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Kapitel 02
神代の邪竜 03
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ドタドタドタッ。――乱雑な足音が近づいてきた。
アキラたちの許へ武装した兵士たちが駆けつけた。
ルフトは耀龍に批判的な視線を向けた。
耀龍は気にした様子はなく、戯けるように首を縮めて見せた。
「床を突き破るなど無茶をするから衛兵がやって来たぞ」
「問題ないよ。オレたちはこの城の主の孫だよ? この城に仕える者が何かできるワケないもの」
そのような打算があったのか、とルフトは納得した。我が儘放題の貴族令息でも流石にそこまで考え無しの阿呆というわけでもないらしい。
衛兵たちは左右に広がって通路を塞いだ。やけに堂々とした侵入者の一行に銃口を向けた。
「武装及びプログラムを解除して地面に伏せろ!」
「貴様らは何者だッ」
縁花が耀龍よりも前に出た。
「下がれ。こちらの方々に武器を向けるな。赫=ニーズヘクルメギル族長が御令息、耀龍様と麗祥様で在られる」
「何だと⁉」
明らかに衛兵たちの顔色が変わった。その名前を聞いて焦るということは、耀龍の思惑が通用するということだ。本当にそうであると信用するまでは武器を下げることはしないだろうが。
衛兵から武器を向けられる緊迫の最中、アキラは何故か鋼鉄の大扉のほうが気になった。
表面上はただの鋼鉄製の扉。しかし、目を凝らすと大扉に張り巡らされた縄が、風もないのに小刻みに振動していた。振動は次第に大きくなり、吊り下げられた獣骨が揺れて擦れ合ってカランカランと鳴った。
ズ……。――大扉が動き出した。
警備兵もこれは予想外だったようで、にわかにざわめいた。
ズズズズ、と重厚な音を立てて大扉はゆっくりと観音開きに開いた。ヒタヒタと素足で歩く男がひとり、扉の向こうから歩み出てきた。
「ウッ!」とルフトが一声呻いて素早くアキラの前に立った。
大扉が開いた途端、目に見えない濃霧のようなネェベルが噴出して通路に充満した。地下とはいえ決して狭くはない空間が一瞬にして埋め尽くされ、噎せ返るようだ。人間であるアキラだから何も感じないが、その場にいる者たちは一様に顔を顰めた。
男は通路へ一歩出て立ち止まった。
完全に静止して言葉を発することもなかった。全員が男に目を奪われ、その場に不気味な沈黙が訪れた。
男の霜髪はとても長く、ストンと通路に滴る。体表はところどころ黒い鱗状のものに覆われ、そうでない箇所も皮膚そのものが青黒い。手も足も爪は獣のように大きく鋭く、石材のような質感の漆黒。鱗に覆われた三叉の長い尾を引きずる。総じて、その風貌は只人ではなかった。
「天哥々……」
麗祥が独り言のようにポツリと零した。
「あれがティエン⁉」
アキラは弾かれたように麗祥を見た。
あれが天尊だとは、絶望するほど会いたいと願った人だとは、にわかには信じられなかった。会いたくて会いたくて、一年振りに目にした姿は、まるで別物。風貌が変わってしまったどころか、最早人間に似た姿をしてはいない。
耀龍と麗祥は表情を険しくし、沈黙して佇む男を注視した。
顔面の半分以上を覆い隠す長い霜髪の隙間から、紫色の光が垣間見えた。あれこそが、一族の長い歴史で最も忌避された象徴――――《邪視》。
「見た目もネェベルの質もかなり変わっちゃったけど、天哥々だよ。ミズガルズで《邪視》の影響が出たときの比じゃない変わり様だ。あのときはたかだか封が不安定になった程度のことだった。でもこれは……」
「《邪視》とはここまで変容するものなのか。これではまるで……」
――本当に、神代の怪物のようではないか!
