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Kapitel 03:霜刃

霜刃 04

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 天尊ティエンゾンは足早に公園から立ち去り、その入り口が見えなくなってもまだアキラを肩に担いで歩き続けた。天尊にとって白程度の加重は負担にならない。このまま自宅マンションまででも担げる。
 しかしながら、白はそのようなことは御免だった。御近所様に目撃されたら恥ずかしい。白には並の子どもよりは大人に近いという自負があった。

「ティエン。そろそろおろして」

 天尊は足を停めてしゃがみ、白を肩の上から下ろして地面に立たせた。
 白は天尊の手を捕まえた。手の平を上に向けさせてジッと観察した。天尊がカッターの刃を素手で握り潰したことが気懸かりだった。

「ケガしてないね。よかった」

「ああ」と天尊から当たり前のような返事があった。
 そこからは、ふたりで自宅マンションのほうへ並んで歩いた。
 白は歩を進めながら天尊に公園でのトイカダとの会話を話した。会話そのものだけではなく、そのときのトイカダの雰囲気や態度から推察した内容も語った。この世界の常識に疎い天尊には想定しにくいことだろうから。
 相談の意味合いもあった。正しく在ろうとしたのに、トイカダに対する自分の言動が正しかったという自信はなかった。むしろ、胸を占めるのは悔悟だった。

「ボクの想像もたぶんに入ってるけど」

「あの様子じゃあそう見当違いでもないだろう」

「ボクが余計なことしなかったら……渡筏くんは友だちを刺したりせずに済んだのかな」

 天尊は嘆息を漏らした。
 人間によって傷つけられたネコを助け、ネコのその後を報告した程度の「余計なこと」を気に病む。白の性情がお人好しであることは疑いようがなく、美点であるとも認めるが、度が過ぎるのは考えものだ。

「それはどうだろうな。その結果に至るのは時間の問題だったろうな。言ったろう、結局のところ、アイツは自分の為に武器を持つ男だ。限界まで追い詰められたら牙を剥いたに違いない。アイツがしたことでアキラが気に病むことはない。アキラが何をしたとしても、しなくとも、アイツはああなった」

 トイカダの出した不可逆な結論、遅かれ早かれそうなったという見解は、白には喜ばしいものではなかった。その表情が明るくなることはなかった。

「そもそも、アイツが虐げられるのはアイツ自身の弱さが最大の要因だ。虐げたヤツがやり返されたのも、原因を作ったのはソイツ自身の言動だ。自業自得と因果応報だ。アイツは降りかかる火の粉を自分で払った。むしろ、よくやった、当然の権利だと褒めてやる。もっと早くそうすれば、別の結果もあったかもな」

 白は何となく天尊の口振りが気に懸かった。赤の他人のことであるのに、いつもよりやや饒舌に感じた。トイカダと対面してはあんなにも批判的だったのに、今の言葉は同情的でさえある。

「ティエンはそうしたの?」

 天尊が足を停め、白も少し遅れて足を停めて天尊のほうを振り返った。

「何故そんなことを訊く?」

「分からない。いま一瞬そう思っただけ」

 天尊は白の顔を真っ直ぐに見て黙りこんだ。
 白は天尊から顔を背けなかった。天尊が怒っているようには見えなかったから。途惑いか怪訝か逡巡か、無表情からそのようなものを感じ取った。

(あ。もしかして図星――)

「ああ、俺はそうした」

「ティエンが誰かにイジメられたの? 子どもの頃? ……ゴメン。言わなくていい。嫌なこと聞いちゃった」

 白は慌てて首を左右に振った。天尊がそうされている状景があまりも想像できなかったから、咄嗟に素直な疑問が口を突いて出てしまった。
 天尊は腕組みをしてハハハと笑った。

