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第120話 99 涙味
しおりを挟む全身が心臓になったみたい。ドクドクと耳元で鳴り響く心音が冷静な思考の邪魔をする。
思わず呼んでしまった名前は、ここにいるはずのない人のものだった。
(どうしてここに、クライブがいるの)
もしかして、実は転んだ拍子に頭でも打って気絶でもした? また自分に都合のいい夢でも見てる?
それでも体に回された腕の強さも、背中から伝わる熱も、心音もあまりにリアル。間違いなくこれは現実なのだと私に知らしめる。
でも信じられない。
どうしてここにいるの。
この1か月、誰も私を捜している風ではなかった。だから陛下も兄も、私の案を採用するのだとばかり思っていたわけで、どうしてクライブが今ここにきて私を捕まえたのかがわからない。再会が嬉しいという感情を押しのけて、驚愕と混乱の方が勝る。
いったい今更、私に何の用だというの。
私はいなくなった方が良いのではなかったの?
(……野放しにしておくのは危険だと思われて、最悪の場合、排除、しにきたんじゃ)
唐突に思いついてしまったそれに背筋が凍る。
心配して捜しに来てくれた、というよりその方が筋が通っている気がしてくる。
振り仰いだ相手の顔は険しくて、私を見下ろす緑の瞳は怒りを滲ませて鋭い。心臓がバクバクと跳ねる速度を上げる。安堵して見えたのはさっきだけで、それも私の願望が見せた幻覚じゃないかと思えてくる。逃がすまいと言わんばかりに力の込められた腕はまだ離されない。
「離してくださいっ。人違いです!」
こんな言い訳が通用するとは思わなかった。だけど腰に回された手に爪を立てれば腕の力が緩む。この隙に、と思って逃れようとした次の瞬間。全身が浮遊感に包まれていた。
「ッ!」
悲鳴を上げる余裕すらなかった。
咄嗟にぎゅっと閉じた目をゆっくり開ければ、一気に視界が高くなっていた。子どものように腕に抱え上げられたせいで、クライブの顔を見下ろす形になっている。俵抱きじゃないだけマシだけど、この体勢だと近い距離で目と目が合って息が止まった。
「ここで目立って困るのはあなただと思うのですが、アルトリア様?」
私にだけ聞こえる潜められた声で偽名を呼びかけられて目を瞠った。
「な、なぜ、その名を?」
「ここに来る前に調べました。昨夜、人攫い騒ぎがあったでしょう。あなたがそれに関わっていたと聞いて、どれほど肝を冷やしたと思っているのですか。被害に遭いかけた御友人が詰所に見えたので、お話を伺っていたらあなたがマルシェにいるはずだと聞いて慌てて飛び出して来たんです」
一体どこまで私のことを調べているのか。
険しい顔のまま、なぜこの場にクライブが現れたのかも説明されて、ぐっと息を詰まらせる。
そこまで知られているのならば、ここで逃げても無駄だと言われたようなもの。
それにクライブの言葉をそのまま受け取るなら、心配させ過ぎて怒らせているように見えた。染みついた条件反射とはいえ、さすがに悲観的に考えすぎたみたい。疑心暗鬼に駆られた心が勝手に被害妄想を生み出してしまうのは悪い癖。けれど心に防衛線を張っていないと、いざ『最悪』が現実となった時が耐えられないとも思ってしまう。
でもこの人が、そんなことをするわけがない。それぐらいは今までの経験からわかっていることでしょう?
そう自分に言い聞かせつつも緊張が緩むわけじゃなかった。今度は違う意味で動悸が加速していく。
思えば、こうして二人きりになるのはランス領以来。そう思うと、どんな顔をしたらいいのかわからない。
今まで私はどんな顔で、どんな風に接していた?
