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Kapitel 02
神代の邪竜 01
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翌日。アキラの部屋から一番近い中庭。
カンッ、カンッ、ガァンッ。――晴天の下、硬質な打撃音が何度も鳴った。
ルフトとヴィント、縁花は二対一で木剣を使用して打ち合った。耀龍が縁花に、ルフトとヴィントに稽古をつけろと命じたからだ。
アキラと耀龍は、それを中庭のガゼボから見守った。テーブルの上には侍女が用意してくれた紅茶。耀龍は優雅にティーカップを傾けるが、アキラは木剣を振り回す三人が心配でそれどころではなかった。刃が無いから落命するような事態はそうそう起こり得まいが、木剣でも真面に浴びせられれば無傷では済むまい。
縁花は片腕では握り拳を作って腰の上に置き、もう一方の腕で木剣を振るった。対するルフトとヴィントは縁花に全力で向かった。ふたりは素早い動きでさまざまな角度から打ちこんで翻弄しようとするが、縁花は呼吸ひとつ乱さず正確に応対した。
稽古が一段落したあと、縁花は耀龍の下へやって来た。やはり呼吸に乱れはなく汗の玉ひとつ浮かんでいなかった。
「どう? 彼らは使えそう?」
耀龍は縁花に尋ねた。
アキラは耀龍が何気なく零した言葉に反応してジロッと彼を睨んだ。
耀龍は、おっとと咄嗟にアキラから顔を背けた。発言にはまったく以て悪気も他意も無かった。むしろ、アキラの身の安全を配慮しての発言だった。人の上に立ち、人を使うことが、あまりにも当たり前すぎて、アキラの気に障らない言い方を見つけることは、ほんの少し難しい。
「少々経験不足ですが、大隊長のお命を狙うだけあって訓練自体はよく積んでいるようです。センスは悪くございません。このまま訓練と実戦を重ねればよい戦士となるでしょう」
ですが、と縁花は話を続けた。
「姑娘の護衛にはすでに充分な実力です。これ以上の戦闘技術は彼らには不要かと」
「どうして? 強ければ強いに越したことないじゃない」
「彼らはこれから先の生涯をミズガルズで過ごします。戦士になる必要などないのです」
耀龍は小首を傾げた。反論や疑問を口にすることこそなかったが、縁花の進言を理解できなかったのは明らかだった。
耀龍は他者の感情や思惟を推察するのが不得手だ。縁花のあの遺民の姉弟への思い遣りは、アキラのほうが察知した。
「……だってさ。ルフトさんとヴィントさんに無理なことさせないで」
耀龍は声のほうへ顔を向けた。アキラが少々頬を膨らませていた。
「まだ怒ってる? ルフトのケガは治したから許してよ」
「許さないよ。次に同じことしたら絶対に許さない」
「アキラは優しいね。一度は許してくれるもの」
プイッと顔を逸らしたアキラの仕草を、耀龍はフフフと笑った。
「アキラとギンタのそういうところ、オレは好きだよ」
耀龍は腰掛けから立ち上がった。またあとでね、と手を振ってその場を後にした。
ルフトとヴィントは、中庭の草の上に四肢を突いて背や肩を大きく上下させた。ふたりとも顔面も全身も汗でぐっしょりだった。ぽたたっ、と玉のような汗が地面に突いた手の甲に落ちた。
「バケモノか、ユェンファ殿は……! いくらニーズヘクルメギルの侍従とはいえ腕が立ちすぎる。並の戦士では足元にも及ばん」
彼らは、縁花が経験不足と評したとおり、戦士というものを多くは知らない。最もよく知る戦士のひとりはヒンメルだ。彼は誇り高く剛健であり、一族のなかで屈指の戦士だ。一族の外へ出たとて、その辺の腕自慢などものともしない勇猛な戦士だ。しかし、縁花がそのヒンメルとも段違いの実力であることを身を以て知った。
ヴィントは先に立ち上がってルフトに手を差し出した。ルフトはその手を取って地面から立ち上がった。
「姉様。お怪我の具合は如何ですか」
