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Kapitel 04:狂犬
狂犬 03
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翌日の朝。
白が目を覚ますと、自室の外で何やら物音が聞こえた。
日頃、この家で一番早く活動を開始するのは白だ。白は不思議に思ってベッドから抜け出てパジャマのまま部屋から出た。
音を立てた正体は、キッチンに立っている天尊だ。
「ティエン。何してるの?」
白は天尊の後ろ姿に尋ねた。
振り返った天尊は、見た通りだと言わんばかりに両手を広げる仕草をした。
「朝メシ」
「料理できないんじゃなかったっけ?」
「ボタンを押すだけだ」
天尊は電子レンジを指差した。
確かに、付け合わせの存在を無視すれば朝食の支度は、「トースト」ボタン一発で解決だ。
「食欲はあるか、アキラ」
白は自分の腹に手を当ててみた。
昨日の夕飯は、犬の死骸の光景が頭から消えずあまり口にできなかったが、寝て起きるとちゃんとお腹が空いていた。頭が整理されて気持ちが落ち着いた証拠だ。
「うん。お腹空いてる」
「じゃあ着替えてこい。朝メシの用意は俺がしておいてやる」
天尊が朝食に用意したのは若干焦げたトーストだった。銀太は電子レンジで失敗するなんて有り得ないとブーイングだったが、白はありがたくいただいた。料理ができないと豪語していた人物が、わざわざ用意してくれた食事を無碍にはできなかった。
瑠璃瑛学園中等部校舎・某教室。
白は、登校してしばらくしてから頭痛に悩まされていた。
頭の上にずーんと重しを載せられているような倦怠感混じりの感覚と、時たまズキンッと鋭い痛みが走る。頭痛持ちではないから風邪のひきはじめという可能性もある。自分が体調を崩して動けなくなると、すなわち銀太の生活にも支障ができる。体調管理には人一倍配慮しなくてはいけない。
(うーん。頭がスッキリしない)
白は頭の重さから気を逸らす為に、見るともなしに窓の外へと目線を遣った。
ふと、校庭にいる一匹の犬に目が留まった。心なしかこちらを仰視して見えるから気になった。
前肢を揃えてちょこんと座した犬。街中でよく見かける室内飼いの小型犬より一回りは大きい。ドーベルマンのように細身で耳が尖っているが、それとは異なる。犬種には明るくないから判定しかねる。
(学校のなかに犬がいるなんて珍しい。迷いこんだのかな。今はちょっと犬見たくない気分)
ズキンッ。――また鋭い痛みが頭を刺した。
あいたたたっ、と白は手で頭を押さえた。
虎子が隣の席から心配そうに白の顔を覗きこんだ。
「どうかなさいました?」
「今日は頭痛がするんだよね」
「頭痛はあまりよろしくありませんわよ。酷いようでしたら病院にお連れしますわ」
「ん~。平気。そこまでじゃないよ」
白はまた窓外へと目を向けた。
犬の姿はもう校庭になかった。
虎子のほうへ顔を向け、つい先ほどまで犬がいた場所を指差した。
「ねえ。今あそこに犬がいなかった?」
「犬ですか? さあ、わたくしは見ていませんわ。誰かが連れていらしたのですか?」
「イヤ、犬だけ」
フム、と虎子は小首を傾げた。
「学園の敷地内に野良の犬や猫が入ってくるのは少々難しいかと。敷地内にはセンサーやカメラがあります。もし迷い犬が敷地内に入ってきても、すぐにガードマンが保護しますわ」
「そうだよね。見間違い、だったのかな」
白も虎子の説明に納得した。犬が忽然と消えたのは、目を離している間にガードマンに素早く保護されたのかもしれない。あの犬に恨みはないが、今はできれば何であれ犬を目にしたくはない。昨夜の犬の死骸を思い出してしまう。
凄惨な光景を思い出すと気分が悪くなり、余計に頭痛が増した気がする。
「あー。頭が重たい」
「たかが頭痛と無理されないほうがよろしいですわよ」
「今夜は早く寝ることにします」
クラスメイトの女子生徒たちが白の体調不良を聞きつけ、一瞬にして白の席を取り囲んだ。
「アキラくん。どうされました? 体調が優れないのですか?」
