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第119話 幕間 親の心、子知らず

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※クライブ視点


 いつか僕らの前から、忽然と姿を消してしまうんじゃないか――。
 そんな嫌な予感はいつも付きまとっていた。

(だからって、本当にいなくなるなんて思わないだろう!)

 近衛宿舎の自分の部屋で眠ろうと目を閉じる度、最後に見たアルト様の姿が脳裏を過る。特に今日は、昼間にシークとこの件で喧嘩をしたせいで余計に胸に引っかかる。
 思い出すのは痛みを受けたように一瞬だけ顔が歪み、何か言いたげに開きかけた唇。けれど声を発することなく引き結ばれ、深い青い瞳を縁取る睫毛が揺れて頬に影を落とした。そのまま一礼してから踵を返して立ち去る細い背中に、ひどく不安を覚えた。
 あの直感は間違っていなかったのだ。
 その翌日には置き手紙一つだけ残して、忽然と泡沫のように僕らの前から姿を消した。

 アルト様が失踪して、既に1か月近くが経とうとしている。

 失踪したことは陛下とシーク、一部の近衛とアルト様の傍に控えていた侍女にしか知らされていない。表向きには、アルト様は心労が祟って後宮で療養されていることになっている。元々虚弱と思われている方だから、こんな状況になれば全く表に出てこなくとも疑問を持たれることもない。
 しかし今こうしている時だって、あの方は王都でひとりで生活されているのだ。

(なんでこんなことになるんだ!?)

 いや、失踪した理由は僕にも教えられている。
 本来なら僕が知りえることではない。だが陛下もシークもアルト様の失踪を許容してしまったので、しつこく食って掛かって教えてもらったものだ。
 綴られた手紙の文字は時折迷いを見せながらも、彼女だけが知り得る知識がそこには書き記されていた。シークとの婚姻を拒むだけの理由が、姿を消すだけの理由がそこにはあった。
 知りすぎているということは、きっと僕らが思うより便利なものではない。知らない方が幸せだったと思えることも、きっとある。今回のように。
 もしアルト様が何も知らないままであれば、陛下が告げた案は悪くないものだった。シークとアルト様はお互いを大切に思っている。傍から見ていて恋愛的な意味ではないように見えたけど、家族として仲睦まじくやっていけただろう。
 僕個人としては、シークに嫁ぐと聞かされたときは複雑ではあった。けど、僕の心情より彼女の立場の方が大事だ。
 それに、安心できる場所で笑っていてくれるなら。
 ずっと見守れる立場にいられるだけいいじゃないか。
 そう自分に言い聞かせていたというのに、それすらアルト様にとっては難しいことだったなんて考えもしなかった。これが最善策なのだと周りが言うから、相談することも出来なかったのだろう。
 そうしていつも自分だけでどうにかしようとして、ギリギリまで本音を見せずに思い詰めてしまう。
 しかしそれで一人で失踪するなど、誰が考えるだろう。

「頼らなすぎだ」

 思わず苦い声が口から漏れた。
 アルト様を責めたい気持ちと、それ以上に頼りになれなかった自分の不甲斐なさを呪いたい気持ちに襲われる。
 今も耳に残る、僕に弱音を零したときの声音。
 喉の奥から絞り出したようなそれは、ひどく苦しげだった。眉根を寄せて痛々しく歪んだ顔は、必死に込み上げるものを押し殺してきたに違いないのだ。
 それが溢れ出したときの、指先で拭った涙の熱さを思い出す。
 あのとき、初めて生身の彼女に触れた気がした。その胸の中に抱いていた感情の熱に触れたように感じた。周りに見せないだけで、悔やんで、足掻いて、苦しんでいた。
 今も、同じなんじゃないのか。
 無責任にすべてを放り投げて平気でいられる人ではない。そういう人なのだと、もう知っている。
 だから今、一人きりとなったアルト様がどんな思いで過ごしているのか。それを考えるだけで胸が詰まる。
 一人になって、ちゃんと笑っていられるのか。泣いているんじゃないのか。それともまた我慢して、笑ったフリをして誤魔化しているのか。

(なんで一人で勝手にどこかに行ってしまうんだ……っ)