(……可愛くない態度しか取ってこなかった)
偽り続けるために「近づくな」と態度で示し、話しかけられる度に渋い顔をした。それでも見切りをつけられないことに、困惑すると同時に安堵もしていた。
身勝手に甘えていたのだと、今ならわかる。
そんな私が、今更どんな風に接すればいいの。
クライブは私を抱え上げたまま、険しい顔を保って歩き出している。
人目が多そうな広場を目指して走ったはずだけど、昼と夜では人の流れは大きく変わるらしい。日が落ちると広場辺りは閑散とするようで、気づけば道行く人はまばらになっていた。とはいえ、全く人目が無いわけじゃない。抱えられている私を見て、何事かと遠巻きに見てくる人もいる。視界が高い分、それがよく見えて居た堪れない。
「逃げませんから、おろしてください」
観念して、なんとかそれだけ絞り出した。だというのに、「もうすぐです」とすげなく断られた。
いったいどこへ連行されるのか。慄いていたら、クライブは中央広場へと足を踏み入れた。どうやら即座に城に連れ帰るつもりではないらしい。
昼ならば露店も出ており、食事や休憩を取る者で賑わう場所も今は人気が無い。普段は人の声で掻き消されている中央に設置された噴水の水音だけがやけに響いて聞こえる。その噴水際まで歩いていくと、クライブはそこでようやく私を下ろしてくれた。
水音が話し声を誤魔化してくれるからか、話をするなら都合がいいのかもしれない。街灯が噴水の水面と跳ねる水を反射して、周りより少し明るいことにも安堵出来る。
「座ってください」
逆らえる状況ではなくて、言われるままに噴水の縁に腰を下ろした。どの道、かなり無理を強いた足では立っているのも辛い。
なんてことを考えていた私の前にクライブが片膝を着く。おもむろに私の靴を片方脱がしにかかった。
「っ何をするのですか!」
ぎょっと足を引こうとしたけれど、それより早く阻まれて心臓が早鐘を打つ。素足に触れる手の感触に平常心なんて保てない。
どうしてこんなことになるのっ。
「足を怪我されているでしょう。応急処置をしておかないと、後で痛い思いをして泣くのはあなたです」
そう言われても、こんな恥ずかしいことをされるぐらいなら痛くて泣く方がマシなのだけど!
言い返したいけど、恥ずかしすぎて声が出ない。この国では男女問わず人前で素足を晒すことなんてなく、ましてや触れられることが恥ずかしすぎて顔が耳まで熱い。
クライブは私の動揺を無視して、取り出したハンカチを噴水の水に浸す。この時期の夜ともなれば水は十分冷たい。掴まれたままの足首が赤く腫れているのを見て眉を顰めつつ、水で冷やされたハンカチを巻いてくれる。
「よくこの足であれほどの速さを走りましたね。どうしてこんな無茶ばかりするのですか」
「それは、追いかけてくるから必死で……変質者かと思ったのです」
正直に言えば、クライブが苦々しい顔になって「変質者……」と呻く。
せめて途中で呼びかけてくれていれば、あそこまで必死になって逃げなかったのに。
いやでも、あの場で本名を呼ばれても困る。それに偽名で呼ばれたとしても、クライブだとわかればやはり反射的に全力で逃げていたに違いない。
「一応お伝えしておきますが、マルシェで声を掛けていた男はアルト様の護衛です。たぶん僕の姿が見えたから、見つかる前にあなたを隠そうと思ったのでしょうが……どういう声の掛け方をされたら変質者に間違われるのですか」
「私の護衛?」
「陛下もシークヴァルド殿下も、本当にあなたをお一人で放置されるわけがないでしょう」
呆れを滲ませた声で告げられた衝撃の事実に絶句した。一瞬、呼吸の仕方すら忘れた。信じられない気持ちで目を真ん丸く見開く。
(嘘でしょう!?)
「いったい、いつから」
「城から出られた時に警邏隊の者が街までお連れしたでしょう? 彼は警邏隊の副隊長なのですが、アルト様付きの侍女が一人で出歩かれるなどおかしいと思って護衛を付けていたのです。一度は撒かれたようですが、後から足取りを辿って数日中には護衛が付いていましたよ」
(それって、ほぼ最初からじゃない!)
ひくり、と顔が引き攣る。
つまり私はこれまで、陛下と兄様の手の上で踊らされていた、と……!?
一人でぐるぐるしていた私がものすごく馬鹿みたいなのだけど! それとも目が節穴すぎた私が悪いの?
これまで出歩くときは誰かが傍に付くのが当たり前で、後宮外に出れば様々な視線を浴びるのが私の日常だった。いちいち気にする方が疲れるので、対人スルースキルが板についている。そのせいか、私は周りの視線を無意識に除外していたの?
