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第115話 95 世間は狭い
しおりを挟む勤め始めて2週間近く経った洋裁工房は老舗だけあって、本格的なドレスの発注が多いようだった。思っていたよりずっと貴族御用達。
そのせいで最初は私を知っている人に遭遇するんじゃないかと焦った。しかし貴族相手の場合、屋敷に伺う方が多い。それに店舗は大通りの端にあるものの、工房とは区切られた形になっている。私は裏の工房で作業をするので、店舗に顔を出すことはないと知って安堵した。
今も工房の一角で、ドレスの裾にひたすらビーズを縫い付けている。
新人に任されるのは、内職じみた細かい作業と雑務が主。すぐそばの台ではベテラン陣が一枚の布をドレスに仕立て上げていく。コスプレ衣装作りは独学だったから、本職の作業風景は勉強になった。
いつか自分でも縫えるようになってみたい。そんな欲が湧いてくる。
……そんな欲を持っていいのか、わからないけど。
(なんだかこのまま本当に平民になれそうな勢いなのだけど!?)
あれからも追手の気配を感じない生活を送っている。なぜ!?
朝食を済ませるとリズと一緒に工房まで来て、休憩時間には軽食を取りがてら街を覗く。日が暮れる前に仕事が終わり、パン屋やマルシェに立ち寄ってから家に帰る。
勤め始めてから、ほぼこのルーチンで固定している。
これでも追手を警戒していたけど、あまりにも何も起こらない。おかげでこのところは警戒心が薄れてきつつある。
一体どうなっているの。
本当に私の意志を尊重されていると言うの!?
(それならそれで……いいの? 大丈夫なの?)
正直、混乱している。
働き始めた先週は、慣れるのに必死であっという間に過ぎた。最低限のことを済ませるだけが精一杯。
でも失踪して3週目ともなると、やっと考える余裕が出てきた。今更だけど自分のしでかしたことに焦りが込み上げてきてる。
冷静になって思い返すと、短絡的過ぎたかもしれない。元々、悪手だとは思っていた。いくら思いつめて余裕がなかったとはいえ、とんでもなく軽率な行動を取ってしまった。
だからといって、あの時はあれ以外の行動を思いつけなかったわけで……。
そんなことを本当に今更ながらに思って頭を抱えている。
帰った方がいいんじゃないか、とは思ったりもする。でも現状を考えると、のこのこ帰るわけにもいかない。
(陛下も兄様も私がいない方がいいと判断されたのなら、帰っても邪魔になるだけ)
それに兄に嫁がない場合の解決策も思いつかない。私の予想していた案は、ニコラスに断られていたら使えない。いくら陛下や兄でも、兄の後ろ盾となっているコーンウェル公爵家に無理強いは出来ないだろう。
追手が来ないということは、つまりそういうことなんじゃないだろうか。
……私が戻る方が、邪魔になる。
「――そういえば、聞いた? 二番目の皇子様は、皇女様だったんだって!」
手を動かしつつも悶々としていたところで、不意に『皇女』という単語が耳に飛び込んできた。
「!」
ぎょっとして声のした方を見てしまった。
その先では、ベテラン陣の年配女性たちが針を片手に潜めた声で世間話を始める。
「ああ、驚いたね。あたしらにはよくわからないけど、お偉い方たちはなんだか大変だね」
「あんなに華やかにお輿入れされた王妃様が、ねぇ。そんなにご自分の子を王にしたかったってのかい」
断片的に聞こえてくる噂話に、心臓がぎゅっと引き絞られた。
元々私を皇女の立場に戻すためには、母の事情は漏れる予定にはなっていた。とはいっても、産んだ子を皇子だと思い込んでいたことと、女である我が子を認められずに発狂したということだけ。
しかし貴族の醜聞が平民まで回ってくるのには、相当時間がかかるらしい。
TVやネットもないどころか、新聞だって毎日発行ではない。それに書ける内容も不敬罪に当たらない程度となれば、この手の話はよほど口が軽い者から口伝いに広がるしかない。