麗祥は脳裏に過った言葉を呑みこんだ。それは兄を貶めるものだからだ。
「なんてネェベルだ……ッ」
「君たちはネェベルにあまり敏感でないのが功を奏したな。並の感覚では立っていられまい。最早只人のものとは思えない、途轍もない濃度と量だ」
ルフトは頭部に手を当ててを左右に振った。変質した天尊のネェベルが空間に充満してから、気を抜くと軽い眩暈のような感覚に襲われる。
異質で濃密なネェベルに晒されているのは、耀龍や麗祥、縁花も同様だが、彼らはプログラムの扱いに長け、ネェベルの操作や調節を得手としている。集中してしかと意識を保っていた。
「斯様に変わり果て、あれは本当に《雷鎚》といえるのか。話は通じるのか、意思はあるのか」
姉様……、とヴィントがルフトに目線で何やら合図を送った。
ルフトはヴィントの意を汲み取り、観音開きになった大扉の隙間から室内を覗き見た。
薄暗い室内の床に広がる血溜まり。いくつもの首無し死体が転がっているのが見えた。
「野獣に成り果てたか」
ルフトは忌々しげにチッと舌打ちをした。
「ルフト! ヴィント!」と縁花が声を上げた。
次の瞬間、ヴィントの眼前に霜髪の怪物がいた。アキラの傍にいたヴィントは、その場から退くわけにはいかず、防御のために刀剣を構えた。
ジャリィッ! ――黒曜石の如き爪が刀剣ごとヴィントの腕を引っ掻いた。
「くああ……ッ!」
ヴィントの腕から血液が噴き出した。
ルフトはアキラを背中に庇いながら抜刀して後退した。
「アキラ殿を狙うとは! 此奴やはり自我を失ってッ……」
霜髪の怪物が鼻先が触れ合おうかという至近距離に突如現れ、言葉を失した。シーンがコマ落ちしたようだった。知覚できない。とんでもない速さだ。鋭い爪が向かってくるのを視界の端に捉えた。しかし、最早体捌きが追いつかない。
ズドォオンッ! ――霜髪の怪物が吹き飛んだ。
縁花が真横から顔面を殴りつけ、その威力によって吹っ飛ばされて壁に激突した。
――《黒轄》
縁花が発動したプログラムにより、大きな黒いコの字型の物体が生じた。ガジャンッという重厚な音を立てて霜髪の怪物を壁に縫いつけた。
「外へ!」
縁花の言葉に反応し、一行は侵入ルートを一目散に引き返した。ヴィントはアキラを肩に担ぎ上げて走った。負傷はあるが、アキラが自分で全力で走るよりもいくらも速い。
彼奴は必ず追ってくる、そのような確信が全員にあった。彼奴はおそらくアキラを獲物と認識した。理由はまだ明確ではない。しかし、ルフトたちのような武器も持たず、耀龍や麗祥のような強大なネェベルもなく、見るからに最も無害そうなひ弱な少女を、最初に標的にしたのはおそらくそういうことだ。
ヴィントは背後に気配を感じてハッとした。黒い腕が自分の背中へ、アキラへ、向かって伸びてきた。
霜髪の怪物は、如何様にしてかは分からぬが縁花のプログラムによる拘束を脱し、すでにヴィントのすぐ後ろに迫っていた。
ルフトは霜髪の怪物に向かって剣を振った。霜髪の怪物は鎧も纏わぬ素手で、カキンッ、と硬質な音を立てて剣を弾いた。
(刃が通らぬ!)
