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#26: Bitter enemies in the same boat
Tiger is deaf to all. 01
しおりを挟む親善試合中堅戦。
カチ、と記録係がストップウォッチを停めた。
その試合を見守っていた者たちは、唖然として試合場の中央に立つただ一人に視線を注いだ。立っていたのは大志朗ただ一人。対戦相手である宗家の門弟は、大志朗に頭を差し出して両膝を突いていた。
大志朗は彼に背を向けて歩き出した。試合場の境界線の縁まで行き、向き直って一礼をした。観戦者は皆、そつのない動作に目を奪われて静まり返り、まるで時間が停まっているかのようだった。
ある瞬間にハッと我を取り戻した。停まっていた時間を取り戻すかのように騒然とした。
「オイ、タイム。試合時間はッ」
記録係の一人は慌ててもう一人の記録係、ストップウォッチを握っている男に声をかけた。
彼は自分の手中のストップウォッチに目を落として愕然とした。
「ご、54秒03……!」
「宗家の門下生が一分保たないのか……ッ⁉」
大志朗は涼しい顔をして自陣に近付いてきた。
惜敗を喫した相模の先鋒と次鋒は、彼に目を釘付けにした。その整った顔立ちは整ったまま、試合直後とは思えない綺麗なものだった。宗家の門弟は大志朗の顔面に一発を喰らわせることもなく敗北を喫した。
「やっぱり大志朗君たちは……大志朗君も師範代もお嬢も、俺等なんかとは別格や」
自陣に戻って来た大志朗は、門弟たちから賞賛を受け取ったあと、渋撥と目を合わせた。勿論、渋撥からは賞賛も犒いもなかった。
「俺は期待通りやったか?」
大志朗から声をかけられても渋撥は何も応えなかった。驚愕した様子も感心した様子もなく、ただただ関心がないという態度だ。彼が契約をしているのは、親善試合に出場するまで。勝敗自体は無関係だ。
「おもろないヤツ」と大志朗は零して渋撥とすれ違った。
「今、大志朗が何したか全部見えたか」
虎宗は渋撥の隣に立って問いかけた。
当たり前だ、と渋撥は返した。
「それならええわ。大志朗の動きがちゃんと追えるなら試合でも使い物になる」
「ハッ。アイツがなんぼのモンやっちゅうねん。禮のケリのほうが断然速いやんけ」
その発言を聞いた瞬間、虎宗の脳内シナプスをパルスがピリッと駆けた。
「……お前、禮ちゃんの蹴りが見えるのか」
渋撥は再び「当たり前やろ」と素っ気なく答えた。同じような問答を繰り返すのは億劫だった。
(禮ちゃんのケリは俺でもうっかりしてたら見逃す。当たり前のヤツには脚が消えてるよにしか見えへんはずや。それがハッキリ見えとるっちゅうことはコイツ……)
厭が応にも期待が弥増す。蛇蝎の如く忌み嫌う男に頭を下げてまで頼み込んだ自分の目は誤ってはいなかったと。目的の為に矜持を折り噛み殺した口惜しさは無駄ではなかったと。
「期待してんで、大将」
渋撥はチッと舌打ちをした。
「人焚き付ける余裕あったらお前がまずアイツ等ァキッチリぶっ殺してこい」
「オウ。任しとけ」
虎宗は一歩前に出て、指の関節をパキパキパキッと鳴らした。
かけられた言葉は、激励といえるほど品のよいものではなかった。呼吸をするように容易く漏れ出る醜悪な悪態の一つだ。しかし、今だけは激励と言ってもよいぐらいの意味はある。
試合場の境界線に立った虎宗は、対戦相手に向かって深々と頭を下げた。互いに足早に中央に進み出て、肩を揺すって腕を上げて構えた。
「アンタが副将なんて初めてじゃないか、能登君」
虎宗は名指しで話しかけられたが、見知らぬ相手だった。しかし驚きはない。彼にとって公式の場で顔も名前も知らない相手から声をかけられるのは珍しいことではなかった。
流派内に於いて〝相模の能登〟は有名だ。その技術の高さ、連続無敗記録、腕前は師範代として申し分ないどころか流派全体のなかで突出しており、宗家を差し置いて当代最強と目されている。
そして、秘伝中の秘伝である奥義を習得している点は特筆すべきだ。師範代とて伝授を容易に許されるものではなく、許されたとして完璧に習得するには生涯をかけての厖大な研鑽を要すると言われている。齢二十にも満たない若さで伝授を許された者などおそらくは前例を見ない。――――通称《奥の手》。
虎宗は何も応えなかったが、相手からの会話は続いた。
「俺はずっとアンタと手合わせしてみたかった。今回は坊ちゃんが出場しない上にアンタが副将とは、ツイてるとしか言い様がない」
「…………」
「それにしても今回の相模の大将はどういうことだ」
「…………」
「相模のお嬢さんの代わりとは聞いてるが、大将が白帯なんてあんまりだ。人数合わせにしても黒帯くらい用意しないとカッコが付かない」
「…………」
「それとも用意したくてもできなかったのか。人材不足の道場で師範代を務めるのも大変――」
ズダァアンッ!