記憶をさらってみても、思い出せるのは大通りで見かけたデリックぐらいで……
「護衛というのは、デリックですか?」
まさか、と思って恐る恐る窺う。するとクライブが口をへの字に曲げた。
「護衛には近衛騎士が付いています。デリックは、僕が個人的にあなたを捜すのを頼んでいただけです」
「クライブが、個人的に私を捜していたのですか?」
デリックの姿を見かけたのは寝込む前だから、つい1週間ほど前のこと。私の居場所はほぼ初期から判明して護衛まで付けられていたのに、なぜクライブがそんな頃に私を捜しているのか。
そういえば先程も、私の護衛がクライブから私を隠そうとしたとかなんとか言っていたような。
意味がわからなくて首を傾げれば、クライブが憮然とした。
「僕にだけ、アルト様の居場所が教えていただけなかったので」
「なぜですか?」
「僕に知らせたら、即座にあなたを城に連れて帰るだろうとあなたの兄君に思われていたからです。僕は本当はもっと早くにあなたを迎えに来たかったんです」
迎えに来たかった、と言われた言葉に心が跳ねた。
けれど同時に、兄は私が帰ることを良しと思わなかったことも知ってしまった。それが当然のことだし、半ば覚悟していたことだけど、改めて聞くと胸が押し潰されているように軋む。
自分でそれを選択したのだから、それを支持した兄を責めるのは間違っている。悲しい、なんて思うことすら我儘だ。
「……私は、帰れません」
それでもこの一言を絞り出すのに、ひどく躊躇った。自分が不要であることを認めるのが怖くて、でも言わないわけにもいかなかった。
込み上げるものを堪えたくて、ぎゅっと拳を握る。掌に爪が痛いほど食い込んだ。
「私が戻ったところで、邪魔にしかなりません。兄様もそれをわかっていらしたから、クライブを阻んでいたのでしょう」
「そんなわけないでしょう! シークヴァルド殿下はアルト様の意志を尊重されて見守っていらしたのです。陛下はあなたも一人になって考える時間が必要なのだろうと、そう仰っていました。とにかく、あなた方は話し合いが足りていません」
クライブは目を瞠り、焦りを見せた表情を見せた。即座に否定の声を上げる。
「ただ、あなたがそう誤解しそうだから、何度もはやく迎えに行くべきと僕は言っていたのです。兄君は事前にアルト様に相談されなかったことに拗ねているだけです。ああ見えてまだ子どもなんです」
必死に言い募り、まるで引き留めるように私の手を取る。
そこには痛いほどに力が入っていて、クライブが本心からそう言ってくれているのがわかる。
でも。
「……クライブは、私が城を出た理由を聞いていないのですか」
「それは……聞いています。申し訳ありません」
「ならば、私が戻ったところで面倒なことにしかならないとわかりませんか」
目線を手に落とし、自分自身にも言い聞かせるように語り掛ける。
たとえ陛下が、兄が、私を許してくれたとしても。私が告げた内容が覆るわけじゃない。
私が兄には嫁げないことは確定している。次代の王を残せない可能性がある私だけは絶対に選べない。
もし仮にニコラスが私を引き受けてくれたとしても、それはニコラスに重荷を預けることになる。三男だから後継ぎは不要だろうと考えるのは、こちらの勝手な言い分に過ぎない。近衛騎士の彼なら三男であっても相手は選び放題なはず。それならば普通に好きになった相手と添い遂げたいでしょう。
ニコラスに限らず、他の誰が相手でも同じこと。
貴族に限らず、相手が平民であっても。
(これ以上、誰かの重荷になって生きるのは、苦しいの)
ずっと生きているだけで誰かに負担を掛けてきた。重荷にしかなれなかった。それでも愛してくれる人達はいたけれど、時折自分でも己の重さに押し潰されそうになった。
またそれを繰り返すの?
独りで生きることは淋しいし、体が思うようにならなくて先が見通せないことは怖い気持ちは消せない。でもまた誰かの重荷になって生きるよりはずっといいでしょう?
これまで戦ってきたことに比べたら、誰も守る必要もなく、一人だけ生きていくことはなんて容易い。
「また誰かに迷惑をかけることになるぐらいなら、私はここで、一人で生きていきます。ここでの暮らし、案外気に入っているのです」
だから顔を上げて、笑ってみせる。
「――だったらどうして、そんな泣きそうな顔をされるんですか」
唇を吊り上げて、笑う、はずだった。
だけど私を真摯に見つめる瞳と目が合ってしまったら、張ろうとした意地が崩された。
「本当に一人で生きたいと言う人なら、そんな顔はしません」
そんな風にその口で、私の本心を暴かないで。
引き留めるように、私の手を握らないで。
気遣うような目で見て、弱い心を揺さぶらないで。
私に期待をさせないで。
吊り上げようとしていた口元が引き攣る。目頭が熱くなる。視界が歪んで、零れてほしくないものが溢れてきそうになる。
頼りたくない。これ以上、誰にも迷惑を掛けたくない。
だって、嫌われたくない。憎まれたくない。「いらない」と、言われたくない。存在を否定される恐怖を、もう二度と味わいたくはない。
心が殺される痛みを受けるのは、もう嫌なの。
「私はもともと、こういう顔です」
「あなたの嘘が下手過ぎて、さすがに騙されるにも無理があります」
「……それなら、どうしろというのですか。これ以外、私に思いつく案はありません」
今なら、この案が押し通せる。『アルフェンルート』が死んでも、今なら誰もおかしくは思わない。むしろ安堵する人もいるはず。誰も傷つかない。誰の迷惑にもならない。
(これ以上に、誰もが望む案なんてないでしょう?)