「保健室にいらしたほうがよろしいでのは。付き添いますわ。わたしは保健係ですから」
「僭越ながらわたくしも付き添いますわ。アキラくんのことが心配ですもの」
白は彼女たちを安心させようと笑顔を作って首を左右に振った。
「大丈夫だよ。たぶん、ただの寝不足だから」
「まあ、寝不足。文化祭が近くてお忙しいですものね。御無理なさっているのでは……」
「そんなことないよ。今日は真っ直ぐ家に帰るだけだからもう大丈夫。心配させてごめんね」
「アキラくん……❤」
白にそのつもりはなくとも中等部のアイドルだ。笑顔を振りまけば女子生徒たちはキュンと胸を高鳴らせる。
「ううッ!」
ひとりの男子生徒が教室の片隅で突然呻き声を上げた。
腹部を押さえて蹲った彼に、周囲の男子生徒が血相を変えて駆け寄った。
「どうした! 腹痛かッ?」
「ううう……。この激痛は腸捻転が再発したかも……」
「保健係ー! 保健係ーッ!」
男子生徒は声高々に保健係の女子生徒を呼んだが、保健係の彼女は白の心配で胸いっぱいであり、その声は耳に届かなかった。
「ここには腹痛に悶える男子生徒がおるというのに、このクラスの女子は何故に疋堂の心配しかせんのだ」
「歪んどる。需要と供給がアンバランスすぎる」
「な、何でもいいから……きゅ、救急車~~~ッ!」
放課後。通学路の帰り道。
白は額を押さえ、ひとりで帰路を歩いていた。
頭痛は学校を出てからさらに酷くなり、自分の歩みの一歩一歩が頭蓋に響き、顔を顰めずにはいられなかった。このようなことなら虎子の言葉に甘えて自宅までは送ってもらえばよかったと後悔した。
(頭痛、全然治まらない。血管が疼いてるみたい……)
白はとうとう通学路の途中で足を止めた。鼓動に合わせてズクッズクッと脳を締めつけられるような痛みが走る。足を停めて休憩しても一向に治まる様子がない。
ウォンッ!
突然、背後で犬が吠えた。
白はビクッと全身を跳ねさせ、後ろを振り返った。
道路の真ん中に黒い塊が佇んでいた。
「……犬だ」
黒い犬が数メートル先にいて、校庭にいた黒い犬と同じように前足を揃えて座していた。同じような毛色、同じような姿勢、だからか校庭で目撃したものと同一の犬に見えた。しかし、そうだとしたらとんでもない偶然だ。
本当に偶然なのだろうか。学校と通学路で同じ犬に出会うなんて。野良犬を見ることさえ珍しいのに。そのような考えが頭を過った瞬間、ザワッと鳥肌に襲われた。
キィィィイイイイッッ。
「痛ッ!」
突如として甲高い大音響が脳内に響いた。
一気に頭痛が強まり、耐えかねた白はその場にしゃがみこんだ。額から脂汗が噴き出し、心臓がバクバクと拍動する。まるで頭のなかで鐘を打ち鳴らしているかのようだ。このような体調の急変は、はじめてのことだった。
動揺しながらもどうにかうっすらと瞼を開け、黒犬の様子を窺った。見れば見るほど、校庭にいた黒犬と似ている。最早、同じ犬としか思えなかった。
ウォォーーーーオオオッ!
黒犬が咆哮を上げた。
黒犬の大きさには到底見合わない大音量だ。それが体にぶち当たり威圧され、白は弾かれたように立ち上がった。地面を蹴って全力で駆け出した。
本能的な危機感だった。本当に黒犬が校庭に現れたものと同一なのか、何の為に現れたのか、果たしてただの犬なのか、何も分からないが、とにかく逃げなくてはいけないと思った。
「はあっ、はあっ、はあっ……!」
白は訳も分からず我武者羅に走った。目指すべき目的地などなかった。何かを考える余裕はなかった。とにかくあの場から、あの黒犬から、離れたくて遮二無二腕を振って全力疾走した。
キィィィイインッッ。
黒犬から逃げることに夢中になっていたから忘れていたが、再び甲高い大音響に見舞われた。
頭痛が再発した白は、思わず足を止めた。
「いたっ! もういい加減にしてよ……っ」
ウォウッ、ウォウッ、ウォッ!
犬の鳴き声が遠くから近づいてくる。怒濤のような犬の鳴き声が、束の間已むことも無く迫ってくる。一匹だけのものではない、数匹分の鳴き声が、高いも低いも入り乱れ、白が走ってきた道を後から追ってくる。
ガチィインッ!