「大事ない。ヤオロン殿が手ずから治してくださった。傷痕もない。プログラムの腕はかなりのものだ。ただのいけ好かない貴族令息というわけではないらしい。流石はニーズヘクルメギルの令息、《雷鎚》の実弟といったところだ」
ルフトは自分の腕を摩った。
その肌の上に昨日受けた切り傷や打ち身はなく、動かしても痛みは一切無かった。顔面の傷も跡形もなく消えた。自身の回復能力を遙かに凌駕したものだ。
「《雷鎚》と対したときにヤツとの実力差は思い知ったが、ユェンファ殿に稽古をつけていただいて己の力不足を痛感した。昨夜のように令嬢の従者相手に手こずるようではアキラ殿にご安心いただくのは難しい。まったく、主人に案じられるなど情けない」
「昨夜のアキラ殿は…………姉様を心から案じてくださいました。我らの世話をしてくださったときから心優しい方だと思っていましたが、あのようにお心を砕いてくださるとは」
ルフトは、うん、と頷いてヴィントを見た。
ヴィントの眼差しはアキラへ向いていた。
「私はあの方に尽くしてお守りしたいと、心から思います」
耀龍と縁花が立ち去り、アキラはルフトとヴィントへと近づいた。心配そうにふたりをさまざまな角度から観察して「大丈夫ですか?」と顔を覗きこんだ。
ルフトとヴィントは顔を見合わせてフッと笑みを零した。
「我らのことよりもご自分のことです、アキラ殿」
ルフトは耀龍が歩いていった方角へと目線を向けた。
「あの男は我ら異種族は勿論、ほかの貴族も道具のように思っているに違いありません。今はアキラ殿を庇護しておりますが《雷鎚》のためならばきっと、アキラ殿を犠牲にすることも厭いません。あの男を信用してはなりませんよ」
「それでいいんですよ」とアキラは、何だそんなことか、とでも言うように笑った。
ルフトとヴィントは、アキラの言葉の意味が分からず眉根を寄せた。
「ロンはティエンの味方。ティエンを探すのに本気になってくれる。わたしを守ってくれるのがティエンのためで、それでもしかしたら困ってるかもしれないティエンを助けられるなら、それでいいんです」
意味を理解したら胸がざわついた。天尊のためなら自身はどうなってもよいと言っているように聞こえた。自分が何者になるかもまだ知らない、何者にでもなれるはずの、年端もゆかない少女が、自分を価値の低いもののように言うなんて悲哀だ。それを幸運なことであるかのような口振りで語るのは悲劇だ。
――たとえ、どのように価値あるもののためであっても、天上の貴人のためであっても、誰かが易々と犠牲になって踏み躙られてよいことなどあるものか。
「そのようなことを考えられてはいけません」
ヴィントは思わず心根を口にしてしまった。
アキラの視線がはたとかち合い、ヴィントは気まずそうにパッと目を逸らした。
「いけません、絶対に……」
§ § § § §
耀龍は館の廊下を歩いている最中、麗祥の使用人から呼び止められた。
「耀龍様。老爺から御言葉を預かってございます」
「麗から?」
麗祥からの言伝は、速やかに私室を訪れるようにとのことだった。私事の言伝を頼む使用人の耳にも入れたくない用事、兄弟で顔を突き合わせてしか話せない内容なのだと、耀龍はすぐに察した。
耀龍は麗祥の館を訪れた。麗祥の私室へ入るとすぐに人払いがされ、室内は兄弟ふたりと縁花のみとなった。
「麗。わざわざ呼び出すなんて何の用? 用があるなら使用人に言えばいいのに」
耀龍は軽口を叩いたが、目付きはいつもとは異なった。麗祥は大した意味もなく私室に人を呼びつけるような人柄ではない。麗祥が自分を呼び出した意味の重大性を理解していた。さあ来るなら来いと、期待さえあった。
「言えるわけがあるまい。族長の部屋を盗み聞きしているなど」
麗祥は腕組みをしてフンッと鼻先で笑った。
その態度にはもう、一族最大の権力者である族長への、実の父と兄への遠慮は無かった。敬愛する兄・天尊を助けるためには何も厭わないと腹をくくった。
「進展があったの?」
「ああ。それもおそらく、核心だ」
