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Kapitel 01

夢現の境界 03

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「え……どこ?」

 いつか何処かで聞いた覚えのある単語。アキラは無意識に聞き返した。

「〝ビヴロストの隔たり〟を越え、アスガルトへ」

 本能的に肌の表面がざわついた。自分の常識など通用しないであろう〝向こう側〟の世界を想像してにわかに恐怖心が湧き上がる。一度足を踏み入れてしまえば戻れない気がする。そこが地獄ではないなんて根拠なく信じられるほど、好奇心が恐怖心に勝るほど、無邪気な楽観主義者ではない。未知のものに対して純粋に恐怖した。

(前にティエンが言ってた気がする。ティエンたちの世界のことだ、たぶん)

 白の心臓はドクッドクッドクッとひとつずつ大きく鼓動を打って体を叩いた。
 白は声が震えそうなのをどうにか制御して口を開いた。

「どうしてわたしがそんなところに行かなくちゃいけないんですか」

「質問は無意味だ。人間エンブラに我々を理解することは不可能」

「何の目的で連れて行かれるのかも分からないで、おとなしく言うこときくわけないでしょッ」

 白は、ジリジリと躙り寄るロングコートの男に向かってスタンガンを真っ直ぐに突きつけた。
 バチバチバチッ。――スタンガンが目映く閃光を放った。
 先ほど一撃を喰らっている男は、警戒して一瞬その場で足を停めた。
 白はその隙を突いてビルとビルとの隙間に逃げこんだ。

 大きな室外機やダクトに阻まれ、人ひとり通るのがようやくの狭い道。真正面に細い光が見える。あれを目指して通り抜ければ大通りに出るはずだ。

「はあッ、はあッ、はあッ……」

 白は障害物に脚や腕をぶつけながらも懸命に前に進んだ。痛がっている暇はない。制服が埃まみれになって汚れても構う余裕はない。少しでも前へ、少しでも遠くへ、あの手の届かないところへ。非日常の入り口に吸いこまれてしまわないように逃れて。

「ぐっ……ぬ!」

 白の少女らしい体格でこそ障害物を避けて通れる。ロングコートの男は大柄な肉体であるが故に難渋だった。白よりも時間をかけざるを得なかった。

 白はビルの壁面と壁面との狭間を縫って進む途中、放置された異形鉄筋を見つけた。廃棄されたものなのか誰か意図を持って安置したものなのか分からない。結束も固定もされておらず、少女の力でも一本くらいは持ち上げられた。
 しかしながら、たとえこれを持って立ち向かったところで万に一つでも勝ち目はない。追っ手は人智を越えた存在。紛れもなく常人である白では、あれを打倒することは到底不可能だ。
 異形鉄筋を一本拾い上げてみたが、やはりズシリと重たかった。振り回すことはできなくはないが、何の武道の心得もないのにこれを得物として戦うことは無謀だ。
 白は持ち上げたそれを地面に突き立てた。グッグッと力いっぱい押し、できる限り深く突き刺した。追っ手が迫るなか、また一本拾い上げ同じように地面に突き刺した。

 白が異形鉄骨から離れて前進を再開すると、すぐに再び牆壁に阻まれた。

「また……ッ」

 ジャリッ、背後から足音が聞こえた。振り返ると当然、ロングコートの男が迫っていた。

「抵抗をするな、ヒキドーアキラ。お前はもう――」

 グンッ。――男は何かにロングコートを引っ張られた。
 足を停めて確認すると、コートの裾が異形鉄筋に引っ掛かっていた。その大きな体躯を捻ってどうにかようやく通れるほど狭い通路で細長いものが出っ張っていれば、くるぶしまである丈長の装束を引っ掛かけやすくなるのは道理だ。
 男はコートを力尽くで引き離そうとし、その瞬間、前方に気配を感じた。
 白はクッと唇を噛んで必死の形相で、男の腕にスタンガンを押しつけてスイッチを入れた。
 バチィンッ! バチバチバチンッ!

「ぐああああッ!」

 男は身体に電流が駆け巡り、苦悶の声を上げた。

「ごめんなさい」

 白はたった一言で許されるわけがないと思いながらも、咄嗟に謝罪が口から突いて出た。自衛のためとはいえ、他者を攻撃することは気が咎める。しかし、こうする以外に牆壁を解除する方法は思いつかなかった。
 男の集中が途切れれば牆壁は消失する。その仮説は正しかった。先ほど牆壁があったらしい箇所を手探りすると、そこにはもう何もなかった。
 白は光に向かって走り出した。一縷の望みのようなものを期待して。此処を抜け出せば大通り。夕暮れの時分とはいえ、大通りに出ればまだ人通りがあるはずだ。
 光に飛びこむように狭い隙間から飛び出した。瞬間、目を細めるほどの眩しさを感じた。
 残念なことに、通りを見渡しても都合良く通行人は見当たらなかった。