それも内容が内容だけに、広まるのがかなり遅かったのだと思う。こんなことを話しているのが見つかれば、それだけで不敬罪として処罰されるから当然だ。
とはいえ、いつかは聞くだろうと思っていた。
いざそれを耳にすると、心臓がバクバクと心拍数を上げる。お腹もキリキリとした痛みを訴えてきた。
「ま、あたしらから見れば誰が王様でもあまり変わらないさ」
「確かにね。でも、皇子様より皇女様の方がありがたいよ。運が良ければ、こっちに大口の仕事が回ってくる」
「皇女様のドレスとくれば、腕が鳴るねぇ。普段は手が出ない素材を使い放題だよ!」
ぐっと息を詰めて聞いていたら、話は思わぬ方向に逸れていった。
所詮、私の事情など彼女達にとっては雲の上の話。それよりも自分たちに関わることの方が重要だったようだ。
いかにも職人というべきか、「あそこの糸はいい発色だからぜひ使いたいね」「あの領の新しい織生地はドレープが美しいよ」「貝ボタンも素敵じゃないか」と目を輝かせて語りだした。
そこから先は、ひたすら素材談義に花を咲かせる。私の話は呆気なく遠ざかっていく。
一気に安堵と、職人魂を尊敬する気持ちが入り混じった。無意識に詰めていた息に気づいて細く吐き出す。
まぁ、その皇女は今ここにいるので。ドレスの発注など来るわけもないのだけど。
(この噂が広まるのにここまで掛かったってことは、私が死んだって話もまだ伝わってきてないだけ?)
それにしては、先日発注されたばかりのドレスも華やかなものだった。皇女の訃報を聞けば自粛をするはず。
となると、貴族間にも訃報はまだ出回っていないことになる。
一体どうなっているのか。全く読めない。
考えすぎて思考回路が焼き付きそう。頭を抱えて唸りたい気持ちになってくる。
「アル、お疲れ?」
不意に頭上からリズに声を掛けられた。
気づけば手が止まってしまっていたようだ。慌てて「ちょっと首が疲れただけ」と答えて首を振る。
「ずっと同じ姿勢だもんね。そろそろ私達も休憩しようよ」
言われて時計を見れば、お昼を随分と過ぎていた。ちょっと頭を切り替えたかったので、丁度よかった。
リズと連れ立って工房から出て、お店が並ぶ大通りへと足を向ける。
「今朝ロイに教えてもらった店がいいんじゃない?」
「新しい出来たっていう角の店のことかな?」
「そう、そこ! ロイってああいう店を探すの得意なのよね。食いしん坊なんだから」
リズが憎まれ口を叩きつつ、軽やかな足取りで店に向かう。その台詞にはちょっと苦笑いしておいた。
(たぶんロイはリズに喜んでほしくて探してきてると思うんだけど)
リズの幼馴染のロイとは、既に何度か顔を合わせていた。
その姿は、私が画面越しに見た姿と重なって何とも言えない気持ちになってしまった。赤茶けた髪にヘーゼルの瞳のよくいる感じの少年だけど、きつめの顔立ちは紛れもなく攻略対象。
記憶通りちょっと口が悪くて、よくリズと軽い口喧嘩している。
でもリズを気に掛けているのは伝わってくる。
ただ、リズ本人には全然伝わってない。
今朝だって、ぶっきらぼうに「俺はいまいちだったけど、リズはああいうの好きだろ」と言われていたというのに、リズは「一言多いのよ!」と膨れ面になっていた。
違う、突っ込むところはそこじゃない……。
一言多いのは間違いないけど、後半に注目してあげてほしかった。
今朝のやり取りを思い返している間に辿り着いた店には、クリームの挟まれたパンが売っていた。かなり小さめなので、質より量の少年が好む物には思えない。店構えも可愛い感じだし、ロイが入るには躊躇したんじゃないだろうか。
その姿を想像すると甲斐甲斐しくて涙が出そう。
「ロイが一人でこの店に入ったのかと思うと、勇気あるよね。私に言ってくれれば買ってきたのに」
リズも似たようなことに思い至ったようだけど、やっぱりちょっと違う。
なんでこれで気づけないかな!?