核心、そう言われては当然に耀龍の瞳はキラリと輝いた。
暉曄宮・族長私室の前室。
かつて、耀龍と麗祥が赫暁を待ち構えた部屋だ。室内には、族長・赫暁と腹心の右腕にして長子・赫一瑪だけ。侍女も茶を用意させたきり退室させた。ふたりは大理石のような光沢のある石製の応接テーブルを挟んで対面して座していた。
赫暁は白い湯気が立ち上る蓋碗を持ち上げて口を付けた。
「枢密院に何か動きはあったか」
「いいえ、一向に。耀龍が天尊の《オプファル》を手厚く保護していることも一因かと」
ふむ、と赫暁は小さな嘆息を漏らして蓋碗をテーブルの上に戻した。
「膠着状態だな。このままでは埒が明かん。そろそろこちらから揺さ振ってみるか」
「枢密院を安易に刺激することは得策ではありません。枢密院には――」
「先代がいる。だが、それがどうした」
赫一瑪が赫暁の顔を見ると、父は口角を引き上げてニヤリと笑みを湛えた。
それがどうしたとは、不遜な言葉だ。赫暁もそれは理解している。当代の族長であれ、かつて長であった者を軽視することはすべきではない。その長を戴いた歴代の先達たちから反発を招きかねない。ましてや、先代族長は、赫=ニーズヘクルメギルの長の座こそ譲ったが、枢密院で手腕を振るい巨大な権力を有する。当代族長にして実の息子である赫暁すら、決して軽んじてはならない人物だ。
しかしながら、赫一瑪は父を諫めることはなかった。赫暁は事実、尊大な男だ。他者が諫めたところで聞き入れるはずがない。
「……そもそも何故、枢密院が天尊を? アレは枢密院直属です。アレに何かをやらせたければ命令を下せばそれで済むはず」
「ヤツらが欲しいのは、三本爪飛竜騎兵大隊大隊長殿でなく、エインヘリヤル少佐殿でなく、《邪視》だ」
「先代が《邪視》を欲すると?」
先代族長が《邪視》を、それを有する天尊を、自身の系譜に連なる孫を、忌避し、侮蔑し、冷遇したことは一族中が知っている。無論、赫一瑪も。
「枢密院は有力貴族や軍閥貴族の長や、それに近い者によって構成される。とうの昔に戦線を退いた、もしくは実戦を経ることなくその座に就いた、つまり戦線から縁遠い年嵩共の集まりよ。大戦が終結し、戦火が縮小し、平時の運用では自ずとその影響力は小さくなる。エインヘリヤルの上部組織とはいえ、一部からの反発は免れん。絶大な権力を揮い続けるためには、反発を抑えこめる強力な懐刀が欲しいところだ」
「《邪視》をその懐刀とするつもりだと?」
「強欲なクソ親父は華々しい飛竜の部隊では不足らしい。いや、それにしたって俺が揃えたのが気に入らんのかもしらんが」
赫暁は背凭れに背中を預けて忌々しげに眉を引き上げた。
「まったく。おとなしく所領に引き籠もればいいモンを。引き際を知らねェ老い耄れが」
麗祥は盗み聞いた父と兄の会話の仔細を耀龍に話した。
それはまさに核心だった。麗祥と耀龍が知りたがった天尊の居場所に繋がる大きな手掛かりだ。族長の会話を盗聴するという、息子でも罰せられるて余りある危険を冒して得た成果だ。
しかしながら、耀龍の感情は歓喜よりも憤慨だった。
「天哥々を捕らえているのは枢密院。つまり、首謀者は御祖父様だ」
「ずっと冷遇してきたくせに、利用価値があるから道具にしようなんて……ッ」
「御祖父様ならおかしくはない。厳格で冷徹で、何より合理的な御方だ。何であれ価値を見出せば利用なさる。御自分の孫であろうと」
麗祥は耀龍と比較して冷静だった。冷静な脳で、事は重大になり深刻さを増したことを理解した。
枢密院、赫=ニーズヘクルメギルの先代族長が《邪視》を確保したということは、エインヘリヤルが軍人ひとりを隠匿しているなどという単純な話ではない。上部組織としての権力のみではなく、何処にも対抗しうる実効的武力を手にしたということだ。
「それにしても厄介なことになった。御祖父様が首謀者とは。御祖父様と敵対することは、或る意味エインヘリヤルと敵するより手強い。だからこそ父様も首謀者が分かっていながら手出しなさらなかったのだろう」
