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Kapitel 01:起
起 04
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白が学校から帰宅した時分。
白がリビングに入ると、応接テーブルの影から足がニュッと出ているのが見えた。天尊と銀太がカーペットの上に寝転がって眠っていた。
(銀太、着替えないまま遊んだな)
白がソファに近付いて銀太の寝顔を覗きこもうとすると、その気配に気付いて天尊がガバッと上半身を起こした。
白は内心ビックリしたが、素っ頓狂な声は抑えた。
「……起こしました?」
「気にするな。元々熟睡するタチじゃない」
確かに熟睡しない体質なのだろう。白はなるべく足音も呼吸も消して接近したのに、天尊は反応した。
天尊がすぐ近くで飛び起きても銀太は涎を垂らしていまだ夢のなか。6歳児の眠りは深い。
白は銀太の寝顔を覗きこんでフフッと笑みを零した。
それから、天尊に傷の具合を尋ねると、だいぶいいと返ってきた。
「もう大きなケガ、しないと良いですね」
「仕事次第だな」
「そんな大ケガする仕事なんて、大変ですね」
「今回はたまたま手こずっているが、いつもはもっと上手くやる」
「そんなに大変なお仕事なのに、どうしてもティエンゾンさんがひとりでやらなきゃいけないんですか?」
白からの何気ない問いかけに、天尊は急に黙りこんだ。
何かまずいことを言っただろうか。白は不思議に思いながら通学用のバッグを床に下ろした。
「…………。仕事を終わらせんと還ることはできん」
え、と白はつい声を漏らした。
「帰る場所あるんですか」
「何だ、意外か?」
「うん、まあ、はい。ケガしても行くところが無いみたいだから」
「今は還れんがな」
「ケガしてるのに帰れないんですか?」
「仕事を終わらせなければ、還る意味など無い」
それはどういう意味ですか、と当然に頭に浮かんだが、白は口にしなかった。何となく天尊の横顔が、言いたくないことを言ったという顔をしているような気がしたから。
「夕飯の準備しますね」
白は床に下ろしていた通学バッグを持ち上げた。
自分にも訊かれたくないことがあるから、他人の訊かれたくないことは決して訊かない。自分でも何故だかは分からないが、そういう一線を感知する能力には長けていた。
ピクッ。――天尊はバッと顔を引き上げてベランダを睨んだ。
(この気配! 近付いてくる!)
高速で接近してくる何者かの気配を察知した。白と銀太を背にして一気に大きく翼を拡げた。
バリィイインッ!
天尊が身構えた直後、ベランダの戸のガラスがすべて弾け飛んだ。無数のガラスの破片が天尊たちのほうへ矢のように飛んできた。
天尊はガラスの破片を両翼で防いだ。天尊の背後には一片たりとも落ちていなかった。
背中にいる白に「大丈夫か」と声をかけると「うん」と返ってきた。
白は通学バッグを投げ捨てて銀太を抱き締めていた。両肩を掴んで揺さぶって叩き起こした。
無理矢理起こされた銀太は、寝惚け眼を擦ったが、すぐに目をひん剥いて口をポカンと開けた。
触手とでも呼ぶべきか、無数の植物の根のような、或いは血管のようなものが絡み合って球体を成形した物体が室内に浮いていた。目や口と思しきものは見て取れない。一本一本の触手、球体から離れたり巻きついたりしながら蠢き、時たまビタンッ、ビタンッと床や天井を打った。
「なんだよアレ!」
「見たままだ。ああいうのはバケモノと言って差し支えない」
天尊は触手を持つ球体を仇敵が如く睨みつけていたが、語調は落ち着いていた。
白は、おぞましく汚らわしい化け物を目にして全身の震えが止まらなかった。カタカタと震える手で銀太をギュッと抱き締めた。
天尊は自ずと自身の負傷が頭を巡った。出血は止まり痛みは誤魔化せるが、完治しているわけではない。日常生活には支障が無くとも、とてもではないが十全の状態とはいえない。現状で臨戦することが得策ではないのは分かり切っている。一時退却して全快するのを待って然る後、策を講じるのが妥当だ。
(単純に食ったら食っただけ強くなる。これだから原始的な生きモンは嫌いなんだ。昨日の今日じゃ分が悪い。しかし逃げるわけにも……)
天尊は恐怖に怯える白と銀太を肩越しにチラッと見て、ハッとした。
(俺はいま何故、撤退を否定した? この姉弟を守らねばならない義理はない。俺が借りている恩など、命を張ってやれるほどのモンじゃない)
自分の命は何より大事だ。自分の命と取り替えられるものなどありはしない。誰もがこの世に生を受けたからには、貪欲に生を貪りたいものだ。天尊はそう信じて疑わない。
信念はそうあるはずなのに、背中に感じる自分だけを頼る四つの目、何の力もない人間の子どもたち、たかだかその程度の存在を振り切れなかった。無力であるが故、心の袖を掴んで離さない。
天尊は眉間に皺を寄せて困ったような表情で、白と銀太に笑って見せた。
「俺が守ってやるから、そんな顔をするなよ」
シュンッ。――触手が素早く動いた。
バジィンッ!