口を出して捩れるのが怖いから傍観してるけど、歯痒い。時折ロイが『わからせてやってくれ』的な視線を私に寄越すけど、私も鈍感なフリをしてやりすごしている。
幼馴染との恋愛って、かなり難しいと思う。
元々あった心地良い関係を覆すわけで、もし捩れたら二度と同じ形に戻れないと思うと怖い気がする。踏み出せないまま終わることも、きっとある。
嘆息を吐くロイを見てると、当人も内心、諦めた方がいいんじゃないかと思ったりもするんだろうけど。簡単に諦められるものでもないだろうな。
(自分でもどうしようもない気持ちはよくわかるんだけど)
密やかに息を吐き出す。
(それでも、いつまでも引きずっているわけにはいかないのだし)
ロイはともかく、私は――。
パンの袋を抱えて店を出ると、振り切るように顔を上げた。
その瞬間、視界に見たことのある姿が掠めて息を呑んだ。
「!」
咄嗟に顔を横に向け、先に店を出ていたリズを大股で追いかける。横を擦り抜け様にその手を掴んだ。
「リズ、ちょっとあの店に入ろう!」
「え!? うん、いいけど」
手を握ったまま、ちょうど目についた雑貨店に逃げ込んだ。いかにも女性向けな店があって助かった。
間違ってもこんなところに入ってこないでしょう、デリックは!
(なんでここにデリックがいるのっ!?)
心臓がバックンバックンと大きく脈打っている。
今の私の髪型は左右の耳の下で結んでいて、口元にホクロを書いた化粧を施している。服だって古着屋で買ったものだし、リズも一緒だったから私には気づいていなかったはず。
それでも心音が治まる気配はない。
いろんな店が集まっている大通りなのだから、デリックが出歩いていたっておかしいことではなかった。以前デリックに遭遇したのも、思えばこの辺りだった気がする。油断していた私が悪い。
ただデリックがここにいるということは、彼の兄もいる可能性が排除できない。
あの兄弟は仲がいい。クライブ曰く「デリックは僕のことを財布だと思ってますね」と言っていたような。それを許しているあたり、クライブも大概弟に甘い気が……
いや、今はそんなことはどうでもいい。
「アル、ちょっと手が痛いんだけど」
「ごめん!」
そこでリズに声を掛けられ、無意識に強く握り締めていた手を離す。咄嗟に連れて入ったくせに、一緒にいたことをすっかり失念していた。自分の置かれた状況が頭から吹っ飛ぶくらい動揺していた。
どう言い訳しようと考える間もなく、少し困惑気味にリズが小首を傾げた。
「そんなに欲しい物があったの? あっ、もしかしてスリッパ? このまえ駄目にしちゃったもんね」
私の焦りを勘違いしてくれたらしく、リズが「私も探すね」と笑いかけてくれる。それになんとか頷き、離れていくリズにほっとした。今ほどリズの鈍さに感謝したことはない。
胸を撫で下ろし、店のガラス窓越しにそっと外を伺う。
先程姿を見かけた辺りを見ると、やっぱりそこには紛れもなくデリックがいた。きょろきょろと周りを見渡している。でも私に気づいて探している感じではなさそう。
それを確認して、すぐに顔を引っこめた。仮にも騎士見習いなわけだから、視線に気づかれて特定されたら堪らない。
(私を探しに来た……?)