「敵が誰かなんて関係ない」
耀龍はハッキリと言葉にした
「天哥々をこのままにしておけないんだからさ、オレたちでどうにかするしかないんだよ」
麗祥は耀龍の目に強い意志を感じた。何物をも恐れない、全身全霊を懸ける、揺るぎない決意。子どもっぽく自覚の足りない弟だったのに、肩を並べて背中を預けたい仲間たる頼もしさを感じた。
「うむ。そうだ。確かにそうだ。私たちでお助けしなければ」
そこからはふたりとも冷静だった。すべきことは明白になった。目の前にすべきことがあるのに動揺したままでいるほど愚昧ではない。聡明な頭脳をフル回転させて考えつく限りの可能性を挙げ、手を尽くして調査し、推理した。
「枢密院が確保しているといっても一体どこに。父様は地下独居房じゃないと言ってた」
「枢密院が下部組織への対抗手段として《邪視》を確保したいなら、現段階ではまだ存在を隠匿しておきたいはず。公的施設とは考えにくい。《邪視》を拘束できるほどの設備のある施設など使用したら記録が残る」
「《邪視》を隠匿する施設……。赫に縁のある土地じゃないかな」
「しかし、赫の領内なら父様が気づく。……御祖父様の所領か」
耀龍と麗祥は顔を見合わせてコクンと頷いた。それはふたりとも異論の無い結論だった。
耀龍は手の平を上に向けた。空間に仮想ディスプレイが浮上した。そこには地名のリストとマップ。
麗祥は腕組みをしてディスプレイを眺めた。
「御祖父様の所領のうち、過去一年程度で何か異変はないか」
麗祥から尋ねられ、耀龍はコクンと頷いた。仮想ディスプレイに数カ所指を翳し、リストやマップが忙しなく変化した。
「長年、使用人が数人暮らしているだけの廃れた古城がある。約一年前にちょっと大きな熱反応の移動があった。たぶん、隊列。いや、行列かな。今もそこまで多くはないけど頻繁に人の出入りがある。明らかに使用人の数より多い。出入りしているのが何者かは現時点では分からないけど、一年以上前とは何かしら情況が変わったのは確かだ」
「御祖父様の所領の主だった施設で、ほかにこんな変化があったところはないな。では、おそらくここだ。――――ラタトクス城」
カンッ、カンッ、ガァンッ。――晴天の下、硬質な打撃音が何度も鳴った。
ルフトとヴィント、縁花は二対一で木剣を使用して打ち合った。耀龍が縁花に、ルフトとヴィントに稽古をつけろと命じたからだ。
アキラと耀龍は、それを中庭のガゼボから見守った。テーブルの上には侍女が用意してくれた紅茶。耀龍は優雅にティーカップを傾けるが、アキラは木剣を振り回す三人が心配でそれどころではなかった。刃が無いから落命するような事態はそうそう起こり得まいが、木剣でも真面に浴びせられれば無傷では済むまい。
縁花は片腕では握り拳を作って腰の上に置き、もう一方の腕で木剣を振るった。対するルフトとヴィントは縁花に全力で向かった。ふたりは素早い動きでさまざまな角度から打ちこんで翻弄しようとするが、縁花は呼吸ひとつ乱さず正確に応対した。
稽古が一段落したあと、縁花は耀龍の下へやって来た。やはり呼吸に乱れはなく汗の玉ひとつ浮かんでいなかった。
「どう? 彼らは使えそう?」
耀龍は縁花に尋ねた。
アキラは耀龍が何気なく零した言葉に反応してジロッと彼を睨んだ。
耀龍は、おっとと咄嗟にアキラから顔を背けた。発言にはまったく以て悪気も他意も無かった。むしろ、アキラの身の安全を配慮しての発言だった。人の上に立ち、人を使うことが、あまりにも当たり前すぎて、アキラの気に障らない言い方を見つけることは、ほんの少し難しい。
「少々経験不足ですが、大隊長のお命を狙うだけあって訓練自体はよく積んでいるようです。センスは悪くございません。このまま訓練と実戦を重ねればよい戦士となるでしょう」
ですが、と縁花は話を続けた。
「姑娘の護衛にはすでに充分な実力です。これ以上の戦闘技術は彼らには不要かと」
「どうして? 強ければ強いに越したことないじゃない」
