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第121話 幕間 未来図を描く

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※シークヴァルド視点


 飛び出していったクライブが予想通りアルフェンルートを連れて帰ってきたのは、随分と日が落ちてからのことだった。
 人目を憚って私の離宮まで馬車で乗り付け、クライブに抱えられて降りたアルフェは私の顔を見るなり息を詰まらせた。私の前に下ろされると所在なさげに身を縮みこませる。多分いつものように「兄様」と呼ぼうとした唇が躊躇ったのが見て取れた。一度は出て行った自分には、そう呼ぶ資格はないとでも思ったのかもしれない。
 いったいおまえは何をしているのか。
 もう少し人を頼るということを考えられないのか。
 そんなに私は頼れる存在ではなかったのか。
 ……そう恨み言混じりの苦言を言いたい気持ちは山程あるものの、実際に口に出たのはそのどれでもなかった。

「あまり心配をかけさせるな」

 手を伸ばし、形のいい小さな頭を胸に引き寄せた。
 アルフェの目元は痛々しいほど赤く染まっており、深い青い瞳はまだ濡れて潤んでいた。泣いたことは一目瞭然。今も必死に堪えているだけで、少しでも気を抜けばアーモンド形の瞳から涙が零れそうに見える。

「……ごめんなさい」

 兄様、と小さく続いた声は震えて濡れていた。胸元に押し付けた顔からは、すぐにぐすっと鼻を啜り上げる音が聞こえてくる。
 おかげでそれ以上は責める言葉を言えなくなかった。極力顔には出さないようにしているが、内心では私もかなり狼狽えている。

(泣かれるとどうしていいかわからなくなるな)

 実のところ、アルフェは本人が思うほど弱くはない。
 体はともかく、精神面ではこちらも舌を巻くほど強かな面も見せる。泣きそうな顔をするものの、泣き顔らしい泣き顔はランス領で見た一度だけだ。城に帰って来てからは歯を食い縛り、顔を上げ、もう弱音を吐くものかと唇を引き結んでいた。
 祖父を断罪した時も。謁見の間に挑む前も。実の母に殺されかけた、その後も。
 暗い顔をしていたし、時折目が赤いこともあった。だが泣く姿を私達には見せない。大事な人達を送り出した時ですら、涙を見せなかった。どころか笑ってみせようとすらする。
 そんなアルフェが、目にいっぱい涙を溜めていたのだ。それでもギリギリまで零さないところに意地を感じたが、そんな姿を見て責めることなど出来るはずもない。それに安易に人に頼れない性格になってしまったのは、他でもない私達のせいでもある。

「帰ってきてくれてよかった」

 落ち着いたら「せめて私には相談してほしかった」と一言ぐらい恨み言は言いたいが、今は口にすべきではないだろう。ただでさえ細い体を小さく委縮させて、帰ってきたことを悪いことだと思って怯える妹にはこの言葉だけでいい。
 あやすように背を撫でれば少しだけ体から力が抜ける。恐る恐る私の服の裾を掴んだ手を見て、密かに安堵の息を吐いた。
 そんな私達の傍らから恨みがましい目を向けられていることに気づいて、チラリとそちらに目を向ける。

『だから早く迎えに行けと言ったんだ』

 そう言いたげな緑の瞳が私を責めてくる。さすがに今日ばかりはばつが悪くて目を逸らした。代わりにアルフェに肩を抱き、あたたかい光の灯った屋敷の中へと促す。

(私とて、拗ねて迎えに行けなかっただけではないが)

 そういう気持ちが全くなかったわけでもない。だが、アルフェがここから解放されたがっていたことも知っていたから動けなかった。
 私の負担になりたくない気持ちが一番だったとは思うが、全部投げ捨てて逃げてしまいたい、という衝動も少なからずあっただろう。陛下が言うように何のしがらみもない場所で、アルフェにも落ち着いて考える時間が必要だったのだとも思う。
 もしそこで私が迎えに行けば、自分の気持ちの整理が付いていなくても戻ってきただろうことは簡単に想像がつく。そんな無理強いはしたくはなかったのだ。納得しないまま切り上げさせてしまったら、いつまでも心のしこりとなって残ってしまうだろう。
 しかしこんな顔を見れば、クライブが言ったようにせめてもう少し早く迎えに行くべきだったんじゃないか、と反省する。
 だがその前に、やはり失踪する前に一言相談してくれていれば、と思うわけだが……恨み言は言い出したら切りがない。ここは胸に仕舞っておこう。
 悶々としたものを抱えながらも、今夜はゆっくり休ませるべきだと言葉を飲み込んだ。アルフェを以前この宮で使わせていた部屋に送り届けてから、深く息を吐き出す。