 ロングコートの男がビルの隙間から出てきた頃、白はすでに大通りの向こうに渡りきっていた。
 白は男に対して身体の正面を向けた。

「もう、これ以上追ってこないでください」

 そう言われて已めるなら、年端もゆかない非力な少女を埃だらけ傷だらけになるまで追いこみはしない。無論、男は歩みを停めなかった。白に向かって最短距離、直線で近づいた。
 白はロングコートの男を真っ直ぐに見据えてゴクッと生唾を嚥下した。鼓動が一段と激しくなり、肉の壁に叩きつけられているかのように心臓が痛い。
 ――――フ、ァアアンッ!
 中途半端なクラクションの音。
 視界の真ん中に自分を追う男。視界の先端に大型トラックが飛びこんできた瞬間、白は顔を背けた。前髪を掠めるように風が吹き抜けた。
 ドガッシャァアンッッ‼
 大きなものがぶつかった衝撃音。白はビクッと身体を撥ねた。
 この大通りが、信号が青である限り通行車がスピードを出す場所だということを、白は知っている。見ずとも分かる、トラックは白の視界を真っ直ぐに横切ったのだ。進行方向に立つものを撥ね除けて。
 ソッと目を開けた。顔の筋肉はガチリと固まったまま。視界にはもう何も無かった。トラックも男の姿も。夕暮れ時の無人の道路があるだけ。
 白は少々ぎこちない動作でトラックが突き進んでいったであろう方向へ目線を向けた。
 急ブレーキをかけて車線に対して斜めに停車したトラック。運転手らしき中年男性が「おいアンタ」とか「大丈夫か」とか慌てふためいてトラックの前方に走りこんだ。
 異界の住人は魔法のような力を使う、人智を超越した生き物。しかし、人間同様に肉の器に有限の生命を注がれ、苦痛も感情も持ち合わせ、死は等しく訪う。

「……ごめんなさい」

 白には男の生死を確認する勇気はなかった。ほかに術は無かったかと考え出しそうな脳内回路を強制的に停止した。そうするしかなかったのだと自分に言い聞かせる。そうでもしないと罪悪感で居ても立ってもいられない。
 一刻も早くこの場から離れようと、クルッと背を向けて早足で歩き出した。震える手でスカートのポケットからスマートフォンを取り出した。スマートフォンを取り落とさないように両手で支えた。

「ココに連絡……」

「待て。ヒキドーアキラ」

 白は身体ごとバッと振り向いた。
 ロングコートの男が、額を真っ赤に染めてトラックを背にして立っていた。
 片腕をぶら下げ足を引き摺るようにしながらも、一歩一歩ゆっくりと白に近づいてくる。ボトボトッとアスファルトに血が落ちた。

「まだ動けッ……⁉」

 白は信じられないという形相でカタカタと震えた。
 大型トラックと正面衝突してあの程度の負傷で済むなど考えられない。やはり只の人間とはまったく異なる生き物なのだ。白は智力と体力の持てるすべてを出した。思いつく限りの策は尽くした。トラックという運も味方した。しかし危難は去らない。今も変わらずジリジリと躙り寄ってくる。只人である白にこれ以上何ができるというのだ。絶対的強者に、どうやって抗えというのだ。

 ――そんなことは無駄だと頭では解っているのに、今さら助けてと願ってしまう。キミに――――

 白は正直、このとき絶望した。置かれた情況にも自分自身にも。
 眼前の脅威と比較して自身の非力は自覚しているが、いもしないものに縋りついてしまうほど弱いとは思っていなかった。自身をもっと強い人間だと思っていた。日々を努めて平穏に過ごし、ひとりで大抵のことはできると思っていた。事実、今日までそうやって過ごしてきた。だから、本当に自分の力ではどうにもできない事態に陥るとこんなにも安易に何かに縋ろうとするだなんて思いもよらなかった。

(ダメッ……考えて。何とかする方法を今すぐ考えなくちゃ。何かあるはず。じゃないと銀太に……! 銀太のところに早く行かなくちゃ……ッ)

 考えようとすればするほど愛する弟の姿が脳裏に浮かぶ。毎日見ている姿を、今朝見たはずの笑顔を、とても遠く感じる。それは、連れ去られまいと抵抗することを、すでに心が諦めようとしているからなのかもしれない。
 もっと必死になって考えを絞り出せと脳内で自身を叱責した。あの子に会えなくなってしまうなんてダメだ。あの子を失うなんて耐えられない。否、究極的には二度と会えなくなってしまっても構わない。あの子がつらい目や苦しい目に遭わなくて済むのなら。あの子が安全で笑顔で幸福でいられるのなら。
 ――神様。わたしのことはいいから、銀太だけは助けてください!