白の眼前に迫った触手を、天尊が素手で捕まえた。
白は、目の前でビチビチと跳ねる触手を見て、ヒッと悲鳴を漏らした。
エ……サ……。
老人のような嗄れ掠れた聞き取りにくい低い声が何処からともなく聞こえた。
白はハッとして触手を持つ球体のほうへ目線を向けた。聞いたこともないくらい不気味な声の主はそれであると直感した。
エサ、ホシイ、エサ、ホシイ、エサ、エサ、エサ。
ビタンッバタンッ、と触手で床を叩きながら、嗄れた声は何度も同じ単語を繰り返した。
言語を使用することは驚きだが、これは会話ではない。欲求を発散させる一手段としての発話に過ぎない。
「しゃべって……⁉」
「そこまでの知能は無い。食欲など本能的な欲求のみで生きる下等生物だ」
天尊は、動揺する白に冷静に説明した。
天尊はこの生物をよく知っている。二度も撤退を余儀なくされた憎い相手だ。故に、憎らしく忌々しいが、決して侮れない強敵であることは身に染みて分かっている。
パチッパチパチパチッ。――天尊の拳に電気が迸った。
電流は次第に強くなった。腕全体に帯電して眩く発光したかと思うと、握り締めていた触手をバチンッと焼き切った。
触手の先端は床にボトリと落ち、しばしウノウノと這ったあとに動かなくなった。
天尊は拳を握り直し、床を蹴って化け物に向かって突進した。球体に拳を打ち込み、肘あたりまでめりこませた。そして、球体の内部に思いきり電流を流し込んでやった。
ボゴゴゴゴッ……ゴボォッ!
電流によって球体内部のあちこちが弾け、いくつかの触手が破裂した。しかし、それは部分的な損傷に過ぎない。球体を成す大部分の触手は、変わらずウヨウヨと好き勝手に蠢いている。つまり、大したダメージではないように見受けられた。
(やはりこんなもんじゃ効かんか)
無数の触手はそれぞれが勝手気儘に動いているように見えるが、本体を守る防衛本能のようなものが存在するのか、はたまた実は内部で神経系が接続しているのか、数本の触手が反撃に打って出た。
鞭のように撓りながら高速で天尊に向かった。天尊は身体の前で腕を十字に交差してガードを造った。
ズキンッ。――続け様に何度か撲たれる内に、腹部に激痛が走った。
昨日、風穴を開けられた傷口を鞭に撲たれ、真っ赤な血液がビチャッと弾けた。
刹那、天尊は傷口に気を取られた。
その間隙に、数本の触手が天尊の翼を穿った。翼を貫通してドスッと壁に突き刺さり、天尊をその場に縫いつけた。好機とばかりに床を這って天尊の足許を狙う。
天尊はすぐさま翼を消失させて鞭から解放された。翼は天尊の明確な意思なしでは実体を伴うものではなく、感覚神経が存在するものでもない。
足に届きかけた触手を蹴り上げた。一蹴ついでに電流を喰らわされた触手は、パァンッと千切れた。陸に打ち上げられた魚のように床の上をビチビチと跳ねた。
触手の一本一本の耐久性は低い。天尊が電流で焼き切るのは難しくはない。しかし、如何せん数が多すぎる。そして、数え切れないほどある触手を多少失ったところで、球体には依然影響が無い。
ドンッ、ドンッ。バシィンッ!
触手は四方八方に伸びて床や天井を頻りに叩いた。
その動きはまるで何かを探しているようだ。正確に足許を狙って攻撃を加えた天尊の位置は把握しているはずだ。では何を探しているのか。
ピクンッ。――触手の一本が天尊ではない方向にくの字に曲がった。
天尊はその矛先に目を遣ってハッとした。
触手は先端を針のように変形させ、白と銀太に襲いかかった。
白は自分が狙われていることが分かったが、回避したくとも足が動かなかった。咄嗟に瞼を閉じて銀太をギュッと抱き締めて腕のなかに抱えこんだ。
ズドンッ!
硬い物がぶち当たる鈍い音が白の耳に聞こえ、ピッ、ピピピッと頬に水滴が飛び散った。
白が瞼を開けると、針のような鋭利な先端が天尊の肩を貫通してくねっていた。傷口から飛び散った血液によって、白の頬には赤い斑模様ができていた。
天尊は触手を捕まえて力任せに肩から引き抜いた。バヂンッ、と電流で焼き切って床に投げ捨てた。
「怪我は?」
「ないです……」
天尊は白のほうを振り向かずに尋ねた。白は愕然として簡潔にしか応えられなかった。
「カミナリさまだ! オッサン、カミナリさまなのか!」
銀太は興奮気味に天尊の背中に尋ねた。
まったく子どもらしいことを言う。この状況で暢気なものだと、天尊は苦笑を漏らした。
「神様なんかじゃないよ。天使でもない……」
白の声は、銀太のように楽観的なものではなかった。震えていた。
天尊が肩越しに白を見ると、泣きそうな顔をしていた。
「ティエンゾンさんだってケガしたら血が出るし……痛いに決まってる。なのにボクたちを守ってくれて……ッ。ティエンゾンさんが死んだらどうしよう……。ボクのせいだ……ボクが咄嗟に逃げられなかったから……! ボクのせいで、ごめんなさい……ッ」
「だいじょーぶだよアキラ! オッサンはカミナリさまなんだから!」
天尊は内心、感心した。
未知の化け物に襲撃され、ここで死ぬのではないかと恐怖で頭がいっぱいになるのが当たり前だ。思いがけず庇われたならラッキーと思う程度だろう。この少女はお人好しの性分だとは思っていたが、この場面でまで他人の身を案じられるとは想像していなかった。
白はうっすらと涙を浮かべ、しかしそれを零さないように必死に堪えていた。泣いてしまっても構わないのに、ただただ涙を堪えていた。健気じゃあないか。純真じゃあないか。何が何でも守らなければいけないと男を奮い立たせるには充分だ。
「そうだ。問題ない。子どもの所為にするほど落魄れちゃいない」
天尊はハハッと余裕ぶって見せた。
満身創痍である上に後方支援も皆無という形勢不利。しかし、不思議なくらいに心は穏やかだ。生への執着はあっても死への恐怖は薄い。無力な子ども二人を、身を挺して守ったなどというまるで聖者のような理由で死ねるなら悪くない。
ヒュンヒュンッ、ヒュンッ。――触手が風を切って襲いかかってきた。
それは天尊ではなく、白と銀太を狙っていた。天尊は咄嗟に宙に手を伸ばした。
ドスッ!