(あとはこちらか)

 それまでずっと付いてきていたクライブが、自室に戻るなり「話があります」と切り出した。密かに自分を落ち着かせるために一つ呼吸をした。
 言われずとも、言いたいことはわかる。クライブが迎えに行けばそうなるだろうと思っていた。アルフェが頷くかどうかは半々だったが、戻ってきたということはそういうことなのだろう。
 幸いにも部屋の中は私とクライブの二人だけだ。気を利かせたのか、アルフェを出迎えるまでは傍にいたニコラスもいつの間にか姿を消していた。覚悟を決めて振り返り、向かいに立つ形になったクライブに視線を向ける。眼差しだけで促せば、私を見据えてクライブが口を開いた。

「アルト様は、僕が貰い受けます」

 迷いなく宣言されたその言葉に、一瞬絶句してしまった。ここまで強気に来るとは思わなかった。
 だがそれだけ揺るがない意志を持って口にしたのだともわかる。
 その真意を確かめるべく、目を細めてクライブを見た。そんな私の眼差しにも怯むことなく、クライブは真っ向から見つめ返してくる。

「アルト様にはご承諾いただきました。王家から見ても、僕は降嫁先として都合がいいでしょう。伯爵位ですが昔から王族の傍近くに仕えている家であり、かつて皇女が降嫁された前例もあります。それでいてアルト様を貰い受けたとしても内政に干渉する立場にはない武家ですから、均衡を大きく崩す軋轢も生まれません」

 クライブは淡々と自分の利点を上げてくる。

「将来的にランス領に移り住んだとしても、日々優秀な騎士を育成して捧げてきたランス伯爵家は本来ならば守りが強固なことはシーク自身もご存じでしょう。至宝をお守りするには最適な家のはずです」

 いちいち説明されずともクライブを取り巻く環境はよくわかっている。だが、あえて言い聞かせるようなそれに口を挟む隙もない。反論できる部分があるなら受けて立つ、と言わんばかりだった。
 胸の内を探るように見つめ返しても目を逸らされることはない。
 これまでのクライブを見ていれば、胸に抱いた想いは一目瞭然だった。あえて確認すべきことでもないとは思うが、しかし念の為に訊いておかねばならないだろう。クライブ自身の人生もかかっているのだから。

「クライブ自身の気持ちはどうなる。一生をアルフェに捧げる気があると?」
「その覚悟がなければ、こんなことを口にはしません」
「ただの同情と、自分が置かれている立場の責任感だけで言っているのではないのか」
「アルト様に同情と責任を、感じていないわけではありません。……ですが、それより僕はただ。僕が、アルト様を幸せにしたいだけなんです」

 生まれた時から一緒に育った乳兄弟で、かつアルフェの兄である私に告げるには羞恥もあっただろう。僅かに口にする躊躇いは見せたものの、すぐにクライブは強い光を瞳に宿してはっきりと告げた。
 覚悟はしていても、いざアルフェへの想いを真摯に告げられると私はどんな顔をすればいいのかわからないのだが……しかし胸に滲み出したのは、紛れもない安堵だった。

(それなら、いい)

 アルフェが体に抱える問題は、ランス伯爵家の存続にも関係してくる。クライブはその件には触れなかったが、当然ながら考えていないわけではないだろう。それも含めて考えるように、本来は秘するべきことをクライブにも教えていたのだから。
 それでも尚、アルフェの手を取ると言ってくれるのならば。

「クライブもアルフェも互いにそれで納得していると言うのならば、私に言えることは一つだけだ」

 一つ息を吸い込むと、クライブに向かって深く頭を下げた。

「至らない妹だが、アルフェを頼む」

 クライブがわざわざ自分の利点を上げずとも、アルフェが承諾した、と聞いた時点で既に心は決まっていた。
 アルフェがそれを望んだならば、叶えてやりたい。

「ッ!?」

 告げた瞬間、クライブが息を呑む音が聞こえた。視界の先で僅かにクライブの足先が揺れて動揺を見せる。信じられない、と言いたげな反応に思わず眉を顰めてゆっくりと顔を上げた。
 視線の先ではクライブが零れ落ちんばかりに目を瞠り、言葉も忘れて慄きを見せている。

「なぜ驚く」
「頭を下げられるとは思いませんでした……反対だったのではないのですか? ずっと僕の邪魔をされていたではありませんか。絶対に僕には渡したくないのだと、そう思っていました」
「あれはアルフェの為だ。アルフェにも考える時間が必要だと言ったはずだ。クライブを行かせたら無理にでも連れて帰るのは目に見えていただろう。当人が納得できないまま話を進めれば、どこかで歪みが出る」