ずっと向こうから牙を打ち鳴らす音が聞こえた。
まだ姿は見えない。しかし、犬のものとは到底思えなかった。まるで獰猛な鰐か鮫かが、巨大な顎を閉じたような音だった。いや、真面な生き物ではない。化け物が打ち鳴らす音のようだった。
白はまた走り出した。
心臓も喉も痛いが、構っていられない。もっと遠くへ逃げなければあの鳴き声に追いつかれてしまう。追いつかれ呑みこまれてしまえばどうなってしまうのか、想像もできない。
想像したくない。想像したら恐怖に支配されてしまう。白が懸命に走ったところで、犬と比較してどちらが速いかなど分かりきっている。結果を考えてはいけない。逃げるしかできないのだから、全力で、命懸けで、そうするしかない。
追い立てる獣の鳴き声と牙を打ち鳴らす音が、絶え間なく体に纏わりつく。どれほど息を切って走っても引き離せない、真綿で首を絞めるようにどんどん近づいてくる。
タッタッタッタッ。――とうとう足音まで耳に届いた。
手馴れた狩りをするように、或いは獲物を弄ぶように、軽やかに地面を蹴る足運び。
(追いつかれる!)
白は走りながらキュッと瞼を閉じた。追いつかれたその先など想像したくはないから、反射的な行動だった。
どぉんっ!
前方を見ていなかった白は、かなりしたたかに障害物に衝突した。視界に火花が飛び、堪らず足を停めてしまった
ガチンッガチンッ!
軍馬が蹄鉄を踏み鳴らすよりも乱雑に、欲動のみに駆られて悪魔が牙を打ち鳴らす。黒犬の姿を借りた悪魔が、墓地のような冷気を纏って闇苅からやってくる。
(ダメだ! 追いつかれる! 追いつかれたら食べられッ……)
ふわっ。――急に身体が軽くなって足が地面から浮いた。
硬い腕に抱き抱えられていた。覚えのある、煙草の匂い、少し高めの体温。瞼を開けて正体を目視するより前に、恐怖によって強張っていた身体から力が抜けた。
「よく頑張ったな」
よく知っている低い声、頼もしく力強いこの声。
白は天尊の首にしがみついて抱き締めた。自分を無力と知っているが故の行動だった。この声以外に縋るものなどなかった。
「ティエン……っ」
「ああ、俺だ」
天尊は白の背中を大きな手で優しくポンポンと撫でた。白らしくなく抱きついてくるのは、天尊の自尊心を満たした。
ウォンウォンッギャウンッ!
捲し立てるような咆哮を上げ、牙を剥いた大きな顎が暗闇から飛び出してきた。
パカァアンッ!
天尊は先頭を切って突進してきた黒犬の頭部を蹴り飛ばした。
キャインッキャイッ、と甲高い悲鳴を上げて黒犬は塀に叩きつけられた。
追随してきたほかの犬たちは、天尊と数メートルの地点で急停止した。天尊を睨みつけてグルグルと唸って威嚇した。
天尊も、白を片腕に抱いて黒犬たちを注視した。
「あの事件の犬か?」
白はしがみつく力を緩めて天尊の顔を見た。
天尊の顔付きは、たかが野良犬を見るものとは思えなかった。荒事に慣れていない白でも臨戦態勢なのだと察知した。
「や、やめようよティエン。飛んで逃げればいいじゃない。野良犬を素手で相手にするなんて危ないよ」
「逃げてどうなる。物騒なモンがこの辺を彷徨いていることに変わりはない」
「警察とか管理人とか、そういう人たちに言えば捕まえてくれる。わざわざティエンが危ないことすることないよッ」
「アイツらがニンゲンにどうこうできる代物ならな」
白は天尊の言わんとしていることを悟り、ゴクリと生唾を嚥下した。
人間にはどうにもできない存在、化け物。無力な少女にとってこの上ない脅威だ。
「……《ミョルニル》だ……」
突如、嗄れた老人のような声がして、白はビクッと肩を跳ねた。
無論、天尊の声ではない。その声は確かに黒犬のほうから聞こえた。
「犬が……喋った⁉」
「ごく当たり前の犬ではないということだ」
目を見開いて驚愕した白とは対照的に、天尊には動揺が一切無かった。
天尊にとってはこのようなことは何ら異変ではなかった。天尊の知る世界では、獣は獲物を捕らえるときには当然に牙を剥き、当然に冷酷であり、当然に容赦はなく、当然に凶悪だ。