ルフトの剣は霜髪の怪物に通用しなかったが、ヴィントとの間に間隔ができた。耀龍はその間隔に何重もの〝壁〟を創出した。咄嗟の手段だが、耀龍ほどの練達した業であれば、いくらか足留めにはなるだろう。
足留めしている間に一行は霜髪の怪物を引き離した。
耀龍と麗祥、縁花の三人は、古城から飛び出すと同時に、飛び上がって宙に滞空した。
「天哥々がアキラを襲う理由は何だと思う?」
耀龍は自分たちが出てきた出入り口に視線を固定して麗祥に尋ねた。程なくして霜髪の怪物が姿を現すであろうから注意を怠れなかった。
「姑娘が、天哥々の《オプファル》だからだろう」
「やっぱりソレか」
「《オプファル》は赫にとって生来の封から解放されて本来の力を取り戻す鍵。《邪視》もまた赫の者だ。《オプファル》はさらなる力を得る滋養となり得る」
耀龍や麗祥が古城に近づいても天尊のネェベルを探知できなかったのに、膨大なネェベルが突如として出現したように感じたのは、《オプファル》であるアキラが、あの霜髪の怪物がそれを感知できる範囲内に侵入したからだ。それを切欠に覚醒に至った。
そもそも《邪視》を掌中に収めた枢密院が、ミズガルズに刺客を送りこんでまでアキラを確保しようとしたのは、《邪視》覚醒の起爆剤とする目的だったに違いない。しかし、《邪視》の力を甘く見た所為で凄惨な事態となった。彼らも最新鋭の設備を持ちこみ、可能な限りの安全策を講じたが、古代の地上を制した邪竜の力をたかだかヒトの技術で以て技術によって制御しようなど浅はかな考えだった。
霜髪の怪物が古城の出入り口から出てきた。最初に現れたとき同様に、獣のような姿をしながら咆哮を上げるではなく、人のような姿をしながら言葉をかけるではなく、静かだった。
それ故に、彼奴は人語を解さないのだろうと自然と悟った。神代の邪悪の顕現たる存在に、己以外の生物と意思を取り交わすための言語など不要。
己の圧倒的優位を知っていればこそ、ただただ欲求に純粋だ。栄養を摂取しなければという本能、つまり食欲は生物としてあまりにも根源的な欲求。永い眠りから目覚めたばかりの腹ぺこの怪物が、この上ない栄養を見つけた。この食欲をとめることはできない。
霜髪の怪物は周囲を瞥見したのち、ピタリと目を留めた。
アキラは霜髪の怪物と目が合った気がしてギクッとした。
(あれが本当にティエン……?)
長い霜髪に隠されて人相は分からない。声を発することもない。そうでなくとも、肌の色も肉体の形状も異なる。ネェベルを感知することのできないアキラには、同一人物である確信が持てなかった。
ルフトはヴィントにアキラを守るように言い置き、霜髪の怪物に飛びかかった。
無論、ルフトが全力で斬りかかっても刃はことごとく鱗状の皮膚に弾かれた。徐々に刃毀れしてゆく刀身に気づいていながらも声を上げて振り回し続けた。
自身の力量ではこの怪物に通用しないことは分かり切っていた。しかし、アキラを守ると決めた以上、退くことはできなかった。
縁花がルフトの背後に現れた。腰元から刀剣を引き抜きつつ、ルフトの後ろ襟刳りを掴んで後方へ放り投げた。直後に自分の刀剣をルフトに向かって投擲した。ルフトは軽やかに着地し、飛んできた縁花の刀剣の柄を掴み取った。
縁花は霜髪の怪物に一歩深く踏みこんで大きく息を吸いこんだ。全身に力を充足させ、丸太のような剛腕を打ち出した。
ズドドォォオオンッ‼
霜髪の怪物は吹き飛んで樹木にぶち当たり、その樹木は真っ二つに折れた。縁花の拳の凄まじい威力によって樹木を何本か薙ぎ倒し、一際大きな巨木でようやく停止した。
縁花は霜髪の怪物に対して手を突き出した。光球が出現し、それを目にした麗祥はギョッとした。それは通常の大きさを遙かに超えていた。あれを真面に喰えば、腕でも足でも吹き飛んでしまう。
――《変則跳弾》
光球はランダムな軌道を描いて霜髪の怪物に直撃した。巨木が燃え上がって濛々と煙が立ち上った。
耀龍と麗祥は地面に降り立って縁花に近づいた。
特に麗祥は縁花に詰め寄った。
「縁花、貴様正気か! 相手は天哥々なのだぞ!」
「いけません、麗祥様。あれに手心を加えようなどと考えられては。それをしてよい相手ではありません」
しかし……、と食い下がろうとした麗祥に対して、縁花はルフトとヴィントを指差して示した。
彼らは明確に臨戦態勢だった。武器を握り締め、決してアキラの傍から離れず、霜髪の怪物に対して警戒を解いてはいなかった。最早、彼奴は敵であると認定していた。彼らは小手先の業よりも本能や感覚に頼る。逸早く霜髪の怪物の危険性を察知した。