 それにあまりにはやく迎えにいっても、アルフェが突っぱねた可能性の方が高い。護衛に付けている者から提出される日報を見る限り、体調を崩すまでは驚くほど頑張っていた。
 この1か月で早々に部屋を借り、友を作り、健全な働き口まで見つけて勤め始めるとは思わなかったが……思ったよりずっと逞しい。

(とはいえ、体は思うようにはいかなかったみたいだが)

 一か月も慣れない生活をすれば、無理が祟る頃合いだ。体調を崩した後は暗い顔をしていたと聞いた。そろそろ迷いが出ていたのだろう。
 どういう生き方を選びたいのか。自分が何を必要としているのか。何を失いたくないと思っているのか。答えを出す為に、あれは必要な時間だったのではないだろうか。

「本来はこちらとしても、事前にクライブに打診をしたかったわけだが……しかし肝心なアルフェがクライブの手を取るかどうかは半々の状態だったから、下手なことは言えなかった」

 あえて口にしなかった部分をクライブは察したのが、ぐっと押し黙った。
 最初によからぬことをしでかしたせいで、アルフェの中のクライブの当初は評価は底を突き抜けて最底以下だったと言っていい。近頃は改善されて信頼が見えてきていたとはいえ、アルフェの気持ちはまだちゃんと確認できていなかった。
 本当はアルフェが相談してくることを想定して、その時にアルフェに問うつもりだったのだ。
 まさか何も言わずに失踪されると思わなかったし、私が出向けばアルフェは自分の気持ちを殺してしまうと考えたら動くことも出来ず、後手に回ってしまった。

「だがアルフェが承諾したならば、反対する理由もない。あとは陛下に話を通すだけだが……」
「それは僕からお話させていただきます」

 念の為に口添えをするつもりでいたが、それを口にする前にクライブに遮られた。凛と伸びた背と真っ直ぐに私を見る瞳を見れば、こちらが余計な気を回す必要はなさそうだと頷く。

「それなら、この時間ならまだ執務室にいるだろう。アルフェが戻ってきたことも併せて伝えてきてくれ」
「わかりました。行って参ります」

 理由をやれば、逸る気持ちもあるのかクライブは一礼すると踵を返した。そのまま出ていくかと思いきや、クライブは思い立ったように一度こちらに向き直ると頭を下げた。

「シーク。ありがとうございます」

 礼を言うべきは、こちらの方だろう。私が難しいのならば、託せるのはクライブしかいないと思っていた。
 しかしそう口にするより先に、気恥ずかしいのかクライブは身を翻した。いつもより幾分早い足取りで部屋を出ていく。
 それを見送ってから、ソファに腰を下ろした。思ったよりも緊張していたのか、背もたれに体を預けると力が抜けていくのがわかる。
 事前に私から話してもいたし、陛下もこうなることは想定はしているはずだ。だからこそ、クライブと二人で話をしたのだろうから。たぶん反対をされることはない。
 深々と息が零れる。
 安堵と祝福と、それでいて僅かに胸に残る淋しさはなんだろう。乳兄弟に先を越されて置いていかれたような焦燥と、可愛がっている妹を託すことへの淋しさというものだろうか。
 少しぼんやりしていたところに、ノックの音とほぼ間を置かずに扉が開いた。

「先程クライブがすごい速さで歩いていきましたけど、話は片付きました?」

 それまで気を利かせて姿を消していたニコラスが顔を出した。けだるさを抱えたまま視線だけをやれば、私の顔を見るなり色々と察したのか苦笑いをする。

「アルフェ様をとられて、寂しいんです? それともクライブに先を越されて、悔しかったりします?」

 私の成人前から仕えてくれている割に年の近いニコラスは、一応は遠い親戚ということもあって兄貴分のような存在でもある。時折こうして自分でも自覚しきれていなかった皮膚の下の感情を読み取って、容赦なく突き付けてくる。
 顔を顰めれば場を和ませるためか、茶化すような声音を寄越された。

「てっきり俺がアルフェ様を娶ることになるかと思ってたんですけどね」

 それには冗談でも頷けなくて、更に渋面を深くした。

「ニコラスの腕と信頼は疑っていないが、十も年の離れている上に、女に節操にない男に大事な妹をやるわけがない」
「人聞きの悪いこと言わないでもらいたいですね。俺はすべての女性が愛しいだけです」
「それを節操がないというんだ」