「シークに嫁がれるのが難しいと仰るなら、僕で妥協してください」
だからそんな言葉が耳に届いて、幻聴かと思った。
「…………、は?」
数秒固まってから、間抜けな声が口から漏れる。
僕で妥協? いったい何を?
理解出来そうだけど出来なくて、まじまじと目の前にある顔を見つめてしまう。
「ですから、僕に嫁がれることで、妥協してください」
もう一度言い直された言葉を聞いても、頭が真っ白になった。驚愕のあまり、目に溜まった涙すら引っこんだ。
脳内で何度も言われた言葉を繰り返して、組み直して、心臓が徐々に脈打つ速度を上げる。理解すると同時に理解しかねて、相反する感情を持て余して動揺する。それをなんとか静め、コクリと乾いた喉を嚥下させた。
「クライブ。私が城を出た理由、知っているのですよね? あなたはランス伯爵家の後継ぎでしょう」
たじろぎつつも念のために確認の問いを投げかけた。
もしかして、肝心な部分を聞いていない? 可能性の話でしかないとはいえ、ただでさえ厄介な上にリスクの高い私を娶るなど正気の沙汰とは思えない。
だからこそ、クライブは最初から除外していたのだから。
「我が家にはデリックもいますし、いざとなれば養子を取ればいい話です。分家もいくつかありますし、そうでなくとも家を継ぎたいという者には困りませんから」
「そういう問題ではないでしょう!?」
「伯爵位ですが歴史はある家ですし、過去には何番目かの皇女が降嫁された前例もあるので問題はないでしょう。シークヴァルド殿下の乳兄弟で近しい立場にいるとはいえ、武家ですから内政に干渉する家でもありません。我が家と近衛騎士という立ち位置から考えても、アルト様の嫁ぎ先としてはとても都合がいいです」
「都合がいいという話でもありません……!」
「では、これ以外にどんな問題があるのですか」
畳みかけるように淡々と冷静に言い返されて言葉に詰まる。どんな問題と言われても、立場とか都合とか、そういう次元だけの話ではない。
もっと大事な部分が置き去りのままになっている。だけどそこに踏み込むには、まだ勇気が足らない。
「そんなの……クライブが貧乏くじを引くことではないでしょう。それに私は、矢を受けた時の傷も、あります」
半ばうわごとのように、しどろもどろに訴える。
以前に兄を庇った左肩がじくりと痛んだように感じた。傷があるとわかっている女なんて、普通はそれだけで忌避される。私にとっては勲章でも、傍目に見て綺麗なものではない。
するとクライブが痛みを受けたように僅かに顔を歪める。けれどそれは嫌悪ではなく、後悔に見えた。
「元々アルト様の受けた傷は、あのとき傍にいながらお守りしきれなかった僕の責任でもあります。それ以外にも、その……今まで色々とあなたにはしでかしてきているわけで、責任は取るべきです」
途中で少しだけ目を泳がせ、ばつが悪そうに言われたせいでその色々しでかしたきたことが脳裏を過った。一瞬、言葉に詰まる。確かに色々しでかされてはきた。
だけど。
「クライブには、それ以上に助けてもらっています。あなたに助けてもらわなければ、私はここに生きていられませんでした」
それらを帳消しにして余りあるぐらいには、助けてもらってきた。そんな風に迷惑を掛けたかったわけじゃない。
だからこそ申し出は嬉しいと言うより、困惑する。
だって負担でしかないでしょう。私を娶るということは、私を取り巻くであろう厄介事も同時に引き受けることになる。はっきり言って、私の立場は難しい。取扱いは劇薬レベルと言ってもいい。それに一度引き受けてしまった以上は、やはり無理です、と投げ出せるものでもない。
抱えるとしたら、一生なのだ。
「あなたが困っていたら、僕は何度でもお助けすると約束したでしょう?」
それなのに、クライブはそんな約束を引っ張り出してくる。
キス一つで取りつけた口約束なんて、そこまで律儀に守ってもらう価値なんてなかった。むしろもうこちらが払わなければ対価が明らかに足りてない。
眉尻を下げて、甘えてしまいたくなる気持ちを叱咤して言うべきことを口にする。
「一生が掛かっているのですから、同情で決めるべきことではありません」
