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#26: Bitter enemies in the same boat
Hydrangea under the watery sky 01✤
しおりを挟む親善試合当日。
宗家主催の親善試合は、備前金剛古武術総本山・備前道場で開催される。相模道場は宗家側へ招かれる形だ。
宗家の道場は数年前に建て替えたばかりの立派な会館。鉄筋コンクリート造りの二階建てであり、二階席には観覧席となっている。相模道場は禮や虎宗たちが生まれる前から小さな改修以外には手を加えていない年季の入った木造。建物を見るだけで宗家と分家との差は歴然だ。
禮は、一階の試合場の壁際に渋撥と並んで立っていた。
ふと小窓から外へと目を遣った。花壇に薄紅や青紫のぼんぼりのように紫陽花が群れを成している。そのぼんぼりにしとしとと雨が降りかかっていた。今朝目覚めたときにはもう雨が降りしきっており、それがまだ降り続いている。予報によれば今日は一日中雨だ。紫陽花は綺麗だが憂鬱な気分は晴れず、溜息が漏れ出た。
「天気予報アタリ」
「雨でも晴れでも関係あれへん。どうせ室内や」
禮の独り言に対し、渋撥は身の蓋もないことを言った。
禮は目線を室内へと引き戻して壁に背中から凭りかかった。
「うちは雨の日はキライ。ジメジメするし気が滅入るし、それに蒸し暑ぅてかなんもん」
禮の声質は珍しく不機嫌そうだった。言葉通り気が滅入っているのだろう。
渋撥は若干ぶすくれた禮の表情を見て、その頬を手の甲でぷにっと押した。
「梅雨は雨が降るもんや。雨くらいでそんなカオすんな。俺の気が滅入る」
「なんで?」
「禮は笑っとるほうがカワエエで」
禮は恥ずかしそうに袖で口許を隠してはにかんだ。
「ハッちゃんね」
「何や」
「言い忘れてたケド、道着似合うてるよ」
「オウ」
禮は褒められるのも褒めるのもどうにも気恥ずかしかったから、目を合わさずに渋撥に胸の内を伝えた。
「ハイハイ、離れて離れて!」
パンパンパンッ、と手を叩いて相模の門弟二人が、禮と渋撥の間に割って入った。
渋撥は眉間に皺を刻んで邪魔者を睨み付けた。
「何の真似や」
「ハイ出たでぇ~、この俺様な態度。お前ほんま俺等先輩を何やと思てんねん」
「入門したばっかで何でそんな態度デカいねん。ちゅうか俺等お前より年上やで」
「俺は、何の真似やて訊いとんねん」
門弟たちは渋撥にズイッと顔を近付けた。
「お前がお嬢に妙な真似せんよう見張っとるんや」
「道場で俺等のお嬢に何さらしたか忘れたとは言わせへんで!」
禮はすぐさま先日道場で渋撥からキスされたことを思い出してカーッと赤面した。
犯人である渋撥は、腕組みをして不貞不貞しい態度。
「お前いま〝俺等の〟言うたやろ。俺のやボケ。殺すで」
「殺すなんか簡単に言うんじゃありません! これやから最近の若いモンは!」
「コロスやらウザイやらキモイやら! 言葉の乱れは心の乱れ!」
「そうやよー」
体格のよい男たちの向こうから禮の声が聞こえた。
「コラ」と渋撥は男たちの隙間に見える禮を叱った。
「何で禮まで小声で加勢しとんねん」
「だってハッちゃんほんまに口悪いもん。年上の人はちゃんと敬わなあかんよー」
「禮も似たよなモンやろ」
「ウチは目上の人にはちゃんとしてるもん」
「昔さんざ目上のモンぶちのめしとったやんけ。あー、曜(ヨー)至は目上のモンに入らへんか」
禮は一瞬ウッと押し黙った。それからも渋撥から目を逸らしてごもごと口を動かした。昔の蛮行――敵対した者を見境なく打ちのめす行為――荒(コー)菱(リョー)館狩りは、自分でも短絡的で暗愚だったと猛省している。
「あ、あれは……反省してる、けど……」