「彼らはあれが危険なものであるとすでに理解しています。貴方方もお早く判断をなさるべきです。耀龍様、お心をお決めください」
「それは……?」
「《邪視》が覚醒したからには、かつての兄君とは最早別物とお考えください。生身でありながら刀剣も弾丸も通用しません。言語が通じず情理も通じず、説得も交渉もできません。耀龍様や麗祥様のお力やお立場を以てしても御すことはできますまい。あれは危険です。明確な脅威なのです。それが何であれ、御身の脅威は徹底的に排除します」
「それは、オレに天哥々を殺せって命じろってこと?」
耀龍は弾かれたように顔を上げて縁花を見上げた。
侍従という生業は、誰であれ貴人を尊ぶのは当然であり、命令がなくとも成り行き上、主人以外の者の安全を守ることもある。しかし、縁花の主人は耀龍だ。本来、主人には従者の行動のすべてを決定する権利がある。否、それは義務だ。主人らしく、貴人らしく、身分と血統とに相応しく振る舞わねばならない。矜持を持って賢明な判断をし、命令を下さねばならない。
「縁花、貴様!」と麗祥は激昂した。
「たかが侍従が天哥々を害そうなど許されるものかッ」
「如何にも。私は耀龍様の侍従。私の主人は耀龍様だけ。耀龍様のみに従います」
縁花は耀龍に対して身体の正面を向けた。
「どうぞ御命令ください」
命令することに慣れているはずの耀龍が、躊躇した。
耀龍の知る限り、縁花は侍従として最高傑作だ。命令を下した主人を満足させなかったことは、未だかつてただの一度たりともない。耀龍の兄であれ父であれ、耀龍の命令があれば敵対することも辞さない。そのような秀逸な下僕に二心なく仕えられるには、犀利な主人で在らねばならない。主人として相応しい人物であると証明しなければならない。
耀龍は生まれながらの高貴な身分。やるべきことは考えずとも身に染みて解っている。しかし、兄への情愛がそれを困難にさせた。
「ダメだ……縁花。天哥々を殺すなんて……絶対にダメだ。天哥々には生きて、幸せになってもらわないとダメなんだよ!」
耀龍は眉間に皺を寄せて目を伏せた。
胸の内の正直な願いは、この情況に即した正しい判断とは言えないものだ。非情に切り捨てられない甘ったれた我が儘みたいな願いだ。優秀な侍従に愛想を尽かされてもおかしくはない。
縁花は地面に片膝を突き、耀龍に頭を垂れた。
「畏まりました、我が君。私は貴方様の剣、貴方様の盾。身命を賭して御下命を果たします」
アキラたちの許へ武装した兵士たちが駆けつけた。
ルフトは耀龍に批判的な視線を向けた。
耀龍は気にした様子はなく、戯けるように首を縮めて見せた。
「床を突き破るなど無茶をするから衛兵がやって来たぞ」
「問題ないよ。オレたちはこの城の主の孫だよ? この城に仕える者が何かできるワケないもの」
そのような打算があったのか、とルフトは納得した。我が儘放題の貴族令息でも流石にそこまで考え無しの阿呆というわけでもないらしい。
衛兵たちは左右に広がって通路を塞いだ。やけに堂々とした侵入者の一行に銃口を向けた。
「武装及びプログラムを解除して地面に伏せろ!」
「貴様らは何者だッ」
縁花が耀龍よりも前に出た。
「下がれ。こちらの方々に武器を向けるな。赫=ニーズヘクルメギル族長が御令息、耀龍様と麗祥様で在られる」
「何だと⁉」
明らかに衛兵たちの顔色が変わった。その名前を聞いて焦るということは、耀龍の思惑が通用するということだ。本当にそうであると信用するまでは武器を下げることはしないだろうが。
衛兵から武器を向けられる緊迫の最中、アキラは何故か鋼鉄の大扉のほうが気になった。
表面上はただの鋼鉄製の扉。しかし、目を凝らすと大扉に張り巡らされた縄が、風もないのに小刻みに振動していた。振動は次第に大きくなり、吊り下げられた獣骨が揺れて擦れ合ってカランカランと鳴った。
ズ……。――大扉が動き出した。
警備兵もこれは予想外だったようで、にわかにざわめいた。
ズズズズ、と重厚な音を立てて大扉はゆっくりと観音開きに開いた。ヒタヒタと素足で歩く男がひとり、扉の向こうから歩み出てきた。
「ウッ!」とルフトが一声呻いて素早くアキラの前に立った。
大扉が開いた途端、目に見えない濃霧のようなネェベルが噴出して通路に充満した。地下とはいえ決して狭くはない空間が一瞬にして埋め尽くされ、噎せ返るようだ。人間であるアキラだから何も感じないが、その場にいる者たちは一様に顔を顰めた。