触手は天尊の手の平を貫通した。肩を貫けるほどの代物なら手の平など難は無い。
(何故、コイツは性懲りもなく子どもを狙う? 子どもなんか大した栄養にならんはずだ)
触手はビチビチビチッと激しくくねって天尊の手の平を突き破ったその先へ進んだ。天尊が大きく腕を振ったが振り払えず、根を張った蔦のようにしっかりと腕に巻きついた。
ダァンッ。――天尊は触手に引っ張られて床に引き倒された。
床の上を引き摺られて子どもたちから引き離され、最後は放り投げられて背中から壁面に叩きつけられた。
「ぐあッ!」
エサ! ――また嗄れた老人の声が聞こえた。
エサエサエサエサエサエサエサエサエサ!
最後のほうはもう、老人ではなく野獣の唸り声のようだった。
天尊は床に俯せのまま顔を引き上げた。
(エサは……俺じゃなくアイツらのほうか!)
球体から伸びた無数の触手が白と銀太を取り囲んだ。
為す術のない白は、触手に背中を向け、本能的に銀太を有りっ丈の力で抱き締めた。
「やめろーーーッ‼」
天尊は頭では、触手が止まるはずはないと、無駄なことだと分かっているのに、叫んでいた。
触手は一瞬たりとも停止することなく大きく撓って子どもたちに襲いかかった。
パシィンッ!
想像していたよりもずっと軽い、乾いた音がした。天尊は内心拍子抜けした。何だそのようなものかと。
しかしながら、強靱な触手に鞭打たれた少女は、人形のようにゴロンと床に転がった。少女の柔らかな肉は、一度撲たれただけでも易々と裂かれ、白いブラウスが見る見るうちに真っ赤に染まっていった。少女の肉体は天尊のように屈強ではない。硝子細工のように脆弱で壊れやすい。
天尊は遅ればせながらそのような当たり前のことにハッと気付かされた。
「アキラぁーーーッ‼」
劈くような銀太の悲鳴が天尊の鼓膜を突いた。拍子抜けしたなど寝惚けているのかと、頭を殴られた気分だった。
天尊は白と銀太の前に躍り出た。両腕を十字に交差させて可能な限り電流を溜めこむ。
バジンッバリバリバリバリバリィイッ!
天尊は腕を開くと同時に電流を一気に周囲に放出した。放出した電流が空気を走り、白と銀太を取り囲んでいた数多くの触手を焼き払った。
ダメージによって足許がふらついた天尊は、両手両膝を床に突いた。その拍子に、ビチャビチャッ、肩と腹部の傷口から血が噴き出た。
天尊は四つん這いの体勢で全身を上下させて「はぁーっ、はぁーっ」と必死に呼吸する。自分の身体から噴き出した血液が血溜まりになるのを見ると、出血量を目算して気が遠くなりそうになる。
(やはりこの場での戦闘を避け、逃げればよかったのか……? 今の状態の俺ではコイツを殺しきれん。……あー、クソ。最初から分かっていたことに文句を垂れるなど情けない)
銀太は白の腕から這い出してきて天尊に近寄った。
「オッサンだいじょうぶか!」
「アキラは……?」
天尊は四つん這いで白に近付いた。
白は床に俯せになっていた。天尊が白の身体を反転させると、白は「いたっ……」と小さな声を漏らした。額に脂汗を浮かべて苦痛に歪んだ表情。やはり天尊ほど痛みに強くはできていない。
天尊は手の平にぬるりとした感触を覚えた。確認すると手が真っ赤だった。身体を反転させたときに付着した白の血だ。
ドクンッ!
突然、天尊の体が大きく波打った。
心臓が跳ねて肋骨の中を暴れ回り、天尊は堪らず床に肩から突っ伏した。
「なんだ……コレは……!」
ドクンッドクンッと大きすぎる鼓動に合わせ、どぷっどぷっどぷっと傷口から血が噴き出した。腹部を手で押さえても指の隙間から溢れ出てしまう。流れ出る血液と共に意識も手放してしまいそうだ。
(ヤバイ。身体から血が出ていく。意識が、遠くなる……)
「オッサン!」
銀太は天尊の腹部の傷口を両手で懸命に押さえた。彼には縋れるものは天尊しかなかった。
「オッサンしなないで! アキラをたすけて!」
子どもらしい実に正直な願い。自分の大切なものを、姉を助けろと、死に体の天尊に縋りつく。その薄情かつ無理強いな声に、天尊の意識はかろうじて引き留められた。
(アキラを……?)