 陛下とシークと話をしたあの日、一瞬痛みを受けたような顔をするから思わず手を伸ばしそうになったのだ。目を伏せられたから咄嗟に自分を制止したけれど、もしあのとき呼んでくれていれば。
 いや、それが出来ない人だと知っていたのだから、僕が強引にでも手を伸ばしていれば――。
 ぎりっと音が立つほど奥歯を噛み締める。

(せめてシークが邪魔しなければ、もっと早くに迎えに行けたのに)

 この1か月、僕だって何もしてこなかったわけじゃない。
 実のところ、アルト様の所在は既に知れている。
 アルト様が失踪されたその日。アルト様が城門を出たところで、警邏隊の副団長を務める男が馬車乗り場で立ち往生している彼女を見つけている。
 当然ながらそれが皇女だと思ったわけではない。だが服装から皇女付きの侍女だとわかる。立場的に大抵は貴族令嬢であるはずの侍女が一人、共も付けずにいるのはありえない光景だ。心配した彼が親切に街までの護衛を申し出て、別れた後も念の為に部下の一人を密かに護衛に付けたのだ。
 だが、彼女が服屋に入ったのを最後に見失ったという。仕方なく帰りを待っていたが、夕刻の鐘がなっても侍女は詰所に戻らない。城へと行くためには詰所前を通らなければならないが、通った気配もない。見落としならばいいが戻っていないならば問題である。
 心配になった彼は、念の為に登城して侍女が戻ってきていないか問い合わせた。
 ちょうどその頃、後宮では部屋からアルト様が消えたことに右往左往していたところだった。副団長の報告を受けたシークは、その侍女がアルト様だと思い至って頭を抱えた。

『どう育ったら、そうなる……!?』

 シークの呻きは、その場にいた誰もが心で叫んでいた言葉だろう。
 きっとアルト様はこれまでに何度もここから逃げ出す算段を思い描いていたからこそ出来た行動に違いない。それほどまでに、彼女はしがらみから抜け出す日々を夢見ていたのだろう。
 しかしながら、やはり完璧だったわけではない。警邏隊員が見失った場所から改めて足取りを辿っていけば、ほどなくしてその姿は発見されたという。
 だが陛下もシークも密かに護衛をつけただけで、アルト様の好きにさせている。
 
(あの父子は本当に意味がわからないッ)

 しかも僕にはどこにいるかは教えてもらえない。探しに行こうとするものの、これまで徹底的にシークに妨害されている。僕がアルト様の気持ちも考えず、問答無用で連れて帰る気だと思われているせいだ。実際、最初の頃はそのつもりでいたことは否定できない。
 しかし既に1か月だ。
 さすがに我慢できなくて、今日シークと執務室で二人きりになった時に食って掛かった会話を思い出す。



  *

「もう1か月ですよ!? 一体どういうおつもりですか。心配ではないのですか」

 この会話、既に何回目かわからなくなるほど繰り返している。シークは執務机で書類にペンを走らせながら、顔も上げずに苛立たしげに言い返してくる。

「護衛はちゃんと付けていると言ったはずだ」
「そういう問題ではありません! 迎えに行かれるべきです」

 身の安全は保障されているとはいえ、焦燥感は拭えない。放置していていいわけがない。

「アルフェが失踪した理由は教えてやっただろう」
「それは、……それでもこのままというわけにもいかないでしょう」
「私はアルフェの意志を尊重すると言った。違えるわけにはいかない」

 言っていることは立派だが、その顔は不機嫌を隠しもしない。
 アルト様が失踪されてから、シークの不機嫌さは日に日に増していっている。そんなに心配なら迎えに行けばいいのに曲げないこの頑固さ、本当に似なくていい所ばかり似ている兄妹だ。

「シークが行けないと言うのなら、僕が迎えに行きます」

 これまで何度も阻止されてきているが、我慢できずに睨みつけて訴える。
 シーク自身が行けない腹いせもあるのか、本当に腹立たしい程に邪魔されてきたのだ。適当な理由をつけて休みを潰され続けた挙句、やっと休みをもぎ取れたと思ったら、今度は同僚をそそのかされて妨害を受けた。

