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Kapitel 01
暉曄宮 01
しおりを挟む「さ。そろそろアキラの服を選ぼうか」
耀龍は侍女たちのほうを振り返ってそう言った。
侍女たちは小さく頭を垂れて部屋から出て行った。程なくして戻ってきたらと思ったら、次から次へと衣服や靴を運びこんでアキラの前に並べた。それはアキラの自宅にあるクローゼットの内容量をゆうに超えており、圧巻の風景だった。
色彩豊かな布地が並ぶ。どれも細かな刺繍や色のついた石で装飾され、耀龍の衣服と意匠は似ているが一段と煌びやかだ。キラキラと輝く簪のようなものを手にした侍女もいるが、まさか宝石ではあるまいな。
「立てる?」と耀龍はアキラに声をかけた。
アキラはベッドから降りて自分の足で立った。
「何でこんなに」
「女性の服を選ぶのって楽しいよね」
「楽しいけど限度があるよ。必要最低限でいいの」
「遠慮しないでよ。可愛らしい姑娘を一年間も放っておいた不肖の兄の代わりに弟のオレが償うのは当然のことだから」
「いい、いい、いい。要らないッ」
アキラはぶんぶんっと首を激しく左右に振った。
耀龍にはアキラの遠慮をやや邪魔臭く感じた。彼の身分では、女性ひとりの面倒を見て身支度一式を揃えるくらいは負担の内に入らない。むしろ、それをしないのは彼の沽券に関わる。
「アキラには大層なものに見えるかもしれないけど、ここじゃこれがフツーだよ。オレや麗を見てみてよ。女性物だからオレたちより多少華美になるだけ」
アキラは縁花へと目線を移した。
「本当ですか?」
「僭越ながら、他家の令嬢と比較いたしますと、落ち着いたものばかりかと」
「オレより縁花の言うことを信じるの? ショックだなー」
着の身着のまま連れてこられたアキラには、着替えが必要であることは事実だ。せっかく用意してもらってどれも気に入らないというのも我が儘になる。とにかくどれか選んでしまおう。
並んでいる衣服は見慣れないものであるから、アキラの感性ではどれが自分にそぐうのか判断が付かなかった。色彩や装飾がなるべく控えめなものを選んだ。
「じゃあ、これとこれ……あと、これ」
耀龍はアキラに対してうんうんと頷き、侍女たちのほうへ振り返った。
「似たような雰囲気のものを、必要なだけ見繕って。ほかにも女性に必要なものはすべて用意してよ。キミたちのセンスに任せるから」
「ロン! 最低限でいいんだってばッ」
アキラはイヤイヤと首を横に振ったが、耀龍は上機嫌に笑うばかりで聞き入れてはくれなかった。
§ § § § §
アキラが目を覚ました部屋には、ベッド以外に調度品も一通り揃っていた。テーブルセットや書類机、木製のキャビネット、クローゼット、それに本棚。
着替えが完了したアキラは手持ち無沙汰だった。身体に倦怠感は残るものの、起き上がって室内を歩き回る程度なら疲労はない。本棚の前に立ち、そこに整列した書籍の背表紙を眺めた。一冊手に取ってパラパラとページをめくってみた。
「麗祥様のおいででございます」
耀龍がやって来たときと同じように、侍女のひとりがそう告げた。
麗祥は部屋に入ってきてすぐのところで立ち止まった。
「龍から着替えが済んだ頃だと聞いたので伺った。お邪魔ではないだろうか」
全然、とアキラから返ってきてから本棚に近づいた。
麗祥がアキラの真ん前で足を停め、アキラは少しだけ不安げな顔を見せた。
「変じゃないですか? 普段着てる服と全然違うから、ちゃんとできているか分からなくて」
「いいや。変ではない。ちゃんとできているか、などは君が気にしなくてよい。主人の身支度は侍女の務めだ」
「主人?」
麗祥は部屋の出入り口にいる侍女を見るよう手で促した。
「龍が君のために侍女を何名かつけただろう。君がこの館に滞在する間、彼女たちの主人は君だ。何かあれば命じるとよい」
「そんな、命令するなんて。わたしは何もしてないのに」
「閨閣千金とはそういうものだ」