「優等種族の《ミョルニル》だ」
「あの《ミョルニル》がミズガルズに何故」
黒犬たちは口々に輪唱するようにその単語を口走った。
白が目を覚ますと、自室の外で何やら物音が聞こえた。
日頃、この家で一番早く活動を開始するのは白だ。白は不思議に思ってベッドから抜け出てパジャマのまま部屋から出た。
音を立てた正体は、キッチンに立っている天尊だ。
「ティエン。何してるの?」
白は天尊の後ろ姿に尋ねた。
振り返った天尊は、見た通りだと言わんばかりに両手を広げる仕草をした。
「朝メシ」
「料理できないんじゃなかったっけ?」
「ボタンを押すだけだ」
天尊は電子レンジを指差した。
確かに、付け合わせの存在を無視すれば朝食の支度は、「トースト」ボタン一発で解決だ。
「食欲はあるか、アキラ」
白は自分の腹に手を当ててみた。
昨日の夕飯は、犬の死骸の光景が頭から消えずあまり口にできなかったが、寝て起きるとちゃんとお腹が空いていた。頭が整理されて気持ちが落ち着いた証拠だ。
「うん。お腹空いてる」
「じゃあ着替えてこい。朝メシの用意は俺がしておいてやる」
天尊が朝食に用意したのは若干焦げたトーストだった。銀太は電子レンジで失敗するなんて有り得ないとブーイングだったが、白はありがたくいただいた。料理ができないと豪語していた人物が、わざわざ用意してくれた食事を無碍にはできなかった。
瑠璃瑛学園中等部校舎・某教室。
白は、登校してしばらくしてから頭痛に悩まされていた。
頭の上にずーんと重しを載せられているような倦怠感混じりの感覚と、時たまズキンッと鋭い痛みが走る。頭痛持ちではないから風邪のひきはじめという可能性もある。自分が体調を崩して動けなくなると、すなわち銀太の生活にも支障ができる。体調管理には人一倍配慮しなくてはいけない。
(うーん。頭がスッキリしない)
白は頭の重さから気を逸らす為に、見るともなしに窓の外へと目線を遣った。
ふと、校庭にいる一匹の犬に目が留まった。心なしかこちらを仰視して見えるから気になった。
前肢を揃えてちょこんと座した犬。街中でよく見かける室内飼いの小型犬より一回りは大きい。ドーベルマンのように細身で耳が尖っているが、それとは異なる。犬種には明るくないから判定しかねる。
(学校のなかに犬がいるなんて珍しい。迷いこんだのかな。今はちょっと犬見たくない気分)
ズキンッ。――また鋭い痛みが頭を刺した。
あいたたたっ、と白は手で頭を押さえた。
虎子が隣の席から心配そうに白の顔を覗きこんだ。
「どうかなさいました?」
「今日は頭痛がするんだよね」
「頭痛はあまりよろしくありませんわよ。酷いようでしたら病院にお連れしますわ」
「ん~。平気。そこまでじゃないよ」
白はまた窓外へと目を向けた。
犬の姿はもう校庭になかった。
虎子のほうへ顔を向け、つい先ほどまで犬がいた場所を指差した。
「ねえ。今あそこに犬がいなかった?」
「犬ですか? さあ、わたくしは見ていませんわ。誰かが連れていらしたのですか?」
「イヤ、犬だけ」
フム、と虎子は小首を傾げた。
「学園の敷地内に野良の犬や猫が入ってくるのは少々難しいかと。敷地内にはセンサーやカメラがあります。もし迷い犬が敷地内に入ってきても、すぐにガードマンが保護しますわ」
「そうだよね。見間違い、だったのかな」
白も虎子の説明に納得した。犬が忽然と消えたのは、目を離している間にガードマンに素早く保護されたのかもしれない。あの犬に恨みはないが、今はできれば何であれ犬を目にしたくはない。昨夜の犬の死骸を思い出してしまう。
凄惨な光景を思い出すと気分が悪くなり、余計に頭痛が増した気がする。
「あー。頭が重たい」
「たかが頭痛と無理されないほうがよろしいですわよ」
「今夜は早く寝ることにします」
クラスメイトの女子生徒たちが白の体調不良を聞きつけ、一瞬にして白の席を取り囲んだ。
「アキラくん。どうされました? 体調が優れないのですか?」
「保健室にいらしたほうがよろしいでのは。付き添いますわ。わたしは保健係ですから」
