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#21:A lily of the valley
A lily of the valley 01 ✤
しおりを挟む撥香はテーブルの上に両手で頬杖を突き、攘之内を見てフフフと笑った。
「サスガのジョーもカワエエ娘には弱いね」
「あんな頑丈なのを少し小突いたったくらいで、やいやい喧しいヤツや」
攘之内はバツが悪そうに湯呑みを口へと運んだ。
「ハッカのほうが肝据わっとる。禮は堪え切れへんと飛び出してきたが、お前は一歩も動かへんかった」
撥香は、道場で渋撥が殴られている間中、座布団の上から立ち上がりもせず一歩も動かなかった。それは攘之内への信頼の表れだ。どれほど愛娘を案じても、愛娘を誑かした男を憎からず思っても、一線を越える間違いなど決して起こりえないという。
「そりゃあカノジョと母親じゃあね。同じ気持ちちゃうよ。ウチもジョーに殴られてるのがイッキ君やったら堪えきれへんかった」
「禮がイッキの息子にほんまに惚れとるみたいな言い方すな」
攘之内は渋撥を睨んでギリギリと奥歯を噛み締めた。愛娘が甲斐甲斐しく手当てしやり、あの男と同じ顔がそれを当然のように受け容れている光景も大変苦々しい。
「惚れてるやろ。大好きやろ。夢中やろ。メロメロやろ」
「やめろッ!💢」
攘之内は努めて心を鎮め、今一度渋撥の顔をよくよく観察した。初見でそう思ったのは随分久方振りに目にした所為なのではないか、突然のことだったからではないかと、記憶の中の人相とじっくりと比較してみた。別物として見分けようとしても瓜二つにしか見えなかった。
「お前、あの顔からハッカ呼ばれとってイッキと間違えへんか」
「間違えへんよ。イッキ君とハッちゃんはぜんぜんちゃう。イッキ君はイッキ君だけやもの」
撥香は、何を言っているの、と笑い飛ばした。
母親が双子を見間違えないように、当然のことながら、撥香にとって夫と息子とはまったくの別物だ。攘之内はできなくとも、撥香はできる。積み重ねた経験や過ごした時間が異なるのだから区別できるのは道理だ。
これはつまり、愛しい男に縋ることしかできなかった少女が、面影を探すことをしなくなったということだ。天も地もなく泣き崩れた少女が、然らぬ別れを乗り越えたということだ。もう、無理矢理抱きかかえて立ち上がらせてやる必要は無い。太陽が墜ちた夜の世界を、母と子でゆっくり歩んできたのだろう。
「ジョーかて禮ちゃんとスズちゃんを間違えたりせえへんやろ」
「おお。そりゃあなあ。せやけど、禮は俺には似てへんのやから清似やろ」
スズちゃん――清――禮の実母である。
「そーでもないよ。禮ちゃん、スズちゃんにぜんぜん似てへんもん。顔も性格も」
「そーかあ?」と攘之内は自分の口髭に触れた。
「顔はね、ヒゲ面のジョーに似るわけないけど、中身はジョーに似てるんちゃう。少なくともスズちゃんは、殴り合いしてる男の間に入るなんて絶対無理よ」
撥香は突然、ハッと天啓を得たという表情をした。
「ほんまにスズちゃんとの子ども?」
「お前なあ、言うに事欠いて何ちゅうこと言うねん。外で子ども作るなんか俺がするか」
「へー」と相槌を打った撥香に含みを感じた。攘之内は「何やねん」と言い返した。
「お見合いする前は結婚相手なんか別に誰でもええってかんじやったのに。スズちゃんに会うてみたら美人やったからメロメロになってしもた?」
「娘の前で変なこと言うな」
攘之内は鼻の頭に皺を寄せた。
「ねえねえ」と禮は虎宗に小声で話しかけた。虎宗は禮のほうへ首を傾げて耳を近付けた。
「お父はんって、お母はんのこと好きやったんかなあ」
「そりゃあ好いてはるやろ」
「せやかて恋愛結婚ちゃうし。お祖父ちゃんとお祖父ちゃんが仲ええさかいお見合いして、お祖父ちゃんが気に入って決めたお嫁さんやったんやろー」
禮は両親の馴れ初めをそのように祖父や親類から聞き囓っていた。
虎宗はキリッとして禮を見た。
「親が決めた相手でも本気で好きになることもあるがな」
――だからお父さんに認められている俺と一緒になろう。と言えるほど虎宗は厚かましくはなかった。
「ジョーのお見合い前、みんなでスズちゃんを見に行ったよねー」
虎宗は撥香の発言が引っかかり、大人たちのほうへ顔を向けた。