「?」
麗祥は自分の顎に手を添え、釈然としない表情をするアキラをじっと見詰めた。
彼は紛れもなく有力貴族の令息として生を受け、それ以外の生活をしたことはない。耀龍ほど人間にも詳しくない上に、所謂庶民の暮らしにも疎い。アキラが途惑っているのは、自分との境遇の違いだろうと心得た。
ふむふむと頷いて口を開いた。
「貴人に仕えて満足させることが彼女たちの務めであり生き甲斐だ。そういったものを奪ってはいけない。そして、君を庇護している以上、君の世話の一切に責任を持つのは龍の義務だ。未熟な弟だが、赫の名に恥じぬよう責務を果たさせてやってほしい」
「そういうものですか?」
「そういうものだ」
麗祥は本棚のほうへ目線を移した。
「君は本が好きか?」
いえ、とアキラは咄嗟に応えた。すぐに「そうじゃなくて」と言い直した。
「読書がキライって意味じゃなくて、文字が読めなくて……。こっちの人たちの言ってる言葉は分かるんですけど」
「《ビヴロスト》システムの限界だな。君は人間だから、システムの機能に制限があるのだろう」
「システム……?」
首を捻ったアキラに対し、麗祥はアキラが持っている本に手を差し出した。
「それを見ても?」
「これ、挿絵が多くてキレイだったから」
麗祥はアキラから受け取った本の表紙に目を落とした。
「ああ、昔話の物語だ。よければ私が朗読しよう」
「忙しいんじゃないんですか。ロンがリーさんはお仕事してるって」
「今は休暇中だ。暇を持て余して読書ばかりしている。だから一冊くらい増えても構わないのだよ」
アキラと麗祥はテーブルセットに移動した。
麗祥は侍女たちにお茶を用意するように命じ、テーブルの上に本を広げた。それから、ふたりで本のページに目を落とした。
麗祥は書き連ねられた文字の羅列を指で追いながら読み上げた。麗祥は昔話と言ったが、アキラには何処までが真実で、何処からが創作なのか判断できなかった。大きな牛やたくさんの神さまやドラゴンの話、九つもあるという世界の話、すべてが御伽話のようであり、また、この世界の住人たちがアキラにとっては魔法のような力を揮うことを思えばすべてが起こり得るような気もした。
麗祥の声は、天尊とも耀龍とも異なった。天尊ほど低くなく、耀龍ほど明るい調子でもなく、落ち着いて澄んでいる。聞き心地のよい音声で淀みなく展開される物語に、アキラは自然と聞き入った。ベッドで横になって読み聞かせられたならすぐにでも眠りに落ちたかもしれない。或いは、物語の続きが気になってもっともっととせがんだかもしれない。
初対面のときは、天尊の実弟らしく苛烈な人物だと思ったが、今はとても穏和に見える。そういう一面も持っているのは事実だが、こうして自分の時間を使ってわざわざ本を読み聞かせてくれる親切な姿が本来なのだろうなと思った。
「これ、何て書いてあるんですか? 今までの文字とはなんとなくカタチが違うような」
アキラは古びて茶がかった表面に指先で触れて尋ねた。それは、とある挿絵のページ。挿絵の上に文字の羅列が模様のように走っている。
「大昔の文字だ。神々がかける呪いの言葉」
「呪い……」
戦場でも荒野でも、神々の怒りがお前について回るだろう。
海の上ではいつ果てるともしれぬ風がお前を追いかけるだろう。
どこを彷徨ってもお前は呪いに取り憑かれよう。
身を切るような寒さがお前を追って家のなかに入りこみ、灼熱の暑さがお前を苦しめるだろう。
お前の飼っている家畜は死んでしまい、人々はお前を避けるようになろう。
お前は疫病にかかったように汚らしく、嫌われ者として世の中を渡っていくことになる。
(『北欧のロマン ゲルマン神話』ドナルド・A・マッケンジー)
麗祥は読み上げたあと、蓋碗に口を付けた。侍女たちが用意した茶は、朗読している間にぬるくなっており、喉を湿らすのに丁度よかった。
「今となってはあまり意味の無いものだ。プログラムが確立された時代に〝まじない〟など非効率だ」
「昔はあったんですか、おまじない」
