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Kapitel 04:狂犬
狂犬 04
しおりを挟む 白には意味の分からないその単語。しかし、黒犬と対峙する天尊を指しているのは明白だった。
(ミョルニルってティエンのこと? 優等種族ってどういう意味……?)
天尊は地面をジャリッと踏み締めて黒犬たちをジロリと睨みつけた。
「オイ、劣等種族共。この女は貴様らのエサにするには上等すぎる。俺たちの前に二度と姿を現さないと誓うなら見逃してやる。とっとと失せろ」
ゲラゲラゲラゲラゲラッ――黒犬たちは笑い声を上げた。獣面の大きく裂けた口を愉快そうに吊り上げ、天尊の剛胆を莫迦にして笑いものにした。
「貴様は確かに《ミョルニル》だが恐ろしくはない」
「ニオイで分かるぞ。《ミョルニル》は弱っておる。まるで別人のように弱っておる」
黒犬たちは天尊から一定の距離を取って弧を描いた。
天尊は不快そうに眉間に皺を寄せてチッと舌打ちした。
日常生活に支障はなくとも負傷した肉体は十全ではなく〝力〟の回復は充分ではないのは事実だ。しかし、このような畜生と変わらないような下等な生物にまで侮られるなど、彼にとっては侮辱に等しい。
「舐めやがって」
ギャワンッ!
先ほど天尊が頭部を蹴り飛ばしたっきりピクリとも動かなかった犬が、突然地面から跳ね上がった。涎を撒き散らして牙を剥いて白に襲いかかった。
天尊は白を庇う為に咄嗟に腕を差し出した。
ガリィイッ! ――天尊は腕に噛みつかれた。
黒犬は頭を激しく左右に振って硬い肉に牙を深くめりこませた。
天尊は白を抱いていないほうの手で、腕に食らいつく黒犬の頭部を鷲掴みにした。
バヂバヂバヂバヂバヂッ! ……バヂィンッ!
天尊は黒犬の頭部に電流をお見舞いしてやった。
黒犬は電流に焼かれてギャンッと高い鳴き声を上げ、ボトリと地面に落ちた。
「《ミョルニル》の稲妻だ。稲妻を纏う力はまだあるのか」
「恐ろしい……。《ミョルニル》はやはり恐ろしいよ」
黒犬たちは欲求に素直であり本能に忠実だ。先ほどまでの下卑た笑いはピタリと已み、怖れに身を仰け反らせた。
ブッジュウッ!
天尊は地面に落ちた焼け焦げた犬の頭を踏み潰した。
「恐ろしけりゃ尻尾巻いて失せろ」
「それはできぬ。その娘を食すと決めた故」
白はそれを聞いてギクッとして自然と天尊にしがみつく腕に力が入った。
「大層美味そうなニオイのする人間だ。女子どもの肉は軟らかいよ」
「美味い肉を屠れば我らの力は高められる。さらに強い顎、強い牙、速い肢へ」
天尊は眉間に深い皺を刻んで不快感を露わにした。黒犬たちの主張は実に原始的かつ利己的であり何より天尊の意思に反していた。
「俺を敵に回してもいいということだな?」
黒犬たちはその問いかけに答える代わりに、一斉に天尊に躍りかかった。
ドッドドンッバリリッ!