「僭越ながらわたくしも付き添いますわ。アキラくんのことが心配ですもの」
白は彼女たちを安心させようと笑顔を作って首を左右に振った。
「大丈夫だよ。たぶん、ただの寝不足だから」
「まあ、寝不足。文化祭が近くてお忙しいですものね。御無理なさっているのでは……」
「そんなことないよ。今日は真っ直ぐ家に帰るだけだからもう大丈夫。心配させてごめんね」
「アキラくん……❤」
白にそのつもりはなくとも中等部のアイドルだ。笑顔を振りまけば女子生徒たちはキュンと胸を高鳴らせる。
「ううッ!」
ひとりの男子生徒が教室の片隅で突然呻き声を上げた。
腹部を押さえて蹲った彼に、周囲の男子生徒が血相を変えて駆け寄った。
「どうした! 腹痛かッ?」
「ううう……。この激痛は腸捻転が再発したかも……」
「保健係ー! 保健係ーッ!」
男子生徒は声高々に保健係の女子生徒を呼んだが、保健係の彼女は白の心配で胸いっぱいであり、その声は耳に届かなかった。
「ここには腹痛に悶える男子生徒がおるというのに、このクラスの女子は何故に疋堂の心配しかせんのだ」
「歪んどる。需要と供給がアンバランスすぎる」
「な、何でもいいから……きゅ、救急車~~~ッ!」
放課後。通学路の帰り道。
白は額を押さえ、ひとりで帰路を歩いていた。
頭痛は学校を出てからさらに酷くなり、自分の歩みの一歩一歩が頭蓋に響き、顔を顰めずにはいられなかった。このようなことなら虎子の言葉に甘えて自宅までは送ってもらえばよかったと後悔した。
(頭痛、全然治まらない。血管が疼いてるみたい……)
白はとうとう通学路の途中で足を止めた。鼓動に合わせてズクッズクッと脳を締めつけられるような痛みが走る。足を停めて休憩しても一向に治まる様子がない。
ウォンッ!
突然、背後で犬が吠えた。
白はビクッと全身を跳ねさせ、後ろを振り返った。
道路の真ん中に黒い塊が佇んでいた。
「……犬だ」
黒い犬が数メートル先にいて、校庭にいた黒い犬と同じように前足を揃えて座していた。同じような毛色、同じような姿勢、だからか校庭で目撃したものと同一の犬に見えた。しかし、そうだとしたらとんでもない偶然だ。
本当に偶然なのだろうか。学校と通学路で同じ犬に出会うなんて。野良犬を見ることさえ珍しいのに。そのような考えが頭を過った瞬間、ザワッと鳥肌に襲われた。
キィィィイイイイッッ。
「痛ッ!」
突如として甲高い大音響が脳内に響いた。
一気に頭痛が強まり、耐えかねた白はその場にしゃがみこんだ。額から脂汗が噴き出し、心臓がバクバクと拍動する。まるで頭のなかで鐘を打ち鳴らしているかのようだ。このような体調の急変は、はじめてのことだった。
動揺しながらもどうにかうっすらと瞼を開け、黒犬の様子を窺った。見れば見るほど、校庭にいた黒犬と似ている。最早、同じ犬としか思えなかった。
ウォォーーーーオオオッ!
黒犬が咆哮を上げた。
黒犬の大きさには到底見合わない大音量だ。それが体にぶち当たり威圧され、白は弾かれたように立ち上がった。地面を蹴って全力で駆け出した。
本能的な危機感だった。本当に黒犬が校庭に現れたものと同一なのか、何の為に現れたのか、果たしてただの犬なのか、何も分からないが、とにかく逃げなくてはいけないと思った。
「はあっ、はあっ、はあっ……!」
白は訳も分からず我武者羅に走った。目指すべき目的地などなかった。何かを考える余裕はなかった。とにかくあの場から、あの黒犬から、離れたくて遮二無二腕を振って全力疾走した。
キィィィイインッッ。
黒犬から逃げることに夢中になっていたから忘れていたが、再び甲高い大音響に見舞われた。
頭痛が再発した白は、思わず足を止めた。
「いたっ! もういい加減にしてよ……っ」
ウォウッ、ウォウッ、ウォッ!
犬の鳴き声が遠くから近づいてくる。怒濤のような犬の鳴き声が、束の間已むことも無く迫ってくる。一匹だけのものではない、数匹分の鳴き声が、高いも低いも入り乱れ、白が走ってきた道を後から追ってくる。
ガチィインッ!