「ああ。今でも残っているものもある。先人の知恵と言ったところかな」
アキラは麗祥が茶を啜るのを眺めた。蓋碗を置くのを待って口を開いた。
「あの……ティエンに会えないのって、お仕事が忙しいからですか? それともほかに何か理由があるんですか?」
「龍からは何か?」
アキラは首を左右に振った。
「わたしには言えないことですか」
「いや、天哥々は現在、消息不明だ」
「えッ⁉」
「驚かせてしまったか。すまない」
「リーさんは落ち着いてますね」
ふむ、と麗祥は一思案してみた。言われてみれば、敬愛する実の兄が行方知れずだというのに、自分でも動揺が少ないように思える。何かがおかしいと思いついていながら、耀龍が言い出すまで行動しようとは思わなかった。天尊がいないという情況に慣れすぎていた。
「天哥々は昔からそういうことが珍しくない方だ。私が物心をつく頃にはすでに軍人だった。軍人にとって命令は絶対だ。どのような危険な前線にでも命じられれば赴く。いつ命を落としてもおかしくはない」
麗祥はアキラのほうへ顔を向けてフッと笑みを見せた。
「しかし、天哥々はどのような死地からも帰っていらした。今回も必ず」
そうですね、とアキラは小さく頷いた。
麗祥は侍女にお茶のおかわりを持ってくるように命じた。
侍女が部屋から出て行き、戻ってくる間、アキラは麗祥の横顔を見詰めた。
「ティエンが前に、家族仲がよくないみたいなことを言ってたんですけど、リーさんもロンも全然そんなことないですね。むしろ、ティエンのこと大好きですよね」
大好き……、と麗祥は復唱し、肩を揺すってフフフッと笑った。彼の日常ではあまり聞かない、直接的で可愛らしい表現だった。
「私たちはそうだな。だが、一族では私たちのような存在のほうが稀なのだよ。赫の血脈は古くから続き、多くの眷属を抱える。その一族・眷属のなかにあって、誰もが天哥々を厚く遇したとは言い難い」
アキラの視線は麗祥に固定されていた。麗祥はそれに説明を促されていると受け取った。
「我が一族で白髪は忌避される」
「髪の色だけで?」
「それは分かりやすい特徴だったからだ。本当に忌避されているのは《邪視》――――。白髪は決まって《邪視》が持つ遺伝形質だ」
「どうしてそれは嫌われるんですか?」
「君も見ただろう、《邪視》の力の片鱗を」
麗祥は素早く答えた。
それから《邪視》の恐ろしさについて語り始めた。
その圧倒的なネェベルと破壊力には、現代プログラムを駆使しても対抗できる術は少ない。《邪視》を持って生まれた者は封殺され、その力は封印されるのが常。ひとたび《邪視》が覚醒すれば、その巨大かつ無尽蔵なネェベルは、持ち主さえ制御できるものではない。理性や自我を失い、本能の儘に破壊の限りを尽くす。誰しもが力に憧れ、求めるものだが、過ぎたる力は自身も周囲をも滅ぼす。《邪視》はまさにそういうものだ。
《邪視》は赫=ニーズヘクルメギルの血族に数代を経て必ず出現する。この世界で随一、光輝と栄華に充ち満ちた一族に、その歴史が続く限り、滅びを迎えるその日まで、ついて回る最大最悪の厄災だ。
それ故に、一族・眷属中が《邪視》を畏怖し、天尊を忌避した。天尊は当代族長の血を受けた実子ではあるが、継承権もなく強力な後ろ盾もない。本来、貴人として尊重される身分であるはずなのに、味方をする者はいなかった。
ただひとり、父親を除いては。
「《邪視》は生涯幽閉かその場で殺される。これはもう掟のようなものだ。しかし、父様はそれをなさらなかった。自由を得る代償として、天哥々は継承権の剥奪、赫の要職に就くことを禁じられ、全身に邪竜封じの法紋を施し、その他にもいくつもいくつも封を重ねがけすることにはなったが」
「《邪視》っていうのは、殺されるほどの……? そんなの……ティエンはただそう生まれついただけでしょ」
「それほどまでに恐るべきものなのだ、《邪視》とは」