天尊は一切の動作をしなかったが、眼前に一筋の雷が落ちて犬たちの強襲を遮った。
落雷はアスファルトを割って地面を奔り、黒犬たちの足を痺れさせた。
ギャワンッギャワンッと甲高い鳴き声が聞こえる中、天尊はチッと舌打ちした。
(今の俺じゃこの程度の雷一発が関の山か。ナメられるハズだ。出力が落ちている、弱っているなんてモンじゃない)
ダンッ。――天尊に踏み潰されて頭部を失った黒犬の体が飛び上がった。
長く伸びた鋭い爪で天尊の太腿を衣服ごと切り裂いた。
「まだ動けるかッ」
天尊は黒犬の体をむんずと掴んだ。近くのコンクリート塀に向かって力任せにぶん投げた。
ビダァッン! ――黒犬は硬い塀に叩きつけられた。
アスファルトの上に落ち、四肢をピクッピクッと痙攣させた。
白は青ざめた顔でその様を凝視した。
「頭が無いのに、何で……?」
「莫迦みたいに生命力が強いらしい。頭が無くても動けるとは厄介だ」
天尊は、地面に転がる頭部のない黒犬に手の平を向けた。
ズドンッ! ――黒犬の体は雷に貫かれ、その衝撃で地面の上を一度大きく跳ねた。
真っ黒く焦がれた全身は、微弱な痙攣すらなくなり、ようやく息絶えた。
(よりによってこんな厄介な奴らがアキラに目を付けるとは)
天尊は黒犬の死骸を忌々しく睨みながら白をゆっくりと地面に下ろした。
白は天尊の服の袖を握り締めていた。服を引っ張られた天尊は、振り返らずに「何だ」と尋ねた。
「ティエン。逃げないの?」
「逃げてどうなる。アイツらはアキラに目を付けた。それこそ莫迦みたいに執拗に追ってくるぞ。アイツら劣等種族は欲求がすべてで、獲物への執着が強い」
「じゃあ……ティエンは逃げてよ」
「お前何を言って――」
天尊は肩越しに白の表情を見て、ハッとした。
白はこの世の終わりを迎えたような顔をしていた。
白にとってはこれが今日が今生の終わりでもおかしくない。頭部を失っても死なない獰猛な化け物相手に、自分の身を守る力など持っていないのだから。
白だけではない、大抵の人間がそうだ。天尊が想像しているよりも遥かに容易く絶望し、遥かに容易く打ち崩され、心も体も驚くほど脆い。人間とは天尊の理解を超えるほど脆弱な生き物なのだ。
スルリ、と天尊の服から白の手が離れた。
「やめろ……。そんな顔をするな、やめろ。一言助けてと言えばいいだろう」
天尊はゾッとした。白が服の袖から手を離した瞬間に、諦めたのだと悟った。
天尊のような男には、そんなにも容易く自身の命運を諦めてしまえる脆弱さが理解できず、心底ゾッとした。
助けてと乞えという天尊の言葉を、白は首をふるふると左右に振って拒否した。
「ティエンだけなら飛んで逃げられる。ティエンが大怪我してボクを助ける義務なんて無い。ティエンだってケガしたら痛みはあるし、死んじゃうかもしれない。ボクの為に犠牲になれなんて、言えないよ……」
それきり白は口を噤んだ。
泣き出したいほどの恐怖の最中であっても、自身に言い聞かせて納得させることには慣れている。自分が生き残りたいからといって他者を犠牲にするなど、してはいけないことだと理性で恐怖を抑えこんだ。
しかしながら、それは天尊の意に染まないものだった。沈黙――白の聞き分けの良さ――諦念は、天尊の苛立ちを沸き立たせた。
「アキラがそんな簡単に諦めたら……ッ、俺がアキラを見捨てる薄情者みたいだろうが!」
口先では白を責めながら、脳内では自嘲した。
これまでの人生における自身の行いを振り返れば、まさに薄情者だ。何を今さら必死になって否定する。何を今さら偽善を振り翳す。何を今さら言動を取り繕う。生き残ることに形振り構わず執着し、障害物は徹底的に排除して、無慈悲に見捨ててきた。損得勘定で他者を切り捨て、蹴落とした自覚はある。
それを今さら、このような少女に薄情者と蔑まれたくないなどと感じるのは何故か。天尊は自身が白から何も期待されていない、ただそこにいるだけの役立たずだとレッテルを貼られた気がして我慢ならなかった。
いや、それも少し違う。ただ単純に頼られたい。白から頼られ、助けを乞われ、存在価値を感じさせたい。
このような子どもにまで自身を認めさせたいなど、なんと浅ましい。己を卑下しながらもプライドは捨てられない。頼られないのは、役立たずな不要品と判ぜられて打ち棄てられるのと同義だ。
「俺を薄情者にするな。俺を頼れ。助けてくれと言え」
「助けて……くれるの?」
白の声音は不安げだった。
天尊は白の手の甲を大きな手の平で包んでニッと微笑んだ。
――俺を迎え入れたこの二つの瞳が、俺を見捨てず見詰め続ける限り、剣となり盾となり守ろう。それが俺が此処にいる意味だ。
「アキラをあんな犬擬きに喰わせてたまるか」
天尊は白の手を離し、バサッとコートを翻して背を向けた。
黒犬たちに正面から向き合い、首を大きく片方に傾けてゴキッと骨を鳴らした。
立派な闘士型の体型で胸を張った白髪の偉丈夫を前にして、一匹の黒犬が鼻先で笑った。
「我らをたかが犬、犬如きと罵るが、貴様こそ狗じゃあないか」
「《ニーズヘクルメギル》の走狗めが。ごまんといる一兵卒めが。大仰な異名を得ても、命令ひとつで戦場を小汚く駆けずり回る貴様と、我らに如何程の違いがある」
「走狗の貴様が、たかが犬の餌の為に死ぬとは滑稽だ」
黒犬たちは一斉に体を揺すって笑った。ケタケタケタ、ゲラゲラと下品な嘲笑が輪唱のように谺した。
バチンッ、バチンバチッ!