「みんなでって……清さんはえらいなお家のお嬢さんやと聞いてます。見合い前に大勢で訪ねてよう御実家が許さはりましたね」
攘之内はスッと顎を上げて遠くを見遣った。
「ギリギリやった」
その溜息のような吐息に、虎宗は何かあったなと悟った。
§ § § § §
攘之内たちが高校三年生の冬。
悪友たちは、その夜も特段目的もなくバイクで海を訪れていた。
防波堤の前に一列に横並び。冷たい夜の海風に晒され、それぞれホットの缶コーヒーを手に持っていた。
祥太朗は防波堤にもたれ掛かり、撥香はその隣で防波堤に腰掛け、二人で話していた。
「えーッ! タロちゃんて卒業したら社長になんの?」
「イヤ、スグにはならんで。親父の跡を継ぐ予定っちゅうだけや」
伯耆祥太朗の父は地元では有名な企業の経営者であり、家柄自体も古くから続く。一人息子である祥太朗は、その家名と会社の跡取りであると、親類や周囲の人間は勿論、祥太朗自身もそう思っている。所謂、人生のレールに反抗したこともあったが、高校卒業も目前ともなればすでに自ずと跡取りとしての自覚は芽生えていた。寧ろ、学生の内までだからと自発的に期限を切り、思い切って莫迦なことをしようとしていた節さえあった。
「俺も、卒業したらスグ見合いして結婚すんねん」
攘之内が突然そう打ち明け、全員の視線が集まった。意外な発表だったから、全員が虚を突かれて言葉を失した。
カシュッ、と攘之内が缶コーヒーのタブを起こした。みんな黙りこくっていたから、その音がやけにハッキリと聞こえた。
「ジョーさんッ」と剛拳が一番最初に口を開いた。
「どうしてこんなところで言うんですか」
「その内分かることや。いま言うてもあとから言うても同じや」
「俺が言いたいのは、もっと慎重に行動してくださいということです。結婚のことは相模の家にもお相手にも大事なことです。軽々しく言っていいことじゃ――」
「だっははははははは! ジョーが! ジョーが見合いやって! でゃひゃはははははッ!」
渋粋が大声を上げて笑った。顔を歪めて腹を抱え、攘之内を指差した。
――何がそこまで可笑しいのだこの男は。剛拳は渋粋に批判的な目線を向けた。
縁談は攘之内の将来に関わる重要な話だ。冗談のように軽薄に笑う渋粋に対して腹立たしさを覚えた。
「見合いでジョーのツラ見たら一目散に逃げられるんちゃうか。本職のオッサンみたいやんけ」
「誰がオッサンや。人相についてはお前が人のこと言えるか」
「人相どうのやのォて、フツー若い女はオッサンみたいなビジュアル嫌がるやろ」
渋粋は攘之内の口髭でピタッと人差し指を停めた。攘之内は同年代よりも老成した若者ではあったが、その口髭が実年齢よりも見た目を引き上げているのは明白だった。
「俺の見た目関係なしに逃げられることはあれへん。形式的に見合いっちゅうことにしとるだけで、結婚することはもう決まっとる。昔からの家同士、親同士の付き合いや。今更俺や相手の女がどうこう言うてもまず引っ繰り返らへん」
攘之内はフイッと顔を逸らした。
渋撥は上半身を防波堤から乗り越えさせて攘之内の顔を覗き込んだ。
「で、どんな女や。道場の跡継ぎに嫁ぐんやからゴリラみたいな女か? あーはっはっはッ!」
「何でゴリラと結婚すんねん。お前今すぐ殺したろか💢」
「ほな見合いせんと貰い手があれへんブスか」
「顔は知らん。見合いの日が初顔合わせや」
攘之内がサラリと放言した事実は、再び渋粋、祥太朗、撥香を凍り付かせた。
これには流石に祥太朗も黙ってはいなかった。
「え。結婚するんやろ? 顔見たことあれへんて……マジか」
「ごっつブスやったらどうすんねん。イヤ、親のゴリ押しゴリラでほぼ確やろ。自殺行為や!」
「ゴリラから離れろ」
パァンッ、と攘之内は渋粋の後頭部を叩いた。
祥太朗は、攘之内と剛拳の間に移動した。
「自分の嫁はんがどんなカオしとるか気になれへんのか、ジョー」
「結婚自体は決まってんねやからカオにこだわってどうすんねん。ブスでもゴリラでもすることは同じや」
「ジョーからまさかの種馬宣言」
「誰が種馬や」
祥太朗は、攘之内とは反対側の剛拳のほうへ顔を向けた。
「ゴーもジョーの嫁はん見たことあれへんのか」
「ジョーさんも知らないのに俺が知るわけがない。顔は知らないが、相模道場に縁の深い旧家のお嬢さんと聞いている。遡れば公家に当たる家柄だと。師範が選ばれたんだからジョーさんの御相手として申し分ないお嬢さんに決まっている」