天尊の意識は朦朧としていた。閉じかけの霞む視界で白の姿を探した。
(アキラ……お前は…………。お前は、もしかして俺の――……)
ポロリと助けを求めてしまったときに何かがおかしいと思った。白が姿を見ることができた時点でほかの大勢とは異なると気付くべきだった。否、無意識に認めたくなくて、見過ごした。
しかしながら、危機に瀕しているときの生存本能は本人が自覚している以上に正確だ。今も尚、ノックのように肋骨を叩き続ける鼓動、如実な生体反応を否定するわけにはいかなかった。
――その他大勢とは異なる特別な存在。俺にとって特別な存在。俺だけの特別な存在は、お前だったのか。
「血を……」
痛みに耐える為強く瞼を閉じた真っ暗闇のなかで天尊の声が聞こえてきて、白はうっすらと目を開けた。目を開けてみると天尊が案外近くにいて少し驚いた。意識が薄くて音が遠くに聞こえる。
「お前の血をくれ……アキラ」
白の瞼は自然と閉じてしまった。ぼんやりした意識のなかで天尊の声を聞いた。発言そのものは理解したが、意図は到底知解できなかった。
白は再び瞼を持ち上げ、天尊の瞳を見詰めた。どれほど熱心に見詰めても、天尊の真っ白な瞳から真意など探れなかった。思惑が如何なるものであったとしても、無力な白にできることは、信じることだけだった。
「そうすれば、銀太を……助けてくれる……?」
天尊としてはとんでもない要求を口走ったつもりだった。断固拒否される可能性も当然考えた。しかし、白は理由も問わず、弟を助けてくれること、それだけを求めた。
「当たり前だ」
「じゃあ……何でもしてあげる――……」
天尊は流血しているほうの白の腕を捕まえてブラウスを捲り上げた。
白は表情に苦悶を滲ませたが、天尊には配慮してやる余裕が無かった。
上腕筋の辺りにかぶりつかれた白は、傷口の上を舌が這い、破れた血管から鮮血を吸い出される感触に、痛みと共にゾクッと戦慄を覚えた。
天尊は嗅ぎ慣れた生臭い風味を口内に味わった。ヌルヌルと粘度の高い液体を啜り、舌にまったりと絡み付く喉越しの悪さを無理矢理に嚥下する。
ドクンッ!
天尊は心臓が大きく躍動して爆発したのかと思った。
白から手を離して胸を掻き毟った。吐息が熱い。心臓が燃える。胸から火を噴いて焼け爛れる。体中を巡る血液が沸騰するように熱い。全身が火焔のように燃えている。
程なくして、天尊の体は仄かに蒼白い発光を帯び始めた。出血が止まり、見る見る内に血色が良くなって生気を取り戻した。
天尊は首を擡げてユラリと立ち上がった。二本の足でしっかりと立ち、口の端を吊り上げてニヤリと笑った。鋭気と自信に充ち満ちた残忍な笑み。先ほどまで苦痛だった鼓動が、心臓が胸をドンドンと叩くのが、戦太鼓のように心地良い。
ドンッ!
天尊の腕から突如として炎が立ち上った。
銀太はギョッとして目を見開いた。
「オッサンもえてる!」
「近付くな。アキラの傍にいろ。今の俺には制御する自信がない」
銀太は白のブラウスを握り締めて天尊の背中を不安げに見詰めた。
ずっと見詰めていたのに、わずかな瞬ぎの間に天尊の姿は掻き消えた。次の瞬間には、天尊が球体の表面に手の平をピタリとくっつけていた。
ゴァァアアアッ!
天尊の手が触れた先から球体に火が付いて猛烈な勢いで燃え上がった。
いくつもの触手が襲いかかったが、天尊に到達することすらできずに燃え尽きた。
「随分調子に乗ってくれたなこの下種がァッ! 消し炭も残さねェぞ球根野郎ォオオオ‼」
ドボンッ!