『クライブの外出を阻止した者には1週間の休みと、その間に王家御用達の静養地使用権を与えるとのお達しだ。悪く思うなよ』

 彼らのほとんどは事情を知らないせいもあるが、そんな報奨に釣られた者達に邪魔をされた。投げ捨てても投げ捨てても、しつこく飛び掛かって来られた時には本気で殺意が湧いた。
 しかもそれが二度も続けば、僕のなけなしの余裕も失せるというもの。
 シークがその気なら、こっちにだって考えがある。城に勉強に来ていた弟のデリックを捕まえると、人捜しを依頼した。
 とはいえ、いくら弟でもアルト様を捜せと言うわけにはいかない。だから的は別に絞った。
 アルト様が失踪して以来、近衛宿舎からラッセルと見知った顔の近衛が消えていた。最低でも彼らが護衛に当たっているということだ。
 城下街でアルト様の周囲をうろついているだろう彼らの名を上げ、デリックに捜しだすよう頼んだ。私服になるとわかりにくいはいえ、騎士見習いのデリックならば彼らをよく知っている。
 デリックはなぜ僕が同僚の捜索を依頼するのか疑問に思っただろう。だが僕の雰囲気から訊いてはいけない何かを察したのか、即座に了承してくれた。物わかりのいい弟で助かる。
 それから1週間近くかかって、彼らを発見したと連絡を受けた。昼間、飲食店で賑わう大通り界隈で見かけたらしい。
 ただ同時にデリックも相手に見つかってしまったと、悲壮感を漂わせて言われた。

『申し訳ありません、見つかって捕獲されました……。兄上の命令ならここで手を引けと言われました』

 デリックは青い顔を引き攣らせていた。
 同僚に脅されたか。役目を果たしきれなかったことで僕に怒られるとでも思ったのか。それとももしかして、捜索先で金髪碧眼の少女の姿も見かけてしまったのか。
 もう少し居所を絞りたいところだったが、それでも十分だった。あれから休憩時間になる度に食事に行くと告げ、周囲を振り切って捜しに行っている。まだみつからないとはいえ、時間の問題だ。
 僕が当たりを付けていることは、既にアルト様の護衛担当からシークに知らされているだろう。そのせいかシークは眉間に更に皺を寄せ、深く嘆息を吐き出す。

「そんなに焦らずとも、陛下とてこのまま平民暮らしをさせる気はないだろう。私と婚姻するのが難しくとも、アルフェを欲しがる者には困っていない」

 淡い灰青色の瞳が僕をまっすぐに射貫く。
 シークの言うことは尤もだった。アルト様を手に入れたいと思う者は多い。陛下が誰に嫁がせるかを言明していないため、誰もが水面下で彼女の相手となる者を探っている。
 有力候補は当然シークだと思われているわけだが、将来的に近衛騎士団長になると予想されているコーンウェル公爵家のニコラスだと考える者もいる。それ以外の場合でも、王家に内密に打診されて受けない家はないだろう。
 彼女を娶ることで王家の信頼を得られ、周囲からも一目置かれて、場合によってはエインズワース領の一部が下げ渡される可能性も高い。
 たとえ彼女が子を産めなくとも、それ以上の恩恵が望めるのだ。
 アルト様が思い詰めるほど、悪い未来はない。
 だがここはお世辞にも生きやすい場所とも言えない。アルト様が願ったように、このまま平民として解放してやった方がいいのではないか。そう思う気持ちがシークにはあるのかもしれない。
 しかしここで迎えに行かなければ、アルト様にシークの真意は伝わらないんじゃないか。
 ただでさえ、自分はいらない存在なのだとずっと訴えていた人だ。迎えに行かなければ、本当に自分はいらなかったのだと誤解していそうな気がする。それではせっかく繋いだ絆も捩れてしまうんじゃないのか。

「シークはそれでいいのですか」
「いいも悪いも、決めるのはアルフェと陛下だ」
「守ってやると仰られていたではありませんか。それこそアルト様との約束を違えることになるのではありませんか」
「私が会いに行けば、アルフェは自分の気持ちを殺して戻ろうとするだろう。そんなことは望んでない」