麗祥の言葉の端々には諦念があった。恐怖は人の心も頭も鈍らせる。自身のことも世の道理も、まだよく分からない幼子に、誰ひとり慈しみの言葉も救いの手も差し伸べられないくらいに。それを批難することは容易いが、人の心に根づいたものを解消するのは困難だ。結論、どうしようもないことだ。
「天哥々が任務にすべてを懸けておられたのは、それ故にではないかと思う。自身の実力で戦果を上げ、生き延びる道を選ばれた。――――あるいは存在証明」
麗祥は腕組みをして伏し目がちになった。
「《邪視》として生を受けたばかりに、人生を閉ざされ、生命さえ危ぶまれた。そのような環境で、自身の生存を確乎たるものとする手段として戦士として生きるご決断をされた」
――華々しい戦果を。有用で有益な戦果を。誰も無視できない決定的な戦果を。それが、あの人には必要だった。
麗祥はジッとアキラに視線を注いだ。
「何ですか?」
「天哥々のいらっしゃらないところで君にこのような話をしたので、あとから天哥々からお叱りを受けるのではないかと案じている」
「リーさんから聞いたって言わないから安心してください」
アキラは麗祥に笑顔を作って見せた。
「聞けてよかったです。ティエン、つらいことたくさんあっただろうけど……。でも、リーさんやロンは本当にティエンのことが好きなんだって知れたから」
「君もだろう」
「え?」
「君も、天哥々を愛している。心臓を捧げられるほど」
アキラはカーッと赤面した。麗祥から顔を背けて一心不乱にお茶を啜った。
麗祥はその素直な反応を愛らしく感じたが、同時に憐憫を禁じ得なかった。
心臓を捧げるほど愛しているなんて、ロマンティックな台詞だ。しかし、天尊とアキラに限っては悲運だ。比喩ではなく文字どおりの意味なのだから。
愛する人を本当に救おうとしたら、自分の心臓を引き換えにする日も来るのかもしれない。
耀龍は侍女たちのほうを振り返ってそう言った。
侍女たちは小さく頭を垂れて部屋から出て行った。程なくして戻ってきたらと思ったら、次から次へと衣服や靴を運びこんでアキラの前に並べた。それはアキラの自宅にあるクローゼットの内容量をゆうに超えており、圧巻の風景だった。
色彩豊かな布地が並ぶ。どれも細かな刺繍や色のついた石で装飾され、耀龍の衣服と意匠は似ているが一段と煌びやかだ。キラキラと輝く簪のようなものを手にした侍女もいるが、まさか宝石ではあるまいな。
「立てる?」と耀龍はアキラに声をかけた。
アキラはベッドから降りて自分の足で立った。
「何でこんなに」
「女性の服を選ぶのって楽しいよね」
「楽しいけど限度があるよ。必要最低限でいいの」
「遠慮しないでよ。可愛らしい姑娘を一年間も放っておいた不肖の兄の代わりに弟のオレが償うのは当然のことだから」
「いい、いい、いい。要らないッ」
アキラはぶんぶんっと首を激しく左右に振った。
耀龍にはアキラの遠慮をやや邪魔臭く感じた。彼の身分では、女性ひとりの面倒を見て身支度一式を揃えるくらいは負担の内に入らない。むしろ、それをしないのは彼の沽券に関わる。
「アキラには大層なものに見えるかもしれないけど、ここじゃこれがフツーだよ。オレや麗を見てみてよ。女性物だからオレたちより多少華美になるだけ」
アキラは縁花へと目線を移した。
「本当ですか?」
「僭越ながら、他家の令嬢と比較いたしますと、落ち着いたものばかりかと」
「オレより縁花の言うことを信じるの? ショックだなー」
着の身着のまま連れてこられたアキラには、着替えが必要であることは事実だ。せっかく用意してもらってどれも気に入らないというのも我が儘になる。とにかくどれか選んでしまおう。
並んでいる衣服は見慣れないものであるから、アキラの感性ではどれが自分にそぐうのか判断が付かなかった。色彩や装飾がなるべく控えめなものを選んだ。
「じゃあ、これとこれ……あと、これ」
耀龍はアキラに対してうんうんと頷き、侍女たちのほうへ振り返った。
「似たような雰囲気のものを、必要なだけ見繕って。ほかにも女性に必要なものはすべて用意してよ。キミたちのセンスに任せるから」