天尊は怒号を上げ、球体の内部へ腕を肘まで一気にめりこませた。
球体全体が炎に包まれた。まるで苦しみ喘いでいるかのように火の付いた触手で四方八方を叩き、朦々と燃え盛りながらゆっくりと傾いてゆく。
天尊は、燃える触手や火の粉が白と銀太に降り掛からないよう、翼をバサッと大きく拡げた。
二人のほうを振り返った天尊の横顔は、炎の光を受けて赤く染まっていた。炎を反射して白い瞳がギラギラと光った。
銀太は一瞬、恐いと思ってしまった。白い瞳なんて見慣れていないから。
天尊は銀太がギクッとしたのを見逃さなかった。化け物を討ち滅ぼし幼い姉弟を守ったが、化け物と対峙する者もまた、化け物に等しい力を有しているのは必然だ。人間とは異なる力をふるう自分が、幼い銀太の目に怖ろしく映っても仕方がないことだ。
銀太はグッと身体に力を入れて自身を奮い立たせた。恐いと思った自分を恥じた。恐がった自分のもうひとつの本当の気持ちを伝えなければいけないと思った。
「オッサンありがとう……! アキラをたすけてくれてありがとう!」
銀太は少し涙ぐんでいたかもしれない。幼い身でも今日起こったことが尋常でないと分かる。絶体絶命の情況から白と共に生き残れたことが、天尊が守ってくれたことが、心から嬉しかった。
天尊は照れ臭そうにはにかんだ。小さな身体から絞り出される感謝の言葉が心に沁みた。
白がリビングに入ると、応接テーブルの影から足がニュッと出ているのが見えた。天尊と銀太がカーペットの上に寝転がって眠っていた。
(銀太、着替えないまま遊んだな)
白がソファに近付いて銀太の寝顔を覗きこもうとすると、その気配に気付いて天尊がガバッと上半身を起こした。
白は内心ビックリしたが、素っ頓狂な声は抑えた。
「……起こしました?」
「気にするな。元々熟睡するタチじゃない」
確かに熟睡しない体質なのだろう。白はなるべく足音も呼吸も消して接近したのに、天尊は反応した。
天尊がすぐ近くで飛び起きても銀太は涎を垂らしていまだ夢のなか。6歳児の眠りは深い。
白は銀太の寝顔を覗きこんでフフッと笑みを零した。
それから、天尊に傷の具合を尋ねると、だいぶいいと返ってきた。
「もう大きなケガ、しないと良いですね」
「仕事次第だな」
「そんな大ケガする仕事なんて、大変ですね」
「今回はたまたま手こずっているが、いつもはもっと上手くやる」
「そんなに大変なお仕事なのに、どうしてもティエンゾンさんがひとりでやらなきゃいけないんですか?」
白からの何気ない問いかけに、天尊は急に黙りこんだ。
何かまずいことを言っただろうか。白は不思議に思いながら通学用のバッグを床に下ろした。
「…………。仕事を終わらせんと還ることはできん」
え、と白はつい声を漏らした。
「帰る場所あるんですか」
「何だ、意外か?」
「うん、まあ、はい。ケガしても行くところが無いみたいだから」
「今は還れんがな」
「ケガしてるのに帰れないんですか?」
「仕事を終わらせなければ、還る意味など無い」
それはどういう意味ですか、と当然に頭に浮かんだが、白は口にしなかった。何となく天尊の横顔が、言いたくないことを言ったという顔をしているような気がしたから。
「夕飯の準備しますね」
白は床に下ろしていた通学バッグを持ち上げた。
自分にも訊かれたくないことがあるから、他人の訊かれたくないことは決して訊かない。自分でも何故だかは分からないが、そういう一線を感知する能力には長けていた。
ピクッ。――天尊はバッと顔を引き上げてベランダを睨んだ。
(この気配! 近付いてくる!)
高速で接近してくる何者かの気配を察知した。白と銀太を背にして一気に大きく翼を拡げた。
バリィイインッ!
天尊が身構えた直後、ベランダの戸のガラスがすべて弾け飛んだ。無数のガラスの破片が天尊たちのほうへ矢のように飛んできた。
天尊はガラスの破片を両翼で防いだ。天尊の背後には一片たりとも落ちていなかった。
背中にいる白に「大丈夫か」と声をかけると「うん」と返ってきた。
白は通学バッグを投げ捨てて銀太を抱き締めていた。両肩を掴んで揺さぶって叩き起こした。
無理矢理起こされた銀太は、寝惚け眼を擦ったが、すぐに目をひん剥いて口をポカンと開けた。
触手とでも呼ぶべきか、無数の植物の根のような、或いは血管のようなものが絡み合って球体を成形した物体が室内に浮いていた。目や口と思しきものは見て取れない。一本一本の触手、球体から離れたり巻きついたりしながら蠢き、時たまビタンッ、ビタンッと床や天井を打った。
「なんだよアレ!」
「見たままだ。ああいうのはバケモノと言って差し支えない」
天尊は触手を持つ球体を仇敵が如く睨みつけていたが、語調は落ち着いていた。
白は、おぞましく汚らわしい化け物を目にして全身の震えが止まらなかった。カタカタと震える手で銀太をギュッと抱き締めた。
天尊は自ずと自身の負傷が頭を巡った。出血は止まり痛みは誤魔化せるが、完治しているわけではない。日常生活には支障が無くとも、とてもではないが十全の状態とはいえない。現状で臨戦することが得策ではないのは分かり切っている。一時退却して全快するのを待って然る後、策を講じるのが妥当だ。
(単純に食ったら食っただけ強くなる。これだから原始的な生きモンは嫌いなんだ。昨日の今日じゃ分が悪い。しかし逃げるわけにも……)
天尊は恐怖に怯える白と銀太を肩越しにチラッと見て、ハッとした。
(俺はいま何故、撤退を否定した? この姉弟を守らねばならない義理はない。俺が借りている恩など、命を張ってやれるほどのモンじゃない)
自分の命は何より大事だ。自分の命と取り替えられるものなどありはしない。誰もがこの世に生を受けたからには、貪欲に生を貪りたいものだ。天尊はそう信じて疑わない。
信念はそうあるはずなのに、背中に感じる自分だけを頼る四つの目、何の力もない人間の子どもたち、たかだかその程度の存在を振り切れなかった。無力であるが故、心の袖を掴んで離さない。
天尊は眉間に皺を寄せて困ったような表情で、白と銀太に笑って見せた。
「俺が守ってやるから、そんな顔をするなよ」
シュンッ。――触手が素早く動いた。
バジィンッ!