「俺は一族の爪弾き者だ」

「それって……?」

「一族郎党、俺を嫌い、避ける。子どもの頃ではないな、今もそうだ」

「どうして?」

「目立つからかな」

 天尊はまるでジョークのように小首を傾げて見せた。

「本当にそんな理由で?」

「理由なんか何だっていい。皆やっていることだから、偉いヤツがやれと言ったから、自分は悪くない。自分の行動を正当化する理由さえあれば何でもやるものだ」

 天尊の言い草は確信めいていたが、白は釈然としない表情だった。天尊はそれも当然だと思った。品行方正な白ならば決してとらない行動であろうから。
 幸いにして、これまで白の周囲にいた人間もそのような性質の者はいなかった。否、もしかしたら見えていないだけかもしれない。トイカダを追い詰めた同級生たちの思考も天尊を忌避するという者たちのそれも理解ができないのは、この世にはそういった悪意が存在することを知らないで、見ていなかったからかもしれない。
 トイカダが白に恵まれていると言ったのはそういうことだ。自分の気持ちも知らないで、とはまさにそうだ。たまたま白の傍には悪意ある人間が少なく、たまたまトイカダの環境には悪意が有り触れていた。両者ともに何かを選択したわけではない。まったくの不運や非条理、人生の支離滅裂。そのようなものに、少年少女の青春は、人の生涯は、左右されるのだ。

「じゃあティエンは渡筏くんの気持ちが分かる? 刃物持ってたのに殴らないでくれたのは、少しでも可哀想って思ったから?」

「――可哀想?」と天尊は鼻先で嘲弄した。

「違う。俺のは苛立ちだ。弱い者が弱いまま甘んじていることに苛々する。弱さは自分自身の所為だ。弱いのが嫌なら強くなれ。そうしないヤツが踏みつけられ続ける。弱いヤツの気持ちなんぞ知らん」

 天尊は胸を張って断言した。誰に異論を唱えられても主張を曲げるつもりはなかった。
 白は異論など述べなかった。ただ無言で天尊を見詰め続けた。
 天尊は大きな黒い瞳から視線を注がれていることが次第に居心地が悪くなり、フイッと顔を背けた。

「なんだ、その顔は。俺にアキラと同じような優しさを期待しても無駄だぞ」

「ティエンは優しい人だよ。ボクたちを助けてくれたもん」

 白はフフフと笑った。天尊の拗ねたような仕草が子どものようで少々可愛らしかった。

「優しくできないときがあるなら、それは人からもらう優しさが足りないんだよ。誰かに優しくされたら、その分ほかの人に優しくできるもん。ティエンはやり返しちゃったことがあるかもだけど、そのときは周りの人に優しくされてなかったからだよ。だから、ボクと銀太ギンタはティエンにいっぱい優しくしてあげる。ティエンがみんなに優しくできるように。大丈夫。ティエンは元々優しい人だから」

 天尊は絶句した。
 白の持論は天尊が思いついたこともないものだった。どう生きてきたらそのような思考回路になるのか摩訶不思議だ。しかし、白があまりにも自信満々に笑うから、いいえ、そんなことは有り得ないと否定することは憚られた。

 しばらくして、天尊は観念してフッと笑みを漏らした。白の頭をグリグリと撫でた。少女相手に我を通すなど大人げない。折れてやるのも大人の余裕だ。
 優しい人など言われたことがない。素直に好意的な評価とは受け取れない。優しくて何の役に立つ。優しさだけでは艱難辛苦に立ち向かえまい。優しい人などというのは、天尊にとっては賛辞ではない。
 しかしながら、何故か胸が穏やかだ。純良な子どもたちに言われるなら、優しい人も悪くはない。

「お前たち姉弟は、本当にそうしそうだな」

「うん、する」

 ――優しさは、おそらくもうもらっている。こんな俺を優しいと言ってくれる、それこそが優しさだ。


  § § § § §


 夜。人気のないコインパーキングの隅。
 学生服を着た少年たちが数人集まっていた。少年のひとりは、手に包帯を巻いている。トイカダの同級生であり、或る日突然想定外の手痛い反撃を喰らった面々だ。
 想定外とは、彼らの勝手に過ぎない。毎日毎日ひとりの人間を虐げ、追い詰めておきながら、あのような行動に出るとは夢にも思っていなかった。同じ学校に在籍し、同じ教室で、同じように物を学ぶ、同い年の少年なのに、自分たちには決して逆らえないと盲信した。

「あ~、まだ手がズキズキする。トイカダのヤロー」

 手に包帯を巻いた少年が、忌々しそうに吐き捨てた。

「手の甲切れただけだろ。オマエ大袈裟スギ」

「ああッ⁉ じゃあテメーも同じ目に遭ってみろ。あンとき何もできなかったクセに」

(オメーもな)