男は通路へ一歩出て立ち止まった。
完全に静止して言葉を発することもなかった。全員が男に目を奪われ、その場に不気味な沈黙が訪れた。
男の霜髪はとても長く、ストンと通路に滴る。体表はところどころ黒い鱗状のものに覆われ、そうでない箇所も皮膚そのものが青黒い。手も足も爪は獣のように大きく鋭く、石材のような質感の漆黒。鱗に覆われた三叉の長い尾を引きずる。総じて、その風貌は只人ではなかった。
「天哥々……」
麗祥が独り言のようにポツリと零した。
「あれがティエン⁉」
アキラは弾かれたように麗祥を見た。
あれが天尊だとは、絶望するほど会いたいと願った人だとは、にわかには信じられなかった。会いたくて会いたくて、一年振りに目にした姿は、まるで別物。風貌が変わってしまったどころか、最早人間に似た姿をしてはいない。
耀龍と麗祥は表情を険しくし、沈黙して佇む男を注視した。
顔面の半分以上を覆い隠す長い霜髪の隙間から、紫色の光が垣間見えた。あれこそが、一族の長い歴史で最も忌避された象徴――――《邪視》。
「見た目もネェベルの質もかなり変わっちゃったけど、天哥々だよ。ミズガルズで《邪視》の影響が出たときの比じゃない変わり様だ。あのときはたかだか封が不安定になった程度のことだった。でもこれは……」
「《邪視》とはここまで変容するものなのか。これではまるで……」
――本当に、神代の怪物のようではないか!
麗祥は脳裏に過った言葉を呑みこんだ。それは兄を貶めるものだからだ。
「なんてネェベルだ……ッ」
「君たちはネェベルにあまり敏感でないのが功を奏したな。並の感覚では立っていられまい。最早只人のものとは思えない、途轍もない濃度と量だ」
ルフトは頭部に手を当ててを左右に振った。変質した天尊のネェベルが空間に充満してから、気を抜くと軽い眩暈のような感覚に襲われる。
異質で濃密なネェベルに晒されているのは、耀龍や麗祥、縁花も同様だが、彼らはプログラムの扱いに長け、ネェベルの操作や調節を得手としている。集中してしかと意識を保っていた。
「斯様に変わり果て、あれは本当に《雷鎚》といえるのか。話は通じるのか、意思はあるのか」
姉様……、とヴィントがルフトに目線で何やら合図を送った。
ルフトはヴィントの意を汲み取り、観音開きになった大扉の隙間から室内を覗き見た。
薄暗い室内の床に広がる血溜まり。いくつもの首無し死体が転がっているのが見えた。
「野獣に成り果てたか」
ルフトは忌々しげにチッと舌打ちをした。
「ルフト! ヴィント!」と縁花が声を上げた。
次の瞬間、ヴィントの眼前に霜髪の怪物がいた。アキラの傍にいたヴィントは、その場から退くわけにはいかず、防御のために刀剣を構えた。
ジャリィッ! ――黒曜石の如き爪が刀剣ごとヴィントの腕を引っ掻いた。
「くああ……ッ!」
ヴィントの腕から血液が噴き出した。
ルフトはアキラを背中に庇いながら抜刀して後退した。
「アキラ殿を狙うとは! 此奴やはり自我を失ってッ……」
霜髪の怪物が鼻先が触れ合おうかという至近距離に突如現れ、言葉を失した。シーンがコマ落ちしたようだった。知覚できない。とんでもない速さだ。鋭い爪が向かってくるのを視界の端に捉えた。しかし、最早体捌きが追いつかない。
ズドォオンッ! ――霜髪の怪物が吹き飛んだ。
縁花が真横から顔面を殴りつけ、その威力によって吹っ飛ばされて壁に激突した。
――《黒轄》
縁花が発動したプログラムにより、大きな黒いコの字型の物体が生じた。ガジャンッという重厚な音を立てて霜髪の怪物を壁に縫いつけた。
「外へ!」
縁花の言葉に反応し、一行は侵入ルートを一目散に引き返した。ヴィントはアキラを肩に担ぎ上げて走った。負傷はあるが、アキラが自分で全力で走るよりもいくらも速い。
彼奴は必ず追ってくる、そのような確信が全員にあった。彼奴はおそらくアキラを獲物と認識した。理由はまだ明確ではない。しかし、ルフトたちのような武器も持たず、耀龍や麗祥のような強大なネェベルもなく、見るからに最も無害そうなひ弱な少女を、最初に標的にしたのはおそらくそういうことだ。
ヴィントは背後に気配を感じてハッとした。黒い腕が自分の背中へ、アキラへ、向かって伸びてきた。
霜髪の怪物は、如何様にしてかは分からぬが縁花のプログラムによる拘束を脱し、すでにヴィントのすぐ後ろに迫っていた。
ルフトは霜髪の怪物に向かって剣を振った。霜髪の怪物は鎧も纏わぬ素手で、カキンッ、と硬質な音を立てて剣を弾いた。
(刃が通らぬ!)