白の眼前に迫った触手を、天尊が素手で捕まえた。
白は、目の前でビチビチと跳ねる触手を見て、ヒッと悲鳴を漏らした。
エ……サ……。
老人のような嗄れ掠れた聞き取りにくい低い声が何処からともなく聞こえた。
白はハッとして触手を持つ球体のほうへ目線を向けた。聞いたこともないくらい不気味な声の主はそれであると直感した。
エサ、ホシイ、エサ、ホシイ、エサ、エサ、エサ。
ビタンッバタンッ、と触手で床を叩きながら、嗄れた声は何度も同じ単語を繰り返した。
言語を使用することは驚きだが、これは会話ではない。欲求を発散させる一手段としての発話に過ぎない。
「しゃべって……⁉」
「そこまでの知能は無い。食欲など本能的な欲求のみで生きる下等生物だ」
天尊は、動揺する白に冷静に説明した。
天尊はこの生物をよく知っている。二度も撤退を余儀なくされた憎い相手だ。故に、憎らしく忌々しいが、決して侮れない強敵であることは身に染みて分かっている。
パチッパチパチパチッ。――天尊の拳に電気が迸った。
電流は次第に強くなった。腕全体に帯電して眩く発光したかと思うと、握り締めていた触手をバチンッと焼き切った。
触手の先端は床にボトリと落ち、しばしウノウノと這ったあとに動かなくなった。
天尊は拳を握り直し、床を蹴って化け物に向かって突進した。球体に拳を打ち込み、肘あたりまでめりこませた。そして、球体の内部に思いきり電流を流し込んでやった。
ボゴゴゴゴッ……ゴボォッ!
電流によって球体内部のあちこちが弾け、いくつかの触手が破裂した。しかし、それは部分的な損傷に過ぎない。球体を成す大部分の触手は、変わらずウヨウヨと好き勝手に蠢いている。つまり、大したダメージではないように見受けられた。
(やはりこんなもんじゃ効かんか)
無数の触手はそれぞれが勝手気儘に動いているように見えるが、本体を守る防衛本能のようなものが存在するのか、はたまた実は内部で神経系が接続しているのか、数本の触手が反撃に打って出た。
鞭のように撓りながら高速で天尊に向かった。天尊は身体の前で腕を十字に交差してガードを造った。
ズキンッ。――続け様に何度か撲たれる内に、腹部に激痛が走った。
昨日、風穴を開けられた傷口を鞭に撲たれ、真っ赤な血液がビチャッと弾けた。
刹那、天尊は傷口に気を取られた。
その間隙に、数本の触手が天尊の翼を穿った。翼を貫通してドスッと壁に突き刺さり、天尊をその場に縫いつけた。好機とばかりに床を這って天尊の足許を狙う。
天尊はすぐさま翼を消失させて鞭から解放された。翼は天尊の明確な意思なしでは実体を伴うものではなく、感覚神経が存在するものでもない。
足に届きかけた触手を蹴り上げた。一蹴ついでに電流を喰らわされた触手は、パァンッと千切れた。陸に打ち上げられた魚のように床の上をビチビチと跳ねた。
触手の一本一本の耐久性は低い。天尊が電流で焼き切るのは難しくはない。しかし、如何せん数が多すぎる。そして、数え切れないほどある触手を多少失ったところで、球体には依然影響が無い。
ドンッ、ドンッ。バシィンッ!
触手は四方八方に伸びて床や天井を頻りに叩いた。
その動きはまるで何かを探しているようだ。正確に足許を狙って攻撃を加えた天尊の位置は把握しているはずだ。では何を探しているのか。
ピクンッ。――触手の一本が天尊ではない方向にくの字に曲がった。
天尊はその矛先に目を遣ってハッとした。
触手は先端を針のように変形させ、白と銀太に襲いかかった。
白は自分が狙われていることが分かったが、回避したくとも足が動かなかった。咄嗟に瞼を閉じて銀太をギュッと抱き締めて腕のなかに抱えこんだ。
ズドンッ!
硬い物がぶち当たる鈍い音が白の耳に聞こえ、ピッ、ピピピッと頬に水滴が飛び散った。
白が瞼を開けると、針のような鋭利な先端が天尊の肩を貫通してくねっていた。傷口から飛び散った血液によって、白の頬には赤い斑模様ができていた。
天尊は触手を捕まえて力任せに肩から引き抜いた。バヂンッ、と電流で焼き切って床に投げ捨てた。
「怪我は?」
「ないです……」
天尊は白のほうを振り向かずに尋ねた。白は愕然として簡潔にしか応えられなかった。
「カミナリさまだ! オッサン、カミナリさまなのか!」
銀太は興奮気味に天尊の背中に尋ねた。
まったく子どもらしいことを言う。この状況で暢気なものだと、天尊は苦笑を漏らした。
「神様なんかじゃないよ。天使でもない……」
白の声は、銀太のように楽観的なものではなかった。震えていた。
天尊が肩越しに白を見ると、泣きそうな顔をしていた。
「ティエンゾンさんだってケガしたら血が出るし……痛いに決まってる。なのにボクたちを守ってくれて……ッ。ティエンゾンさんが死んだらどうしよう……。ボクのせいだ……ボクが咄嗟に逃げられなかったから……! ボクのせいで、ごめんなさい……ッ」
「だいじょーぶだよアキラ! オッサンはカミナリさまなんだから!」
天尊は内心、感心した。
未知の化け物に襲撃され、ここで死ぬのではないかと恐怖で頭がいっぱいになるのが当たり前だ。思いがけず庇われたならラッキーと思う程度だろう。この少女はお人好しの性分だとは思っていたが、この場面でまで他人の身を案じられるとは想像していなかった。
白はうっすらと涙を浮かべ、しかしそれを零さないように必死に堪えていた。泣いてしまっても構わないのに、ただただ涙を堪えていた。健気じゃあないか。純真じゃあないか。何が何でも守らなければいけないと男を奮い立たせるには充分だ。
「そうだ。問題ない。子どもの所為にするほど落魄れちゃいない」
天尊はハハッと余裕ぶって見せた。
満身創痍である上に後方支援も皆無という形勢不利。しかし、不思議なくらいに心は穏やかだ。生への執着はあっても死への恐怖は薄い。無力な子ども二人を、身を挺して守ったなどというまるで聖者のような理由で死ねるなら悪くない。
ヒュンヒュンッ、ヒュンッ。――触手が風を切って襲いかかってきた。
それは天尊ではなく、白と銀太を狙っていた。天尊は咄嗟に宙に手を伸ばした。
ドスッ!