「トイカダのこと、もうどうでもよくね。ジケン起こしちゃったしどーせガッコ辞めンだろ」

「俺切られてんだぜ、トーゼンだろ。人生終われッ、クソが」

「トイカダの人生なんか知らんけど、パシリいなくなるのはツレーな」

 少年たちの足許にはネコがいた。腹を空かせた野良猫が、彼らの与えたエサに一心不乱に食いついている。
 こうして野良猫を留めて油断させるのが彼らの常套手段だった。
 包帯の少年がネコの首根っこを押さえつけた。驚いたネコは身体をビクンッと撥ねさせて必死にジタバタした。しかし、少年の力でも小動物力くらい押さえこむことは然程難しくはない。彼ら何度か同様の行為を繰り返しており、尚のこと手馴れたものだ。

「手、ゼンゼン使えんじゃん」

「な」

 少年のひとりがオイル缶の蓋を開け、ビチャア、とネコにオイルを振りかけた。
 カチッ。――別の少年がライターに火を灯した。


「この糞餓鬼共め」

 突然、低い声が聞こえた。
 包帯の少年は驚いた。聞き覚えのない声だ。少なくとも仲間の誰かの声ではないことは確実だ。
 ほかの少年たちにもその声は聞こえた。キョロキョロと周囲を見回すが、コインパーキング内に自分たち以外の姿はない。しかし、全員がハッキリと耳にした。幻聴ではない。姿なき声、静まり返った夜、気味が悪くなってゾクッとした。

「よくも仲間たちを傷つけ、焼いて甚振ってくれたな。呪ってやる。呪い殺してやる。相応の罰を喰らわせて殺してやる。残忍で、非道で、阿呆の、救いがたい人間の糞餓鬼めが」

 包帯の少年はヒイッと悲鳴を上げてネコから手を離して飛び退いた。ほかの少年たちも弾かれるようにネコから離れた。低い声が織り成す恨み言を聞いて、自分たちの所業にすぐに思い当たった。如何に未熟な糞餓鬼であろうとも、罰を喰らうに充分な理由であることは理解していた。
 理解しているのに理解していなかった。自身では耐えがたいほどの痛みでも他者に与えることには鈍感だ。
 バチィンッ! ――突如、少年たちの肉体を電流が走り抜けた。
 ギャッ、と少年たちは悲鳴を上げて飛び上がった。筋肉が硬直して地面に転げた。陸に打ち上げられた魚のようにビチビチと悶絶する。
 これはネコの祟りでも神様の罰が当たったのでもない。罰を喰らわせた人物は、少年たちのすぐ傍にいた。しかし、少年たちの目には映らなかった。電撃を儘に操り、只人には目にすることも叶わない存在、天尊だ。
 天尊は、地面に転げてピクピクと痙攣する少年たちを眼下にし、こんな子ども騙しが通用するとは、と惘れた。

(相手はガキだ、通用するか。やはり、あの姉弟がしっかりし過ぎているだけだな)

 ネコの祟りとでも信じこむように凝った台詞を吐いたが、愚かで救いがたいと考えているのは事実だ。こういう手合いは、成長に伴い自然と良識を持つものでもない。長じて唾棄すべき大人になるだけの話だ。

(さて……自分を守る為に反撃したあのガキは何らかの処分があるのに、原因を作ったコイツらが何のお咎め無しというのも不公平だ。因果応報といこうか)

 天尊は地面に突っ伏した少年の傍に立った。スッと自分の膝を持ち上げた。
 無論、少年には何も見えてはいない。しかし、何かが自分に接近したことは分かった。訳も分からず怯えている内に、片腕に衝撃が走った。
 ボキイッ!

「ぎゃああああッ‼」

 天尊が腕の骨を踏み折り、少年は苦痛の叫びを上げた。
 天尊は顔色ひとつ変えず少年たちに順番に罰を与えた。腕や足、指、場所は違えど、まあまあ等しい苦痛を与えた。このような救いがたい連中の為にきっちり等分を考えるのも邪魔臭い。悪いことをしたら痛い目に遭う。そのようなシンプルなルールが身に染みたらよい。これまで大人たちに言われたことがあるだろうに、大した知恵も力もない愚か者が、先人の言うことを聞かないからこういう羽目になる。
 地べたから、痛い、痛い、と啜り泣く声が上がる。天尊はその声を意にもかけずクルリと背中を向けた。

(これに懲りてしばらくはこんな真似しなくなるだろう。コイツらが何をしようが興味はないが、近所で妙な真似をされてあの姉弟が巻き込まれるのは面倒だ)

 天尊はスタスタと歩きながら、背中に両翼を生えさせ、左右に大きく広げた。トン、と軽く地面を蹴って宙に浮きあがり、音もなく空に舞い上がった。
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