何を選択しても、一度も後悔しない生き方なんてない。そうわかっていても、少しでも悔いが無いように生きてほしいと思ってしまう。私がクライブの足を引っ張る立場にはなりたくない。
ぐっと唇を引き結び、まっすぐに見据える。しかし逸らされるかと思った緑の瞳は、真っ向から私を見つめ返してきた。
「同情だけで自分の人生を賭けられるほど、僕はお人よしではありません」
言い切られた言葉。迷いを見せない声。
心臓が大きくドクリと跳ねた。
(そんなことを言われたら、期待、したくなってしまう)
重荷になりたくないのに、必死に押し込めているのに、愛されたがりな自分が顔を出す。
好きな相手にそんな言葉を告げられて、嬉しくならないわけがない。ぐっと奥歯を噛み締めてこちらが必死に踏み止まろうとしているというのに、立入禁止区域へと突き飛ばそうとしてくるなんて。
そのとき不意にクライブが思い出したかのように、胸ポケットから何かを取り出した。掌サイズの細長い物を、私の掌に握らせる。
ひやりとした感触に一瞬怯んだ。
少し重くて、けれど馴染みのある重さだった。咄嗟に視線を落として見れば、それは覚えのある琥珀色のペン。投げつけて落ちた際に傷ついたのか、滑らかだった表面が少しざらついている。
それは紛れもなく、私が失くしたペンだった。
「! これ、どうして」
手の中に戻ってきた物を見て愕然と目を瞠り、呆然と呟いた。
ペンとクライブを交互に見て、どんな顔をすればいいのかわからない。なぜこれをクライブが持っているの。
「アルト様の落とし物だと、ラッセルが届けてくれたんです。先程もあなたが一生懸命これを捜していたのだと聞きました」
「っ……」
「こうして持ってくれていたということは、少しくらいは自惚れてもいいのでしょうか?」
頬に朱が上がるのがわかる。違う、とも言えずに口籠れば、クライブが私の胸の内を見透かしているかのように目を細め、ちょっとだけ笑った。
胸の奥が締め付けられるかのよう。
でもそれは不快ではなくて、どころか手放したくない感情だと思ってしまう。
「……クライブは、趣味が悪いです」
「あまりそう指摘されたことはありませんが」
「私、卑怯者ですし、嘘つきです。そのうえ弱くて、自分でもかなりのろくでなしな自信があります」
「はい」
安易に否定はされなかった。その上でクライブは、だからそれがどうしたのだと言いたげに私を見ている。そんなことは最初からわかっていて言っているのだとでも云うように。
実際に私の弱さも、脆さも、非情さすらも、クライブは見てきて知っているのだ。それなのに私を見捨てようとしない。
ここまできて揺らがずにいられるほど、私も強くはなれなかった。
甘えていいの?
手を伸ばしてもいいの?
(私は、あなたと一緒に生きてもいい?)
頭の中も胸の中もまだ不安でいっぱい。それでも差し出された手を振り払うだけの強さは、もう持てない。
「……もし私が、何も残せなくてもいいのですか……?」
声が震えて擦れる。これまでなんとか持ち堪えていた目頭が限界を超えて、零れてほしくないものが私の理性を凌駕して溢れてくる。
確認しているように見えて、幾重にも予防線を張って安心したいのはきっと私の方。
「いま目の前にいるあなたを失う方が、耐えられないです」
欲しい言葉をくれて、伸びてきた両手が私の頬を包む。少しかさついて固い掌と指から伝わる熱はあたたかくて、ひどく優しい。
そこにいることを確かめるように。それでいて宝物に触れているみたいに触れる。
まるで、愛されてるかのように。
「アルト様は、僕では嫌ですか?」
小首を傾げ、クライブが距離を詰めてくる。壊れそうに脈打つ心音と、周りの音を掻き消すかのような噴水の音の中でも、その問いかけははっきりと耳に届いた。
互いの吐息すら届く距離まで詰められても、避けることも、遮ることもしなかった。
だってたぶん私の方が、それを待ち望んでしまっていたのだから。
ゆっくりと目を閉じると、囁くような声音で答える。
「…………クライブが、いいです」
二度目のキスは少ししょっぱくて、優しい味がした。
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