ルフトの剣は霜髪の怪物に通用しなかったが、ヴィントとの間に間隔ができた。耀龍はその間隔に何重もの〝壁〟を創出した。咄嗟の手段だが、耀龍ほどの練達した業であれば、いくらか足留めにはなるだろう。
足留めしている間に一行は霜髪の怪物を引き離した。
耀龍と麗祥、縁花の三人は、古城から飛び出すと同時に、飛び上がって宙に滞空した。
「天哥々がアキラを襲う理由は何だと思う?」
耀龍は自分たちが出てきた出入り口に視線を固定して麗祥に尋ねた。程なくして霜髪の怪物が姿を現すであろうから注意を怠れなかった。
「姑娘が、天哥々の《オプファル》だからだろう」
「やっぱりソレか」
「《オプファル》は赫にとって生来の封から解放されて本来の力を取り戻す鍵。《邪視》もまた赫の者だ。《オプファル》はさらなる力を得る滋養となり得る」
耀龍や麗祥が古城に近づいても天尊のネェベルを探知できなかったのに、膨大なネェベルが突如として出現したように感じたのは、《オプファル》であるアキラが、あの霜髪の怪物がそれを感知できる範囲内に侵入したからだ。それを切欠に覚醒に至った。
そもそも《邪視》を掌中に収めた枢密院が、ミズガルズに刺客を送りこんでまでアキラを確保しようとしたのは、《邪視》覚醒の起爆剤とする目的だったに違いない。しかし、《邪視》の力を甘く見た所為で凄惨な事態となった。彼らも最新鋭の設備を持ちこみ、可能な限りの安全策を講じたが、古代の地上を制した邪竜の力をたかだかヒトの技術で以て技術によって制御しようなど浅はかな考えだった。
霜髪の怪物が古城の出入り口から出てきた。最初に現れたとき同様に、獣のような姿をしながら咆哮を上げるではなく、人のような姿をしながら言葉をかけるではなく、静かだった。
それ故に、彼奴は人語を解さないのだろうと自然と悟った。神代の邪悪の顕現たる存在に、己以外の生物と意思を取り交わすための言語など不要。
己の圧倒的優位を知っていればこそ、ただただ欲求に純粋だ。栄養を摂取しなければという本能、つまり食欲は生物としてあまりにも根源的な欲求。永い眠りから目覚めたばかりの腹ぺこの怪物が、この上ない栄養を見つけた。この食欲をとめることはできない。
霜髪の怪物は周囲を瞥見したのち、ピタリと目を留めた。
アキラは霜髪の怪物と目が合った気がしてギクッとした。
(あれが本当にティエン……?)