虎宗が大きく脚を踏み込んだ。
男はピタッと口の動きを止めた。噂の師範代のインターバルは長い。一歩踏み込んだときには、すでに射程範囲内に捉えられているのだと悟った。鋭利な眼光と視線がかち合った刹那、ギクリと身体が一瞬硬直してしまった。
ズバァンッ!
虎宗の肩から打ち出された高速の弾丸のような拳、それを男は咄嗟に上半身を反らして直撃を回避した。しかし、形だけのガードを作った腕を掠め、ビリッビリビリッ、と痺れが駆け抜けた。
虎宗は再び静かに構えた。男を視界の真ん中に据え、姿勢に一分の隙もない。
拳は弾丸。眼は戈戟。構えは泰山。速く鋭く硬く、揺るぎない。当代最も完璧に近しい武人。
ぶわっ、と男の額に汗が浮き上がった。最早、気さくに話しかけるような余裕はなかった。
(何だ、このプレッシャーは! まるで備前師範と手合わせしてるみたいな……いや、それ以上かもしれない。押し潰されそうなプレッシャー……!)
「試合、始まっとるで」
虎宗の声は淡々としており感情が感じられなかった。
「試合中にのんびりアゴ弾くようなヤツ、俺やったら試合に出さへん」
男は途端に表情を険しくした。一門弟と師範代、立場は自分より上だがいくつも年下の男に安易に侮られたと思った。
ダダンッ! と男は強く足許を踏みしめ、一足飛びで素早く虎宗との距離を詰め切った。
虎宗は一切動揺しなかった。反射的に反応することもなく、沈着に目だけで男の動作を追った。足運び、体捌き、すべて想定の範疇。拳を撃ち出すタイミングを読むことは難しくはなかった。
男は渾身の力でもって拳を突き出した。虎宗はそれをパンッと下方に叩き落とした。
「拳を引くのが遅い」と一言。
パカンッ、と男は鼻っ面を小突かれた。攻撃というには瑣末な一手。しかし、鼻先から脳天へと痛覚が駆け抜けて一瞬目を閉じてしまった。
虎宗は男が怯んだ刹那の隙に、深く息を吸い込んだ。一気に男の懐に踏み込んだ。畳が撓みそうなほど強く踏み付けると同時に拳を突き出す。拳が男の体に触れた瞬間に溜め込んだ呼吸と共に気合いを吐いた。
ドォオンッ!
男の体のど真ん中を、太い丸太を打ち込まれたような衝撃が貫通した。
内臓が直接ダメージを吸収して体液が逆流し、酸味の濃い唾液が喉を駆け上がってきた。男は嘔吐きに耐えながら覚束ない足取りで虎宗から離れた。
「げぁあ……ッ!」
(《崩山》マトモに喰らって倒れへんか。見た目よりは打たれ強いな)
虎宗は完璧に構えを取って冷静沈着に相手を観察した。
間隔の短い呼吸に、多量の発汗。おそらくは内臓が軋んでいるはずだ。先ほどの一撃は確実に男の真芯を貫いた。《崩山》は元よりはそういうものだ。
相対する男は、膝を折れさせないのがやっとだった。深く呼吸しようとすると酸味が込み上げてきて邪魔をする。何ともない強がりの表情を作ることすら困難だった。苦悶の表情を浮かべながら、ゆうに数秒をかけてどうにか構えた。
「流石は負け知らずの天才師範代……。こんなにマトモに《崩山》を喰らったの久し振りだ」
男は、虎宗に対して構えてさらに数秒後、会話を再開した。顔面に脂汗を浮かべ、肩を上下させ、ハッハッと短い呼吸を繰り返し、そうまでして口を動かすのは、弱味を見せない意図もあったのかもしれない。
虎宗は黙って見据えるだけだった。
「確かにその若さで当代最強と言われるだけはある。それだけの技量があって分家の一道場の師範代に甘んじているなんて勿体ない。自分が入門したのが宗家だったら、と考えたことはないか。分家の師範代と宗家の師範代じゃ格が違う。宗家にいれば備前金剛を名実共に登り詰め、近代武道界に名を――」
「俺はアンタが思うほど大層なモンちゃう」
饒舌を途中で遮られた男は、半ば唖然として虎宗を見詰める。ダメージを堪えるのに精一杯であり表情を制御しきれなかった。
「アンタが俺の攻撃喰らうんは、未熟やからや。さっき言うたやろ。俺やったら試合に出さへんてな。アンタが入門したのが相模やったら試合に出る実力もあれへん」