「彼らはこれから先の生涯をミズガルズで過ごします。戦士になる必要などないのです」
耀龍は小首を傾げた。反論や疑問を口にすることこそなかったが、縁花の進言を理解できなかったのは明らかだった。
耀龍は他者の感情や思惟を推察するのが不得手だ。縁花のあの遺民の姉弟への思い遣りは、アキラのほうが察知した。
「……だってさ。ルフトさんとヴィントさんに無理なことさせないで」
耀龍は声のほうへ顔を向けた。アキラが少々頬を膨らませていた。
「まだ怒ってる? ルフトのケガは治したから許してよ」
「許さないよ。次に同じことしたら絶対に許さない」
「アキラは優しいね。一度は許してくれるもの」
プイッと顔を逸らしたアキラの仕草を、耀龍はフフフと笑った。
「アキラとギンタのそういうところ、オレは好きだよ」
耀龍は腰掛けから立ち上がった。またあとでね、と手を振ってその場を後にした。
ルフトとヴィントは、中庭の草の上に四肢を突いて背や肩を大きく上下させた。ふたりとも顔面も全身も汗でぐっしょりだった。ぽたたっ、と玉のような汗が地面に突いた手の甲に落ちた。
「バケモノか、ユェンファ殿は……! いくらニーズヘクルメギルの侍従とはいえ腕が立ちすぎる。並の戦士では足元にも及ばん」
彼らは、縁花が経験不足と評したとおり、戦士というものを多くは知らない。最もよく知る戦士のひとりはヒンメルだ。彼は誇り高く剛健であり、一族のなかで屈指の戦士だ。一族の外へ出たとて、その辺の腕自慢などものともしない勇猛な戦士だ。しかし、縁花がそのヒンメルとも段違いの実力であることを身を以て知った。
ヴィントは先に立ち上がってルフトに手を差し出した。ルフトはその手を取って地面から立ち上がった。
「姉様。お怪我の具合は如何ですか」
「大事ない。ヤオロン殿が手ずから治してくださった。傷痕もない。プログラムの腕はかなりのものだ。ただのいけ好かない貴族令息というわけではないらしい。流石はニーズヘクルメギルの令息、《雷鎚》の実弟といったところだ」
ルフトは自分の腕を摩った。
その肌の上に昨日受けた切り傷や打ち身はなく、動かしても痛みは一切無かった。顔面の傷も跡形もなく消えた。自身の回復能力を遙かに凌駕したものだ。
「《雷鎚》と対したときにヤツとの実力差は思い知ったが、ユェンファ殿に稽古をつけていただいて己の力不足を痛感した。昨夜のように令嬢の従者相手に手こずるようではアキラ殿にご安心いただくのは難しい。まったく、主人に案じられるなど情けない」
「昨夜のアキラ殿は…………姉様を心から案じてくださいました。我らの世話をしてくださったときから心優しい方だと思っていましたが、あのようにお心を砕いてくださるとは」
ルフトは、うん、と頷いてヴィントを見た。
ヴィントの眼差しはアキラへ向いていた。
「私はあの方に尽くしてお守りしたいと、心から思います」
耀龍と縁花が立ち去り、アキラはルフトとヴィントへと近づいた。心配そうにふたりをさまざまな角度から観察して「大丈夫ですか?」と顔を覗きこんだ。
ルフトとヴィントは顔を見合わせてフッと笑みを零した。
「我らのことよりもご自分のことです、アキラ殿」
ルフトは耀龍が歩いていった方角へと目線を向けた。
「あの男は我ら異種族は勿論、ほかの貴族も道具のように思っているに違いありません。今はアキラ殿を庇護しておりますが《雷鎚》のためならばきっと、アキラ殿を犠牲にすることも厭いません。あの男を信用してはなりませんよ」
「それでいいんですよ」とアキラは、何だそんなことか、とでも言うように笑った。
ルフトとヴィントは、アキラの言葉の意味が分からず眉根を寄せた。
「ロンはティエンの味方。ティエンを探すのに本気になってくれる。わたしを守ってくれるのがティエンのためで、それでもしかしたら困ってるかもしれないティエンを助けられるなら、それでいいんです」