長い霜髪に隠されて人相は分からない。声を発することもない。そうでなくとも、肌の色も肉体の形状も異なる。ネェベルを感知することのできないアキラには、同一人物である確信が持てなかった。
ルフトはヴィントにアキラを守るように言い置き、霜髪の怪物に飛びかかった。
無論、ルフトが全力で斬りかかっても刃はことごとく鱗状の皮膚に弾かれた。徐々に刃毀れしてゆく刀身に気づいていながらも声を上げて振り回し続けた。
自身の力量ではこの怪物に通用しないことは分かり切っていた。しかし、アキラを守ると決めた以上、退くことはできなかった。
縁花がルフトの背後に現れた。腰元から刀剣を引き抜きつつ、ルフトの後ろ襟刳りを掴んで後方へ放り投げた。直後に自分の刀剣をルフトに向かって投擲した。ルフトは軽やかに着地し、飛んできた縁花の刀剣の柄を掴み取った。
縁花は霜髪の怪物に一歩深く踏みこんで大きく息を吸いこんだ。全身に力を充足させ、丸太のような剛腕を打ち出した。
ズドドォォオオンッ‼
霜髪の怪物は吹き飛んで樹木にぶち当たり、その樹木は真っ二つに折れた。縁花の拳の凄まじい威力によって樹木を何本か薙ぎ倒し、一際大きな巨木でようやく停止した。
縁花は霜髪の怪物に対して手を突き出した。光球が出現し、それを目にした麗祥はギョッとした。それは通常の大きさを遙かに超えていた。あれを真面に喰えば、腕でも足でも吹き飛んでしまう。
――《変則跳弾》
光球はランダムな軌道を描いて霜髪の怪物に直撃した。巨木が燃え上がって濛々と煙が立ち上った。
耀龍と麗祥は地面に降り立って縁花に近づいた。
特に麗祥は縁花に詰め寄った。
「縁花、貴様正気か! 相手は天哥々なのだぞ!」
「いけません、麗祥様。あれに手心を加えようなどと考えられては。それをしてよい相手ではありません」
しかし……、と食い下がろうとした麗祥に対して、縁花はルフトとヴィントを指差して示した。
彼らは明確に臨戦態勢だった。武器を握り締め、決してアキラの傍から離れず、霜髪の怪物に対して警戒を解いてはいなかった。最早、彼奴は敵であると認定していた。彼らは小手先の業よりも本能や感覚に頼る。逸早く霜髪の怪物の危険性を察知した。
「彼らはあれが危険なものであるとすでに理解しています。貴方方もお早く判断をなさるべきです。耀龍様、お心をお決めください」
「それは……?」
「《邪視》が覚醒したからには、かつての兄君とは最早別物とお考えください。生身でありながら刀剣も弾丸も通用しません。言語が通じず情理も通じず、説得も交渉もできません。耀龍様や麗祥様のお力やお立場を以てしても御すことはできますまい。あれは危険です。明確な脅威なのです。それが何であれ、御身の脅威は徹底的に排除します」
「それは、オレに天哥々を殺せって命じろってこと?」
耀龍は弾かれたように顔を上げて縁花を見上げた。
侍従という生業は、誰であれ貴人を尊ぶのは当然であり、命令がなくとも成り行き上、主人以外の者の安全を守ることもある。しかし、縁花の主人は耀龍だ。本来、主人には従者の行動のすべてを決定する権利がある。否、それは義務だ。主人らしく、貴人らしく、身分と血統とに相応しく振る舞わねばならない。矜持を持って賢明な判断をし、命令を下さねばならない。
「縁花、貴様!」と麗祥は激昂した。
「たかが侍従が天哥々を害そうなど許されるものかッ」
「如何にも。私は耀龍様の侍従。私の主人は耀龍様だけ。耀龍様のみに従います」
縁花は耀龍に対して身体の正面を向けた。
「どうぞ御命令ください」
命令することに慣れているはずの耀龍が、躊躇した。
耀龍の知る限り、縁花は侍従として最高傑作だ。命令を下した主人を満足させなかったことは、未だかつてただの一度たりともない。耀龍の兄であれ父であれ、耀龍の命令があれば敵対することも辞さない。そのような秀逸な下僕に二心なく仕えられるには、犀利な主人で在らねばならない。主人として相応しい人物であると証明しなければならない。
耀龍は生まれながらの高貴な身分。やるべきことは考えずとも身に染みて解っている。しかし、兄への情愛がそれを困難にさせた。
「ダメだ……縁花。天哥々を殺すなんて……絶対にダメだ。天哥々には生きて、幸せになってもらわないとダメなんだよ!」
耀龍は眉間に皺を寄せて目を伏せた。
胸の内の正直な願いは、この情況に即した正しい判断とは言えないものだ。非情に切り捨てられない甘ったれた我が儘みたいな願いだ。優秀な侍従に愛想を尽かされてもおかしくはない。
縁花は地面に片膝を突き、耀龍に頭を垂れた。
「畏まりました、我が君。私は貴方様の剣、貴方様の盾。身命を賭して御下命を果たします」
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Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
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