 淡々と切り返してくるが、僕を睨みつける淡い灰青色の瞳は苛立っているのを隠しもしない。口ではそう言いつつ、シーク自身も何が正解なのか測りかねているのだろう。
 シークは自分を落ち着かせるように一つ息を吐いた。話は終わりだとばかりにペンを置いて立ち上がり、資料の並べてある棚に向かう。
 その背に、今までずっと黙っていたことを抑えきれずに投げかけた。

「アルト様に頼りにされなかったことに拗ねて、意固地になって迎えにいけないだけではないのですか」

 実のところほんの僅か、そういう気持ちが無いわけでもない気もする。
 日に日に不機嫌になっていくくせに梃子でも動かない姿を見たら、そうとしか思えなくなってきた。
 あれほど可愛がっていたアルト様が一言も相談なく出て行ったことに、シークは相当衝撃を受けていた。兄に負担を掛けたくなかったが故だとわかっているだろうが、そう簡単に気持ちは割り切れるものでもない。僕自身も納得できないのだから、シークは更にだろう。

「……そんな子供じみた考えで動かないとでも?」

 ゆっくりと振り返ったシークの口から零れた声は、地を這うような低さだった。

「私に対して遠慮なく物を言える者も必要だが、私とて素直にそれを許容できる日ばかりではない」 

 僕を見据える淡い灰青色の瞳が怒りを孕んで鋭く輝く。
 よほど踏み抜いてほしくない部分だったのか、さすがに言いすぎたか、と思ってももう遅い。口から出た言葉は戻らないし、戻す気もなかった。どうやら図星だったのか、ほぼ完全に八つ当たりで強く胸倉を掴まれた。

「っ!」
 
 いつもなら躱していたところだが、僕としてもこれまでシークに邪魔されて苛立っていた。
 お互い、余裕というものが無かったのだ。
 シークは溜め込んでいた鬱憤を僕で晴らそうとする腹もあったのだと思う。本気で掴みかかってくるから、手加減が出来なかった。足払いを食らわせて引き倒したものの、しかしシークは咄嗟に僕を道連れにして床に倒れ込む。即座に馬乗りになって制止しようとしたところで腹に拳を叩き込まれ、崩れ落ちたところで体を反転させられる。
 振り仰いだ先、子どもの頃のように激しい感情を露わにしたシークを久しぶりに見た。
 そのせいで時間が巻き戻ったように感じられた。自分が置かれている今の立場を忘れかけてしまった。伸ばした手でシークの胸倉を掴み返し、本気で取っ組み合う形になりかける。
 しかし、そんなことをしていれば当然ながら扉の外で護衛に当たっていたニコラスも気づく。

「いったい何やってるんです!? 取っ組み合いって、ガキかッ!」

 何事かと血相を変えて飛び込んできて、僕らを引き剥がした。眦を吊り上げて怒鳴りつけられる。
 これも、子どもの頃によくあった状況だ。しかしまさかこの後、この年になって二人揃って正座させられ、どういうことかと問い詰められるとは思わなかった。
 僕は皇子に何をしているのかと責められた挙句、僕の方が圧倒的に受けたダメージが大きいのにその後は始末書の山。
 シークから掴みかかってきたのでそれで済まされただけマシだったとはいえ、シークの「ざまあみろ」と言いたげに笑った口元が忘れられない。最初からそれが狙いだったんじゃないかとすら思える。
 それをニコラスに見咎められ、

「言っときますが、先に手を出した殿下が悪いですからね。こんな馬鹿げたことを陛下に報告しなきゃならない俺の身にもなってほしいもんです」

 渋い顔で言われて口を引き結んでいた。



   *

 今日起こったことを思い返しただけで余計に疲労が増してきた。

(なにをやってるんだろうな……)

 結局なんの解決にもなっていない。だがこれでシークの鬱憤が晴らされて、多少は素直になってくれることを願いたい。そうでなければ殴られ損だ。
 シークをけしかけてまでアルト様に戻ってきてほしいと思っているのは、他でもない僕自身なのだろう。
 王家としてもアルト様を手放したくはないはずだ。シークが駄目なら、嫁ぐ先はやはりニコラスになるのか。それともほとぼりが冷めた頃にセインを彼の実母の生家へ養子に出して、婿とするか。
 僕としては、どれも面白くない気持ちになるのは否めない。

(セインを選ぶぐらいなら、僕だっていいんじゃないのか)

 ふと、そんな邪な気持ちが湧いてくる。
 一瞬でも不遜な考えを持った自分に気づいて、動揺のあまり慌てて首を振った。
 初めて言葉を交わしたとき、アルト様にあれだけのことをしでかした僕が?

