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#26: Bitter enemies in the same boat
Tyrant of the white grade 04
しおりを挟む「おおぉ……!」
武藏と薩摩は、試合場の光景に目が釘付けになった。あれだけ大騒ぎをしていたのに、動きがビタリと停止した。大きな図体をした人間がぶわりと宙を舞ったのだ、無理もない。
数秒後、薩摩は冷や汗を浮かべて口を開いた。
「マジかよ。パンチで人一人吹っ飛んだ……。相手だって自分と変わんねェくらいのガタイあんのに」
「2メートルはいったか……?」と武藏。
アレが《荒菱館の近江》だ、と長門は試合場のほうへ目線を向けたまま薩摩に言った。
薩摩はゴクリと生唾を嚥下した。噂でしか知らなかった伝説の片鱗を見たのだと実感する。あのパワー、あの威容、あの存在感、すべてが伝説の真偽を物語っている。
「あ、あのヤロー、何つーパンチだ……。どっからあんな馬鹿力出してんだ」
「クソッ。チクショーが」
武藏は口惜しそうに吐き捨てた。それきり武藏、長門、薩摩の三人は黙り込み、試合場の中央にに一人立つ巨躯にただただ目を奪われた。
一切の混じり気のない純粋な野蛮や凶暴や凶悪、それを削りだして炉に入れて鍛えたような、莫迦みたいな切れ味。忌々しくも妬ましい。あれを欲しいと願わない男はいない。
「だっはっはっはっはっ!」
豪快な笑い声が沈黙を打ち破った。
「好きにやってええ言われた途端アレや。現金なやっちゃな」
下総は場違いなくらい楽しそうな笑顔で、横にいる禮の肩をバンバンッと叩いた。
正直痛いのだけれど……、禮は下総に悪意がないことは分かるから苦笑しながら我慢した。
「あーあ……。石和のヤツ、呑まれてしもて」
勇炫は当然のことのようにサラリと言い放った。
下総と勇炫は、渋撥の実力をよく見知っている。最早この程度で己を失うほど驚きはしなかった。
薩摩はササッと素早く勇炫の隣に移動した。
「呑まれたってどーゆー意味っスか、備前さん」
「石和は本気になった《荒菱館の近江》の雰囲気に呑まれた。ああなってもーたらもうあかん。身体が縮こまる、足が前に出えへん、狙いが定まらへん、突きを出しても効けへん」
「俺は格闘技やったことねーケド、そんなもんスか。ビビッちまってもとにかく手ェ出してる内になんとかなったりすんじゃねっスか」
薩摩は勇炫からの説明に首を捻った。勇炫はそのような薩摩を横目にクスリと笑った。
薩摩棗は喧嘩には慣れている。見るほうもやるほうも。しかし、所詮素人の殴り合いを繰り返したに過ぎない。そのようなものは彼等にとって児戯に等しい。実力や本質を看破する眼力はまだ備わっていないと見える。身の奥底から起こりどうしようもなく掻き立てられる、御しがたい恐怖心さえまだ知らない。
「お前は《荒菱館の近江》をよう知らんさかいな」
「半端なくケンカが強ェってウワサっスね」
「ケンカが強い、ガタイがええ、そんな人間はなんぼでもいてる。それこそウチは道場やさかいゴロゴロ見てきた。せやさかい、分かる。《荒菱館の近江》は、ちょっと格闘技囓ったニワカや腕自慢のヤンキーなんかとは格がちゃう。何ちゅうても、この下総さんと張った男なんやで」
勇炫はビシッと親指で下総を指した。
下総は白い歯を剥いて上機嫌にニカッと笑った。
「下総さんも別格に強ェーっスけど。アイツもそのくらい強ェってことスか」
「オイオイ。俺をあんなのと一緒にすなや」
下総は薩摩の首に腕を回してグイッと自分のほうへ引き寄せた。ほら、と試合場のほうを顎で指し示した。
「アレはな、バケモンや。バケモンは恐いで~~。心底震えが来るくらいにな」
「下総さんでも恐いとか……思うことあるんスか」
下総は明確に言葉で返答しなかった。顎を軽く左右に振り、禮のほうへ目線を遣った。
「禮ぃー。お前はどう思う?」
「ハッちゃんのことバケモノなんか言わんといて」
「そうか。お前も女やな」
禮の否定は素早かった。とんでもないというニュアンスが多大に含まれていた。その若干ムスッとむくれた表情を見て、下総はハハハッと笑った。
この少女がアレを見て、傍にいて、よく知って、モンスターではないと言うならそれもまた真実だ。唯一人、あのモンスターの為の乙女なのだから。それが幸か不幸かはまた別のお話。
下総は薩摩の肩を叩き、禮の方を向いているその目線を試合場のほうへ引き戻した。