じわじわと込み上げる焦りで、首筋に嫌な汗が滲む。
デリックは私の顔を知っている。でも追手としてなら、デリックが一人で来るとは思えない。
私の知る限り、デリックは思い込みが激しいところもあるし、思い立ったら一直線でもあるけど、基本的に『行儀がいい』。
セインと訓練している姿を見て思ったけど、卑怯さに欠けている。周りに愛されて育った素直さがあるというか、結構真面目である。そんな彼は「騎士の立場で、許可もなく皇女に触れてはいけない」という規律を破れない気がする。私を捕まえることなんて出来るだろうか。
思えばクライブよりデリックの方が、皇子であった私にもちゃんと騎士然とした態度だった。一応敬意を払ってくれていた、と思う。
(デリックが今の私をどう思っているかはわからないけど)
一応、デリックとも皇女に戻ってから二言三言、会話はした。
私が皇女だと知った時のデリックの表情は、今思い出してもなんとも形容しがたい。
眉間に皺を寄せているのに眉尻が下がり、引き結ばれた唇は波型になって震えていた。でも騙されたことに怒り狂っているというより、「もっと早く言ってほしかった」的な憤りに見えた。
あと、なぜかちょっと安堵しているようにも見えた気がする。目も少し潤んでいたような。
どういう心情か全然わからなくて、話した後でこっそり振り返った。デリックは拳を握りしめて、天を仰いでいた。その肩をニコラスがやんわりと叩いていたので、内心怒り狂っていたのを宥められていたのかもしれない。
でも後でセインに訊いてみたけど、「デリックなら放っておいても害はない」と言われただけ。
(いくらなんでも、出会い頭に害されることはないだろうけど)
強張ってしまう顔を取り繕いつつ、もう一度だけ外を伺う。すると、さっきまで一人だったデリックの傍に人がいた。ギクリとしたけど、でもそれは私が想像していた姿ではない。
見たことのない人だ。背中をむけているから顔は見えないけど、デリックより少し大きいその相手はデリックの肩を掴んで歩き出している。ちょっと強引に連行されている風にも見えるけど、二人はすぐ傍らの飲食店に入っていった。
随分と親し気に見えたから、友達?
(単に私的に遊びに来ているのにニアミスしただけ!?)
食べる店を探してたの!? なんて紛らわしいッ。でも助かった!
思わずその場にへなへなとしゃがみこんでしまう。追手じゃなくて本っ当によかった。
……いや、これはよかった、と言っていいのだろうか。
追手でもなく、見つからなかったことに心底安堵しているのは本当。
でも少し。ほんの少しだけ。なんだ、違ったんだ……って落胆してしまった私は、何がしたいんだろう。
逃げ出したことを今更後悔でもしているのか。それとも。
(探しにきてほしかったとでも、言うの?)
無責任に全部投げ捨てて、逃げ出してきたくせに――自分勝手すぎる。
「しゃがみこんでどうしたのっ。気分悪い!?」
やたらと重く気分が沈んでしまったところで、頭上に声が降ってきた。顔を上げれば心配そうなリズの顔があって、慌てて首を横に振って立ち上がる。
「大丈夫。ちょっと疲れたのかも」
笑って見せたけど精神を疲弊させられたせいか、さっきからやけにキリキリとお腹が痛む。
「それは大丈夫って言わないよ。スリッパ見つけたけど、どうする?」
「ありがとう。買って帰るよ」
私が固まっている間に見つけてくれたらしいスリッパを受け取り、手早く会計して店を出る。追手じゃなかったとはいえ、デリック達が店にいる間に工房に戻らないと。
自然と足早になりかけるが、思ったより長く雑貨店にいたのでリズも不審には思わなかったようだ。「ご飯食べる時間なくなっちゃうね」と同じように早足になっている。
「そうだ、疲れてるなら今日は浴場に行かない? 広いお風呂は疲れが取れて、すっごくいいよ」
ふと思い出したようにリズが明るい声で誘ってくれた。気遣ってくれているのが伝わってくる。精神的にそういう場所に行ける気分ではないけど、広いお風呂、という言葉に心が揺れ動いた。
でもすぐに、駄目だ、と思い至る。
遊んでる場合じゃない以前に、私は人に肌を見せるのはちょっと難しい。もう女であることを隠す必要はないのだけど、今は性別の問題じゃなかった。
「ごめん。浴場はちょっと難しいかな」
「そうなんだ。じゃあ、また今度ね!」
浴場に行けるほどの元気がないと思ってくれたようだけど、曖昧に笑って誤魔化しておいた。
(肩の傷、見られるわけにいかない)
兄を庇った時に出来た左肩の傷は、私にとっては勲章だけど人前に晒すには目立ちすぎる。誤魔化すのは難しい。
もし今度誘われたら野犬に噛まれた傷があるから、とでも言って断るしかない。
(……なんだかどこまでいっても、私は偽ってばかり)
自分で選んだことのはずなのにやけに気分が沈んで、お腹がギリギリと捩じ切られるかのように痛んだ。
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