(そんなこと、許されるわけがないだろ)

 自分に言いきかせて強く目を閉じる。
 …………しかし、とても眠れそうになかった。




 寝る間際におかしな考えをしてしまったせいで、案の定よく眠れなかった。色々考えすぎたせいで精神的に疲弊している。
 今日は始末書を書き上げるまで謹慎を言い渡されていたが、書き上がったのは昼だった。これ幸いと余計な書類仕事を追加されたせいも多々ある。近衛の事務室に立ち寄ってそれを提出すると、今度は上司から陛下が僕を呼んでいると聞いて頭痛がした。

(昨日の件か)

 身に覚えがありすぎる。ニコラスは本当に報告したようだ。思い返すと頭と胃が痛い。
 叱責を受ける覚悟は出来ている。とはいえ、陛下は子どもの頃からシークと僕が喧嘩をしても、シークだけを庇ったりする人ではなかった。二人の話に耳を傾け、シークが悪ければちゃんと叱る。8対2の割合でシークが悪いことが多かったが、しかしお互い手を出した場合は問答無用で両成敗だ。
 大人になったので今回は立場を弁えなかった僕の比率が悪いとは思うが、問答無用で解雇されるようなことはない。はずだ。
 しかし、気が重いことに変わりはない。
 失礼が無いよういつも以上に気を配り、陛下の執務室へと向かう。普段通っている階と違うだけなのに、陛下がいる階は身に纏わりつく空気も違う気がする。陛下のいる階は静謐という言葉が似合う。配備された衛兵すら空気のよう。
 部屋を守る護衛に通され、一歩入ると深く礼を取る。

「クライブ・ランスです。お呼びと伺って参りました」

 扉が閉められるなり、「ご苦労」と掛けられた声に怒りは感じない。元々あまり激しい感情を表に出さない人だ。よく見るのは呆れた顔ぐらい。

「昨日は申し訳ありませんでした」

 昨日の件はどういうことか訊きたいのだと判断して、深く頭を下げたまま謝罪を口にする。手を出したシークは悪いが、煽ったのはこちらだ。

「クライブも言い過ぎたと聞いたが、どちらにしろ先に手を出した方が悪い。昔からそう言っているだろう。まぁ、シークもこのところは余裕を欠いていたようだから許してやってくれ」

 しかし予想していた叱責はなく、あっさりとそれで終わった。「頭を上げていい」と言われて背筋を正す。
 執務机についていた相手の空色の瞳からは何の感情も読めないが、本当に気にしていなさそうだ。

「呼んだのはその件じゃない。シークから、クライブが私に話があると聞いていたからだ」
「僕から陛下に話、ですか?」

 安堵したのも束の間、目の前の相手からそう切り出されて息を呑んだ。
 当然ながら、そんなことは一言もシークには言ってない。いくら僕がシークの乳兄弟とはいえ、相手は王。物を申せる立場にない。
 絶句していると、陛下は言い辛いことだと判断したのか部屋にいる近衛騎士団長を横目に見て人払いを指示する。一礼した団長が出て行ったのを確認してから、改めて「それで?」と問われた。
 まさか団長を追い出す羽目になるとは。しかも陛下と二人という状況に緊張で心臓がバックンバックンと早鐘を打つ。
 なぜこんなことに。どうしてシークはそんなことを言ったんだ。

(自分から陛下に言えないからって、僕に振ったのか!?)