「ホレ見てみぃ。ブチ切れて、人間やめる寸前のバケモンや」
石和は吹っ飛ばされても立ち上がった。日々の稽古の積み重ね、攘之内曰く莫迦みたいな反復により獲得した条件反射が、オートで構えを取らせた。
「ハッハッハッハッハ……ッ!」
ズキンッズキンッズキンッズキンッ。
顔が痛い。骨が痛い。神経が痛い。心臓が痛い。
胸骨の内で心臓が跳ね回っている。肩を大きく上下させる粗い呼吸の所為で殴られた顔面が痛い。いつもは試合中は痛みなど感じないなのに何故か今日は酷く痛む。
汗が額と言わず背中と言わず毛穴という毛穴から噴き出し、目に入っても拭う余裕すらなかった。対峙する三白眼の巨躯から目を離す余裕などなかった。拳を握らなければ。構えなくては。敵が迫っている。危機が迫っている。敗北が差し迫っている。
二つの翠玉が此方を睨んでいる。まるで獲物を狩ろうとする獣のように。
――ちゃう! 狩るのは俺のほうや。武人がこんなケダモノみたあなヤツに負けるわけにはいけへん。俺はコイツに勝って坊ちゃんとの約束を果たす。
石和の視界の端を、高速で向かってくる何かが掠めた。
石和が咄嗟に頭部を後方に引いた瞬間、ビュンッと渋撥の蹴りが通過した。
蹴りが空を切った渋撥は、必然的に半身背中を見せた状態になった。攻撃の直後は最大の隙が生じる。石和は其処を逃すまいと渋撥に殴り掛かった。
渋撥は蹴りを出した右足を床に付け、そのまま動作を停止せずにその右足を軸にして上半身を回転させた。遠心力とウェイトを乗せた左足を突き出した。
ドボォッ! ――渋撥の回し蹴りが石和の鳩尾にめり込んだ。
「あが……⁉ ぐあぁ……ッ」
これは完全に石和の意表を突いた攻撃だった。素人同然の無名の白帯と侮っているが故、予見できない巧妙さだ。
石和は両手を突いて倒れ込んだ。やられっぱなしとはいかなかった。
床に突っ伏した体勢のまま、畳の上についた両手を支えにして下半身を引き寄せた。回し蹴りを繰り出した直後で不安定になっている渋撥の軸足を狙って蹴りを放った。バスンッと膝の裏を蹴られ、巨躯がぐらついた。
ダンッ! ――渋撥は右膝が畳につく寸前で左足で踏み留まった。
石和はぬっと伸びてきた黒い腕に道着の胸倉を掴まれてギョッとした。
ほらまた、二つの翠玉に見詰められた途端に一瞬身体が固まってしまう。
バキィインンッ!
石和の顔面に砲丸のような一撃がめり込んだ。
ペキペキィ……ッ! ――骨の軋む音。骨の欠ける音。骨の割れる音。石和の耳には自身の部品が剥がれ落ちる音が届いた。自身が壊れていく音を聞かされるのは気持ちのよいものではない。石和ほど武人の矜持を誇る男でなければ、とうに音を上げている。
「げはあッ!」
石和は喉を突いて上がってきた胃酸混じりの唾液を畳の上にビチャッと吐き出した。
ズキンッズキンッズキンッ。
痛みは何よりもの現実の証。意思の力で痛覚を殺せぬのは、現実の壁が精神力を凌駕しようとしている証。這い蹲る石和に現実の壁が容赦なく押し寄せる。石和はついに苦痛に顔を歪め始めた。
ダァンッ!
渋撥の足音が地響きのように石和の鼓膜を揺らした。石和は突っ伏した体勢から渋撥を見上げ、目を大きく見開いてその姿を焼き付ける。
苦痛と恐怖を連れてくる、浅黒い肌をした翠玉の獣。暗黒の壁を背にギラギラと光る二つの妖しい光。魔性の翠玉の眼。――――獣の眸。
石和はブルッと身震いがした。こんなヤツは初めてだ。恐い恐い恐い恐い恐い!
「オイ。祈っとけ」
「……なッ、あぁ⁉」
「運が良けりゃ死なんやろ」
渋撥の声は、喉を鳴らして発する獣の唸り声のようだった。
唸りが静かに響いた次の瞬間、聖域を支配したのは、痩せた獣が這うように低く身を伏せて大地に爪を立て、獲物に飛びかかろうとするあの緊迫感。生温かい空気のなかで汗が乾いて皮膚に張りつき纏わりつく不快感。
石和は錯覚した。自分はいま人間と相対しているのではなく、荒野で獣と対峙しているのだと。振り上げた黒い拳が、獣の牙に見えた。
ズドォォオンッ‼
渋撥は一切の加減のない〝力〟の塊を石和の頭部に叩き込んだ。
石和は凄まじい衝撃で思考が停止した。圧倒的パワーの前には何も考えられない。絶え間なく襲い来る、際限なく降り注ぐ、衝撃と痛みと恐怖。この世をこの世だと、現実を現実だと、自分は強者ではないのだと、明白にするこれ以上無いもの。
「好き勝手言いくさってこのクサレがッ! ムチャクチャええ女やろが! オドレに言われることなんざ一個もあれへんわ! 死にさらせボケがァアアッ!」
ドガッドガッバキッガギンッ!