「停まれ」

 声は、唐突に降ってきた。
 空から頭上へと降り注いだそれは、一方的に命じているにも関わらず穏やかで優しさすら感じた。
 白と追っ手との間に薄黄金色の翼が降り立った。それは夕暮れ時のわずかな陽光を集めて散らし、神々しく光り輝いた。
 白はその大きな双翼に、後ろ姿に、見覚えがあった。こちらに背中を向けていても誰だが分かる。

「ロン……?」

 震える唇から独りでにその名前が零れた。
 地上に降り立った耀龍ヤオロン縁花ユェンファは、一目散に白に寄り添うことはなかった。白に背中を向けてロングコートの男と対峙した。
 男は、突如として登場した自分と同じアスガルトの住人に目を瞠って立ち尽くした。

「ニーズヘクルメギルの若君……? 貴方様がなぜミズガルズに」

「退け」

 耀龍は、困惑する男に向かって素っ気なく命令した。
 それまで何が何だか分からないという様子だった男は、耀龍の意思が自身の任務と相反すると悟った瞬間、表情を硬くした。

「それはできません」

「ここから去れ。その娘に触れることは許さない」

「貴方様が如何にニーズヘクルメギルの若君といえど、承服できかねます。これは私の任務です」

「だろうね」

 耀龍は男に反抗されても気分を害した素振りはなかった。
 対峙している人物が自分の使用人でも眷属でもないことは理解している。一声命じただけで服従するわけがないことは想定の内だ。

「彼女はオレの客人だ」

「若君。何を仰有います……!」

 男がにわかに表情を変えた。耀龍の発言の意図を瞬時に解したということだ。
 それにより、耀龍はこの者は命令に愚直なだけの無能ではないと推量した。だからこそ付け入る隙がある。損得勘定の駆け引きが成り立つ。

「オレはファ=ニーズヘクルメギルの族長の末子にして正統なる嗣子のひとり。このオレの重要な客人だ。貴様、その客人に怪我を負わせたばかりか、あまつさえオレに逆らうつもりか。それが何を意味するか理解しているか、一軍人。貴様だけではなく貴様の上官、部隊、家族、恋人、すべてが不利益を被る覚悟はあるのか。貴様に命を下した者共といえどもオレと敵対することを望まないだろう。この世のどれほどの者がオレと敵対することを選択できるかよく考えよ」

 ロングコートの男は、耀龍の言葉の意味を重々理解し、何も言わず立ち去った。彼は上官にこの場で起こったことを有りの儘に報告するだろう。しかし、そのようなことは耀龍にとっては瑣末な事柄だ。
 耀龍は肩から力を抜いて、はあーあ、と大きな息を吐いた。自由奔放な彼にとって身分に相応しく権力者らしく振る舞うのは、肩肘を張る疲れることだった。

「嫌だなー。こういう風に言うこときかせるの」

ファの嗣子らしい振る舞いでございました」

 縁花は耀龍に向かって頭を垂れた。

「そうやってお坊ちゃま扱いされるのが嫌なんだって。縁花ユェンファは分かってないな」

「貴方様が生まれながらの貴人で在られることは理解しております」

「…………。子ども扱いされた気がする」

 耀龍は不満げに眉をひん曲げた。
 それから、パッと表情を変えて身体ごと白のほうを振り向いた。

「アキラ。大丈夫だった?」

 白は茫然として耀龍を凝視するばかりで、かけられた言葉に反応する余裕はなかった。先ほどの男以上に何が何だか分からなかった。
 耀龍は白の目の前まで近づき、その姿を上から下までジロジロと観察した。

「うん。擦り剥いてるところはあるけど、大きな怪我は無いみたいだね。簡単に手当しよっか」

 柔らかそうな薄褐色の髪の毛、猫睛金緑石クリソベリル・キャッツアイの瞳、端麗な容顔。穏やかな眼差しをして微笑みを湛えた、絵画から抜け出てきたみたいな青年。目の前にいて喋っているのに現実感がない。薄黄金色の翼を背負っているからか、心底助けを求めてしまったからか、自分の脳内が作り出した都合の良い幻想かと疑った。

「本当にロン……?」

「本物だよ。来るのがギリギリになっちゃったね」

 薄黄金色の翼を背負った青年は、無邪気な笑顔を見せた。
 白は耀龍も縁花も本物なのだ、眼前の事象は現実なのだと実感した。するとドッと疲労感が押し寄せてきた。見知った人物の登場によって緊張の糸が切れた。

「何で、今頃……」

 白の身体がぐらり傾いた。言いかけた恨み言を最後まで紡ぐことは叶わず意識が途切れた。
 縁花が素早く腕を伸ばして白を抱き留めた。
 耀龍は、縁花の腕のなかで瞼を閉じた白を覗きこんだ。
 安堵して気を失ってしまうほど気を張っていたのかと思うと気の毒だ。何も持たない華奢な少女がたったひとり、摩訶不思議な力を使う屈強な男に追い詰められ、どれほど恐ろしかっただろう。耀龍には想像することしかできない。否、その想像力も恐怖の実体験には及ぶまい。

「今頃になって……ごめんね」

 耀龍は、危難にたったひとりで立ち向かった傷だらけの少女に向かって謝罪の言葉を口にし、頬に口づけた。
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