触手は天尊の手の平を貫通した。肩を貫けるほどの代物なら手の平など難は無い。
(何故、コイツは性懲りもなく子どもを狙う? 子どもなんか大した栄養にならんはずだ)
触手はビチビチビチッと激しくくねって天尊の手の平を突き破ったその先へ進んだ。天尊が大きく腕を振ったが振り払えず、根を張った蔦のようにしっかりと腕に巻きついた。
ダァンッ。――天尊は触手に引っ張られて床に引き倒された。
床の上を引き摺られて子どもたちから引き離され、最後は放り投げられて背中から壁面に叩きつけられた。
「ぐあッ!」
エサ! ――また嗄れた老人の声が聞こえた。
エサエサエサエサエサエサエサエサエサ!
最後のほうはもう、老人ではなく野獣の唸り声のようだった。
天尊は床に俯せのまま顔を引き上げた。
(エサは……俺じゃなくアイツらのほうか!)
球体から伸びた無数の触手が白と銀太を取り囲んだ。
為す術のない白は、触手に背中を向け、本能的に銀太を有りっ丈の力で抱き締めた。
「やめろーーーッ‼」
天尊は頭では、触手が止まるはずはないと、無駄なことだと分かっているのに、叫んでいた。
触手は一瞬たりとも停止することなく大きく撓って子どもたちに襲いかかった。
パシィンッ!
想像していたよりもずっと軽い、乾いた音がした。天尊は内心拍子抜けした。何だそのようなものかと。
しかしながら、強靱な触手に鞭打たれた少女は、人形のようにゴロンと床に転がった。少女の柔らかな肉は、一度撲たれただけでも易々と裂かれ、白いブラウスが見る見るうちに真っ赤に染まっていった。少女の肉体は天尊のように屈強ではない。硝子細工のように脆弱で壊れやすい。
天尊は遅ればせながらそのような当たり前のことにハッと気付かされた。
「アキラぁーーーッ‼」
劈くような銀太の悲鳴が天尊の鼓膜を突いた。拍子抜けしたなど寝惚けているのかと、頭を殴られた気分だった。
天尊は白と銀太の前に躍り出た。両腕を十字に交差させて可能な限り電流を溜めこむ。
バジンッバリバリバリバリバリィイッ!
天尊は腕を開くと同時に電流を一気に周囲に放出した。放出した電流が空気を走り、白と銀太を取り囲んでいた数多くの触手を焼き払った。
ダメージによって足許がふらついた天尊は、両手両膝を床に突いた。その拍子に、ビチャビチャッ、肩と腹部の傷口から血が噴き出た。
天尊は四つん這いの体勢で全身を上下させて「はぁーっ、はぁーっ」と必死に呼吸する。自分の身体から噴き出した血液が血溜まりになるのを見ると、出血量を目算して気が遠くなりそうになる。
(やはりこの場での戦闘を避け、逃げればよかったのか……? 今の状態の俺ではコイツを殺しきれん。……あー、クソ。最初から分かっていたことに文句を垂れるなど情けない)
銀太は白の腕から這い出してきて天尊に近寄った。
「オッサンだいじょうぶか!」
「アキラは……?」
天尊は四つん這いで白に近付いた。
白は床に俯せになっていた。天尊が白の身体を反転させると、白は「いたっ……」と小さな声を漏らした。額に脂汗を浮かべて苦痛に歪んだ表情。やはり天尊ほど痛みに強くはできていない。
天尊は手の平にぬるりとした感触を覚えた。確認すると手が真っ赤だった。身体を反転させたときに付着した白の血だ。
ドクンッ!
突然、天尊の体が大きく波打った。
心臓が跳ねて肋骨の中を暴れ回り、天尊は堪らず床に肩から突っ伏した。
「なんだ……コレは……!」
ドクンッドクンッと大きすぎる鼓動に合わせ、どぷっどぷっどぷっと傷口から血が噴き出した。腹部を手で押さえても指の隙間から溢れ出てしまう。流れ出る血液と共に意識も手放してしまいそうだ。
(ヤバイ。身体から血が出ていく。意識が、遠くなる……)
「オッサン!」
銀太は天尊の腹部の傷口を両手で懸命に押さえた。彼には縋れるものは天尊しかなかった。
「オッサンしなないで! アキラをたすけて!」
子どもらしい実に正直な願い。自分の大切なものを、姉を助けろと、死に体の天尊に縋りつく。その薄情かつ無理強いな声に、天尊の意識はかろうじて引き留められた。
(アキラを……?)