「ロン! 最低限でいいんだってばッ」
アキラはイヤイヤと首を横に振ったが、耀龍は上機嫌に笑うばかりで聞き入れてはくれなかった。
§ § § § §
アキラが目を覚ました部屋には、ベッド以外に調度品も一通り揃っていた。テーブルセットや書類机、木製のキャビネット、クローゼット、それに本棚。
着替えが完了したアキラは手持ち無沙汰だった。身体に倦怠感は残るものの、起き上がって室内を歩き回る程度なら疲労はない。本棚の前に立ち、そこに整列した書籍の背表紙を眺めた。一冊手に取ってパラパラとページをめくってみた。
「麗祥様のおいででございます」
耀龍がやって来たときと同じように、侍女のひとりがそう告げた。
麗祥は部屋に入ってきてすぐのところで立ち止まった。
「龍から着替えが済んだ頃だと聞いたので伺った。お邪魔ではないだろうか」
全然、とアキラから返ってきてから本棚に近づいた。
麗祥がアキラの真ん前で足を停め、アキラは少しだけ不安げな顔を見せた。
「変じゃないですか? 普段着てる服と全然違うから、ちゃんとできているか分からなくて」
「いいや。変ではない。ちゃんとできているか、などは君が気にしなくてよい。主人の身支度は侍女の務めだ」
「主人?」
麗祥は部屋の出入り口にいる侍女を見るよう手で促した。
「龍が君のために侍女を何名かつけただろう。君がこの館に滞在する間、彼女たちの主人は君だ。何かあれば命じるとよい」
「そんな、命令するなんて。わたしは何もしてないのに」
「閨閣千金とはそういうものだ」
「?」
麗祥は自分の顎に手を添え、釈然としない表情をするアキラをじっと見詰めた。
彼は紛れもなく有力貴族の令息として生を受け、それ以外の生活をしたことはない。耀龍ほど人間にも詳しくない上に、所謂庶民の暮らしにも疎い。アキラが途惑っているのは、自分との境遇の違いだろうと心得た。
ふむふむと頷いて口を開いた。
「貴人に仕えて満足させることが彼女たちの務めであり生き甲斐だ。そういったものを奪ってはいけない。そして、君を庇護している以上、君の世話の一切に責任を持つのは龍の義務だ。未熟な弟だが、赫の名に恥じぬよう責務を果たさせてやってほしい」
「そういうものですか?」
「そういうものだ」
麗祥は本棚のほうへ目線を移した。
「君は本が好きか?」
いえ、とアキラは咄嗟に応えた。すぐに「そうじゃなくて」と言い直した。
「読書がキライって意味じゃなくて、文字が読めなくて……。こっちの人たちの言ってる言葉は分かるんですけど」
「《ビヴロスト》システムの限界だな。君は人間だから、システムの機能に制限があるのだろう」
「システム……?」
首を捻ったアキラに対し、麗祥はアキラが持っている本に手を差し出した。
「それを見ても?」
「これ、挿絵が多くてキレイだったから」
麗祥はアキラから受け取った本の表紙に目を落とした。
「ああ、昔話の物語だ。よければ私が朗読しよう」
「忙しいんじゃないんですか。ロンがリーさんはお仕事してるって」
「今は休暇中だ。暇を持て余して読書ばかりしている。だから一冊くらい増えても構わないのだよ」
アキラと麗祥はテーブルセットに移動した。
麗祥は侍女たちにお茶を用意するように命じ、テーブルの上に本を広げた。それから、ふたりで本のページに目を落とした。
麗祥は書き連ねられた文字の羅列を指で追いながら読み上げた。麗祥は昔話と言ったが、アキラには何処までが真実で、何処からが創作なのか判断できなかった。大きな牛やたくさんの神さまやドラゴンの話、九つもあるという世界の話、すべてが御伽話のようであり、また、この世界の住人たちがアキラにとっては魔法のような力を揮うことを思えばすべてが起こり得るような気もした。
麗祥の声は、天尊とも耀龍とも異なった。天尊ほど低くなく、耀龍ほど明るい調子でもなく、落ち着いて澄んでいる。聞き心地のよい音声で淀みなく展開される物語に、アキラは自然と聞き入った。ベッドで横になって読み聞かせられたならすぐにでも眠りに落ちたかもしれない。或いは、物語の続きが気になってもっともっととせがんだかもしれない。