 いや、シークなら自分で言うはずだ。それでも僕に話をする場を用意したということは、言いたいことがあるなら自分の口で陛下に言え、ということだ。
 僕の立場では、本来は陛下に何も言えない。けれどこの人はちゃんと耳を傾けてくれる人だということも知っている。それにシークがこの場を用意したのは昨日の意趣返しもあるだろうが、シークなりの謝罪でもあるのだろう。
 謝罪として提供されるにしても、あまりにおこがましいことではある。でも話が出来るとしたら、今しかない。
 ごくりと息を呑むと、意を決して口を開いた。

「陛下はアルフェンルート殿下を、どうなさるおつもりなのですか」

 乾いた自分の声が静かな部屋に落ちた。
 問われた陛下は驚きもしなかった。予想していたのだろうか。モノクルの奥の瞳を細め、ひとつ溜息を吐かれる。

「あれは、似なくていい所ばかり私に似た」

 問いの返事にしては突拍子もなかった。しかも、アルト様と陛下が似ていると言われて首を傾げたくなる。耳の形はよく似ているとアルト様に話したことはあるが、意味がわからなくて目を瞬かせる。
 陛下は椅子の背もたれに背を預けると、ゆっくりと語りだした。

「生憎と私は凡人だ」
「けしてそんなことは……」
「まぁ聞け。凡人だが、ここに生まれた以上は凡人であることは許されない。若い頃はそれが苦痛でな。過度な期待に潰されそうだった。だから背負わされるものをすべて投げ捨てて、逃げ出したいと思ったことがある」

 そう言って、微かに口元を自嘲するように歪めた。

「実際に、一度はここから飛び出した」

 陛下は成人してから2年程、留学と外交いう名目で周辺諸国を回っている。そこでシークの母君と出会い、妻として連れ帰ってきたという経歴を持つ。
 しかし内情はそんな理由だったとは思わなくて息を呑んだ。

「一応、私は父に許可を取ってから行ったがな。だからアルフェがすべて投げだして逃げたくなった気持ちもよくわかる」
「……」
「アレも知識面においては特殊なところもあるが、それ以外は普通だ。飛び抜けて勉強ができるわけでもなく、要領がいいわけでもない。思いつめると自己完結して暴走するところまで私にそっくりだ」

 身に覚えがあるのか、そう言って苦々しい顔をする。いつもあまり感情の変わらない顔をしている人でも、胸の内では色々と抱えているのだと思い知らされる。
 ああでも、そういうところまでアルト様は陛下に似ているのかもしれない。

「同じことをした身としては、自分はよくて、子どもには許さないと言うのも理に適わない。失踪した理由は色々あったが、多分それだけでない。アルフェにも、一人になって考える時間が必要な時なのだろう」

 だからこの人は密かに護衛だけをつけて、アルト様の好きなようにさせていたのだ。
 それはそこまで追い詰めてしまった罪悪感からなのか。純粋な愛情なのか。それとも、両方か。どちらにしても、この人はアルト様を見捨てたわけでなかった。
 この選択が良いか悪いかはわからないが、ちゃんとアルト様のことを考えてのことなのだと少しだけ安堵する。

「勿論、中長期的に体調を崩した場合と、大事に巻き込まれた場合は引き上げさせる気でいた。護衛に付けている近衛には、もし泣くようなことがあればすぐに連れ帰るようにとも言ってある」

 言いながら目を細め、机の端においてある綴りを指先で撫でる。
 覚えのある書式は業務日報だ。ぎっしりと書かれた文字が小さくて内容は読めないけれど、どうやら護衛に付いている者の報告書と思われる。

「案外逞しくやっているようだが……現時点では、少々悩ましい状況ではある」

 そう言って小さく嘆息を吐きだした顔は、父親の顔をしていた。それが少し陰りを見せる。

「父親で男の私では、娘の抱える痛みを完全にはわかってやれない。本来ならば母が寄り添うべきことなのだろうが、知っての通りアルフェは母を頼れない。乳母を呼んで解決するかもわからない。これを読んでいると、このままアルフェが望む通りにしてやった方がいいのかもしれないと思わなくもない」

 陛下が手に取った日報をパラリと捲る。流し読む目は連れ帰るべきか迷っている風にも見える。
 そのせいで、ぎゅっと心臓が引き絞られるかのような錯覚を起こした。

「このままに、されるおつもりなのですか」

 思わず愕然とした擦れ声が口を突いて出ていた。陛下が日報から顔を上げ、空色の瞳で僕を見つめる。

「私の場合は、最初の妻に諭されてここに戻って来られた。諭すと言うより叱責だったが……彼女が傍にいてくれるなら、どこでも、なんでもやっていけると思ったからだ」

 しかしシークの母である第一王妃は、息子を産んですぐに亡くなってしまった。
 それでも忘れ形見がいたからこそ、この人はこれまでここに立っていられたのだろうか。

「アルフェは、どうなのだろうな。もしかしたらその内、私と同じように自分で勝手に好きな男を見つけてきて幸せになる気かもしれない」
「それを許すと言うのですか……!?」