天尊の周囲に電流が迸った。
天尊がギリッと拳を握り締めた瞬間、目視できるほどの電流が発生して肩まで駆け抜けた。
これは憤怒であると、白はすぐさま察知した。制御できない怒りの感情が電流となって天尊の肉体を駆け巡ったに違いない。
「テッメェー……この俺が犬だとォ。目玉抉り出して腑引き摺り出して天日に晒してやるァアアッ?」
天尊の咆哮は開戦の合図だった。
黒犬たちは一斉に天尊に襲いかかった。
天尊は、飛びかかってきた黒犬に拳で応戦した。帯電した拳は黒犬の腹部を裂いて肉にめり込んだ。
地面を駆けてきた黒犬にはキックをお見舞いしてやった。蹴り飛ばされた黒犬は、ギャワンッギャワンッとアスファルトの上を翻筋斗打った。
天尊の拳によって腹を割られた黒犬は、まだ手足をばたつかせていた。天尊は黒犬の体内で内臓と思しきものを握り、腕を引き抜くついでに腸を引きずり出した。それから黒犬を塀に投げつけた。
天尊は身体の前で両の拳を突き合わせた。次の瞬間、勢いよく拳同士を離すと、その間にバヂンッと一際大きな音を鳴らす電流が生じた。
ズガァァアンッ! バリバリバリバリィイッ!
電撃が、最初に蹴り飛ばした黒犬に続かんとする黒い犬たちを蹴散らした。
その威力はアスファルトを割り、爆煙を巻き起こした。
天尊の視界が晴れる前に、黒犬が煙を突っ切って飛びこんできた。
「チィッ!」
天尊は舌打ちをし、咄嗟に身体の前に両手でガードを造った。
ガジイッ! ガリッ! ――天尊の腕や足に数匹の黒犬が食らいついた。
天尊は肉体に野獣の牙がめりこむ苦痛を声も上げずに噛み殺した。奥歯を噛み締め、身体の前で交差させていた腕を勢いよく大きく振り回し、黒犬たちを弾き飛ばした。
黒犬たちはビタンッと一旦は地面に転げたが、すぐに体勢を立て直して天尊に飛びかかった。
ボゴォッ! ――天尊は真っ先に飛びかかってきた一匹の横っ腹を蹴り飛ばした。
先頭が蹴り飛ばされたのに合わせ、ほかの黒犬たちも一旦敵から距離を取ることにした。しかし、最後尾にいた一匹は首根っこを捕まえられてしまった。
天尊はそいつを力任せに地面に叩きつけた。すかさず黒犬の脚を靴の裏でダンッと踏みつけた。
バキバキボキンッと音を立て、確かに骨を踏み割る感触がした。白い骨が皮膚を突き破って飛び出した。
黒犬は後ろ脚を二本とも折られてしまい、前脚だけで体を引き摺ろうとするが、思うように動けずジタバタと藻掻いた。
天尊はその様をゴミでも見るような蔑んだ目で観察した。
「痛みには鈍くても所詮は犬か。骨を折ったり腱を切ったりすれば構造的な無理はできんようだな」
天尊はハハハッと笑い、足許で藻掻いている黒犬を道の端まで蹴飛ばした。
(ここで笑うんだ……)
白には、恐ろしい化け物に襲われ、残虐なシーンを目撃し、可笑しそうにする心境を理解できなかった。これが悪い夢ならよいのに、夢なら早く醒めて。そればかり願っている白と天尊の感性は到底相容れない。
ウォウウォウウォウッ!
犬たちが一斉に鳴き声を上げて地を蹴った。
攻撃が来る思った天尊は身構えたが、黒犬たちは向かってこなかった。脚を折られて体を引き摺る仲間のほうへ駆け寄った。
天尊は彼らを食欲のみの化け物と罵ったが、白はそのような彼らにも仲間意識のようなものがあると思った。しかし、彼らは白の想像通りにはならなかった。
彼らは仲間であるはずの手負いの黒犬にかぶりついた。容赦なくバリバリと骨を噛み砕き、肉をクチャクチャと咀嚼し、ズルズルと血とともに臓腑を啜った。
(ミョルニルってティエンのこと? 優等種族ってどういう意味……?)