意味を理解したら胸がざわついた。天尊のためなら自身はどうなってもよいと言っているように聞こえた。自分が何者になるかもまだ知らない、何者にでもなれるはずの、年端もゆかない少女が、自分を価値の低いもののように言うなんて悲哀だ。それを幸運なことであるかのような口振りで語るのは悲劇だ。
――たとえ、どのように価値あるもののためであっても、天上の貴人のためであっても、誰かが易々と犠牲になって踏み躙られてよいことなどあるものか。
「そのようなことを考えられてはいけません」
ヴィントは思わず心根を口にしてしまった。
アキラの視線がはたとかち合い、ヴィントは気まずそうにパッと目を逸らした。
「いけません、絶対に……」
§ § § § §
耀龍は館の廊下を歩いている最中、麗祥の使用人から呼び止められた。
「耀龍様。老爺から御言葉を預かってございます」
「麗から?」
麗祥からの言伝は、速やかに私室を訪れるようにとのことだった。私事の言伝を頼む使用人の耳にも入れたくない用事、兄弟で顔を突き合わせてしか話せない内容なのだと、耀龍はすぐに察した。
耀龍は麗祥の館を訪れた。麗祥の私室へ入るとすぐに人払いがされ、室内は兄弟ふたりと縁花のみとなった。
「麗。わざわざ呼び出すなんて何の用? 用があるなら使用人に言えばいいのに」
耀龍は軽口を叩いたが、目付きはいつもとは異なった。麗祥は大した意味もなく私室に人を呼びつけるような人柄ではない。麗祥が自分を呼び出した意味の重大性を理解していた。さあ来るなら来いと、期待さえあった。
「言えるわけがあるまい。族長の部屋を盗み聞きしているなど」
麗祥は腕組みをしてフンッと鼻先で笑った。
その態度にはもう、一族最大の権力者である族長への、実の父と兄への遠慮は無かった。敬愛する兄・天尊を助けるためには何も厭わないと腹をくくった。
「進展があったの?」
「ああ。それもおそらく、核心だ」
核心、そう言われては当然に耀龍の瞳はキラリと輝いた。
暉曄宮・族長私室の前室。
かつて、耀龍と麗祥が赫暁を待ち構えた部屋だ。室内には、族長・赫暁と腹心の右腕にして長子・赫一瑪だけ。侍女も茶を用意させたきり退室させた。ふたりは大理石のような光沢のある石製の応接テーブルを挟んで対面して座していた。
赫暁は白い湯気が立ち上る蓋碗を持ち上げて口を付けた。
「枢密院に何か動きはあったか」
「いいえ、一向に。耀龍が天尊の《オプファル》を手厚く保護していることも一因かと」
ふむ、と赫暁は小さな嘆息を漏らして蓋碗をテーブルの上に戻した。
「膠着状態だな。このままでは埒が明かん。そろそろこちらから揺さ振ってみるか」
「枢密院を安易に刺激することは得策ではありません。枢密院には――」
「先代がいる。だが、それがどうした」
赫一瑪が赫暁の顔を見ると、父は口角を引き上げてニヤリと笑みを湛えた。
それがどうしたとは、不遜な言葉だ。赫暁もそれは理解している。当代の族長であれ、かつて長であった者を軽視することはすべきではない。その長を戴いた歴代の先達たちから反発を招きかねない。ましてや、先代族長は、赫=ニーズヘクルメギルの長の座こそ譲ったが、枢密院で手腕を振るい巨大な権力を有する。当代族長にして実の息子である赫暁すら、決して軽んじてはならない人物だ。
しかしながら、赫一瑪は父を諫めることはなかった。赫暁は事実、尊大な男だ。他者が諫めたところで聞き入れるはずがない。
「……そもそも何故、枢密院が天尊を? アレは枢密院直属です。アレに何かをやらせたければ命令を下せばそれで済むはず」
「ヤツらが欲しいのは、三本爪飛竜騎兵大隊大隊長殿でなく、エインヘリヤル少佐殿でなく、《邪視》だ」
「先代が《邪視》を欲すると?」
先代族長が《邪視》を、それを有する天尊を、自身の系譜に連なる孫を、忌避し、侮蔑し、冷遇したことは一族中が知っている。無論、赫一瑪も。