天尊の意識は朦朧としていた。閉じかけの霞む視界で白の姿を探した。
(アキラ……お前は…………。お前は、もしかして俺の――……)
ポロリと助けを求めてしまったときに何かがおかしいと思った。白が姿を見ることができた時点でほかの大勢とは異なると気付くべきだった。否、無意識に認めたくなくて、見過ごした。
しかしながら、危機に瀕しているときの生存本能は本人が自覚している以上に正確だ。今も尚、ノックのように肋骨を叩き続ける鼓動、如実な生体反応を否定するわけにはいかなかった。
――その他大勢とは異なる特別な存在。俺にとって特別な存在。俺だけの特別な存在は、お前だったのか。
「血を……」
痛みに耐える為強く瞼を閉じた真っ暗闇のなかで天尊の声が聞こえてきて、白はうっすらと目を開けた。目を開けてみると天尊が案外近くにいて少し驚いた。意識が薄くて音が遠くに聞こえる。
「お前の血をくれ……アキラ」
白の瞼は自然と閉じてしまった。ぼんやりした意識のなかで天尊の声を聞いた。発言そのものは理解したが、意図は到底知解できなかった。
白は再び瞼を持ち上げ、天尊の瞳を見詰めた。どれほど熱心に見詰めても、天尊の真っ白な瞳から真意など探れなかった。思惑が如何なるものであったとしても、無力な白にできることは、信じることだけだった。
「そうすれば、銀太を……助けてくれる……?」
天尊としてはとんでもない要求を口走ったつもりだった。断固拒否される可能性も当然考えた。しかし、白は理由も問わず、弟を助けてくれること、それだけを求めた。
「当たり前だ」
「じゃあ……何でもしてあげる――……」
天尊は流血しているほうの白の腕を捕まえてブラウスを捲り上げた。
白は表情に苦悶を滲ませたが、天尊には配慮してやる余裕が無かった。
上腕筋の辺りにかぶりつかれた白は、傷口の上を舌が這い、破れた血管から鮮血を吸い出される感触に、痛みと共にゾクッと戦慄を覚えた。
天尊は嗅ぎ慣れた生臭い風味を口内に味わった。ヌルヌルと粘度の高い液体を啜り、舌にまったりと絡み付く喉越しの悪さを無理矢理に嚥下する。
ドクンッ!
天尊は心臓が大きく躍動して爆発したのかと思った。
白から手を離して胸を掻き毟った。吐息が熱い。心臓が燃える。胸から火を噴いて焼け爛れる。体中を巡る血液が沸騰するように熱い。全身が火焔のように燃えている。
程なくして、天尊の体は仄かに蒼白い発光を帯び始めた。出血が止まり、見る見る内に血色が良くなって生気を取り戻した。
天尊は首を擡げてユラリと立ち上がった。二本の足でしっかりと立ち、口の端を吊り上げてニヤリと笑った。鋭気と自信に充ち満ちた残忍な笑み。先ほどまで苦痛だった鼓動が、心臓が胸をドンドンと叩くのが、戦太鼓のように心地良い。
ドンッ!
天尊の腕から突如として炎が立ち上った。
銀太はギョッとして目を見開いた。
「オッサンもえてる!」
「近付くな。アキラの傍にいろ。今の俺には制御する自信がない」
銀太は白のブラウスを握り締めて天尊の背中を不安げに見詰めた。
ずっと見詰めていたのに、わずかな瞬ぎの間に天尊の姿は掻き消えた。次の瞬間には、天尊が球体の表面に手の平をピタリとくっつけていた。
ゴァァアアアッ!
天尊の手が触れた先から球体に火が付いて猛烈な勢いで燃え上がった。
いくつもの触手が襲いかかったが、天尊に到達することすらできずに燃え尽きた。
「随分調子に乗ってくれたなこの下種がァッ! 消し炭も残さねェぞ球根野郎ォオオオ‼」
ドボンッ!
天尊は怒号を上げ、球体の内部へ腕を肘まで一気にめりこませた。
球体全体が炎に包まれた。まるで苦しみ喘いでいるかのように火の付いた触手で四方八方を叩き、朦々と燃え盛りながらゆっくりと傾いてゆく。
天尊は、燃える触手や火の粉が白と銀太に降り掛からないよう、翼をバサッと大きく拡げた。
二人のほうを振り返った天尊の横顔は、炎の光を受けて赤く染まっていた。炎を反射して白い瞳がギラギラと光った。
銀太は一瞬、恐いと思ってしまった。白い瞳なんて見慣れていないから。
天尊は銀太がギクッとしたのを見逃さなかった。化け物を討ち滅ぼし幼い姉弟を守ったが、化け物と対峙する者もまた、化け物に等しい力を有しているのは必然だ。人間とは異なる力をふるう自分が、幼い銀太の目に怖ろしく映っても仕方がないことだ。
銀太はグッと身体に力を入れて自身を奮い立たせた。恐いと思った自分を恥じた。恐がった自分のもうひとつの本当の気持ちを伝えなければいけないと思った。
「オッサンありがとう……! アキラをたすけてくれてありがとう!」
銀太は少し涙ぐんでいたかもしれない。幼い身でも今日起こったことが尋常でないと分かる。絶体絶命の情況から白と共に生き残れたことが、天尊が守ってくれたことが、心から嬉しかった。
天尊は照れ臭そうにはにかんだ。小さな身体から絞り出される感謝の言葉が心に沁みた。
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