天尊は地面をジャリッと踏み締めて黒犬たちをジロリと睨みつけた。
「オイ、劣等種族共。この女は貴様らのエサにするには上等すぎる。俺たちの前に二度と姿を現さないと誓うなら見逃してやる。とっとと失せろ」
ゲラゲラゲラゲラゲラッ――黒犬たちは笑い声を上げた。獣面の大きく裂けた口を愉快そうに吊り上げ、天尊の剛胆を莫迦にして笑いものにした。
「貴様は確かに《ミョルニル》だが恐ろしくはない」
「ニオイで分かるぞ。《ミョルニル》は弱っておる。まるで別人のように弱っておる」
黒犬たちは天尊から一定の距離を取って弧を描いた。
天尊は不快そうに眉間に皺を寄せてチッと舌打ちした。
日常生活に支障はなくとも負傷した肉体は十全ではなく〝力〟の回復は充分ではないのは事実だ。しかし、このような畜生と変わらないような下等な生物にまで侮られるなど、彼にとっては侮辱に等しい。
「舐めやがって」
ギャワンッ!
先ほど天尊が頭部を蹴り飛ばしたっきりピクリとも動かなかった犬が、突然地面から跳ね上がった。涎を撒き散らして牙を剥いて白に襲いかかった。
天尊は白を庇う為に咄嗟に腕を差し出した。
ガリィイッ! ――天尊は腕に噛みつかれた。
黒犬は頭を激しく左右に振って硬い肉に牙を深くめりこませた。
天尊は白を抱いていないほうの手で、腕に食らいつく黒犬の頭部を鷲掴みにした。
バヂバヂバヂバヂバヂッ! ……バヂィンッ!
天尊は黒犬の頭部に電流をお見舞いしてやった。
黒犬は電流に焼かれてギャンッと高い鳴き声を上げ、ボトリと地面に落ちた。
「《ミョルニル》の稲妻だ。稲妻を纏う力はまだあるのか」
「恐ろしい……。《ミョルニル》はやはり恐ろしいよ」
黒犬たちは欲求に素直であり本能に忠実だ。先ほどまでの下卑た笑いはピタリと已み、怖れに身を仰け反らせた。
ブッジュウッ!
天尊は地面に落ちた焼け焦げた犬の頭を踏み潰した。
「恐ろしけりゃ尻尾巻いて失せろ」
「それはできぬ。その娘を食すと決めた故」
白はそれを聞いてギクッとして自然と天尊にしがみつく腕に力が入った。
「大層美味そうなニオイのする人間だ。女子どもの肉は軟らかいよ」
「美味い肉を屠れば我らの力は高められる。さらに強い顎、強い牙、速い肢へ」
天尊は眉間に深い皺を刻んで不快感を露わにした。黒犬たちの主張は実に原始的かつ利己的であり何より天尊の意思に反していた。
「俺を敵に回してもいいということだな?」
黒犬たちはその問いかけに答える代わりに、一斉に天尊に躍りかかった。
ドッドドンッバリリッ!