虎宗の言葉には一切の容赦が無かった。感情が無かった。師範代としての見る目は正確だ。私情が入る余地無く正確無比だ。
男の鼓膜にはピシリッと乾いた音が聞こえた。プライドを覆う鎧が乾いて割れる音。天才師範代による酷評は、副将を務める実力を持つという自負を粉砕した。
「能登虎宗…………備前金剛公式戦において全勝。何で自分が無敗でいられるのか分かるか」
男の声質が変わったことに、虎宗は瞬時に気づいた。
虎宗を睨みつける男の眼には、怒りが宿っていた。顎を引き、眉を引き上げ、形相を変え、仇敵と対峙するかのような烈火の眼光。
男は内心怒り狂っているはずなのに、ハンッと鼻先で笑った。
「みんなアンタを天才師範代やら当代最強やら褒めそやして、腹の中では怖がってンだよ。《奥の手》の使い手だからじゃない。アンタの本性を怖がってンだ。アンタが何をしでかしたか、誰も知らないと思っているのか」
成る程、男の言う通り、その目には怒気と共に恐怖があった。形を変えた尊敬や畏怖ではない。得体の知れないもの、手に負えないものに対する、純粋なる恐怖心だ。
「アンタは両親が死んだとき、人を殺し――」
非常に珍しく、虎宗の目に動揺が見えた。とっくの昔に海馬の奥に埋めた記憶を、まさかこのような場で赤の他人の手によってほじくり返されるとは思ってもみなかった。
一刹那、男の眼前に虎宗が立っていた。意識がコマ落ちしたかのように動作が見えなかった。分厚い眼鏡のレンズを隔てた双眸から動揺は掻き消え、氷のような冷たさを感じた。
男の喉は悲鳴も鳴らさなかった。頭では攻撃されると判断できても身体が動かなかった。ただ構えているだけでは棒立ちに等しい。瞬間瞬間を鬩ぎ合う武人にとってコマ落ちの遅れは致命的だ。
トン、と掌を胸の上に置かれた。男の脊髄をゾクッと悪寒が駆け抜けた。身体はまだ凍り付いたように動かなかった。意識だけハッキリしていて恐怖をクッキリと覚えた。
「そのツラ、《奥の手》の体捌きくらいは知っとるみたいやな」
虎宗は小さな声でボソッと独り言のように言った。
そう言って虎宗は男の胸から掌を退けた。男は困惑して表情を歪めた。
ガッギィインッ!
「ぶはッ」
虎宗は男の顔面に拳を叩き込んだ。一挙手一投足に大仰に反応するくせに動作は緩慢。そのような大きすぎる隙を見逃してやる道理は無かった。
男はぐらあと大きく傾いた。片膝が折れて畳に崩れ落ちかけた。
「《奥の手》は禁じ手。お前みたぁな雑魚にお披露目したるか」
虎宗は男が完全に畳の上に膝を突く前に再度殴り飛ばした。ぐらりと後方にぐらつく男の道着の胸倉を鷲掴みにして引き寄せた。ゴキンッ、ガキンッ。鍛え上げた硬い拳を何度も叩き付けた。
男は反撃するどころか、虎宗の手を振り払うことすらできなかった。
勇炫は額の上に手で庇を造り、物見遊山の気分を隠そうともしなかった。
「おー。虎宗君珍しくマジやん」
「トラちゃんは稽古も試合もいっつも真剣やよ」
禮の言葉を聞いて、勇炫は「ハハッ」と笑った。禮は冗談を言ったつもりはないのに。
「いつも加減はしてるやろ。ほんまのほんまに虎宗君がマジになったら人殺してもおかしないもんな」
禮は弾かれたように勇炫に目を向け、言葉を失した。
勇炫は禮の素直に驚いた表情を見て肩を揺すってフフフと笑った。
「あれ、禮ちゃん知れへんの? それとも虎宗君の為に知らんフリしとるだけ?」
勇炫が問いかけても禮は声を失ったまま。二人が互いの眼を覗き込んだままゆうに数十秒が経過した。もしかしたら、傍目には年頃の男女が仲睦まじく見詰め合っているように見えたかもしれない。この二人は容姿も立場も釣り合いが取れる。
実際は、互いを品定めするような緊張だった。
「ジョーダンジョーダン」と勇炫は禮の肩に手を置いた。
「禮ちゃんにそんな顔されるのはかなんで。俺、禮ちゃんのことは結構スキなんやで」
それは、禮が今まで聞いたなかで一番軽薄な「スキ」だった。
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