渋撥は門弟たちを指差した。
「ちゅうか俺より何年か先に生まれただけのヤツのどこを尊敬せえっちゅうねん。コイツ等、俺より弱いねんで」
「オォイッ! 面と向かって言うな!」
「フツー腹ン中で思てもそこまでハッキリとはよう言わんで!」
門弟たちはしばらく渋撥に対してやいのやいのと文句を並べていたが、何かに気付いて「あ」と声を漏らした。背筋を伸ばしてピシッと頭を下げた。
「押忍、師範代」
「師範代おはようございます」
虎宗は門弟たちに挨拶を返し、すぐに「禮ちゃん」と声をかけた。
虎宗が次の言葉を口にするより先に、禮は虎宗の道着の袖を掴んで素早く口を開いた。
「トラちゃん、ウチは目上の人にはちゃんとしてるよね?」
「…………。うん」
虎宗は突拍子もなく脈絡のないことを投げ掛けられたにも関わらず、反射的に返事をした。禮に同意を求められればいつ如何なる時も「是」と答えるのが能登虎宗という男だ。
禮は勝ち誇って、ほらぁ、と渋撥に言った。渋撥はそれを否定するよりも何よりも、虎宗の袖を掴む小さな手をパシンッとはたき落とした。
「コラ! オッマエはお嬢に向かって~ッ」
(禮ちゃんが俺に懐くのが気に入れへんか。分かりやすいヤツ)
門弟たちは驚いて渋撥を注意した。しかし、虎宗は意外にも冷静だった。
「何の用や。何しに来たんや」
渋撥には虎宗の顔が何となく優越感に満ちていると感じられ気に入らなかったから、反抗的に放言した。
虎宗は、お前には用は無い。用があるのは禮だ、と答えた。
「禮ちゃんを呼んではる、宗家の師範が」
「ウチを? 何で? ウチ今日出えへんのに」
攘之内と宗家道場の師範は、審判席の近くで何やら立ち話をしている。
理由は分からずとも呼ばれれば無視することはできない。禮は小首を傾げながら二人のほうへ歩いて行った。
「お前は行けへんのか」
渋撥はどこかに行けという意味で虎宗に言った。契約上、師範代と門弟という関係性にあるだけであり、関わり合いは最小限にしたい。無論、必要が無ければ行動を共になどしたくない。できるだけ傍に寄ってくれるな。
「俺は呼ばれてへん。それにお前の傍におったほうがええ思てな」
「きしょいことぬかすな」
渋撥の腕の上を鳥肌が覆った。
禮が近くまで来ると、統道はすぐに気付いた。立ち話の相手・攘之内から禮のほうへ目を向けて話を中断した。禮、禮、とまるで小さい子を呼ぶように手招きした。統道は禮を乳飲み子の頃から知っている。旧友の攘之内の子である禮の成長を楽しみ、よく可愛がった。
統道は禮が手の届く範囲までやってくると、挨拶もそこそこに小さな頭をグリグリと撫でた。
「足大ケガしてしもたんやて? 大事あれへんのか」
「統道のおっちゃん。別に大ケガちゃうよー、大袈裟やなあ。フツーに歩けるし」
「あっはっはっ、統道のおっちゃんか」
統道は上機嫌に笑い飛ばした。しかし、攘之内は小さな嘆息を漏らした。
「禮。備前師範、宗家御当主や」
「あ」と禮は口許を押さえた。
「ええねん、ええねん。お前は好きに呼んでええねんで、禮~。攘之内なんか薄情で、付き合い長いくせに他人行儀に〝師範〟て呼びよる」
統道はがばっと両手を広げて禮を抱き締めた。頬摺りをして猫可愛がり。禮も統道のスキンシップには慣れたものであり、嫌がる素振りはなかった。
「俺はTPOを弁えてますんや、備前師範」
「ホレみぃ、こんなモンや。歳喰って少し厭味になったんちゃうか、攘之内」
攘之内はハッと鼻先で笑ってツンと明後日の方角へ顔を向けた。
それにしても、と統道はしゃがみ込んだと思ったら、禮の太腿に腕を回してヒョイと抱き上げた。当主の座に就いているとはいえ現役で稽古を付けている身であり、小娘一人持ち上げるくらいは難は無かった。
「しばらく見ん内にスグでこぉなるし、また別嬪になったなあ」