天尊は一切の動作をしなかったが、眼前に一筋の雷が落ちて犬たちの強襲を遮った。
落雷はアスファルトを割って地面を奔り、黒犬たちの足を痺れさせた。
ギャワンッギャワンッと甲高い鳴き声が聞こえる中、天尊はチッと舌打ちした。
(今の俺じゃこの程度の雷一発が関の山か。ナメられるハズだ。出力が落ちている、弱っているなんてモンじゃない)
ダンッ。――天尊に踏み潰されて頭部を失った黒犬の体が飛び上がった。
長く伸びた鋭い爪で天尊の太腿を衣服ごと切り裂いた。
「まだ動けるかッ」
天尊は黒犬の体をむんずと掴んだ。近くのコンクリート塀に向かって力任せにぶん投げた。
ビダァッン! ――黒犬は硬い塀に叩きつけられた。
アスファルトの上に落ち、四肢をピクッピクッと痙攣させた。
白は青ざめた顔でその様を凝視した。
「頭が無いのに、何で……?」
「莫迦みたいに生命力が強いらしい。頭が無くても動けるとは厄介だ」
天尊は、地面に転がる頭部のない黒犬に手の平を向けた。
ズドンッ! ――黒犬の体は雷に貫かれ、その衝撃で地面の上を一度大きく跳ねた。
真っ黒く焦がれた全身は、微弱な痙攣すらなくなり、ようやく息絶えた。
(よりによってこんな厄介な奴らがアキラに目を付けるとは)
天尊は黒犬の死骸を忌々しく睨みながら白をゆっくりと地面に下ろした。
白は天尊の服の袖を握り締めていた。服を引っ張られた天尊は、振り返らずに「何だ」と尋ねた。
「ティエン。逃げないの?」
「逃げてどうなる。アイツらはアキラに目を付けた。それこそ莫迦みたいに執拗に追ってくるぞ。アイツら劣等種族は欲求がすべてで、獲物への執着が強い」
「じゃあ……ティエンは逃げてよ」
「お前何を言って――」
天尊は肩越しに白の表情を見て、ハッとした。
白はこの世の終わりを迎えたような顔をしていた。
白にとってはこれが今日が今生の終わりでもおかしくない。頭部を失っても死なない獰猛な化け物相手に、自分の身を守る力など持っていないのだから。
白だけではない、大抵の人間がそうだ。天尊が想像しているよりも遥かに容易く絶望し、遥かに容易く打ち崩され、心も体も驚くほど脆い。人間とは天尊の理解を超えるほど脆弱な生き物なのだ。
スルリ、と天尊の服から白の手が離れた。
「やめろ……。そんな顔をするな、やめろ。一言助けてと言えばいいだろう」
天尊はゾッとした。白が服の袖から手を離した瞬間に、諦めたのだと悟った。
天尊のような男には、そんなにも容易く自身の命運を諦めてしまえる脆弱さが理解できず、心底ゾッとした。
助けてと乞えという天尊の言葉を、白は首をふるふると左右に振って拒否した。
「ティエンだけなら飛んで逃げられる。ティエンが大怪我してボクを助ける義務なんて無い。ティエンだってケガしたら痛みはあるし、死んじゃうかもしれない。ボクの為に犠牲になれなんて、言えないよ……」
それきり白は口を噤んだ。
泣き出したいほどの恐怖の最中であっても、自身に言い聞かせて納得させることには慣れている。自分が生き残りたいからといって他者を犠牲にするなど、してはいけないことだと理性で恐怖を抑えこんだ。
しかしながら、それは天尊の意に染まないものだった。沈黙――白の聞き分けの良さ――諦念は、天尊の苛立ちを沸き立たせた。
「アキラがそんな簡単に諦めたら……ッ、俺がアキラを見捨てる薄情者みたいだろうが!」
口先では白を責めながら、脳内では自嘲した。
これまでの人生における自身の行いを振り返れば、まさに薄情者だ。何を今さら必死になって否定する。何を今さら偽善を振り翳す。何を今さら言動を取り繕う。生き残ることに形振り構わず執着し、障害物は徹底的に排除して、無慈悲に見捨ててきた。損得勘定で他者を切り捨て、蹴落とした自覚はある。
それを今さら、このような少女に薄情者と蔑まれたくないなどと感じるのは何故か。天尊は自身が白から何も期待されていない、ただそこにいるだけの役立たずだとレッテルを貼られた気がして我慢ならなかった。
いや、それも少し違う。ただ単純に頼られたい。白から頼られ、助けを乞われ、存在価値を感じさせたい。
このような子どもにまで自身を認めさせたいなど、なんと浅ましい。己を卑下しながらもプライドは捨てられない。頼られないのは、役立たずな不要品と判ぜられて打ち棄てられるのと同義だ。
「俺を薄情者にするな。俺を頼れ。助けてくれと言え」
「助けて……くれるの?」
白の声音は不安げだった。
天尊は白の手の甲を大きな手の平で包んでニッと微笑んだ。
――俺を迎え入れたこの二つの瞳が、俺を見捨てず見詰め続ける限り、剣となり盾となり守ろう。それが俺が此処にいる意味だ。
「アキラをあんな犬擬きに喰わせてたまるか」
天尊は白の手を離し、バサッとコートを翻して背を向けた。
黒犬たちに正面から向き合い、首を大きく片方に傾けてゴキッと骨を鳴らした。
立派な闘士型の体型で胸を張った白髪の偉丈夫を前にして、一匹の黒犬が鼻先で笑った。
「我らをたかが犬、犬如きと罵るが、貴様こそ狗じゃあないか」
「《ニーズヘクルメギル》の走狗めが。ごまんといる一兵卒めが。大仰な異名を得ても、命令ひとつで戦場を小汚く駆けずり回る貴様と、我らに如何程の違いがある」
「走狗の貴様が、たかが犬の餌の為に死ぬとは滑稽だ」
黒犬たちは一斉に体を揺すって笑った。ケタケタケタ、ゲラゲラと下品な嘲笑が輪唱のように谺した。
バチンッ、バチンバチッ!