 とんでもないことを言われて絶句しか出来なかった。
 皇女、更に言えば至宝だというのに、そんなことを許す気なのか。焦って食い入るように見つめれば、陛下は目を逸らすことなく真っ直ぐに僕を見据えた。

「さっきも言ったが、自分はよくて我が子に許さない、というのもおかしな話だろう。手元に置いて守ってやりたいというのは、私達の勝手な押し付けだ。選んだ相手によってはアルフェの言ったように死んだことにするしかなくなるが……せめて添い遂げる相手ぐらい、望む通りにしてやるべきだろうと反省したのだ」

 迷いを見せずに告げられた言葉は、紛れもなく本音に聞こえた。

「これが、クライブが私に問うた答えだ」

 凛とした声は、僕が何を言っても揺るがないように思えた。
 実際、僕に口を出す権限はない。それでもこれまで僕がアルト様と近い場所にいたからこそ、陛下は真摯に答えてくれたのだと思う。

「……お答えくださって、ありがとうございました」

 食い下がりたい口を引き結び、ぎゅっと拳を握りしめると深く頭を下げた。胸の中に騒めく感情を押さえつけて、そのまま踵を返して退室する。
 奥歯を噛み締めて長い廊下を歩く。感情を見せてはいけないと思うのに、顔が強張ってしまうのを今は取り繕えない。
 陛下は陛下なりにアルト様のことを考えていて、そこにはちゃんと愛情があった。正しいか間違っているかは、僕にもわからない。いや、そんなの間違っている、とは思う。
 けれど王と皇女という立場を省けば、父として娘の幸せを願っているのはわかる。安直に、間違っている、なんて口に出せなかった。

(アルト様の幸せを願うなら、それが一番なのかもしれない)

 何のしがらみもない場所で。厄介な事情を知らない人たちに囲まれて。そこで新たな人生を歩む。
 アルト様はそれを望んでいるのかもしれない。
 時折、深い青い瞳がここではないどこかを思い描いていたことを思い出す。今、彼女は夢を見ていた場所にいるんじゃないだろうか。そこにいることが幸せなんじゃないだろうか。
 そうしていつしか彼女が選んだ相手が、その隣に並ぶ。

「……ッ!」

 想像しただけでギリギリと胸が引き絞られるように痛む。それなら、と脳裏を過ってしまう。
 誰でも良いというのなら。

(それなら僕だって、よかったじゃないか……っ)

 思い描いた傍から、あんなことをした分際でおこがましい、と自分を詰る。
 けれどアルト様は、そんな僕相手に弱音を吐いたじゃないか。シークにも零さなかった本音を告げてくれていたじゃないか。
 痛々しく歪んだ顔も。絞り出すような擦れた声も。溢れて零れ落ちて行った涙も。彼女は安易に人に見せたりはしないだろう。
 それがどれほど自分に心を許されていたからなのか、わからないほど馬鹿じゃないつもりだ。
 けれど陛下の気持ちを知った今、僕はどうすべきなのか。握りしめた拳に自分の爪が強く食い込む。
 気づけば足はシークの執務室に辿り着いていたようだ。扉の前に立っていたニコラスがすぐに僕に気づき、少し意地悪く口元を歪ませる。

「随分遅かったな、クライブ。しっかり説教されてきたか」

 そんな話はしていなかったが、下手に口に開くと八つ当たりしそうだったので仏頂面で頷くに止める。そんな僕を見つめ、ニコラスが元々細い目を更に細めた。

「辛気臭い顔しちゃって、まぁ。案外面倒な奴だね」

 軽く肩を竦めると、ニコラスは胸ポケットから掌サイズの細長い物を取り出した。差し出されたので咄嗟に受け取り、覚えがあるそれに大きく目を瞠る。

「これ、なんで……!」
「さっきラッセルが報告に来て、前にアルフェ様がクライブから貰った物だと言ってたからって、俺に言付けていったんだよ」

 琥珀色の蓋つきの少し重さのあるペンは、アルト様の誕生祝いに贈ったものだ。シークも愛用しているのと同じ業者の製品で、あまり市場に出回っているものではない。
 しかし、どうしてそれがここにあるのか。
 大事にすると言っていたはずだ。大切そうに掌に包んで、見惚れるほど綺麗に微笑んでくれた。あの言葉が嘘だったとは思わない。いつも胸ポケットに入れてあるのを見る度に嬉しく思っていた。