「枢密院は有力貴族や軍閥貴族の長や、それに近い者によって構成される。とうの昔に戦線を退いた、もしくは実戦を経ることなくその座に就いた、つまり戦線から縁遠い年嵩共の集まりよ。大戦が終結し、戦火が縮小し、平時の運用では自ずとその影響力は小さくなる。エインヘリヤルの上部組織とはいえ、一部からの反発は免れん。絶大な権力を揮い続けるためには、反発を抑えこめる強力な懐刀が欲しいところだ」
「《邪視》をその懐刀とするつもりだと?」
「強欲なクソ親父は華々しい飛竜の部隊では不足らしい。いや、それにしたって俺が揃えたのが気に入らんのかもしらんが」
赫暁は背凭れに背中を預けて忌々しげに眉を引き上げた。
「まったく。おとなしく所領に引き籠もればいいモンを。引き際を知らねェ老い耄れが」
麗祥は盗み聞いた父と兄の会話の仔細を耀龍に話した。
それはまさに核心だった。麗祥と耀龍が知りたがった天尊の居場所に繋がる大きな手掛かりだ。族長の会話を盗聴するという、息子でも罰せられるて余りある危険を冒して得た成果だ。
しかしながら、耀龍の感情は歓喜よりも憤慨だった。
「天哥々を捕らえているのは枢密院。つまり、首謀者は御祖父様だ」
「ずっと冷遇してきたくせに、利用価値があるから道具にしようなんて……ッ」
「御祖父様ならおかしくはない。厳格で冷徹で、何より合理的な御方だ。何であれ価値を見出せば利用なさる。御自分の孫であろうと」
麗祥は耀龍と比較して冷静だった。冷静な脳で、事は重大になり深刻さを増したことを理解した。
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「それにしても厄介なことになった。御祖父様が首謀者とは。御祖父様と敵対することは、或る意味エインヘリヤルと敵するより手強い。だからこそ父様も首謀者が分かっていながら手出しなさらなかったのだろう」
「敵が誰かなんて関係ない」
耀龍はハッキリと言葉にした
「天哥々をこのままにしておけないんだからさ、オレたちでどうにかするしかないんだよ」
麗祥は耀龍の目に強い意志を感じた。何物をも恐れない、全身全霊を懸ける、揺るぎない決意。子どもっぽく自覚の足りない弟だったのに、肩を並べて背中を預けたい仲間たる頼もしさを感じた。
「うむ。そうだ。確かにそうだ。私たちでお助けしなければ」
そこからはふたりとも冷静だった。すべきことは明白になった。目の前にすべきことがあるのに動揺したままでいるほど愚昧ではない。聡明な頭脳をフル回転させて考えつく限りの可能性を挙げ、手を尽くして調査し、推理した。
「枢密院が確保しているといっても一体どこに。父様は地下独居房じゃないと言ってた」
「枢密院が下部組織への対抗手段として《邪視》を確保したいなら、現段階ではまだ存在を隠匿しておきたいはず。公的施設とは考えにくい。《邪視》を拘束できるほどの設備のある施設など使用したら記録が残る」
「《邪視》を隠匿する施設……。赫に縁のある土地じゃないかな」
「しかし、赫の領内なら父様が気づく。……御祖父様の所領か」
耀龍と麗祥は顔を見合わせてコクンと頷いた。それはふたりとも異論の無い結論だった。
耀龍は手の平を上に向けた。空間に仮想ディスプレイが浮上した。そこには地名のリストとマップ。
麗祥は腕組みをしてディスプレイを眺めた。
「御祖父様の所領のうち、過去一年程度で何か異変はないか」
麗祥から尋ねられ、耀龍はコクンと頷いた。仮想ディスプレイに数カ所指を翳し、リストやマップが忙しなく変化した。
「長年、使用人が数人暮らしているだけの廃れた古城がある。約一年前にちょっと大きな熱反応の移動があった。たぶん、隊列。いや、行列かな。今もそこまで多くはないけど頻繁に人の出入りがある。明らかに使用人の数より多い。出入りしているのが何者かは現時点では分からないけど、一年以上前とは何かしら情況が変わったのは確かだ」
「御祖父様の所領の主だった施設で、ほかにこんな変化があったところはないな。では、おそらくここだ。――――ラタトクス城」
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