはまるで別人だった。

「ティエンのこと、大キライまではない。だから、ホントにいなくなったらイヤだ」

「ハハハ。じゃあもう少しいてやろう」

 銀太は無意識に天尊へと手を伸ばして服をギュッと握った。
 天尊は、何処にも行くなと懇願された気分になり、額に皺を寄せて少し照れ臭そうに笑った。

 白と銀太が閉じ籠もっている、たった二人だけの小さな世界。幸福の温度と香りとが充満する、余人の立ち入りを許さない禁域、天尊はある日突然、その門扉を叩いた。二人が創り出す幸福な空間、本来ならば二人だけで完結した世界、そこに一時でも間借りを許された。自分には縁がないと思っていた人らしい安寧は、浸ってみれば居心地がよいものだった。
 この小さな世界を守る為になら、自ら望んで門扉を守る者となる。それが与えられた役割だと自ずと悟り、受容する。果たすべき役割、それが此処に居座り続けられる根拠。
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