 吐き捨てれば、「これだから恋愛奥手な人は」と呆れた声でからかわれる。
 これまでは私の置かれている立場上、許嫁になったことで害される可能性があるから誰にも特別な好意を抱けなかっただけだ。それをわかっているくせに、と睨みつけてやれば、元々笑って見える細い目を更に細められた。

「ところで殿下は、本当にアルフェ様と婚姻する気があったんですか?」

 単なる好奇心か、それとも私の気持ちを整理させるためか。いつものニコラスから考えるとたぶん後者なので、問われたそれを改めて少し考える。
 近親婚による危険性は置いておいて、心理的な面だけで言えば。

「元々私とアルフェは家族であるし、改めてやり直すのもいいかとは思っていた。……だが、アルフェと私は互いに引け目を感じている部分がある。特にアルフェは遠慮が先に立つから、難しいだろうとは思っていた」

 今までの距離感を少しずつ修正していけば、兄妹という形には戻せると思っていた。だが対等な夫婦という形になるには、歪みが残りそうだ。
 私の中のアルフェのイメージは、図書室で小さく丸くなっていた姿だ。成長しても、それはあまり変わらない。愛しく、守ってやりたいとは思うが、たぶん女性に対するそれではない。宥める時は抱きしめてやりたいと思うが、普段目の前にいると頭を撫でてやりたくなる感じだ。家族としての情の方が勝っていて、多分これは恋とは言い切れない。
 それに――妃殿下がアルフェを手に掛けようとした、あの時。
 決定打を感じたのは、そこだ。
 あのとき普段の妃殿下を知る者達は、彼女の豹変を受け入れるのに時間が掛かった。心臓を鷲掴みにするような狂気を、憎悪を目の当たりにして、誰もが一瞬理解できずに呪縛されたように動けなかった。私も例に違わず、場の空気に呑まれて出遅れた。
 そんな中で、私が命ずるよりもはやくクライブは動いていた。
 あの場で誰よりも真っ先にアルフェのことを想い、その後で自分の立場が悪くなるかもしれないことを考える間もなく咄嗟に動いていた。
 その背を見た時に、胸にすとんと落ちてくる感情があった。上手く言葉にするのは難しいが、迷うことなく救いの手を差し伸べるクライブを見て、あれがアルフェには必要な存在なのだと思えた。
 アルフェに対して、守ってやりたい気持ちはあれど私はあの場で畏怖する感情を断ち切れなかった。呪縛を焼き切るだけの熱が足らなかった。私ではアルフェにとってのああいう存在になれないのだと、目の当たりにした心地だった。
 アルフェにとって、そしてクライブにとっても、二人はそういう形なのだ、と納得出来てしまった。

(それを引き離すことなど、考えられないだろう?)

 それにアルフェのことも大切だが、同時にこれでもクライブのことも大事に思っているのだ。生まれた時からの付き合いだからつい甘えが出てしまうこともあるが、臣下である前にクライブはかけがえのない兄で、友でもある。
 当然、幸せになってほしいと願っている。

「だからクライブがアルフェを娶ると聞いて、安心した、というところだな」

 改めて口にすると、それが心からの気持ちであると自分でも気づく。

「それにアルフェが誰に嫁ごうと、私が兄であることに変わりはない」

 それでも僅かに胸の奥で燻る淋しさは、強がることで捻じ伏せた。
 そんな私を見て、ニコラスは目尻に皺を寄せて笑む。これは本当に笑んでいる顔だ。面白がっているわけではなくて、私が答えに辿り着いたことに満足しているような笑み。
 しかし、ここで余計なことを言うのがニコラスである。

「そんな強がりを言わなくても、殿下にもそろそろいいお相手が出来ますって。もう恋愛解禁しても問題ないわけですから、ご希望があればどんな子でもご紹介しますよ」
「ニコラスの紹介は当てにしたくない」

 落ち込んでいるつもりはないが、ニコラスなりの励ましなのだろう。糸目から覗く瞳は珍しく優しく、本当に親切心で言っているように聞こえた。
 確かにこれで色々と区切りがつく。

(私もそろそろ相手を探すか)

 生涯を添い遂げたいと思えるほどの相手を見つけた二人を見て、羨ましくなったせいもある。
 この魔窟のような環境でも強かに生き抜けて、私の顔を見ても緊張で固まらず、まともに会話が出来る相手を探さねばならない……アルフェ以外にいるだろうか。相当難しそうだ。
 まだもう少し先の話になりそうだが、想像すると淋しさが僅かに溶けていった。


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