バキッバキッドガッドガッ!
渋撥の攻撃の手は已まなかった。足が止まった石和の胸倉を掴んで幾度も殴りつけた。両膝をついた石和の腹部を幾度も蹴り続けた。足許に倒れ込んだ石和を渾身の力で踏みつけた。時折上がる野太い呻き声などどうでもよい。意思や意識が残っているかなど知ったことではない。渋撥には物を破壊する程度の呵責しかなく、慈悲など持ち合わせてはいなかった。
渋撥は神や仏ではない。或る一線を越えた瞬間には人間ですらない。常人では踏破することが叶わぬ領域に足を踏み入れる資質を生まれ持った。人ならざるものに成って果てる宿業にて、心根の奥に蔓延る濃い濃い真闇に、土と獣の臭いを纏う鬼を棲まわせる。
§ § § § §
渋撥と石和の大将戦は、審判が渋撥を制止に入って決着を迎えた。
審判が勝敗を宣言しても、石和が戦意を喪失しても、渋撥の暴挙は停まらなかった。禮や虎宗を含む数人がかりで羽交い締めにして制止する羽目になった。
結果だけならば相模道場が三対二で宗家備前道場を下し、能登師範代の無敗記録は更新中という、いつもと一見代わり映えしない。しかし、無名の白帯――相模の大将――近江渋撥の存在は、昨今稀に見る鮮烈さで強烈な印象を残した。
備前金剛の門下にある誰もが、渋撥に対して怪物を見るような視線を送った。唯一の異物。凶悪な野獣。災禍の暴君。〝武〟を屈服させる〝暴〟――――人の世の摂理に於いて許されざるもの。
「……なんッじゃ、アレは」
統道の声音には、驚愕と嬉々が入り混じっていた。否、喜びのほうが大きいかもしれない。武の求道者たる彼にとって、無節操であれ粗野であれ、純粋な強さを発見するのは喜びだった。
「こりゃまたドエライ隠し球やな。ウチの石和が一方的にやられるなんざ」
「歯止めが利けへんヤツでなァ。スマンのォ。石和にはあとで俺から詫びに行くわ」
攘之内は表情に一応申し訳なさを滲ませたが、統道は御満悦で口許を歪ませた。
「やったぜチクショオ! いいぞォ近江ぃーー!」
「イエー、ザマァーー!」
威勢のよい歓声が上がった。
子どものように無邪気に、場も弁えず無作法に騒ぎ立てる、我が子と変わらぬ歳の男たち。礼節も作法もなく、見るからに流派の関係者ではない風体。
統道は疎ましげにチッと舌打ちをした。
「あそこで騒いどるガキ共は勇炫が招き入れたんか、まったく。相変わらずロクでもないモンと付き合いよって」
「ダチを悪く言う親は嫌われるで、統道」
「ガキに嫌われるん恐くて男親なんかやっとれるか」
「それも一理あるな」
統道は、騒いでいる連中のすぐ傍に立っている勇炫を睨みつけた。それが場違いな言動であると理解しているはずなのに、停めもせず諫めもせず、涼しい顔をしているのがまた小憎たらしかった。
「我が子ながらええ恥さらしや。本人も全部分かっとってやりよるさかい質が悪い」
「恥でも悪そうでも我が子には違いない。親のお前が対等に啀み合って目くじら立ててもどうにもならんで」
「俺に折れろっちゅうのか」
統道は、莫迦なことを、という顔を攘之内のほうへ引き戻した。
「アイツの親は誰や、育てたったんは誰や、教えたったんは誰や、俺やろ。アイツがあっこまでデカくなれたんは俺の御蔭や。何で親の俺が折れなあかんねん」
「親がそれ言うたらあかんやろ、統道」
攘之内はハーッと嘆息を漏らした。
禮や虎宗を心から憎んだことも憎まれたこともなく、不当に蔑ろにしたことも侮られたこともない。親が我が子を疎んじる気持ちにも共感も理解もできない。
勇炫を睨む統道の目には、攘之内には不可解なくらいギスギスした感情が詰まっている。親子の絆も情愛も、まるではじめから無かったかのように忘れ去り、赤の他人よりも啀み合うこの二人を哀れに思った。
「そうや、お前が親や、大人や。相手はガキや。あそこまで育った。もうじき大人になる。ほんまにお前が大事に教え込んだんなら、自ずと自分のやるべきことを理解する。勇炫は賢いさかいな。お前も言うてたやろ、人間、結局のところ収まるとこに収まるしかない。なるようにしかならん」
――ほんまはもう理解しとるんかも知れん。宗家の跡取り、備前宗家の当主になることの意味を。
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