初対面のときは、天尊の実弟らしく苛烈な人物だと思ったが、今はとても穏和に見える。そういう一面も持っているのは事実だが、こうして自分の時間を使ってわざわざ本を読み聞かせてくれる親切な姿が本来なのだろうなと思った。
「これ、何て書いてあるんですか? 今までの文字とはなんとなくカタチが違うような」
アキラは古びて茶がかった表面に指先で触れて尋ねた。それは、とある挿絵のページ。挿絵の上に文字の羅列が模様のように走っている。
「大昔の文字だ。神々がかける呪いの言葉」
「呪い……」
戦場でも荒野でも、神々の怒りがお前について回るだろう。
海の上ではいつ果てるともしれぬ風がお前を追いかけるだろう。
どこを彷徨ってもお前は呪いに取り憑かれよう。
身を切るような寒さがお前を追って家のなかに入りこみ、灼熱の暑さがお前を苦しめるだろう。
お前の飼っている家畜は死んでしまい、人々はお前を避けるようになろう。
お前は疫病にかかったように汚らしく、嫌われ者として世の中を渡っていくことになる。
(『北欧のロマン ゲルマン神話』ドナルド・A・マッケンジー)
麗祥は読み上げたあと、蓋碗に口を付けた。侍女たちが用意した茶は、朗読している間にぬるくなっており、喉を湿らすのに丁度よかった。
「今となってはあまり意味の無いものだ。プログラムが確立された時代に〝まじない〟など非効率だ」
「昔はあったんですか、おまじない」
「ああ。今でも残っているものもある。先人の知恵と言ったところかな」
アキラは麗祥が茶を啜るのを眺めた。蓋碗を置くのを待って口を開いた。
「あの……ティエンに会えないのって、お仕事が忙しいからですか? それともほかに何か理由があるんですか?」
「龍からは何か?」
アキラは首を左右に振った。
「わたしには言えないことですか」
「いや、天哥々は現在、消息不明だ」
「えッ⁉」
「驚かせてしまったか。すまない」
「リーさんは落ち着いてますね」
ふむ、と麗祥は一思案してみた。言われてみれば、敬愛する実の兄が行方知れずだというのに、自分でも動揺が少ないように思える。何かがおかしいと思いついていながら、耀龍が言い出すまで行動しようとは思わなかった。天尊がいないという情況に慣れすぎていた。
「天哥々は昔からそういうことが珍しくない方だ。私が物心をつく頃にはすでに軍人だった。軍人にとって命令は絶対だ。どのような危険な前線にでも命じられれば赴く。いつ命を落としてもおかしくはない」
麗祥はアキラのほうへ顔を向けてフッと笑みを見せた。
「しかし、天哥々はどのような死地からも帰っていらした。今回も必ず」
そうですね、とアキラは小さく頷いた。
麗祥は侍女にお茶のおかわりを持ってくるように命じた。
侍女が部屋から出て行き、戻ってくる間、アキラは麗祥の横顔を見詰めた。
「ティエンが前に、家族仲がよくないみたいなことを言ってたんですけど、リーさんもロンも全然そんなことないですね。むしろ、ティエンのこと大好きですよね」
大好き……、と麗祥は復唱し、肩を揺すってフフフッと笑った。彼の日常ではあまり聞かない、直接的で可愛らしい表現だった。
「私たちはそうだな。だが、一族では私たちのような存在のほうが稀なのだよ。赫の血脈は古くから続き、多くの眷属を抱える。その一族・眷属のなかにあって、誰もが天哥々を厚く遇したとは言い難い」
アキラの視線は麗祥に固定されていた。麗祥はそれに説明を促されていると受け取った。
「我が一族で白髪は忌避される」
「髪の色だけで?」
「それは分かりやすい特徴だったからだ。本当に忌避されているのは《邪視》――――。白髪は決まって《邪視》が持つ遺伝形質だ」
「どうしてそれは嫌われるんですか?」
「君も見ただろう、《邪視》の力の片鱗を」
麗祥は素早く答えた。
それから《邪視》の恐ろしさについて語り始めた。