「おっちゃん、ウチもう子どもちゃうんやからっ」
禮は頬を赤くして、おろして、と訴えたが、統道も攘之内も笑っていた。
相模の門弟たちは、今にも統道に突進していきそうな渋撥を羽交い締めにしたり腕にしがみついたりして必死に引き留めていた。暴君を押さえ込むには腕力に自信のある大柄な男たち三人がかりでどうにか、といったところだった。
「師範代もう無理ぃ~! ほんまもう無理ですて~!」
「サスガの馬力やな、お前」
虎宗は無表情で渋撥に賞賛を送った。
彼は至って冷静だった。渋撥の性情と統道の禮への過剰なスキンシップを考えればこうなることは予測の内だ。この場に留まったのは渋撥が兄弟子たちを振り切ってしまったときに制止する為だ。
「離せボケ! あのオッサン殺すッ」
「わーッコラコラコラ! 何ちゅうことを言うとんねん!」
「ここをどこやと思とんねん。頼むからここではやめてくれ~~!」
虎宗は「同感」という風に頭を振って見せた。立場上渋撥のように暴言を吐けないが胸中は似たようなものだ。
渋撥はチッと舌打ちして力を緩めた。兄弟子たちは安堵して暴君の手足を解放した。
「何やねんあのオッサン。俺の禮にベタベタしくさって💢」
「アレが備前金剛宗家の当主、備前統道師範や」
渋撥の脳裏には自然と、嫣然と笑む魔女のような男の顔が浮かんだ。あれは顔立ちだけは見事なものであり、禮に無遠慮に触れる中年とはまるで似ていない。自分の家も余所のことを言えたものではないが。
虎宗は腕組みをして統道のほうへ視線を据えた。
「宗家の師範はな、禮ちゃんをえろう気に入ってはる。……特別思い入れがあるさかいな」
「何や、思い入れて」
「前に話したやろ、清さんと宗家の師範のこと。宗家の師範にしたら清さんは自分の嫁になるはずやった女で、清さんが生まはった禮ちゃんは自分の娘になるはずやった子ォや。特別可愛う思えるんやろ」
「ハッ」と渋撥はハッキリと鼻先で嘲弄した。
「全部予定で全部過去形になってしもとるやんけ。しょーもないオッサンや」
「しょーもない、か。……そやな。俺もそう思う」
「し、師範代っ」
虎宗は渋撥の暴言をあっさりと認めた。
門弟たちは、宗家の関係者が聞いてやしないかと慌てて周囲をキョロキョロと見回した。
「お前のほうこそ、ようあのオッサンに好き勝手されて黙って見てられんな。あのオッサンが気に食わへんのやろ」
「備前師範は備前金剛宗家の当主で、俺は分家のしがない一門弟や」
虎宗は予め用意していたかのようにサラリと述べた。
「ワレェ偉いんちゃうんか。師範代やから年上年下関係なしに偉そうにしとるやんけ」
「師範と師範代はぜんぜんちゃう。しかも宗家と分家じゃあ雲泥の差や。師範っちゅう肩書きだけなら親っさんも宗家の師範も同じように聞こえるかも知れんけどな、実際宗家と分家じゃあ格がちゃう。俺程度じゃあ宗家の師範に逆らうことはでけへん」
気に食わないのだろうと問われれば、ああそうだ。嫌いなのかと問われれば、それすらどうでもよい。宗家の師範、当代の最上位、備前金剛を統べる男、そう言われても攘之内に関わらないのであれば、自分にとっては何の意味も持たない男だ。好感も反感も持ちようがない。
攘之内から何かを奪おうとする存在に刃向かうことさえ許されないから歯痒い。自分と彼岸との立場の違いは充分に理解している。分別が無い振りをして格上に噛みついたところで、攘之内に迷惑をかけるだけだ。
「格なんざ知ったことか。親っさんのほうがなんぼもええ男に見えるで」
渋撥はフンッと鼻息を吐いて統道から顔を背けた。
渋撥のほうを見た虎宗は、珍しく少々驚いた表情をしていた。
「お前、意外と見る目あんな」
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