天尊の周囲に電流が迸った。
天尊がギリッと拳を握り締めた瞬間、目視できるほどの電流が発生して肩まで駆け抜けた。
これは憤怒であると、白はすぐさま察知した。制御できない怒りの感情が電流となって天尊の肉体を駆け巡ったに違いない。
「テッメェー……この俺が犬だとォ。目玉抉り出して腑引き摺り出して天日に晒してやるァアアッ?」
天尊の咆哮は開戦の合図だった。
黒犬たちは一斉に天尊に襲いかかった。
天尊は、飛びかかってきた黒犬に拳で応戦した。帯電した拳は黒犬の腹部を裂いて肉にめり込んだ。
地面を駆けてきた黒犬にはキックをお見舞いしてやった。蹴り飛ばされた黒犬は、ギャワンッギャワンッとアスファルトの上を翻筋斗打った。
天尊の拳によって腹を割られた黒犬は、まだ手足をばたつかせていた。天尊は黒犬の体内で内臓と思しきものを握り、腕を引き抜くついでに腸を引きずり出した。それから黒犬を塀に投げつけた。
天尊は身体の前で両の拳を突き合わせた。次の瞬間、勢いよく拳同士を離すと、その間にバヂンッと一際大きな音を鳴らす電流が生じた。
ズガァァアンッ! バリバリバリバリィイッ!
電撃が、最初に蹴り飛ばした黒犬に続かんとする黒い犬たちを蹴散らした。
その威力はアスファルトを割り、爆煙を巻き起こした。
天尊の視界が晴れる前に、黒犬が煙を突っ切って飛びこんできた。
「チィッ!」
天尊は舌打ちをし、咄嗟に身体の前に両手でガードを造った。
ガジイッ! ガリッ! ――天尊の腕や足に数匹の黒犬が食らいついた。
天尊は肉体に野獣の牙がめりこむ苦痛を声も上げずに噛み殺した。奥歯を噛み締め、身体の前で交差させていた腕を勢いよく大きく振り回し、黒犬たちを弾き飛ばした。
黒犬たちはビタンッと一旦は地面に転げたが、すぐに体勢を立て直して天尊に飛びかかった。
ボゴォッ! ――天尊は真っ先に飛びかかってきた一匹の横っ腹を蹴り飛ばした。
先頭が蹴り飛ばされたのに合わせ、ほかの黒犬たちも一旦敵から距離を取ることにした。しかし、最後尾にいた一匹は首根っこを捕まえられてしまった。
天尊はそいつを力任せに地面に叩きつけた。すかさず黒犬の脚を靴の裏でダンッと踏みつけた。
バキバキボキンッと音を立て、確かに骨を踏み割る感触がした。白い骨が皮膚を突き破って飛び出した。
黒犬は後ろ脚を二本とも折られてしまい、前脚だけで体を引き摺ろうとするが、思うように動けずジタバタと藻掻いた。
天尊はその様をゴミでも見るような蔑んだ目で観察した。
「痛みには鈍くても所詮は犬か。骨を折ったり腱を切ったりすれば構造的な無理はできんようだな」
天尊はハハハッと笑い、足許で藻掻いている黒犬を道の端まで蹴飛ばした。
(ここで笑うんだ……)
白には、恐ろしい化け物に襲われ、残虐なシーンを目撃し、可笑しそうにする心境を理解できなかった。これが悪い夢ならよいのに、夢なら早く醒めて。そればかり願っている白と天尊の感性は到底相容れない。
ウォウウォウウォウッ!
犬たちが一斉に鳴き声を上げて地を蹴った。
攻撃が来る思った天尊は身構えたが、黒犬たちは向かってこなかった。脚を折られて体を引き摺る仲間のほうへ駆け寄った。
天尊は彼らを食欲のみの化け物と罵ったが、白はそのような彼らにも仲間意識のようなものがあると思った。しかし、彼らは白の想像通りにはならなかった。
彼らは仲間であるはずの手負いの黒犬にかぶりついた。容赦なくバリバリと骨を噛み砕き、肉をクチャクチャと咀嚼し、ズルズルと血とともに臓腑を啜った。
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