その圧倒的なネェベルと破壊力には、現代プログラムを駆使しても対抗できる術は少ない。《邪視》を持って生まれた者は封殺され、その力は封印されるのが常。ひとたび《邪視》が覚醒すれば、その巨大かつ無尽蔵なネェベルは、持ち主さえ制御できるものではない。理性や自我を失い、本能の儘に破壊の限りを尽くす。誰しもが力に憧れ、求めるものだが、過ぎたる力は自身も周囲をも滅ぼす。《邪視》はまさにそういうものだ。
《邪視》は赫=ニーズヘクルメギルの血族に数代を経て必ず出現する。この世界で随一、光輝と栄華に充ち満ちた一族に、その歴史が続く限り、滅びを迎えるその日まで、ついて回る最大最悪の厄災だ。
それ故に、一族・眷属中が《邪視》を畏怖し、天尊を忌避した。天尊は当代族長の血を受けた実子ではあるが、継承権もなく強力な後ろ盾もない。本来、貴人として尊重される身分であるはずなのに、味方をする者はいなかった。
ただひとり、父親を除いては。
「《邪視》は生涯幽閉かその場で殺される。これはもう掟のようなものだ。しかし、父様はそれをなさらなかった。自由を得る代償として、天哥々は継承権の剥奪、赫の要職に就くことを禁じられ、全身に邪竜封じの法紋を施し、その他にもいくつもいくつも封を重ねがけすることにはなったが」
「《邪視》っていうのは、殺されるほどの……? そんなの……ティエンはただそう生まれついただけでしょ」
「それほどまでに恐るべきものなのだ、《邪視》とは」
麗祥の言葉の端々には諦念があった。恐怖は人の心も頭も鈍らせる。自身のことも世の道理も、まだよく分からない幼子に、誰ひとり慈しみの言葉も救いの手も差し伸べられないくらいに。それを批難することは容易いが、人の心に根づいたものを解消するのは困難だ。結論、どうしようもないことだ。
「天哥々が任務にすべてを懸けておられたのは、それ故にではないかと思う。自身の実力で戦果を上げ、生き延びる道を選ばれた。――――あるいは存在証明」
麗祥は腕組みをして伏し目がちになった。
「《邪視》として生を受けたばかりに、人生を閉ざされ、生命さえ危ぶまれた。そのような環境で、自身の生存を確乎たるものとする手段として戦士として生きるご決断をされた」
――華々しい戦果を。有用で有益な戦果を。誰も無視できない決定的な戦果を。それが、あの人には必要だった。
麗祥はジッとアキラに視線を注いだ。
「何ですか?」
「天哥々のいらっしゃらないところで君にこのような話をしたので、あとから天哥々からお叱りを受けるのではないかと案じている」
「リーさんから聞いたって言わないから安心してください」
アキラは麗祥に笑顔を作って見せた。
「聞けてよかったです。ティエン、つらいことたくさんあっただろうけど……。でも、リーさんやロンは本当にティエンのことが好きなんだって知れたから」
「君もだろう」
「え?」
「君も、天哥々を愛している。心臓を捧げられるほど」
アキラはカーッと赤面した。麗祥から顔を背けて一心不乱にお茶を啜った。
麗祥はその素直な反応を愛らしく感じたが、同時に憐憫を禁じ得なかった。
心臓を捧げるほど愛しているなんて、ロマンティックな台詞だ。しかし、天尊とアキラに限っては悲運だ。比喩ではなく文字どおりの意味なのだから。
愛する人を本当に救おうとしたら、自分の心臓を引き換えにする日も来るのかもしれない。
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※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。

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※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
では、お楽しみください。
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