ずっと向こうから牙を打ち鳴らす音が聞こえた。
まだ姿は見えない。しかし、犬のものとは到底思えなかった。まるで獰猛な鰐か鮫かが、巨大な顎を閉じたような音だった。いや、真面な生き物ではない。化け物が打ち鳴らす音のようだった。
白はまた走り出した。
心臓も喉も痛いが、構っていられない。もっと遠くへ逃げなければあの鳴き声に追いつかれてしまう。追いつかれ呑みこまれてしまえばどうなってしまうのか、想像もできない。
想像したくない。想像したら恐怖に支配されてしまう。白が懸命に走ったところで、犬と比較してどちらが速いかなど分かりきっている。結果を考えてはいけない。逃げるしかできないのだから、全力で、命懸けで、そうするしかない。
追い立てる獣の鳴き声と牙を打ち鳴らす音が、絶え間なく体に纏わりつく。どれほど息を切って走っても引き離せない、真綿で首を絞めるようにどんどん近づいてくる。
タッタッタッタッ。――とうとう足音まで耳に届いた。
手馴れた狩りをするように、或いは獲物を弄ぶように、軽やかに地面を蹴る足運び。
(追いつかれる!)
白は走りながらキュッと瞼を閉じた。追いつかれたその先など想像したくはないから、反射的な行動だった。
どぉんっ!
前方を見ていなかった白は、かなりしたたかに障害物に衝突した。視界に火花が飛び、堪らず足を停めてしまった
ガチンッガチンッ!
軍馬が蹄鉄を踏み鳴らすよりも乱雑に、欲動のみに駆られて悪魔が牙を打ち鳴らす。黒犬の姿を借りた悪魔が、墓地のような冷気を纏って闇苅からやってくる。
(ダメだ! 追いつかれる! 追いつかれたら食べられッ……)
ふわっ。――急に身体が軽くなって足が地面から浮いた。
硬い腕に抱き抱えられていた。覚えのある、煙草の匂い、少し高めの体温。瞼を開けて正体を目視するより前に、恐怖によって強張っていた身体から力が抜けた。
「よく頑張ったな」
よく知っている低い声、頼もしく力強いこの声。
白は天尊の首にしがみついて抱き締めた。自分を無力と知っているが故の行動だった。この声以外に縋るものなどなかった。
「ティエン……っ」
「ああ、俺だ」
天尊は白の背中を大きな手で優しくポンポンと撫でた。白らしくなく抱きついてくるのは、天尊の自尊心を満たした。
ウォンウォンッギャウンッ!
捲し立てるような咆哮を上げ、牙を剥いた大きな顎が暗闇から飛び出してきた。
パカァアンッ!
天尊は先頭を切って突進してきた黒犬の頭部を蹴り飛ばした。
キャインッキャイッ、と甲高い悲鳴を上げて黒犬は塀に叩きつけられた。
追随してきたほかの犬たちは、天尊と数メートルの地点で急停止した。天尊を睨みつけてグルグルと唸って威嚇した。
天尊も、白を片腕に抱いて黒犬たちを注視した。
「あの事件の犬か?」
白はしがみつく力を緩めて天尊の顔を見た。
天尊の顔付きは、たかが野良犬を見るものとは思えなかった。荒事に慣れていない白でも臨戦態勢なのだと察知した。
「や、やめようよティエン。飛んで逃げればいいじゃない。野良犬を素手で相手にするなんて危ないよ」
「逃げてどうなる。物騒なモンがこの辺を彷徨いていることに変わりはない」
「警察とか管理人とか、そういう人たちに言えば捕まえてくれる。わざわざティエンが危ないことすることないよッ」
「アイツらがニンゲンにどうこうできる代物ならな」
白は天尊の言わんとしていることを悟り、ゴクリと生唾を嚥下した。
人間にはどうにもできない存在、化け物。無力な少女にとってこの上ない脅威だ。
「……《ミョルニル》だ……」
突如、嗄れた老人のような声がして、白はビクッと肩を跳ねた。
無論、天尊の声ではない。その声は確かに黒犬のほうから聞こえた。
「犬が……喋った⁉」
「ごく当たり前の犬ではないということだ」
目を見開いて驚愕した白とは対照的に、天尊には動揺が一切無かった。
天尊にとってはこのようなことは何ら異変ではなかった。天尊の知る世界では、獣は獲物を捕らえるときには当然に牙を剥き、当然に冷酷であり、当然に容赦はなく、当然に凶悪だ。
「優等種族の《ミョルニル》だ」
「あの《ミョルニル》がミズガルズに何故」
黒犬たちは口々に輪唱するようにその単語を口走った。
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