「親父が選んだからって……お前等の頭ンなかはどうなっとんねん。武術家っちゅうのは世捨て人か」
「はあーー」と祥太朗は大きめの嘆息を漏らした。
攘之内と剛拳の、諦念とも思しき聞き分けの良さは祥太朗の理解をゆうに超えていた。常人よりも遙かに屈強な年頃の男二人を、一切の反抗なく御しているのだから、相模道場の師範には頭が下がる。
祥太朗は、攘之内は自分と同様に親の名跡を継ぐ立場でありながらも、その性質ははまったく異なると思った。家業を継承すること自体は受け容れても、生涯を左右する伴侶の選別に於いて自由意志を捨て、すべて親に委ねることなど到底できそうにない。
撥香が防波堤から飛び降り、小走りに攘之内の前にやってきた。
「ジョー、結婚するんやー」
「ああ、嫁さん貰うねん俺」
「おめでとう」
キャッツアイの瞳をキラキラ輝かせてそう言われ、攘之内の口許からフッと笑みが溢れた。
「おおきに、ハッカ」
攘之内は撥香の頭を撫でた。
ジリジリと胸の奥で燻る、不完全燃焼の燃え滓。それに、蓋をした。
俺がお前を恋しいと思うのは無駄なこと。俺がいくら恋しさを燃やしても、お前は幸福にはなれない。俺はお前の為に燃え尽きてやることもできない。俺とお前の人生は重なっていなかった。大人として生きる残りの時間を共に歩む相手がどのような人性か、その美醜などさしたる問題ではない。誰でも構わない。お前ではなかったと思い知っただけだ。
昔から何かに執着する質ではなかった。一番好きだと思った女に、一番好きな男がいたから、仲を引き裂いたり奪ったりを考えるよりは、お似合いだよと笑って格好付けるほうを選ぶのは、攘之内には困難なことではなかった。一番を手に入れることができないのなら二番も三番も同列だ。恋心の諦念が、攘之内を余計に聞き分け良くさせていた。
「ゴリラとの結婚の何がめでたいねん」
渋粋はケッと言い捨て、缶コーヒーを呷った。
「さっきから失礼なことを言っているが、師範の話では御相手のお嬢さんは美人だという話だぞ」
「アホか。ええ家の美人の御嬢様なんかがジョーの嫁になるわけないやろ」
渋粋は剛拳に素早く言い返した。
祥太朗は、イヤ待てよ、と腕組みをした。
「ジョーの親父さんはメンクイやからな、ワンチャンあるか……?」
「いーや、ゴリラや」
「実際ゴリラみたあな女なんかいてるか」
攘之内は馬鹿馬鹿しいと放言した。渋粋は不機嫌そうな髭面に鼻先をズイッと突きつけた。
「ほな賭けるかァ」
「こんな無意味な賭けなんかするか」
「賭けられへんっちゅうことは、ゴリラの可能性もあるんやな?」
「無い」
攘之内は渋粋のしつこい挑発に段々腹が立ってきて、見合い相手のことなどほとんど何も知らないのに断言した。
「ほな賭けられるやんけェ。そも、自分が勝つ勝負しか賭けへんなんざクソダサイで」
「やったろうやんけ」
「ジョーさん……」
――こんな何も考えていない極楽蜻蛉の挑発に乗ってしまうなんて。剛拳は眉間に皺を刻んで天を仰いだ。
渋粋と攘之内は売り言葉に買い言葉だったが、お互いに笑っていた。祥太朗もアッハハハと肩を揺すって笑った。跡取り話や見合いや結婚、大人ぶった風体で大人のような話題をしてみても、その実、中身まで卒業というタイムリミットに合わせてあっという間に成長するわけではない。悪い仲間と連んで其処彼処を走り回った少年たちが、大人の世界へ片脚を突っ込んだ程度の話だ。
まだ、子どもっぽさを残していたかった、誰も彼もが。
冗談を言って笑い合っていれば時間が経つのを忘れられた。何かにがむしゃらになっていれば時間を気にせずにいられた。ずっと背後のほうから聞こえてくるチッチッチッチッという秒針の刻む音。聞こえているのに素知らぬ振りをした。ほんの少し前までは無計画に無鉄砲に欲望のままに生きられたが、だんだんと緩やかにそれが難しくなった。正真正銘子どもの殻を脱ぎ捨てる日は近いことを知っている。
好きだった歌の主人公のようには生きられない。背中には好きなところへ飛んでいける翼など生えていない。足下に目を落とせば自分は地に足をつけている只の人間に過ぎない。いつまでもこうしていられないことを知っているから、タイムリミットの限り、しがみつくようにその場での思い出を求めた。
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