「アルフェ様の落とし物だってさ。なんでも昨夜、マルシェで人攫いに向かって投げつけたとか」
「!?」

 人攫い!? 投げつけた!?

「なんでそんなことになっているんだ! 護衛が付いているんじゃなかったのかっ。一体そいつらは何してたんだ!」

 想像を絶する言葉が耳に入ってきて目を剥いた。鬼気迫る顔でニコラスの詰めよれば、嫌そうに一歩引かれる。

「俺、先輩な。口の利き方」

 ニコラスが僕の乱れた口調を指摘した後、真面目な顔つきになる。

「攫われかけたのはアルフェ様じゃなくて、その御友人。護衛はアルフェ様の安全を確保した後で対処するつもりだったのに、その前にアルフェ様が賊に向かって走り出してたらしい。驚くほど足が速かったそうだ。意外な特技だね」
「それでアルト様はどうなったんですか!」
「落ち着けよ。ペン投げつけて、人攫いが怯んだ隙に御友人を掻っ攫って無事に逃げ切ってる。人攫いは捕獲してあるが、こっちはこっちで面倒な事情があるみたいだ。そんなことがあったわけだけど、アルフェ様は今日も呑気に出勤したって……おい、どこに行く気だ!」

 ニコラスが続けて何か言っていたけれど、それ以上は聞いていられなかった。
 被害に遭いかけたのが友人だろうが、一歩間違えばアルト様だったかもしれないのだ。先程陛下が連れ戻すか悩ましい状況だと言っていたが、何を呑気な事を言っているんだ。
 悩んでる場合じゃないだろう、これは!

「迎えに行くんですッ!」

 叩きつけるように答えて、ペンを握りしめたまま脇目もふらずに駆け出した。
 アルト様が知れば、仕事を放りだすなんて、と顔を顰めそうだ。しかし今だけ見逃してほしい。
 これ以上、目の届かない場所で無茶をされるのを見過ごせるわけがなかった。もしこのまま二度と会えなくなっていたら、と考えると恐怖に襲われて全身が総毛立つ。

(そんなこと耐えられるわけがない!)

 そうでなくとも、アルト様が失踪したと聞かされたときは胸を抉られる程の焦燥と喪失感を覚えたのだ。それでも王都で護衛付きで生活されていると思っていたから、なんとか踏み止まれていたに過ぎない。
 城内を走り抜けて厩舎に駆け込み、愛馬に飛び乗った。はやくはやく、と気持ちばかりが焦る。
 幸いニコラスとの会話で、手掛かりはいくつも残されている。
 ……もしくは、わざと手掛かりを与えてくれたのか。
 マルシェで昨夜あった人攫い。犯人は捕獲されている。近衛が掴まえたにしても、一度は警邏隊に突き出しているはずだ。被害者も最低一度は警邏隊に顔を出すだろうし、それがアルト様の友人だというのなら所在も知っているはず。
 今度こそ、手が届く。
 連れ戻してどうするんだ。このままそこにいることが幸せなんじゃないのか。迷惑にしか思われないんじゃないのか。救い出したいなんて思うのは、身の程知らずにも程がある。
 頭の片隅では冷静に戒めようとする自分もいる。けれどそれらの雑音は感情が捻じ伏せた。

(わかってるけど、どうしようもないんだ……っ)

 失いたくないんだ。目の届く場所にいてほしいんだ。何の不安も抱くことなく、幸せそうに笑っていてほしいんだ。
 ……いや、時には怒ったっていい。不機嫌そうに唇を引き結び、僕を睨んだってかまわない。装うことない素の感情を見せてほしい。
 僕は、そんな彼女を見守っていたいんだ。
 そして出来れば僕がその隣に立っていたいと、そう願ってしまうんだ。


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